次の出題をめぐりいろいろ考えているのですが、次の節は「2 構成された余白、文語定型詩」。藤村や泣菫、有明をめぐる話なので、はなはだ句会の出題のネタにしづらく…。話を飛躍して連作俳句にからめてみましょうか。構成というなら、例えば誓子。
航行
船厨(せんちゆう)の蠅青潮に向きて去る
船欄は蠅ををらしめ浪を白(しら)め
夏の夕餐(ゆふげ)船は蛇輪(だりん)をまはすなる
顔こすり睡(ねむ)がる子よ夏の海暮るる
夏の夜の星ひとつ撰(え)りて船にかかぐ
船に垂れ晩夏星座のみづみづしさ
夏のあさ薄翅蟲類船とすすむ
(昭和十二年)
ところでp.40の「つまり、行かえは、物語の展開をになっているのではなく、客観、主観、主観の客観化といった千鳥をめぐる観点の移動を可能にしているのだ」というくだり、なにかを思い出しませんか。
これって、じつに我らが俳諧の、自他場に近いものを感じます。物語の単調さを救うための余白の技法が、反対向きに物語性を否定する俳諧の付け方の技法に近いものとして現れるところに、俳人としての私は妙味を覚えます。
というわけで、今回は文語定型詩と俳諧の余白の現れ方を味わってみたいと思います。
【文語定型詩】一篇(五七五/七五七交互ソネット形式)
または
【独吟半歌仙】一巻
投稿締切:6月23日(土)24:00(JST)
投稿宛先:yukari3434 のあとにアットマークと gmail.com
余力のある方は両方でも構いませんし、二篇以上、二巻以上でも構いません。上記に適合していれば旧作でも構いません。
2012年6月17日日曜日
2012年6月15日金曜日
詩レ入(4)作者発表
ブログでは自句のみ引用します。全貌は掲示板をご覧下さい。
【切字があって余白がある俳句】
飛ぶ蠅は星のかたちを重ねけり ゆかり 裕
モロゾフに口説かれてゐる梅雨入かな ゆかり 裕
ワシコフの犬として夏木立かな ゆかり 令
【切字がなくて余白がある俳句】
鰻食ふ西郷の犬雲の峰 ゆかり 裕
蠅を打ち乳房の揺れの収斂す ゆかり
パブロフが大好きな犬夕薄暑 ゆかり
【余白がない俳句】
鋭角を描いて迫る蠅を打つ ゆかり
梅雨入のタチアナ・ニコラーエワの犬 ゆかり 七
犬捕は瀑布の犬を捕らへけり ゆかり 裕
精確に蠅の軌跡を打ちにけり ゆかり 銀
【切字があって余白がある俳句】
飛ぶ蠅は星のかたちを重ねけり ゆかり 裕
モロゾフに口説かれてゐる梅雨入かな ゆかり 裕
ワシコフの犬として夏木立かな ゆかり 令
【切字がなくて余白がある俳句】
鰻食ふ西郷の犬雲の峰 ゆかり 裕
蠅を打ち乳房の揺れの収斂す ゆかり
パブロフが大好きな犬夕薄暑 ゆかり
【余白がない俳句】
鋭角を描いて迫る蠅を打つ ゆかり
梅雨入のタチアナ・ニコラーエワの犬 ゆかり 七
犬捕は瀑布の犬を捕らへけり ゆかり 裕
精確に蠅の軌跡を打ちにけり ゆかり 銀
ラベル:
詩的レトリック入門句会
2012年6月3日日曜日
詩レ入句会(4)出題
さて、いよいよ第Ⅱ章です。
Ⅱ 余白論の試み
1 余白の出現、ざしきぼつこのような (p.34)
北川透は書きます。
詩の出現とは、必ず(と言っていいほど)余白の出現である。だれもがそれを自明にして書き、読んでいながら、忘れている。
ひるがえって、私たちの俳句の世界には切れ字というものがあります。仁平勝は『秋の暮』(沖積舎。1991年)に収められた「季語と切字」の中で次のように書いています(p.66)。
(前略)じじつ切字のことを、「や」のように句中に意味的な切れをつくるものと理解している俳人が多い。俳諧でいう切れと、いわゆる区切れとがゴッチャ になっているのだ。そういう人たちは、なぜか同じく代表的な切字である「かな」や「けり」のことを考えない。「かな」や「けり」のほうを考えればわかるこ とだが、俳諧で切れというのは、発句が脇句にたいして切れるということだ。
(そして話は、なぜ「や」によって発句が脇句と切れるのかと続く。)
さらにその一方で長谷川櫂の最近出た『一億人の「切れ」入門』(角川学芸出版。2012年)では、手許にテキストがないので正確ではありませんが、「こ の句の切れは俳句の前と後ろにある」的な表現で、句中の意味的な切れ以外のものを表現しています。(テキストをお持ちの方は、正確な引用でお助け下さ い。)
さて出題です。
【切字があって余白がある俳句】(3~5句くらい)
【切字がなくて余白がある俳句】(3~5句くらい)
【余白がない俳句】(余力のある方のみ)
投句締切:6月9日(土)24:00(JST)
投句宛先:yukari3434 のあとにアットマークと gmail.com
★整理の都合上、俳句の行には俳句以外の題とか記号とか俳号とか本名とかを書かず左詰で列挙願います。
よろしくどうぞ。
Ⅱ 余白論の試み
1 余白の出現、ざしきぼつこのような (p.34)
北川透は書きます。
詩の出現とは、必ず(と言っていいほど)余白の出現である。だれもがそれを自明にして書き、読んでいながら、忘れている。
ひるがえって、私たちの俳句の世界には切れ字というものがあります。仁平勝は『秋の暮』(沖積舎。1991年)に収められた「季語と切字」の中で次のように書いています(p.66)。
(前略)じじつ切字のことを、「や」のように句中に意味的な切れをつくるものと理解している俳人が多い。俳諧でいう切れと、いわゆる区切れとがゴッチャ になっているのだ。そういう人たちは、なぜか同じく代表的な切字である「かな」や「けり」のことを考えない。「かな」や「けり」のほうを考えればわかるこ とだが、俳諧で切れというのは、発句が脇句にたいして切れるということだ。
(そして話は、なぜ「や」によって発句が脇句と切れるのかと続く。)
さらにその一方で長谷川櫂の最近出た『一億人の「切れ」入門』(角川学芸出版。2012年)では、手許にテキストがないので正確ではありませんが、「こ の句の切れは俳句の前と後ろにある」的な表現で、句中の意味的な切れ以外のものを表現しています。(テキストをお持ちの方は、正確な引用でお助け下さ い。)
さて出題です。
【切字があって余白がある俳句】(3~5句くらい)
【切字がなくて余白がある俳句】(3~5句くらい)
【余白がない俳句】(余力のある方のみ)
投句締切:6月9日(土)24:00(JST)
投句宛先:yukari3434 のあとにアットマークと gmail.com
★整理の都合上、俳句の行には俳句以外の題とか記号とか俳号とか本名とかを書かず左詰で列挙願います。
よろしくどうぞ。
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詩的レトリック入門句会
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