2009年9月29日火曜日

木枯二号ver.0.2

木枯二号ver.0.2では、一句にひとつしか季語を入れないようになりました。「かな」で終わることもできます。

2009年9月27日日曜日

木枯二号ver.0.1

ねここver.0.1に引き続き木枯二号ver.0.1を作りました。
違いは語彙しかありません。こちらは旧仮名遣いで、定型外の句は作りません。

2009年9月26日土曜日

ねここver.0.1

 天気さんのところで紹介されていた犬猿短歌があまりにも面白かったので、それに触発されてねここver.0.1というものを作ってみました。


 句型は今のところ「啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々」だけなのですが、ねここは前衛なので中七、下五を字余り容認にしています。
 なにぶん初めて書いたjavascriptなので、変だったらご指摘下さい。

2009年9月9日水曜日

井上弘美『汀』3

 俳人らしい言い回しの句を見て行きましょう。

裏貼りに髪の一筋涅槃絵図    井上弘美
生身魂羽化するごとく眠りをり
秋の蜂かさりと眼つかひけり
綿虫の綿のだんだんおもくなる
雪吊の巻きぐせの縄垂らしけり
いちまいの炎の中の栄螺かな
後の月甘藍は巻き強めけり
夜深く湯に湯を足しぬ十三夜
観梅の声まつすぐに使ひけり
赤不動明王の枇杷啜りけり
濡れてゐる岩魚つつめる炎かな
波頭とほくにそろふ青蜜柑
天地を雨のつらぬく櫨紅葉
一石に水の分かるる桜かな
しばらくは水怯へけり水中花
手を打つて死者の加はる踊かな
凍瀧の水は鱗となりにけり
波音の波におくるる後の月
雪嶺を立たせて空のあたらしき
雛鏡明治の雪を積もらしぬ

 この目のつけどころ、この比喩、この感じ方、ないしはこの措辞。こういう句ばかり集めるとこういう俳人のようにも思えてくるのですが、全体の印象は最初に書いたとおり、「ぎりぎりのところまでひとつのことしか言わないことによって、じつに広い空間と時間を呼び込んでいる」感じです。

2009年9月8日火曜日

かんたん連句式目

 連句は室町時代から続くゲームで、五七五、七七、五七五、七七、…を繰り返しながら、複数人で前の人の句に次の句を付け、その付け具合に興じるものです。どこまで続けるかによって三十六歌仙とか百韻とかの種類があります。連句の一句目のことを発句(ほっく)と呼び、それがいつしか単独で取り沙汰されるようになったのが、今日の俳句です。正岡子規以降、最近まで連句に日があたることはほとんどなかったのですが、昨今は俳句のマンネリ化やインターネットの普及などの要因もあってか、連句を自分たちでもやってみたいという方が静かに増えているようです。作者が複数人であること、全体として何か意味があるものではないことから、文学と見なさない向きもありますが、それはそれ。「それがどうした」という方のみ、続きをご覧下さい。
  
 どんなゲームにもルールがあり、連句の場合は式目(しきもく)と呼びますが、なにしろ室町時代から続くゲームなので、前例主義に基づく非常に細かい決めごとがあり、最初にそれを見てしまうと、一気にやる気が失われてしまいます。ここにご紹介するのは、連句を自分たちでも巻いてみたいという人のための、かんたんな式目です。これ以上簡単にすると連句に見えない程度にかんたんで、このくらい制約があった方が楽しめる程度には起伏があるはずです。

1.構成(三十六歌仙)
 古来、連句は懐紙に書くもので、三十六歌仙では二枚の懐紙を用いました。一枚目を初折(しょおり)、二枚目を名残折(なごりのおり)といい、それぞれ懐紙を真ん中から二つ折りにして表と裏に書きました。現代では懐紙に書くことなどまずありませんが、ネットで巻くにせよ、A4用紙などに書くにせよ、三十六歌仙を巻くときには当時の用語を踏襲しています。

初折表 発句 客人が当季で詠む(五七五)
     脇 主人が当季で返す(七七)
    第三 「て」止めで展開 (五七五)
     4 (七七。以下同様に五七五と七七の繰り返し)
    5  秋・月の定座
     6

初折裏 7
     8
    9
     10
    11
     12
    13  このへんで夏または冬の月の定座(流動的)
     14
    15
     16
    17  春・花の定座
     18

名残表 19
     20
    21
     22
    23
     24
    25
     26
    27
     28
    29  秋・月の定座
     30

名残裏 31
     32
    33
     34
    35  春・花の定座
     挙句 (かならず春で、めでたく終わる)

 骨格はこれだけです。内容的には初折の表と名残裏は、まじめにやります。途中の初折裏と名残表は「あばれどころ」といって諧謔、機知の限りをつくします。

   初折表(6句)…しらふ
   初折裏(12句)…よっぱらい
   名残表(12句)…ますますよっぱらい
   名残裏(6句)…しめ

 こんな感じで、交響曲が楽章ごとに雰囲気が違うように、めりはりを付けます。


 また伝統美として、花のある春と月のある秋を大切にしていて、

・春、秋となったら3句続ける。
・夏、冬は1句で捨ててもよい。
・季節は春→夏→秋→冬の順で推移する必要はないが、同じ季の中では時の移ろいに気をつける。
・季節が変わるときは雑(ぞう。=無季)を間にはさんでよい。

というのがあります。

 それから全体の中で2箇所ほど恋の句を続けます。これは定座がある訳ではありません。流れの中で恋をしたくなったら、そうすればいいのです。

2.付句

 構成よりもこっちの方が難しいです。局所的には2句前までを注意して下さい。

  打越(うちこし)
  前句
  付句

 前句に付ける訳ですが、前句と無関係であってはいけません。普通の俳句で二物衝撃をやる要領で、前句との間に「切れ」を作る訳です。だから逆に一句の中に切れ字の「や」「かな」「けり」などを使用してはいけません。切れ字を使っていいのは発句だけです。
 このとき、せっかく打越→前句で展開させたのに、前句→付句でもう一度展開させようとしたら、打越と付句が同じような世界になってしまうことが往々にして発生します。これでは堂々めぐりになってしまうので、「打越にかかる」という言い方で、禁止とします。

 連句というのは、このようにして付句ごとに新しいイメージを展開させてゆくものであって、全体でストーリーがあるものではありません。「2句前までを注意して下さい」というのは、そういう意味です。

 なお、前句が「山」という場所情報を提示しているのに「海」で付けたり、前句が「夜」という時間情報を提示しているのに「昼」で付けたりすると、ちぐはぐなことになります。提示された情報とは違うものを付けると付けやすいです。自分のことを提示されたら、他人のことで付ける、他人のことを提示されたら場所で付ける、場所のことを提示されたら人のことで付ける、みたいに5W1Hのどれに焦点を置いて詠むかをつねに前句からずらすと、付けやすいのです。

3.捌き
 複数人が参加するので、全員が同格だと収拾がつかなくなります。そこで捌き人をひとり定め、付句を採用するかは捌き人に一任します。その際、やり方がふたつあります。

①複数人がそれぞれ付句を作り、捌き人がその中から選ぶ。
②順番に従って一人が付句を作り、捌き人が納得するまで駄目出しする。

 どちらで行くかは、その座で決めて下さい。ネットで巻くときは、全員が同時に同じ集中力で臨むことはあり得ないので、②(「膝送り」といいます)がお薦めです。また、いずれの場合も捌き人に絶対権力を与えないと、気まずいことになります(参加する人は誰もが自分がいちばんうまいと思っている訳ですから、怒り出す人や泣き出す人があらわれても不思議はありません)。

4.用語
 知らない言葉ばかり出てきて驚かれたかも知れませんが、もしあなたが捌き人の立場でないのなら、今日のところは「打越(うちこし)にかかるのは駄目」というのだけ覚えてくれればOKです。あとは、捌き人がその都度いろいろ教えてくれることでしょう。


 それでは、仲良くお楽しみ下さい。

2009年9月7日月曜日

井上弘美『汀』2

 あとがきに次のようにあります。

 京都を離れて東京で生活をしていると、なぜかいつも遠くに湖が見えるようになりました。繰り返し訪れた琵琶湖の四季折々の風景が、まるで祈りのようにくっきりと見えているのです。ささやかな句集に『汀』と名付けた所以です。

 そのように言われてみると「みづうみを遠く置きたる更衣」も「みづぎはのちかづいてくる朧かな」も虚実の定かならざる味わいがあるのですが、句集全体を通して、湖に限らず海も特別の位置を占め、とりわけ水位に関して独特の鋭敏な感覚があるように感じられます。この場合、実際の水位にかかわらず、遠景の湖/海は視界において水位が高いということも意識したほうがよさそうです。

空蝉にまひるの海のありにけり     井上弘美
たましひのかたちに冷えてみづうみは
眼つむれば黙禱となる寒の波
鳥の巣を高々上げて湖の荒れ
断念の高さなりけり夏怒濤
掛稲のうしろ大きな波上がる
海見ゆる高さに放ち春の馬
たつぷりと波引きにけり春の闇
みづおとを奔らせてゐる昼寝かな
波頭とほくにそろふ青蜜柑
秋燕の低く出てゆく波がしら
枇杷もいで水平線の傾ぎけり
箱庭の燈台に沖暮れにけり
飛び魚を食つてとほくに夜の海
秋の潮岬ときどき消えにけり
波音の波におくるる後の月
みづうみはみづをみたして残る虫
水音の響いてゐたる破魔矢かな
雨脚の沖に広がる残り鴨
みづうみのあかるさに置く雛調度
鯉のぼり海ふくらんできたりけり
切れ切れに海見えてゐる桜かな

 こうしてみると『汀』、じつにすばらしい題だと思います。

2009年9月6日日曜日

井上弘美『汀』

井上弘美『汀』(角川 2008)は俳人協会新人賞作家の第三句集。好きな句を拾い出すと枚挙にいとまがないのですが、例えばこんな感じです。

着ぶくれて神の鏡に映りけり     井上弘美
かいつぶり水を騙してゐたりけり
墓所といふ春雪のひと囲ひかな
ずるずると真蛸の脚の台秤
生きものの水呑みに来る蛍川
この闇を行けば戻れぬ螢狩
ひとりづつ人をわするる花野かな
秋の蜂かさりと眼つかひけり
深く座す降誕祭のパイプ椅子
綿虫の綿のだんだんおもくなる
眼つむれば黙禱となる寒の波
断念の高さなりけり夏怒濤
雑巾で拭く黒板や梅雨の冷え
後の月甘藍は巻き強めけり
観梅の声まつすぐに使ひけり
みづうみを遠く置きたる更衣
沼に日のゆきわたりけり夏の蝶
濡れてゐる岩魚つつめる炎かな
水中に鎌を使ひて秋初め
一息に〆て冷たき祭帯
ひとつ食ひ夜のはじまる螢烏賊
朴の葉を落として空の流れけり
みづぎはのちかづいてくる朧かな
鯉のぼり海ふくらんできたりけり
西瓜切るむかしの風の吹いてきて
飲食のあかりの灯る豊の秋


 いかがでしょう。ぎりぎりのところまでひとつのことしか言わないことによって、じつに広い空間と時間を呼び込んでいるように私は感じます。

母の死のととのつてゆく夜の雪
霜の夜の起して結ぶ死者の帯


 母上の死さえ、そのように詠むことによって、読者である私は言い知れぬ感銘を覚えます。

涸池の涸れを見てゐる三日かな
牛小屋に仔牛が二頭鏡餅
倒木に座せば鳥来る四日かな


 この、お正月の気分。

人影をとほすひとかげ迎鐘
我が影のとほくあらはれ虫の夜


 この、影の扱いの確かさ。

越冬の脚張つてをり蝉の殻
逆行の一羽が高し鴨の列
箱眼鏡ときどき波に遊ばせて


 この眼のつけどころ。

 総じて、しびれます。大好きな句集です。

2009年9月5日土曜日

引っ越しました。

ちょっと気分を変えてみたくて、こちらに引っ越しました。よろしくお願いいたします。
なお、前のところはすでに更地です。

秋の日を引越まへと同じうす ゆかり

2009年9月4日金曜日

室田洋子『まひるの食卓』

 室田洋子はこしのゆみこと同じく「海程」所属。『まひるの食卓』は第一句集。気に入った句を見て行きましょう。

十六夜や恋濃い故意と変換す        室田洋子
 ちょっと前なら考えられなかったような俳句だし、何十年か後には技術革新によって意味不明な句になっているかも知れません。でも、まさに今のこの時代と、古風な季語との取り合わせはすてきです。

ダイヤモンドダスト何千カラットの嘘
 気象現象に対してそのままダイヤモンドの単位をあてはめて「嘘」とまで言い切ったところがよいです。

さくらさくらどこでこの手を離しましょう
 どこか別れを感じさせるのは、季語が背負った不吉さなのでしょうか。

いなびかり失恋体操しています
 ほんとうにそんな体操があって、傷心をふりきるために励んでいる人たちが世界中にいるような気がしてきます。体操していると、いろいろなことがフラッシュバックするのです。

柚子どっさり小言みたいにもらいけり
 ばくばく食べるようなものではないから、微妙なものがありますよね。

風信子ゆっくり響く長女です
 「ゆっくり響く長女です」が素直な育ちを感じさせます。

待つというこころの握力冬木立
 「こころの握力」という危うい表現を季語の斡旋が救っていると思います。

凪という厚ぼったい冬の舌なり
 風の停止による感覚の変化を「厚ぼったい冬の舌」という曰く言い難い措辞にてしとめています。

おとこの体臭玉葱びっしり積まれ
 うわあ。

ゆく秋の素描のような影を踏む
 空気が澄んで影が濃くなった感じをとらえています。

花時のわたし溢れるお風呂かな
 桂信子「窓の雪女体にて湯をあふれしむ」が業とか性とかを感じさせるのに対し、時代が変わったのか作者の性格なのか、こちらの場合まったくルンルンしています。

うたた寝の猫にわたしに木の実降る
 「お風呂」の句もそうなのですが、この作者の句にはどこか健全な「わたしパワー」がみなぎっているのです。

ご飯というきれいなエネルギー白鳥来
 そしてまさにどこか健全な「わたしパワー」の秘密としての「ご飯というきれいなエネルギー」。だめ押しのような季語の斡旋がよいです。

末黒野や水の味する水ください
 これもどこか健全な「わたしパワー」のバリエーションとしてのナチュラル志向なのかも知れません。

仏蘭西の水飲む夫と恋の猫
 そして「水の味する水」は仏蘭西製なのです。水というピュアなものに対し、「末黒野」「恋の猫」といったかなり強烈な季語を取り合わせてきたところに注目すべきでしょう。

途中からメール画面は花ふぶき
 スクリーンセイバーでしょうか。これも数年後には意味不明になってしまう、今を捉えた句だと感じます。

朴落葉こっそり辞書を捨てました
 あの大きな葉は隠しごとを容認してくれそうな気がしますよね。

空っ風鳥の名を持つ友を呼び
 「ひばり」でしょうか。季語がすごく切迫した思いを感じさせます。

連翹やどこか短気なハングル文字
 朝鮮連翹からハングルが出てきたのでしょうか。あの文字は確かにどこか短気な気がしますが、でもそれは「どこか」でしかなくて、季語がのんびりしていることからも伺えます。

恋猫に倒されている長男よ
 がんばれ、長男くん! でも男性って結局のところ生き物として弱いのですよね。

昼寝覚わたしが魚だった頃
 そんな感じってあります。

2009年9月3日木曜日

こしのゆみこ『コイツァンの猫』6

ところが、時系列を喪失し定型が不統一で夢見がちに寝てばかりいるのかというと、ここぞというところでは、ちゃんと月の座と花の座に相当するものがあって、勝負に出ているのです。

 はじめに月の座、句集どおりの順番で十二連発。

眠り猫からだまるごと無月かな  こしのゆみこ
無意識が時計をはずす二日月
満月の肘の出ている二階かな
満月の真水は底を抜こうとする
跳躍の人ふりむけば満月ぞ
十六夜の積み木は聳え崩れない
激怒して月の照る音の中にいる
刺繍糸のあおのいろいろ二十三夜月
手枕の父を月光ふりしきる
月の木に上りし猫の飛びたてり
月入れてわが部屋大きくなりにけり
水の月さっきこわした花のかけら

 次に花の座、句集どおりの順番で十三連発。

花の旅汽車はふるさと通り越す
兎島桜の色となりにけり
姉妹桜の中をながれゆく
口車花時にのる楽しさよ
千年の桜の中に手を入れる
学校をはみ出す桜海に舞う
桜ごと帽子ごと姉はいなくなる
鍵穴の錆のかまわず桜咲く
少年がシュートするたび桜咲く
びしょぬれの桜でありし日も逢いぬ
いたくないかたちに眠る花月夜
泣きやみし帰りは桜咲いている
半島や力をぬいて遅桜

 いずれもこしのゆみこならではの月の座、こしのゆみこならではの花の座をかたちづくっていて圧巻です。

2009年9月2日水曜日

こしのゆみこ『コイツァンの猫』5

夢のように漂う こしのワールドの登場人物は、じっさいよく寝ます。

さみだれや猫の話で眠ってゆく     こしのゆみこ
昼寝する父に睫のありにけり
ころりころりこどもでてくる夏布団
少し遅れ家族の昼寝にくわわりぬ
昼寝する指は望みをつかみそう
だいどこのおとはまぼろしひるねざめ
したたりのことりと鳴りて目の覚める

 「昼寝する~」から「~目の覚める」までは、句集の配列そのままの昼寝六連発です。ひらがなのみで記述された「だいどこのおとはまぼろしひるねざめ」の夢うつつな感じな感じをみていると、「こしのゆみこ」というひらがな表記さえ夢うつつに思われてきます。冗談はさておき「したたりのことりと鳴りて目の覚める」の表記のにくいこと、目が覚めるに従って漢字が増えてゆきます。

 しばらくおいて、昼寝/睡眠の句はまた出てきます。

くつひものほどけしごとき昼寝かな
仕舞湯のごとく昼寝のおわらない
昼寝覚なくなっている恋心
門番は午睡の時間ゆるされて
捕虫網のゆらゆらとある寝入りばな
昼寝する君の背中に昼寝する
葉っぱ鳴って人ら眠りぬ夏木立
サングラス眠りし口のあどけなく
ひとりずつ部屋を出て行く熱帯夜
寝返りを打つたび見える滝の筋
夏座敷寝返っても寝返ってもひとり

 季節が変わっても、お構いなしに眠り続けます。

眠り猫からだまるごと無月かな
露つけて帰りし姉の深く眠る
雪音のやがて耳から眠ってゆく
冬日向眠り続ける犬の親
桃咲いてぼおんぼおんと人眠る
いたくないかたちに眠る花月夜

 ますます夢のようなこしのワールドなのです。

2009年9月1日火曜日

こしのゆみこ『コイツァンの猫』4

 時間軸の喪失とともに、こしのワールドで特徴的なのは句型の不統一です。不統一なので逆に切れ字を使用している句が意外と多いことに驚いたりもします。

一階に母二階時々緑雨かな      こしのゆみこ
さみだれや猫の話で眠ってゆく
昼寝する父に睫のありにけり
泳いできし耳にあふれる故郷かな
鈴のよく鳴りし裸のありにけり
くつひものほどけしごとき昼寝かな
親戚にぼくの如雨露のありにけり
女から乗せるボートのゆれにけり

 このような句だけを取り出すと一見こしのゆみこが形式を守っている俳人のようにも思えるのですが、ぜんぜんそんなことはありません。「こしのゆみこは今でも指を折りながら俳句を作っている」というまことしやかな噂を耳にしたことがありますが、こしのワールドの中では、以下のような句がお構いなしに混在して存在感を放っています。

後退る背泳かなしい手をあげる
夏寒き父仁丹のひかりのみこむ
夏座敷父はともだちがいない
おばさんのような薔薇園につかれる
そらからねぶへ猫のびたりちぢんだり
熱帯魚の向こう恋人が小さい
えのころやかばんの傷が見えなくなった
林檎むく左手カランと鳴らすみたい
巻毛(カール)のなかのからまつ黄葉とってあげる
木の実なんだかいらなくなってにぎっている

 時間軸の喪失と句型の不統一によって、こしのワールドは夢のように漂っているのです。