2011年12月31日土曜日

七吟歌仙・極月の巻

   極月のピアノに映る焰かな      ぽぽな
    フーガの技法にて毛糸編む     ゆかり
   肖像画ばかりの部屋を抜け出して    なむ
    青の時代の道化装ひ         ぐみ
   穏やかな良夜の海に舟ひとつ     らくだ
    雁渡る日に着たる電報      まにょん
ウ  片仮名のコスモス淡き息を吐き     苑を
    恋占ひの前髪ゆれる          な
   切り損ねばらばらとなりつつふるる    り
    レクター博士の料理教室        む
   過疎の村運動場に声のなく        み
    着ぐるみ走る市民マラソン       だ
   炎上のアテネ経由でリスボンへ      ん
    月の女神は露台に凭れ         を
   どうしても人には言へぬ悩みあり     な
    どんどん増えるパラレルワールド    り
   彼の岸に虚実皮膜の花散れば       む
    寅さんの春一路邁進          み
ナオ 風船を曲げてねぢつてプードルに     だ
    シロガネーゼの音なき放屁       ん
   木曜は乗馬倶楽部で頬杖を        を
    碧い瞳が近づいてくる         な
   人魂を百まで数へ眠くなる        り
    客入れ替はる山小屋の炉火       む
   暖とりし海女に気負ひのよみがへり    み
    あんぱん食べて夜討ち朝駆け      だ
   ラヂオから山田太郎の歌聞こゑ      ん
    爽やかなんて言はれて照れる      を
   磨かれし月の鏡に身を入れて       な
    だまし絵のごと渡るかりがね      り
ナウ 幽冥の境たちまち雪景色         む
    根岸の里に侘助の庭          み
   噺家も混ざる句会の賑はひに       だ
    ロバのパン屋と春来たるなり      ん
   花香るブルックリンへ地下鉄で      を
    色とりどりに揺れる風船        な


起首:2011年12月15日(木)
満尾:2011年12月31日(土)
捌き:ゆかり

 今年も年間12巻。連衆の皆様、ありがとうございます。来年も遊んでやって下さい。
 ちなみに年間12巻の内訳は以下。右のラベル「連句」からたどるとまとめて読めます。(4)の自由律歌仙とか(5)の回文歌仙とか(6)の短歌まで詠んでしまったぐみさんとの両吟歌仙とか、そうとう思い出深いです。

(1)脇起し七吟歌仙・七種の巻
起首 2011年 1月 8日(土)
満尾 2011年 2月 6日(日)

(2)脇起し七吟歌仙・遠くよりの巻
起首:2011年 2月 8日(火)
満尾:2011年 3月16日(水)

(3)脇起し五吟歌仙 春天の巻
起首:2011年 4月 2日(土)
満尾:2011年 5月 1日(日)

(4)九吟自由律歌仙 藤棚の巻
起首:2011年 5月 3日(火)
満尾:2011年 5月16日(月)

(5)七吟回文歌仙 譲りしはの巻
起首:2011年 5月28日(土)
満尾:2011年 6月23日(木)

(6)両吟歌仙・秋蝉の巻
起首:2011年 6月25日(土)
満尾:2011年 7月29日(金)

(7)脇起し七吟歌仙・木をのぼるの巻
起首:2011年 8月 2日(火)
満尾:2011年 9月 3日(土)

(8)七吟歌仙 白萩の巻
起首:2011年 9月13日(火)
満尾:2011年10月 7日(金)

(9)六吟歌仙・人影の巻
起首:2011年 9月25日(日)
満尾:2011年10月28日(金)

(10)九吟歌仙・上弦の巻
起首:2011年10月10日(月)
満尾:2011年11月19日(土)

(11)九吟歌仙・既望の巻
起首:2011年11月22日(火)
満尾:2011年12月23日(金)

(12)七吟歌仙・極月の巻
起首:2011年12月15日(木)
満尾:2011年12月31日(土)

間違ってできちゃった俳句

大みそか回送電車明るくて    岡村知昭
菜の花の岬ばんそうこう剥がす
みどりごの固さの氷菓舐めにけり


 そんな岡村知昭ワールドに、間違ってできちゃったみたいに普通の俳句が置かれているのです。一句目、寒い中、終夜運転の電車を待っていると回送の分際でこうこうと明かりをつけた電車が通り過ぎる、この世に見放されたような寂寥感があります。二句目、これ、「岬」が余分なようでいて絶妙です。頭の中に「岬」と呼ばれる関節が立ち上がりませんか。三句目、普通の俳句としてはいささか尋常でない比喩が、岡村知昭ワールドとの圧力調整のための小部屋としての効果をあげています。

林立する瓶

きさらぎがこわい牛乳瓶の立つ     岡村知昭
口語だめペットボトルの直立し
ほんものの雪を見ている麦酒瓶
あんだるしあ空瓶はこわれているか


 これを男性器の象徴などと読み出すと、がらがらと音を立てて瓶がぜんぶ割れてしまう岡村知昭ワールドなのです。すべて書いてあるとおり、牛乳瓶でありペットボトルであり麦酒瓶であり空瓶なのです。
 一句目、パックではありません。中身の見える牛乳瓶です(空なのかも知れないけど)。そういえば子どもの頃、給食のあと「牛乳が飲めるまで遊んじゃ駄目」とか先生に怒られている同級生がいたものです。おそろしい白い牛乳。真冬の冷たい牛乳。「牛乳がこわい」ではないので、きさらぎにまつわる何かしら牛乳のような理不尽があるのでしょう。
 二句目、これ、岡村知昭ワールドのへなへなな国の憲法みたいでいいです。
 三句目、ほんものの雪でないものが何かあるのでしょう。ちなみに検索してみると、日本の冬季限定ビールの発売は1988年、初期の頃は缶と瓶の並行販売だった由。私は、雪の結晶のデザインのラベルを思い浮かべました。
 四句目、「あんだるしあ」とわざわざ平仮名で表記しているのは、貨物船かなにかなのでしょうか。当然こわれていることを期待した書き方が、なんとも岡村知昭ワールドです。

現実界への風刺として機能しない無意味

かごめかごめが官邸で泣いている 岡村知昭
帝国のあんなにあって猫泳ぐ
警官のままの兎の濡れている
淋しくて国民になるバナナかな
梔子の花いきなりの遺憾の意
出征と言わないでおく冬三日月


 現実界への風刺としては機能しないくらい無意味なこれらの語彙は、変なたとえですが『ひょっこりひょうたん島』にガバスという通貨があったみたいに、岡村知昭ワールドの重要な機能としての、国家や政府や軍隊や警察なのでしょう。それにしても、なんと頼りない国家や政府や軍隊や警察であることよ。

やや思ふ青鞋のこと閒石のこと

水売りの言葉によれば立夏かな 岡村知昭

 「水売」というのは、広辞苑によれば「江戸時代、夏、冷水に白玉と砂糖を入れ、町中を売り歩いた商人」とあります。たぶん、この人たちの立夏はまさに仕事がかき入れ時になる頃なのでしょう。
 ところでこの句、「この国の言葉によりて花ぐもり 阿部青鞋」の遠い影があるような気がします。

れんこんのなおも企む日暮かな 岡村知昭

 そう思い出すと、この句も「れんこんの穴もたしかに嚙んで食べ 阿部青鞋」の遠い遠い影があるような気がしてきました。からっぽの分際で、れんこんの穴が悪代官のように企んでいるのです。ついでにいうと、「日暮かな」だけなのに「階段が無くて海鼠の日暮かな 橋閒石」のほのかな影もあるような気がしてきました。阿部青鞋も橋閒石も、意味と無意味のはざまで重大な足跡を残した俳人なので、読者の方で呼び込んでしまうのかも知れません。

秋風も叙情詩もいや三宮 岡村知昭

 閒石といえば、「詩も川も臍も胡瓜も曲りけり 橋閒石」という句があり、詩を含む「も」の連鎖に、やはり影を感じます。三宮といえば、この句ができた頃、復興は進んでいたのでしょうか。

由緒正しき固有名詞

きりぎりす走れ六波羅蜜寺まで  岡村知昭
崇徳院詣でのカラスアゲハかな
祇園こそ偽シベリアを耐えにけり


 六波羅蜜寺は、祇園にほど近い京阪電車清水五条駅下車徒歩7分、明治天皇が崇徳院の御霊を祀った白峯神宮は烏丸線今出川駅下車徒歩8分とあります。ずっしりと歴史の染み込んだ固有名詞を駆使し、作者は変な句に仕立てます。
 なぜ六波羅蜜寺まできりぎりすが走らねばならないのか。なぜ崇徳院詣でのカラスアゲハなのか。たぶん作者として提示するひとつの読み方は何もなく、読者の知る限りの歴史の中で、虚実まぜこぜに意味が隠密のように走り出し、怨霊のように跋扈するのを待っているのです。そんな中、おそらく造語なのでしょう、「偽シベリア」という見たことも聞いたこともない語が目を引きます。まったく人々が知らなかった歴史に祇園が耐えていたのだという、壮大な大嘘がじつに楽しいです。

すり替えられた無意味

夕焼けやウイルスを美しく飼い 岡村知昭

 例えば「文鳥」でも「蘭鋳」でもいいのですが、ほんとうに美しくて飼えるものでも成立する句型を整えておいて、あえてそうでないものをそこに置くことによって出現する意外性、倒錯こそが、岡村知昭ワールドなのでしょう。奇しくも発句は「ウイルス」。罪悪感のない天才少年たちのように、作者はその愉快にうちふるえていることでしょう。

おとうとを白旗にして夏野ゆく 岡村知昭

 例えば「おとうとを先頭にして」だったら、まったく当たり前でノスタルジックなスナップなわけですが、この人は「おとうとを白旗にして」と書かざるを得ないのです。おそらく、ただ「その方が面白いから」。いったい何に降伏したというのか、生きながらに白旗として宙づりにされたおとうとのように、すべての意味が宙づりにされています。

2011年12月29日木曜日

ためしに壺に活けてみる

句集を読んでいると、ある句が自分の知っている別の人の句と自分の中で吊り橋が落ちるように激しく共振し出すことがあります。そんな句たちを同じ壺に活けてみるのも楽しいかも知れません。

腹筋をたっぷりつかい山眠る 渋川京子
山眠る等高線を緩めつつ   広渡敬雄

 いずれも「山眠る」の句としては、かなりトリッキーなものでしょう。京子句、腹式呼吸して眠る山を思うと、人間の営みなどほんの地表のささいなものなのでしょう。敬雄句、そもそも地図上の概念であって実在しない等高線をコルセットのように捉えた見立てが実に可笑しいです。

梅咲いて身にゆきわたる白湯の味  渋川京子 
ひとりとは白湯の寧けさ梅見月  太田うさぎ

 つい先日、うさぎ句について「酒豪ならではの句でありましょう」と書いたばかりなのですが、渋川京子さんにも白湯の句があって、奇妙な暗合に驚いています。白湯の味を梅の花と配合させた京子句、「ひとりとは白湯の寧けさ」だという感慨を梅の時期と配合させたうさぎ句、どちらも五臓六腑にしみわたります。

枇杷の花谺しそうな棺えらぶ  渋川京子
行春やピアノに似たる霊柩車  渡邊白泉

 磨き上げられた棺は、言われてみれば確かに谺しそうです。また黒光りする霊柩車は確かにその色艶の具合においてピアノのようです。音や楽器の比喩は、いささか不謹慎といえば不謹慎ですが、俳人たるもの、そう感じてしまうのを禁じ得るものではありません。京子句、ここではまったく谺しそうもない、もっさりとした枇杷の花を配合していて、じつに渋いです。

俳句というフラワーアレンジメント

刈萱を投げ入れ壺をくつろがす 渋川京子

 活ける草花によって、壺も緊張を強いられたり、そうでなかったりするのでしょう。壺が単なる器ではなく、草花と呼応して生命を得る配合の機微を思います。「投げ入れ」と「くつろがす」の把握が絶妙です。

逝く人に本名ありぬ青木の実 渋川京子

 してみると、ある種の二物衝撃はフラワーアレンジメントそのものなのです。「センセイ」と呼んでいた人が松本春綱という本名を持っていたことを思い知らされるような、そんな場面は、お互いを俳号で呼び合う私たち俳人仲間のあいだでもたまにあることです。「青木の実」のくっきりとした斡旋がじつに見事です。

空蝉の好きな人なり

空蝉の目と目離れて吹かれおり  渋川京子
空蝉に好きな場所あり呼ばれおり

 渋川京子さんはぎょっとするほど、空蝉の好きな人なのです。あるとき喫茶店でやっている句会に、「みんなに見せようと思って」と、空蝉を箱に入れて十ばかり持っていらしたことがあります。居合わせた俳人一人一人に一個ずつ空蝉を配り、「この、目が透き通ったあたりが可愛いでしょう。まるで生きているみたい」などとおっしゃるのです。で、最後は「こんなもの渡されてもお困りでしょうから」と、回収してまた丁寧に箱に入れ、持って帰られたのでした。掲句はそんな渋川京子さんの一面を伺わせる句です。
 二句目は蝉の習性として脱皮にふさわしい場所があるのでしょう。それを「呼ばれおり」ととらえる感性が、じつにキュートです。

渋川京子の光と闇

渋川京子さんについては『レモンの種』(ふらんす堂)を上梓された際に書かせて頂いたので(右側のラベルからたどることができます)、そのときに触れなかった句を今回は取り上げます。

夏夕べ鏡みずから漆黒に 渋川京子

 ちょっと前までは、よほど暗くなるまで電気なんかつけなかったものです。虚なのか実なのかというと虚の書き方をしているわけですが、郷愁の中の夏夕べの光の具合をとらえて過不足ありません。

月光に聡き兄から消されけり 渋川京子

 これも同様に光を題材とした虚の句。「聡き兄から消されけり」のs音、k音が実に繊細で怖ろしいではありませんか。

2011年12月25日日曜日

変なうさぎ

西日いまもつとも受けてホッチキス 太田うさぎ

 昨今はてこの原理を巧妙に取り込み、より小型化され、より小さな力で綴じることができるように進化したホッチキスですが、ここで詠まれているのは昔ながらのぎんぎらぎんのホッチキスでしょう。まったく本来の機能に関係なくドラマチックに詠まれたホッチキスは、オフィスの天井にその反射光をなみなみと及ぼしていることでしょう。こんななんでもないものを、こんなに高らかに詠んでしまううさぎさんの変さを思わずにはいられません。

鯛釣草ここは蓬莱一丁目 太田うさぎ

 検索すると横浜市中区、和歌山県新宮市、福島県福島市などに蓬莱一丁目は実在します。季語が先なのか地名が先なのか分かりませんが、中国伝来の植物に、これまた中国伝来の霊験あらたかなようでいてなんとなくぱっとしない地名を取り合わせて一句をものにしてしまう変なすごさが圧倒的です。「ここは」がなんとも言えずよく、今まではなんでもなかった「蓬莱一丁目」に突然ドラマが立ち上がる感があります。

酒豪たるうさぎ

祭礼の人の行き来を昼の酒     太田うさぎ
風ぬるく夜のはじまるラム・コーク
どぶろくや眼鏡のつるの片光り
猿酒ひと美しく見えてきし

 白昼から古今東西多種多様のお酒を召し上がります。「猿酒」は空想的な季題とされますが、ひとたびうさぎさんの手にかかるとお構いなし。

ひとりとは白湯の寧けさ梅見月   太田うさぎ

 そんな酒豪ならではの句でありましょう。
(あまり見ない「寧けさ」は、仮に「しづけさ」と訓んだけど、あまり自信がありません。こっそり教えて下さい。)

家族アルバムのうさぎ

父既に海水パンツ穿く朝餉     太田うさぎ
ぐんぐんと母のクリームソーダ減る
苧殻焚くちかごろ母の声に似て
銀杏を拾へば父とゐるやうな

 このあたり、人物が景物を思い起こさせたり、景物が人物を思い起こさせたりするのを、こまやかな感情の起伏とともに自在に句に仕立てている感があります。

なきがらや睫やさしく枯れわたり 太田うさぎ

 「睫やさしく枯れわたり」が胸を打ちます。俳人には俳人にしかできない家族のアルバムがあるのだと感じます。

しどけないうさぎ

作中人物としての一人称がそうなのか、作者ご本人そのものがそうなのか、ときどきどきどきしてしまう句が混じるのも、うさぎワールドの魅力です。

スカートのちよつとずれてる昼寝覚 太田うさぎ

 百年の恋が一瞬で覚めたところにこのひとの魔力は始まり、世の男性は千年の恋を思い知るのです。
 こういう句で「ずれてる」という口語短縮形を用いるのは、「路地を飛び出して西瓜の匂ひの子」での破調の使用とともに、句の世界と形式の一致への周到な心遣いによるものであることは見逃せません。

歳月の流れてゐたる裸かな 太田うさぎ

 「さまざまなこと思い出す桜かな 芭蕉」の裸バージョンとも言える句ですが、ちょっとやそっとの衰え(堪忍!)などものともしないタフさがあります。beauty is only skin deepと言ったのはどなたでありましたでしょうか。こんな句がしれっと詠めるところが、まさにうさぎワールドなのです。

節分や男のつどふ奥の小間 太田うさぎ

 すでに多くの人が触れている「なまはげのふぐりの揺れてゐるならむ」ではなく、こちらの句について述べたいです。鬼役の人たちが集まっているのでしょうか。それを「男」のつどふ、と詠んだことによって魔性の深い闇がくろぐろと小間にみちみちて行きます。折しも節分。

うつくしい日本のうさぎ

太田うさぎの句はもはや郷愁の中にしか実在しないのではないかと思わせるうつくしすぎる句群と、妙にしどけない句群と、胸を打つ家族のアルバムとしての句群と、ひょうきんで変な句群が、渾然一体となって入り交じっていて、どこから語り始めていいのかそうとう困るわけですが、ひとまず「うつくしい日本のうさぎ」。「うつくしい」がどっちにかかるかって、そりゃあもう、断然うさぎです。

梁打や遠嶺は雲と混ぢりあひ 太田うさぎ

 近景の梁を打つ男や水のきらめきなどの一切を「梁打」という言葉の裏に隠し、雄大な遠景を詠い上げたこの句は、もはや古格のようなものが感じられ、例えば山本健吉の名著『現代俳句』に載っていたとしても、まったく不思議はありません。

老鶯の整へてゆく水景色 太田うさぎ

 「老鶯」の音の世界にフォーカスを当てるために、風景の具体的な一切を裏に隠して「水景色」と置き、それを「整へてゆく」とした措辞の確かさが実にあざやかです。

 とはいえ、このような花鳥諷詠俳人としての底力をちら見せするにとどまり、さまざまな側面にまぎれてゆくあたりのゴージャスさにこそ、太田うさぎの真骨頂があるのです。

(続く)

2011年12月23日金曜日

九吟歌仙・既望の巻

週刊俳句の佐山哲郎『月姿態連絡乞ふ』に対する拙感想文『月真下』から派生した連句の二巻目。

   既望とはフォボス・ダイモス順不同  佐山哲郎
    両側に立つ大道芸人         ゆかり
   霞み晴れさてはおはこを取り出して   のかぜ
    春の水ゆゑ両手浸さん         月犬
   白魚のやうな指持つ名外科医       ぐみ
    錆びたナイフにあかつきの風      銀河
ウ  軍団はカレーライスで名を売れり     なむ
    歯は真っ白で髪はゴ-ルド        七
   地球儀でフィアンセの住む国を指し     篠
    Skypeで逢ふことももどかし        令
   梅雨の闇なる真つ黒のただの闇       り
    手さぐり傘で唸る鼻唄          ぜ
   珈琲と牛酪の香り満ちあふれ        犬
    静かの海へ食後の散歩          み
   蹴り飛ばす地球太陽もうひとつ       河
    日永の部屋のぼく独裁者         む
   ガニメデは眼のある花が咲くと云ふ     七
    オリュンポスより望む大凧        篠
ナオ 暮るるまで良寛さんをさがしたる      令
    つぎつぎ揚げるなすび獅子唐       り
   味を出す水と油の君と僕          ぜ
    アラブの姫は秘術尽して         犬
   蜜月は新惑星へ行きませう         み
    爆破しないで目的地まで         河
   助手席に居残る熊の縫ひぐるみ       む
    春の大曲線を訪ふ            七
   紅梅のあふれて音のない茶室        篠
    賜死ののちにも雛の飾らる        令
   どの月も十六夜である天王星        り
    海贏うち回し耳を引かれて        ぜ
ナウ その角を曲がれば見えてくる旧家      犬
    竿竹売りの絶えて久しく         み
   葦晴れて下流デルタに田鶴の声       河
    盤景に見る日本原形           七
   弓を引く頬に落花のとめどなき       篠
    海市の中にルナパーク佇つ        令

起首:2011年11月22日(火)
満尾:2011年12月23日(金)
捌き:ゆかり

2011年12月18日日曜日

些末の快楽/擬態語の快楽

サングラス砂を払ひて砂に置く 齋藤朝比古
足の指開きて進む西瓜割

 優れた写生俳句の詠み手は、またどうでもいいことを実に細かく見ています。こういう句の「あるある」感、「やられた」感は格別のものです。

 さて、真に優れた本格派剛速球投手が何種類も変化球を必要としないように、齋藤朝比古の句風にもバリエーションらしきものはあまりありません。そんな中でチェンジアップとしてたまに投じられるのが、ほとんどアンバランスと言ってよいチープな擬態語の使用です(『俳コレ』では選者の趣味なのか、目が慣れるくらいの配球となっていますが…)。

錠剤をぺちと押し出し春灯      齋藤朝比古
ロボットのういんがしやんと花は葉に

 そんな中では

砲丸の落ちてどすりと冬深む 齋藤朝比古

が、語順の確かさとあいまって、胸を打ちます。

装置性能の鑑賞

ロッテリアマツモトキヨシ水打てり 齋藤朝比古
白菜を抱へ両国橋渡る

 一見なんでもない句をあえて選びました。最近google earthという怖ろしいものがあって、パソコン上で道路に沿って風景写真が四方八方連なって展開されて行きます。自動車に設置された何台ものカメラによって撮影されたものを合成しているようですが、齋藤朝比古さんというのは、それに似て、どんなただごとの風景でもたちまちにして稠密な句群に置き換えてしまうすごさがあります。この人の場合、書かれた作品を云々するよりも、もしかしたら、刻々と俳句に置き換えて行く装置として、その性能を味わうのが正しい受け止め方なのかも知れません。

2011年12月17日土曜日

写生という手品

(12/18改題および一部改稿)

うすらひの水となるまで濡れてをり 齋藤朝比古

 こんな句に出会うと、昔ながらの「写生」「発見」というキーワードが今でも使える不可思議、世の中にまだ詠まれていないものがあったのだという驚きを覚えます。理屈と言えば理屈ですが、水そのものは決して濡れているわけではないのであり、「春の水とは濡れてゐるみづのこと 長谷川櫂」への異議申し立てとして、セットで語り継がれて行くような気がします。

囀や日影と日向隣り合ふ  齋藤朝比古

 「日影と日向隣り合ふ」と言われてみればその通りなのですが、当たり前すぎて誰もそんなふうには詠めなかったはずです。「囀や」に何かしら人智を超越したものを感じます。

ふらここの影がふらここより迅し 齋藤朝比古

 最初これはうそだと思いました。円弧を描くふらここの方が平面上を直線運動する影より大きく移動するのだから、本当はふらここの方が速いのでは、と。大きく移動する分、ほんものは明らかに遠回りして感じられ、その分遅く見えるだけでは、と。でもよくよく考えてみると、本当に影の方が速い場合があるのですね。
 簡単のため、ふらここの軌道を半円とし、ふらここが一番下がったとき地面に接し、太陽は左上45度の無限遠点にあり、ふらここが左から右に進み、半径rとします。
 最初に思ったのは、影は2rしか進まず、ふらここは2πr/2進むのだから、どう考えたってふらここの方が速いではないか、ということでした。が、よく考えると、起点からふらここの軌道が太陽光線と接する左下45度の位置まで、影は逆に左へ進みます。ふらここが左下45度を過ぎると影は右に進むようになります。そして、影は最下点から2r右に進みます。影が最下点から2r右に進む間、ふらここは半円のさらに半分を進むので2πr/4=πr/2移動します。2>π/2なので、影の方が速いのです。
 そのことに思い至ってから、この句のフォントサイズが大きく見えます。

異次元の並置

声となりほどなく鶴となりにけり 山田露結

 写生的な観点から言えば、例えば雪原に鶴がいるのだけれど保護色のため初めは分からず、声を聴いたのち初めて姿を認識したという情景を的確に捉えた句、ということになりましょう。が、実景はさておきテキストとしてこの句を眺めた場合、抽象的な属性と全体の、次元を無視した並置こそが読者に対し何かしらを喚起するのだと感じます。

クロールの夫と水にすれ違ふ 正木ゆう子

 こちらの場合、人物と物体の並置ということになりますが、大ざっぱにいえば、やはり次元の異なるものの並置の面白さを感じます。

閂に蝶の湿りのありにけり 山田露結

 この句の場合、閂の湿り気と蝶の湿り気は同じだと言っているわけだから、次元の異なるものの並置とは違うかも知れません。しかしながら、湿り気を表す尺度として、蝶というのはそうとう変なものです。そういう意味では、次元の異なるものの並置と同じくらい意表をついて成功しています。実際のところ、雨露にさらされた閂のもつ、決して濡れているわけではないけれどもひんやりとした、あの触感というのは、「蝶の湿り」と断定されたとき大いに腑に落ちるものがあります。

一人称の彷徨

ぼんやりと妻子ある身や夏の月 山田露結

 「妻子ある身」などという紋切型は、犯罪や仕事上の失敗で用いられることはまずなく、色恋沙汰と相場は決まっているのであります。この「ぼんやりと」から思い出されるのは、小田和正のハイノート。そう、

今なんていったの?
他のこと考えて君のこと
ぼんやり見てた
(小田和正『yes・no』より)

なのです。「君を抱いていいの 好きになってもいいの」と続く「ぼんやり」。「夏の月」がなんとも悩ましいです。

昼を来てたがひの汗をゆるしけり 山田露結

 どこにもそうだとは書いていないのに、ただならぬ関係を感じます。

 俳句の主語は、明示していなければ一人称だという暗黙の約束があるわけですが、ではその一人称は事実なのかというと、人間探求派の時代ならいざ知らず、昨今は自在に虚実のあわいを彷徨しているのです。「妻となり母となりたる水着かな」「われの目に抱く吾子の目に遠花火」といったピースフルな句と並んで、ただならぬ句が混入する作品世界。実に楽しいではないですか。

エクリチュールの快感

くちなはとなりとぐろより抜け出づる 山田露結

 この旧仮名遣いで書かれた句、初見でうまく読めましたでしょうか。私など「となり」なんて言葉が目に飛び込んだりして、かなり訳が分からない状態になるのですが、この訳の分からなさこそ、この句の味わいなのだと感じます。なんだか分からないものが動き始めたら実は蛇だったという、そのなんだか分からない感じが、書かれた文字の塩梅によって伝わってきます。

われの目に抱く吾子の目に遠花火 山田露結

 これは分配の法則で同類項をまとめたものではありません。
   (「われの目に」+「抱く吾子の目に」)×遠花火
ではなく、マトリョーシカのように対象が絞られているのです。強いて数式っぽく記述するなら
   われの目に(抱く吾子の目に「遠花火」)
なのです。書かれた文字の塩梅をそのまま追って行くことによって感じられる我が子へのまなざし。それを実現する技巧。俳句の快感って、こんなところにもあるのだなあと、改めて感じます。

2011年12月16日金曜日

三物衝撃のテンプレート

対岸をきのふと思ふ冬桜 山田露結

 たまたま『静かな水』の勉強会で、「深井戸を柱とおもふ朧かな 正木ゆう子」という句が引き合いに出され、そんなものは「露地裏を夜汽車と思ふ金魚かな 摂津幸彦」ですでにできあがっているパターンではないか、みたいな否定的な論調で終わってしまったのだけれども、これは天狗俳諧の摂津幸彦が未来に遺した三物衝撃のテンプレートなのかも知れません。一物仕立てとか二物衝撃とかはよく言われるところですが、「目には青葉山ほととぎす初鰹 山口素堂」となると、「いや、あれは…」と口を濁すようでは俳人たるもの、情けないではありませんか。
 掲句、今もありありと見えるものを過去のものとして訣別しようとしている、未練の残る孤愁を冬桜に感じます。

 さて、そもそも山田露結さんと私との縁というのは、俳句自動生成ロボットに他ならないので、酔狂に「三物くん」というのを作ってみました。句型としては「露地裏を夜汽車と思ふ金魚かな 摂津幸彦」と、(誰もそんなことは言わないけど)これも三物衝撃クラシックである「階段が無くて海鼠の日暮かな 橋閒石」をもとに下五が5音の名詞も仕込んであります。

電灯を画鋲とおもふ師走かな  ゆかり

もろもろ昨今

先週は10日(土)に現代俳句協会青年部の正木ゆう子『静かな水』の勉強会、11日(日)に西原天気さんの『けむり』の出版記念パーティーと、私にしては珍しく人前に姿を現し、今週になって13日(火)に複数の方の連名で『俳コレ』を恵贈賜りました。こうなると俄然俳句モードであります。しばらく、私の中の秩序により『静かな水』と『けむり』と『俳コレ』について、模索することにします。
 といいつつ『俳コレ』って、これ、非常に困ります。何か書こうにも、すでに各人についてもれなく小論という作者以外の評があって、これがなんだか、予想問題集の記述式問題の回答例みたいに、扱いに困ります。さらに巻末にはそうそうたる5名の方による合評座談会がついていて、各作家の相対的な位置づけのようなことまで語られているのです。作品を読む前に目を通さないことはできるのですが、ブログに何か書こうとしたときに6重のバイアスの網目であるそれらに触れなかったら「おんなじこと言ってら」「くすくすくす」とか言われかねない…。
 が、ここは清志郎ばりに「♪情報を無~視~」と行くことにします。

極月の静かな水をけむりかな ゆかり

【12/29追記】改めて聴き返したら「♪情報を無~視~」の一節は坂本冬美が歌っていました。謹んでお詫びするようなことではないのですが…。