2006年4月22日土曜日

帆を張れり

 正木浩一に引き続き、同じ「沖」同人の作品から最近出版された、うまきいつこ句集『帆を張れり』(邑書林)を紹介します。集中気に入った句を数えたら六十句以上に及びました。私のこの記事が新たに句集を手にする人の喜びを汚してしまわぬよう、なんとか最小限の紹介にとどめたいと思います。
 ひとことでいうと、眼に映る日常を独特の感覚(ユーモアというべきか身体感覚というべきか)で新鮮に捉え直し、それを正確に俳句に記述することができ、それにより人生がプラスの方向に回転して行くという、作者と俳句と幸福な関係にあることを思わせる句群です。

包丁と砥石痩せあふ晩夏かな   うまきいつこ
耳たぶを吸はせ仔猫の養母たり
板一枚隔てて湖を踏めり夏
ボール逸れては匂ひたつ紫蘇畑
啓蟄の空井戸の蓋ずれてをり
冬草や乳牛顎を鍛へをる
麦を踏む大地の凝りをほぐしつつ
薫風を聴き分けてゐる馬の耳
一人づつ遠き眼をせり掻氷
真夜灯す動物病院鬼やらひ

 作者とは面識がないので、こんな立ち入ったことを書いてよいのか分かりませんが、恐らくは大切な方を亡くされた深いかなしみを押さえて書き留められたであろう、

永眠の睫に翳り秋燈下

の前で立ち止まるとき、作者と俳句とのめぐり合わせ(=俳句のある人生)に思いを馳せないわけには行きません。

カーテンに影上下して四月かな ゆかり

お~いお茶

 ペットボトルのお茶では福寿園・伊右衛門が好きでずっと飲んでいたのですが、もう少しまろやかなのもいいかなと思い、伊藤園・お~いお茶・静岡茶(季節限定商品)を試してみました。たいへん美味しいです。で、お茶の味もさることながら、いまだに俳句が続いているのですね。

    春の空ゆっくりゆっくり雲動く 前田里菜 9歳  

この句、素晴らしいです。いくつかの点で子どもとは思えないくらい見事です。

①「春の空」:季語をいれてごらん、と言って「春の○○」はなかなか出ません。しかも、この切れ字を持たない切れは句全体を見渡したときに大変効果的です。
②「ゆっくりゆっくり」:五七五で作ってごらん、と言って中八のゆるんだリフレインはなかなか出ません。
③「雲動く」:この助詞を省略して厳しく韻律に収めた表現はなかなか出ません。中八のゆるみに対しこの厳しさを持ってくるバランス感は尋常ではありません。

 なみの子どもなら「春の空」が出たとしても「春の空ゆっくり雲が動いてる」くらいが関の山です。きっと前田里菜ちゃんは、おそらくはご家族に俳人がいて卓球の福原愛選手のように幼少の頃から厳しいトレーニングを受けているに違いありません。将来を楽しみにしています。

はじまりは此処にあらずや飛花しきり ゆかり

2006年4月13日木曜日

正木浩一句集(その2)

 ややトリッキーな句を中心に紹介したいと思います。俳人ならではの発想というか、俳人でない人に共感を得られるのかよく分からない種類の句ばかりを、あえて選びました。

稲光水に隙間のなかりけり   正木浩一
鳶の乗る空気重たき二月尽
柚の香の柚をはなるる真闇かな
凍りては水をはなるる水面あり
早蕨を映さぬまでに水疾し
春暁の薄闇に眼を泛かべたる
水の面と知らず落花の動くまで
風と水触れて水の香白菖蒲
永遠の静止のごとく滝懸る
明滅の滅を力に蛍飛ぶ
羅におくれて動くからだかな
急がねばならず黄落夜を降る
岬山の鳶を揚げたる淑気かな

 このような句を、いかにもな類型と考えるか、しびれるかは人によって異なると思いますが、私はだんぜん後者です。

覚えある香ほのか花の雨上がる ゆかり

2006年4月11日火曜日

正木浩一句集

 ひとつ前の記事で「発句というものは、作者の名前や伝記とともに理解されるべきものなのでしょうか。五七五という世界最短小の韻文詩形は、そんなに脆弱なものなのでしょうか」と書きましたが、『正木浩一句集』(深夜叢書社)を読みました。
 正木浩一は正木ゆう子の兄で平成四年没。この句集は正木ゆう子編の遺句集ということになるわけですが、飾り気のないボール紙の函に収められた序文も跋文もない句集は、句がすべてを語るために周到に用意された最良の体裁といえるでしょう。

  陽子
寒き世に泪そなへて生れ来し 正木浩一



夜の雨の花終はらせる音しづか ゆかり

2006年4月8日土曜日

かるみ

 『俳句の世界』、芭蕉のくだりは読み終わりました。また少し引用します。

態度と作調(トーン)とは、原因と結果との関係に当たる。閑寂に深まってゆく態度から生まれる作調が「さび」であり、繊細な態度で鋭く穿ち入る態度から生まれる作調が「ほそみ」であり、情感と柔順に融けあってゆく態度から生まれる作調が「しほり」であった。しかし、態度としての「かるみ」は、ひとつの境地に足を留めないことだから、特定の作調になるとは限らない。
(中略)従来、多くの研究者が精細な論究を試みながら、いまだに「かるみ」の意味が決定されないのは、作調としての「かるみ」を特定しようとしたからにほかならない。

 「流行」といい「かるみ」といい、晩年の芭蕉の思索の深まり方は尋常ではありません。

 しかしながら、伝記的に思索の深まりと作風の変化を捉えてゆく方法は、その意義や重要性を認め敬意を払いつつも、私は実作者として直感的に「変だ」と感じるところがあります。発句というものは、作者の名前や伝記とともに理解されるべきものなのでしょうか。五七五という世界最短小の韻文詩形は、そんなに脆弱なものなのでしょうか。

散りどきの花は裾より青みたり ゆかり

2006年4月5日水曜日

不易流行

 『俳句の世界』、元禄六年に至りました。途中何か所か芭蕉の文章を小西甚一が現代語に訳しているところがあるのですが、それが胸を打ちます。

 西行の和歌、宗祇の連歌、雪舟の画、利休の茶、これらを貫くものは、ただひとつである。かれらの藝術は、宇宙の無限なる「いのち」に深まり、それを表現してゆくものだから、把握するところは、ことごとく真の「美」である。この「美」がわからない者は、人間のなかまでもあまり上等の部類ではない。どこまでも宇宙の無限なる「いのち」に深まってゆくのでなくてはならぬ。

 宇宙の無限なる「いのち」とは、原文では「造化」で、「造化」とは自然のことではなく、老荘哲学に出てくる造化は、創造の無限連続とでも訳すはたらきをさす、とのことです。『モモ』に出てくる時間の花のようなものでしょうか。もう一箇所、引用します。

 俳諧には、そのときどきに移り変わってゆく表現と、いつまでも人の心をうつ変わらない表現とがある。前者を流行、後者を不易とよぶ。しかし、両者は、もともと別ものではない。いっしょけんめい真実なるものに深まってゆく人は、どうしても同じところに足をとめることができず、必然的に新しい境地へと進む。それが流行である。永遠にわれわれを感嘆させる作品は、その流行の中から生まれる。それが不易である。流行も不易も、そのもとは、どこまでも藝術の無限なる新しみへ深まってゆく「まこと」である。

 なんと真摯な姿勢でしょうか。芭蕉の句は正直よく分からないのですが、この現代語に訳された所信表明は胸を打ちます。芭蕉における流行というのは、日常会話における流行とはぜんぜん違う意味なのですね。

吹き溜まる花の屑さへあたたかき ゆかり

2006年4月4日火曜日

俳諧人口の増大

 『初期俳諧集』の巻末に「初期俳諧の展開」という解説があり、その中に「俳諧人口の増大」という章があります。

 専門俳諧師の誕生は、俳諧人口の増大に応ずるものであった。すなわち、俳諧作者の階層的拡大と俳諧の地方への普及とが、俳諧の指導を糊口の道とする職業人(プロフェッショナル)を生み出したのである。

 (中略。連歌と俳諧は別の作者によるものではなく、連歌の座がそのまま俳諧の座へ横すべりしたことと、このときに同じ階層の連歌を嗜まない人々をも俳諧に巻き込んだことの説明。)

 俳諧人口の増大は、俳諧の地方への普及によって支えられていた。それは撰集への入集状況にはっきりとあらわれている。

(中略。貞門前期の主な撰集への入集者数を国別に整理した図が、寛永十年から明暦四年までの推移を示す。)

 こうした現象はおそらく貞門俳諧の中央集権的なありように風穴をあけるものだったにちがいない。 

 なんだかマーケットを地方に求めるあたりが列強の植民地政策みたいですが、この時代、このようにして劇的に俳諧は町人に広まっていったのですね。談林が台頭してくるのはこの後です。変なところに感動して、なかなか中身の話になりませんが、『俳句の歴史』の方はいま芭蕉のところをずっと読んでいて、元禄二年までたどり着きました。

帯電する桜並木や遅刻坂 ゆかり

2006年4月2日日曜日

初期俳諧集

 『俳句の歴史』は天和三年あたりまで読み進みましたが、それとは別に図書館と書店で文献を探してみました。
 何に書いてあったのかもう忘れてしまいましたが、芭蕉復興などと盛り上がる時代は沈滞の時代なのだそうです。つまり「芭蕉えらい」と「旧習の否定」(芭蕉の場合は貞門、談林)をセットとして、沈滞を打ち払おうとする動きとなるようです。
 困ったことにわたしは、貞門や談林の句を読んでいて、妙に感じ入ってしまうのです(変なものとして引用される談林のよっぽど変なのは別ですが…)。これを否定したらわたしの存在も否定されてしまうような危機感すら覚えるのです。
 けっきょく図書館で『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(岩波書店)を借りてきました。中に『犬子集』『大阪独吟集』『談林百十韻』が収められています。

予報では花曇りのち花の雨 ゆかり

2006年4月1日土曜日

発句の発生

 変なタイトルですが、発句のみを鑑賞することは室町時代の宗祇(1421~1502)の頃にはすでに行われていて、『新撰菟玖波集』(1495)には発句の章があるということを知りました。が、それはそれとして、寛永年間に俳諧や発句が新しい階層にブレークしたというのも事実なのでしょう。『新撰菟玖波集』の方は、勅撰に準ずるとのことなので、かなり身分が高かったはずです。

花冷えを隔てて書架の並びをり ゆかり

発句の独立

 30日の書き込みにりんりんさんからコメントを頂きました。実はまったくもって私にとっても芭蕉はなかなかの難題でして、加藤楸邨『芭蕉全句 上』(ちくま学芸文庫)の巻末の「芭蕉の生涯とその発想」を読んだ後、本文を読む気が起こらず、小西甚一『俳句の世界』(講談社学術文庫)をまた読み始めてしまいました。『俳句の世界』は、おりおりの私自身の関心の方向によって、何度読んでも新しい発見があり驚かされます。
 さて、先日引用した山川の日本史の教科書はかなりさすがで「連歌の第一句(発句)を独立した文学作品として鑑賞にたえうるものに高めた」ということを書いています。現国の副読本の文学史あたりでも俳諧と俳句を区別せず俳諧が百韻とか三十六歌仙とか続くものであることをよく伝えていないものがある中で、日本史の教科書なのにしっかりとしています。
 そこで気になるのが、加藤楸邨『芭蕉全句』はなぜ発句のことしか書いていないのか、と、発句は芭蕉が独立させたのか、ということです。小西甚一『俳句の世界』には驚くべき仮説が書いてあります。

・俳諧じたいは室町時代からあったが、寛永ごろから急ににぎやかになる。
・直接的には松永貞徳がさかんに活動したこと、間接的には印刷術が発達したことが原因である。
・朝鮮出兵で活字技術を持ち帰り、江戸初期から出版が見る見るさかんになった。
・俳書もどしどし出版された。
★俳書の作成費用としては入集料をとったのではないか。
★この時代の俳書が発句を主にしたのは、なるべく多数の人から句を集めるためではないか。(=なるべく多数の人が入集料を払い、かつ購入する。現代の総合誌が作家に原稿料を払うものなのであれば、現代の考え方とは逆ですね。同じ現代でも、結社誌や同人誌のほうは、このやり方を踏襲していますね。)

 ★が小西甚一の仮説なのですが、おおいに説得力があります。このようにして印刷メディアで長大な俳諧そのものとは別に、コンパクトな発句が大量に扱われるようになり、それを背景として芭蕉が出現したということなのでしょうか。じつにわくわくする仮説ではないですか。

クローンのただ待つてゐる夕桜 ゆかり