2009年8月31日月曜日

こしのゆみこ『コイツァンの猫』3

 家族や越野商店と地続きになったファンタジーの世界(というか虚実の定かならざる世界)を構成する句群を見て行きましょう。この虚実の定かならざる世界、句集の構成として時系列を曖昧にしている効果とも言えます。幼年時代、少女時代のこしのゆみこが自在に立ち現われるその世界は、その時点時点の真実であったとしても、作中世界で時間軸を喪失して現われるとき、それはファンタジーとしか呼びようのないものとして意識されます。

卯月野をゆくバス童話ゆきわたる    こしのゆみこ
よびすての少年と行く夏岬
水無月の玻璃に少年鼻を圧す
さみだれや猫の話で眠ってゆく
木下闇のような駄菓子屋ちょうだいな
後退る背泳かなしい手を上げる
まんじゅうのように夕やけ持ち帰る
金魚より小さい私のいる日記
出航をいくつながめる夏帽子


 きりがないので略しますが、このような虚実の定かならざる世界において、かのブルドッグは登場します。

朝顔の顔でふりむくブルドッグ

これはシングルカットしようのない、作中の時系列を失った世界でのブルドッグであり、どうしようもなくシュールでクリアでファンタスティックなブルドッグに他なりません。なんとかなしくうつくしいことでしょう。技術論からは無縁な遠い彼方のブルドッグなのだと私は感じます。

2009年8月30日日曜日

こしのゆみこ『コイツァンの猫』2

 実在するこしのゆみこさんの家族構成は存じ上げませんが、作品中の登場人物は多彩です。

一階に母二階時々緑雨かな      こしのゆみこ
父上京幸福の空豆さげて
待つ母がいちにち在ります花空木
ゆるされておとうと帰る麦の秋
草笛吹く兄を信じて大丈夫
昼寝する父に睫毛のありにけり
ころりころりこどもでてくる夏布団
少し遅れ家族の昼寝にくわわりぬ
片影ゆく兄の不思議なつめたさよ
夏座敷父はともだちがいない
親戚にぼくの如雨露のありにけり
昼寝する君の背中に昼寝する
冷麦の姉妹二人暮らしかな
蜻蛉にまざっていたる父の顔
子規の忌の夜具のおもたき母の家
手枕の父を月光ふりしきる
露つけて帰りし姉の深く眠る
スカートの真ん中に姉後の月
片恋の兄猛烈に黄落す
姉家族白鳥家族たべてばかり
母はひろってきれいに毬をあらう
人買いのごとく磐越西線父黙る
時々は野を焼く父についてゆく
水使う母のゆらゆら雪柳
桜ごと帽子ごと姉はいなくなる
ああ父が恋猫ほうる夕べかな
母太る音のしずかに春日傘


 一人称が「ぼく」の句が混在することからも察せられるように、こしのゆみこの作中世界では必ずしも実在ではない家族がファンタジーの世界と自在に行き来しているようです。句集全体の第一句目「一階に母二階時々緑雨かな」からして、実在する一階をよそに二階はいきなりファンタジーの世界に開かれているのです。「家族ならビーチパラソル支えなさい」の豪快さと、ファンタジーの住民として極度に美化された家族の交錯する、よじれた世界。『サザエさん』や『ちびまる子ちゃん』の世界と通じる、どこにでもありどこにもない、郷愁の中の越野商店が夕日に照らされているようです。

2009年8月29日土曜日

こしのゆみこ『コイツァンの猫』

 こしのゆみこの作品世界は重層構造をなしていて、まず下地としてこの作者ならではの豪快さ、こだわらなさというのがあるような気がします。

藤棚の下に自転車ごと入る         こしのゆみこ
聖五月鳥の真ん真ん中歩く
片恋のキャベツおかわりする自由
家族ならビーチパラソル支えなさい
帰省して母の草履でゆく海辺
風の家シャツパンツシャツパンツ干す
火事あかくどんどん腹の減ってくる
借りている革ジャンパーのポケットに飴
千年の桜の中に手を入れる


 このような基本的性格の上に、家族愛やファンタジーが雑多に混在しているおかしな世界、よじれた世界が『コイツァンの猫』なのだと思います。

追記

 句集冒頭の三句は次のように並んでいます。

一階に母二階時々緑雨かな
藤棚の下に自転車ごと入る
父上京幸福の空豆さげて


自転車の句は、のっけから母と父のあいだに強引に割り込むように配置されているのです。

2009年8月28日金曜日

小西甚一『日本文学史』

 この日記の初期の頃の記事を読んで下さった方から『日本文学史』も薄さに反比例する素晴らしい本ですが、きっとゆかり様の本棚に、だいぶんくたびれて立っているのじゃないでしょうか?」というメールを頂き、恥ずかしながら未読だった私は今まさに読んでいるところです。中国文学との交渉史として日本文学史を俯瞰したこの本、たいへん刺激的で面白いです。芭蕉のくだり、ちょっと長くなりますが引用します。

 芭蕉が杜甫にふかく傾倒していたことは、周知の事実であるが、さきにも述べたとおり、杜甫の詩句をどのように換骨奪胎したかなどは、たいして問題ではない。芭蕉が杜甫からまなびとった最大の収穫は、シナ的な切断性の深さであったろうと思われる。日本人の精神は、もともと自然との間に分裂をもたず、日本語は、常に「つながり」の表現を志向している。これに対して、シナでは、精神と自然がふかく切断されているばかりでなく、その言語も、音声的および意味的にぷつぷつと切れがちである。そうした切断を契機とし、切断されながらもふかく融合しているといったような表現を成就したのが、杜甫にほかならぬ。ところで、芭蕉の俳諧は、発句においても付合においても、鋭い切断を潜めており、それは、融合的・連続的な特性をもつ日本の詩として、はなはだ異例である。しかも、たんに切断されているばかりでなく、切断を媒介としながら、どこかで微妙に流れあい匂いあっているのであって、その深さは、杜甫におけるものときわめて近い感じがある。そうした近似点は、芭蕉があれほど杜甫に傾倒していた以上、杜甫からまなびえたと考えなくてはなるまい。

 じつにさらっと書かれていますが、私たちがこんにち二物衝撃と呼んでいるものは、遠く海を越えて隣の国と密接に関わっているのかも知れないのですね。

ダムありて秋のみづうみ終はりけり ゆかり

2009年8月27日木曜日

正木ゆう子『夏至』5

句の配列とかキーワードに関して、正木ゆう子は『夏至』の後書きで違和感を覚えるほど種明かしをしています。曰く、

①編年体にせず、連句の構成をわずかに意識したこと。
②「恋の座」を設けたこと。
③佐世保の鷹渡り、ノルウェーとロシアの旅吟、家族を詠んだ句、国内の旅などを制作年度を無視してそれぞれ一か所にまとめ、章として立てたこと。
④その章をおよそ季節の順に置き、章の中でさらに季節を追うようにしたこと。
⑤前作『静かな水』で月と水をテーマにしていたのに対し、今回は太陽を中心に据えたこと。

 例えば、次のような配列は確かに「連句の構成をわずかに意識した」妙味があります。

牡丹焚火まづは鼎に組みにけり 正木ゆう子
幻の花噴き上げぬ牡丹榾
瀬を早み岩のかげなる氷柱かな
白い山うすずみの山雪の国
雪山の闇夜をおもふ白か黒か
熊を見し一度を何度でも話す
鯨鯢の胴を接して眠る夜か
潜水の間際しづかな鯨の尾



追記
「連句の構成をわずかに意識した」配列といえば、村井康司が三橋敏雄『真神』について言及しているのを思い出します。

2009年8月26日水曜日

高柳克弘『未踏』2

この句集、いかにもな青春俳句とともに飛翔するもの(とりわけ蝶)へのあこがれがあって、それが全体の雰囲気を決定しているようです。

蝶々のあそぶ只中蝶生る       高柳克弘
ゆびさきに蝶ゐしことのうすれけり
太陽の号令つばめひるがえり
われのゐる日向に雀巣立ちけり
鉄路越え揚羽のつばさ汚れけり
蝶ふれしところよりわれくづるるか
眉の上の蝶やしきりに何告ぐる
蝶の昼読み了へし本死にゐたり
路標なき林中蝶の生まれけり
わがつけし欅の傷や蝶生る

(など多々)

 また、飛翔するものに限らず空あるいは大樹など、上を向くものが実に多く散りばめられています(二物衝撃の配合先も含め)。

白樺の花大空は傷つかず
春月や羽化のはじまる草の中
春の雲チアリーダーに甘えなし
夏を待つ欅や枝を岐ちつつ
大欅夏まぎれなくわが胸に
駅を出て大樹ありける帰省かな
わが拳革命知らず雲の峯
ひまわりの空わがことば揮発せり
ヘッドホン外せり銀河仰ぎけり
円陣を解き秋晴へ散りゆけり
何仰ぎをるやおでん屋出でしひと
一番星いちばん先に凍ての中

(など多々)

 という背景もしくは額縁を用意した上で、そこに伝記的事実のなまなましい青春俳句を置くことによって句集全体のバランスが保たれているのだと感じます。いかにもな伝記的事実がなまなましい青春俳句を拾ってみましょう(もちろんフィクションである可能性もあるのですが)。

卒業は明日シャンプーを泡立たす
ゆふざくら膝をくづしてくれぬひと
わが部屋の晩夏の空気君を欲る
木犀や同棲二年目の畳
滝の音はだけし胸に受けてをり
マフラーのわれの十代捨てにけり
どの樹にも告げずきさらぎ婚約す
雛飾るくるぶしわれのおもひびと
婚約のゆるしのやうに黄落す


 最後にいちばん好きな句。伝記的事実はいざ知らず、こういう句を作れる人が青春俳句真骨頂漢なのだと思います。

冬青空翼もつものみなつぶて



ついでながら、句集にこのようにキーワードを散りばめる手法は、句集全体の雰囲気を決定づける上で大変効果的です。「母」と「鶴」が散りばめられた鳥居真里子『月の茗荷』も同様でしたが、そもそも、キーワードを散りばめる手法には手法として名前がつけられているのでしょうか。また、かつて連作俳句華やかなりし頃、水原秋櫻子や山口誓子の連作が「絵巻物的」とか「設計図的」とか分類されたように、キーワードを散りばめる手法にもいろいろなバリエーションがあって分類整理されているのでしょうか。

2009年8月25日火曜日

高柳克弘『未踏』

雨よりも人しづかなるさくらかな   高柳克弘
兜虫おほぞら晴へ動き出す
枯山や刻かけずして星そろふ
降る雪も本の活字も無音なり
蝸牛やうやく晴れて日暮なり
冬青空翼もつものみなつぶて
本まぶし蟻より小さき字をならべ
読みきれぬ古人のうたや雪解川
くろあげは時計は時の意のまヽに
いくたびも水に照らされ花の旅


週刊俳句でのさいばら天気との対談でこしのゆみこの「朝顔の顔でふりむくブルドッグ」について、高柳克弘はこう語りました。

たしかに「朝顔」と「ブルドッグ」の結びつきには、衝撃があります。「スロットマシーン」という語で言いたかったことは、ふたつのもの、これは俳句の基本的な組成ですが、そのふたつのものを見つけるところまでは、偶発でいい。けれども、そのふたつの語を結びつけるところが大事になってくるんじゃないか。そうすると、ブルドッグと朝顔、この発想はおもしろいとも思いますが、「顔」で結びつけてしまうのは、どうなのだろう、と。

また、このようにも語りました。

いまは「二物衝撃」が一人歩きして、ふたつのものをバンッと置けばいいという風潮がありますが、ふたつのものが一句の中でいかに結びついているか、そっちのほうが重要なんじゃないか、と。

 これを読んで私は高柳克弘自身の句をむしょうに読みたくなり、数分後にはamazonでこの『未踏』をクリックしていたのでした。

「兜虫おほぞら晴へ動き出す」「蝸牛やうやく晴れて日暮なり」「冬青空翼もつものみなつぶて」「読みきれぬ古人のうたや雪解川」「くろあげは時計は時の意のまヽに」といった二物衝撃の句は、いずれも実にデリケートな付き方をしています。人によっては、付き過ぎというかも知れません。意味がありすぎるというかも知れません。でも、そこがいいのだと思います。微妙にして絶妙なのです。

2009年8月24日月曜日

題詠二十句

飯田橋・ルノアールで二人だけの句会でした。

【蜩】  頭の中で蜩が巻く夜の螺子     ゆかり
【芙蓉】 茶髪子の擬態としての芙蓉かな
【星月夜】たましひの星月夜めく汀かな
【稲妻】 稲妻の忍耐ここに極まれり
【露】  結露する窓に相合傘を書く
【小鳥】 旋回の小鳥の群は色を変へ
【蜻蛉】 蜻蛉に囲まれ水の中と思ふ
【葛】  真葛原はじまる場所を居と定め
【秋刀魚】秋刀魚いざ進め斬つても斬つても水
【鹿火屋】暁闇の鹿火屋に妻と鹿火屋守
【鈎】  鈎で吊り目方を測る蕃茄かな
【筧】  筧這ひ水琴窟を目指しけり
【籠】  行く夏やモスバーガーの白き籠
【瓦斯】 瓦斯管の切りたての螺子天高し
【框】  新涼や框にわたす鯨尺
【剃刀】 太腿のための剃刀夜の秋
【硝子】 音のなき硝子の向ふ色鳥来
【厠】  ふたつある厠のひとつ青大将
【閂】  たくましき閂釣瓶落しかな
【厨】  就中厨は四角涼あらた

 ちなみに【鈎】~【厨】は宗田安正監修『俳句難読語辞典』(学研)からの出題です。一見チープな体裁ですが、例句がすばらしいです。問答無用でお買い求め下さい。

2009年8月23日日曜日

中原幸子『以上、西陣から』

3年も前に出た句集で入手困難かも知れませんが、先日古本屋で見つけ、あまりにも面白かったのでご紹介します。

中原幸子句集『以上、西陣から』(ふらんす堂 2006) 「船団」所属俳人の第二句集。

雷雨です。以上、西陣からでした   中原幸子
 実況中継するテレビレポーターの紋切型の口上が、句読点の使用と「西陣」という地名のよさもあいまって、絶妙に俳句に収まっています。これを巻頭としてユニークで諧謔的な句多々です。

残暑なおアラビア糊はくっつく気
 古いアルバムのはがれかかった写真でしょうか。擬人法で糊を詠んだところが妙に可笑しいです。

糸瓜忌の読むように嚙むぬくい飯
 『病牀六尺』を読むうちに感覚が入れ替わってしまったのでしょうか。「読むように嚙む」が絶妙です。 

雪降ってコーヒー組と紅茶組  
吟行で喫茶店に入ると、こんなふうに注文が分かれたりします。一見無造作に置かれた「雪降って」が実は効いているような気がします。

春。九千七百五拾九円のおつり
 弐百四拾壱円の買物に壱萬円札しかなかったばつの悪いやりとりなのでしょうが、「春。」と句点つきで提示されると、いかにも春ののどかな雰囲気があります。

虚子館に虚子の頬杖枝垂れ梅
 虚子館に虚子が生前使用していた杖がガラスケースに入って陳列されているならいかにもありがちですが、意表をついて「頬杖」であるところがすごいです。いかにも巨人とか大悪人とか言われる虚子です。

あの白は山桜だと知っている
 霞んだ遠景。あるいは風景画。いずれにしても、あの白は山桜だと知っているのです。もしかすると、ほんとうは見たことがないのに既視感として知っているのかも知れません。

ここまでを薔薇で来ました風なりに
 ものの香りについて、こんなふうに擬人法と口語体で詠んだ句を見たことがありません。実に独特な可笑しさがあります。

茹でられて冷麦季語となりにけり
 この頓知、たまりません。調理前の冷麦は季語ではないのです。

ザ噴水やるときはやるときもある
 「「やるときはやる」ときもある」という決まり文句の茶化し方がとんでもなく可笑しいところに、「ザ噴水」というふざけた表記です(もしかすると実在するのかも知れませんが…)。設計に技術が追いつかずきちんと出たらあっぱれだった1970年頃の豪華な噴水を思い浮かべます。

ダム夕焼け北がなくなるかも知れぬ
 大景を前に「北がなくなるかも知れぬ」という、曰く言い難い感覚。

神の巣のように光の春の水
 いかに八百万の神とはいえ、「神の巣」という表現、はじめて見ました。

熱燗を待って新聞は四角
 新聞を読みながら顔も合わせずに「お~い」と熱燗を頼むひとへの微妙な感情が伝わってきます。

耳鳴りが間接照明みたい、春
 これも共感覚俳句。「耳鳴りが間接照明みたい」だけでできてしまっているので、あとは読点を打って「、春」というしかないのです。

漱石忌わたしも遺族だと思う
 こんな忌日俳句、見たことがありません。が、実にその通りです。

 世の中に「俳句として可笑しいもの」と「俳句にする前から可笑しいもの」があるとすれば、作者は「俳句にする前から可笑しいもの」を豊富にご存じで、それを次から次へと俳句に仕立てて繰り出してくる感があります。

2009年8月22日土曜日

鳥居真里子『月の茗荷』4

一方、「鶴」の方はこのような塩梅。

夕花野鶴の咳かと思ひけり
体温計ゼロに戻して鶴来たる
日々是好日鶴守の黒眼鏡
昼月を宿したるごと鶴歩む
死に水の旨さはいづれ鶴来る
雪しづり鶴の骨掃く箒あり
鶴帰る日の針箱に針がない


 どちらかというと一句一句として問うよりも、一連の流れの中に点在することによって、常にある種の不吉ではかない場所へ舞い戻る役割を負っているように感じられます。その中にあって「死に水の旨さはいづれ鶴来る」の大胆不敵な味わいはどうでしょう。季語の斡旋も実に絶妙です。

2009年8月21日金曜日

鳥居真里子『月の茗荷』3

集中、バッソ・オスティナートのように繰り返し現れる語として「母」と「鶴」があります。

陽炎や母といふ字に水平線  鳥居真里子
永眠のはじめは雪となりし母
ゆく春や盥の水は母に似て
母性液体父性は固体茄子の馬


 三好達治のあまりにも有名な一節「海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。」を踏まえてひねりを加えたであろう「母といふ字に水平線」があざやかです。
 「永眠のはじめは雪となりし母」は、現実界の天候にとどまらず冥界への道程に思いを馳せることになる語順配置が絶妙です。
 母性を液体ととらえた「ゆく春や盥の水は母に似て」「母性液体父性は固体茄子の馬」は、私の頭の中で先日紹介した正木ゆう子の「死もどこか寒き抽象男とは」と響き合っています。

2009年8月20日木曜日

鳥居真里子『月の茗荷』2

こころいま朧膨れとなりにけり 鳥居真里子

「朧膨れ」という造語を前に、いまひとたび歳時記で「朧」を見てみましょう。

【朧 おぼろ】春は大気中の水分が増加し万物が霞んで見えることが多い。その現象を昼は霞というのに対して、夜は朧という。(以下略。『合本俳句歳時記第四版』より)

 つまり時間は夜であり、本来くっきり存在するはずのものが輪郭を失った状態であることが、「朧膨れ」という造語によって、特異な身体感覚とともに表現されているのです。他に余計なことをつけ加えず、「となりにけり」と十七音いっぱいに引き延ばすことによって、例えば「春愁」のような手垢にまみれた言葉とはぜんぜん違う心象世界が現れています。そして、にもかかわらず「朧」という言葉の引力によって、どこか王朝和歌のようなみやびさ、妖艶さも感じられます。これから何度も春になるたび、この句を思い出してみることでしょう。

2009年8月19日水曜日

鳥居真里子『月の茗荷』

 『月の茗荷』は鳥居真里子の第二句集。昨今、どんどん伸びる犬のひもがおおいに普及していますが、鳥居真里子のことばの操り方は、喩えて言うならその犬のひものような感じです。長いひもの先で、ことばたちにやりたいようにやらせているようです。

嗽するたびに近づく銀河かな    鳥居真里子
姉ふたり闇のたぐひの福笑
蛇は川わたし日傘に入ります
野菊咲く豆電球のおいしさう
人体と空のからくり桃咲けり
老人を逆さに見ればあやめかな
地球とは硝子の柩つばめ来る
こころいま朧膨れとなりにけり


 本能と直結しているはずの「おいしさう」の対象は「豆電球」だし、「こころ」は「朧膨れ」という造語によって形容されています。この巧妙に作者から遠く配置されたテキストのシュールさは、なんなのでしょう。

2009年8月18日火曜日

正木ゆう子『夏至』4

かと思えば、こんな可笑しな句も。

啄木鳥の脳震盪を心配す    正木ゆう子
夜更しの螢は置いて帰りけり
ひさかたの光通信にて御慶


以下、好きな句です。

空蟬となりしばらくは蟬を待つ
飛魚の滞空に日の鋼なす
直角に斜めに雪の交差点
面をもて接す二つのしやぼんだま
棕櫚縄の夜雨に締まる山桜


 いずれも繊細にして印象のはっきりした句で、とりわけ「直角に斜めに雪の交差点」は雪が降るたびにきっと思い出すに違いありません。

2009年8月17日月曜日

正木ゆう子『夏至』3

そして季節がめぐり…。

青萩や日々あたらしき母の老い 正木ゆう子
老いも死も父先んじて母に夏

さかのぼって、第三句集『静かな水』から。

母の日の母にだらだらしてもらふ

セレクション俳人『正木ゆう子集』から。

父の日の父は梯子と右往左往

 こんなふうに俳句があざやかな家族のアルバムとして残っているのが、すごいと思います。

2009年8月16日日曜日

正木ゆう子『夏至』2

集中、お父上を詠んだ句が胸を打ちます。

立てず聞けず食へず話せず父の冬 正木ゆう子
死のひかり充ちてゆく父寒昴
早蕨を起こさぬやうに終の息
寒巌のひと生の寡黙通しけり
死もどこか寒き抽象男とは
甲種合格てふ骨片や忘れ雪
骨拾ふ冬三日月の弧を思ひ
骨に骨積むや遥かな雪崩音


 「ひと生」は「ひとよ」と読むのでしょうか。一連の句群からは、立派な体格を持ち寡黙に一生を全うした人物像がせり上がってきます。そんな中で「死もどこか寒き抽象男とは」は、この作者ならではの句と感じます。
 本の帯に「俳句は世界とつながる装置」と書かれているのですが、このようにして俳人は世界につながっているのだと思います。

追記「早蕨を起こさぬやうに終の息」ですが、「早蕨を映さぬまでに水疾し 正木浩一」と彼方で響き合っているような気がします。

2009年8月15日土曜日

正木ゆう子『夏至』

 正木ゆう子さんの第四句集『夏至』(春秋社)。ときとしてユーモラスに、ときとしてとんでもなくマクロに、作者の視点は自在です。 いかにも正木ゆう子ワールドというボキャブラリーとしては進化、微生物、人類、公転といったところでしょうか。それらの言葉が俳句の中で息づくさまを見てみましょう。

進化してさびしき体泳ぐなり   正木ゆう子

つるつるの肌を持った人間の深い性を感じます。

一枚の朴葉の下の微生物

 朴落葉を詠んだ句は史上さまざまありますが、それをめくって微生物を詠んだ句はかつてあったのでしょうか。生態系へのまなざしを感じます。

つかのまの人類に星老いけらし

 星の生命に比べれば、ほんとうに人類などつかのまのものに過ぎません。

公転に遅れじと春の大気かな

 本句集の挙句。中八にたるませたところが句の内容とマッチしていて、とてもマクロな把握でありながらユーモラスに仕上がっていて、さすがです。

秋といふ天の轆轤を見てしまふ ゆかり

2009年8月14日金曜日

半化粧

 先日、母と話していて突然この花の話となり、「見たことある? ほんとに半分化粧したように白くなって不思議よねえ、子ども」というので、「いいえ、母、はんげしょうは半分夏が生まれると書くのです」と応えたのですが、調べてみると、確かに両方の説があるのですね。このあたり、口承世界の大ざっぱさが実に心地よいです。俳句をやっているとときどき、集と聚とか、やたら漢字を使い分けて蘊蓄を傾ける方もいらっしゃるのですが、たまにはプリミティヴな造語本能に身をまかせてみたいものです。

2009年8月13日木曜日

蝉鯨

もちろん本当は背美鯨なのですが、そう書くことを知ったのは近年のことで、ずっと蝉鯨というどこか円谷プロ的な名前だと思っていました。wikipediaによれば「和名のセミクジラは背中の曲線の美しさに由来する「背美鯨」の意であり、このクジラが長時間にわたって背部を海面上に出して遊泳し続ける性質があった事による。」とありますが、その説明は直感的に誤りなのではないかと思います。そんなふうに「美」ということばを私たちは使うものでしょうか。「背中が見える鯨」すなわち「背見鯨」がいつしか時代を経て「背美鯨」と表記されるようになったとする方が、よほど説得力があります。

山深き貝の地層や蝉鯨 ゆかり

2009年8月12日水曜日

蝉時雨

俳句を始めるまで「時雨」という言葉がどういう雨を指すのかよく分かっていなかったのですが、「時雨」の意味が分かると、今度は「蝉時雨」ってなんだかよく分からなくなってしまいました。蝉の鳴き声は「さっと降ってさっと止む」ものなのでしょうか。

山といふ生命体や蝉時雨 ゆかり