2016年8月24日水曜日

(9) ロボットは何を目指すのか

 前号では「ロボットは俳句を学べるのか」を書いた訳だが、ロボットが仮に俳句を学べたとして、ではロボットは何を目指すのか。個性とは何か。このあたり、人間の実作者にとっても悩ましい。

 ふつう人がロボットに抱くイメージは、正確、高速、休まない、サボらない、気分によるムラがない…などだろう。で、工業用ロボットが生産した製品の仕上がりについては、安定的に高品質、個性がない、…といったイメージではないかと思う。

 さて、身近にこんな俳人はいらっしゃらないか。目に映るものを片っ端から客観写生すべく日頃から凄まじい努力をし、「多作多捨」とか「俳句スポーツ説」とかを信奉し精進している…。頭が下がることではあるが、これってロボットに抱いていたイメージの「正確、高速、休まない、サボらない、気分によるムラがない、…」を人力でやろうとしているだけで、目標が俳句そのものからすり替わり、単に「私はロボットになりたい」と言っているだけではないのだろうか。そのような努力とともに生産される句がもし「安定的に高品質、個性がない、…」だったとしたら空しい。克己的な作句態度と、できた句が面白いかはまったく別のことだ。「多作多捨」も「俳句スポーツ説」も波多野爽波が唱えたことだが、爽波自身の句は飄逸にして今も輝いている。

 作句態度としてのロボットの話は金輪際捨て置くとして、やはり俳句なのだから、ロボットだって個性的な俳句を作りたい。では人間にとって個性とはなにか。ある作風が人から個性だと認められたとき、それを伸ばそうとすることは自己模倣ではないのか。自己模倣とは自己の作句アルゴリズムをパターン化して再生可能とすることではないのか。それは、まさに自分をロボット化することではないのか。

 山口誓子最晩年の句集『大洋』から何句か引く。

  大雪原人の住む灯の見当らず   誓子
  揺れてゐる壁爐の火には形無し
  まだ水田美濃は水田を憚らず
  獅子舞の鬼紅舌を隠さざる
  船は見えざれど烏賊火は前進す
  新蕎麦を刻む人間業ならず
  鯉幟身をくねらせて進まざる

 いかがだろう。この動詞未然形への執着、不在への執着。最晩年の山口誓子は、もはやロボットのようにして個性を繰り出していたのではないか。

(『俳壇』2016年9月号(本阿弥書店)初出)

2016年8月12日金曜日

感覚が冴えわたる暴れどころのできちゃった俳句

 嵯峨根鈴子『ラストシーン』(邑書林)、第三章は「触れで汚れて」。句集全体の中での暴れどころなのか、感覚にまかせてできちゃったような句が目を引く。

  冬眠のベッドも椅子も大きくて
 人間とて冬場は活動力が低下し変温動物のように冬眠したくなる訳だが、それを、からだが小さくなるようだという感覚で捉えることは、あまりないのではないか。
  
  死んでやる口中あまき根深葱
 私に句集をお送り下さったくらいだから、まだ生きているのだろう。すると根深葱にいのちを救われたのか。上五の「死んでやる」という啖呵が楽しい。
 
  ふたりして煮凝揺するノンフィクション
 煮凝の凝固のぐあいを確かめるために、夫婦とか母娘とかでほんとうに揺すったのだろう。で、まるでなにかの小説の登場人物みたいな感じに襲われたその感じまでを句にしようとしたら、下五がこんなになっちゃったに違いない。
 
  御降の眼にやはらかく放尿す
 思い出すのは「さを姫の春立ちながら尿(しと)をして 宗鑑」である。掲句の場合「放尿す」の前に切れがあるように読むのが順当ではあろうが、御降と放尿を同一視したくもなるのは、宗鑑の句があるからだろう。ちなみに宗鑑の句は「霞の衣すそはぬれけり」への前句付けである。

  指先に触れで汚れて春の雪
 触れなくても汚れてしまうというのがいかにも春の雪である。打ち消しの接続助詞「で」でしかも「触れ」なので「柔肌の熱き血潮に触れもみで寂しからずや道を説く君 与謝野晶子」をも呼び込み、どこか妄想性愛の趣もある。

  ふしあはせの馬刀貝だけを突くらしい
 馬刀貝というのは、穴に塩を入れて出てきたところを採るらしい。塩分濃度に敏感であり、急激な変化があると巣穴から飛び出す性質を利用した漁法なのだそうだ。掲句、それ自体では意味不明ながら、馬刀貝のそんな習性や特異な外見を知ると「ふしあはせ」とか「突く」という措辞がすごく効いているような気がしてくる。という読解のプロセスのために周到に用意されているのが、句尾の「らしい」なのである。

  ばくげきのぱふすりーぶがぱとひらく
 「ぱふすりーぶ」は『赤毛のアン』では「提灯袖」と訳された、肩のふくらみ。爆撃機が爆弾投下する際に、胴体下部を機体の曲面のままに開くあの感じと、パフスリーブは確かに妄想の彼方で通い合う。それは意味の世界で通い合っているわけではないので、こうなったらもう、全体をひらがな表記するしかないのだ。

  産道に水掻たたむ虹のあと
 哺乳類は受胎から出産までの間に動物の進化の歴史を繰り返すと言われる。哺乳類に進化する前は両生類で水掻があるのだろう。雨上がりの虹のあとあたりで、乾いて哺乳類になるのだろうか。「虹のあと」の「あと」に、絶妙な感覚の冴えを感じる。

  クローンの父いろなき風をひた走る
  どの蓋も合はなくて母だと名告る
 先に「螺子釘やはじめヒト科のちちとはは」について触れたが、父と母はここでも誰のでもある父と母として絶妙にやらかす。父は家庭的な実態としての感触を消して仕事に奔走し、母は間抜けながら強烈な実態を主張する。いかにも父であり、母である。

 

2016年8月11日木曜日

『鏡』二十号を読む

  化身かもしれぬ沓音おち椿     八田夕刈
 東大寺二月堂修二会の連作である。「沓音」という表記であれば、掲句は「水とりや氷の僧の沓の音 芭蕉」(「こもりの僧」とする異稿もある)を踏まえているのだろう。伝統行事ではあるが、まさに芭蕉が心を動かされたであろう沓の音を耳にして「化身かもしれぬ」と捉えたに違いない。「おち椿」は化身が実在した痕跡として機能している。

  内陣券あり〼路地に春疾風     八田夕刈
 連作の中で対象世界だけを切り取って描くのではなく、あえて対象世界を外側から捉えた句を混ぜて、冷笑的な一面も連作に取り込んだのは山口誓子であった。誓子は「天守眺望」という妙なる連作に「桐咲けり天守に靴の音あゆむ」を混ぜ込んだり、「枯園」という妙なる連作に「部屋の鍵ズボンに匿れ枯園に」を混ぜ込んだりした。八田夕刈の掲句も宗教的な荒々しい伝統行事の世界から距離を置いた句を混ぜ込むことにより、連作全体に重層的な味わいを付け加えている。

  縞馬の縞は横縞夏近し       大上朝美
 楽しい句である。地面を基準とすれば縦縞であるが、人間の着衣と同様に背骨を基準に考えれば、縦に見えていても横縞以外の何ものでもない。そんな他愛もないことを考える気分が、いかにも「夏近し」である。

  呪文かなウワナベコナベホシハジロ 羽田野 令
 タイトルは『黒髪山残夢』。地図で見ると関西本線を挟んで東に黒髪山があり、西にウワナベ古墳、コナベ古墳がある。それぞれ池に囲まれてカモ目カモ科ハジロ属の水鳥ホシハジロが羽を休めているのだろう。これらの名前をつなげると確かに呪文みたいで妙に可笑しい。

  花房や肺を出てゆくきれいな血   佐藤文香
 「花房」とあるが、実際にこの句で詠まれているのは心臓のイメージだろう。全身から戻ってきた静脈血は、上下大静脈から右心房に流れ込み、右心房の血液は右心室から肺動脈を通って肺で酸素を取り込んだ後、左右の肺から各2 本ずつの肺静脈を経て左心房に入り、僧帽弁を通過して左心室に送られ、左心室の強い収縮力を受けて大動脈から全身に送り出される。心房→花房というちょっとした字句の入れ替えにより、俳句としての生命を獲得している。

  きさらぎのせせらぎのある光かな  越智友亮
 「きさらぎ」という言葉は「き」と「ら」があるだけにキラキラ感があって、音韻的な配慮を強いて人をある方向に向かわせる。

  はるのくれ鳥を言の葉として木は  越智友亮
 ひとつの木がびっしりと百千鳥状態になって、文字通り木が鳴いている感じになることがある。それは生態系の中で木にとっても悦びの謳歌であるに違いない。述部を割愛しているので、人語を超越した木の思いがあるのだろう。

  車窓よりあふれ出したるしやぼん玉 東 直子
 前句「春潮や朝一番の列車過ぐ」を手がかりにすれば「車窓」は列車の窓ということになるが、昨今子どもにそんな非常識なふるまいを許す親がいるのだろうか、などとつい余計なことを考えてしまう。そしてだからこそこの句の世界はよいのだ。

  とのぐもり無音の魚の運ばるる   東 直子
 「とのぐもり」は空一面に雲がたなびいてくもること。「無音の魚」がいささか不吉であるが、鰯雲でも鯖雲でもなくなった雲の状態だろうか。もちろん、上五で切れるという読みもあり得る。例えば魚料理。誰かが言った。魚料理とは魚の死体を食べることだと…。

  魚へんに何をつけても生きのびる  東 直子
 ところで魚料理はあまり漢字で書かないような気がする。マグロとかカツオとか…。これを鮪とか鰹とか書くとてきめんに泳ぎ出すのだ。

  桜島火を噴く饂飩茹であがる    佐川盟子
 シンクロニシティ俳句である。「レジスター開きて遠き雪崩かな 山田露結」とかこのジャンルは探せばいろいろあるような気がするが、そもそも二物衝撃とはシンクロニシティのことではなかったか。

  ほたるいか海の底へと地はつづき  佐川盟子
 「ブラタモリ」などのせいで地形への感心がにわかに高まっているのだが、この句、「ほたるいか」が地球のなりたちとかの話に出てくる古代生物の末裔のようで、じつにいい味を出している。

  産み月の靴すり減らす春日傘    佐川盟子
 臨月ともなれば安全のためにぺったんこな靴を履くのだろうが、それをさらにすり減らす妊婦の重量感がなんともよい。「春日傘」に、息を切らした感じが表れている。

  肉色のくれよんであゝ馬のかほ   村井康司
 一読「あゝ」の恍惚感がすばらしい。「肉色」の字面が語義を超えて官能的である。

  雪間より影を剥がして鴉発つ    笹木くろえ
 一点の黒いかたまりだったものが飛ぶ鴉とその影に分離するさまを詠んでいる。まるでカメラのCMのようで、現実以上の高細密度を感じる。

  如月の銀のドレスに走る皺     笹木くろえ
 越智友亮の句のところできさらぎのキラキラ感について触れたが、本句の濁音のたたみ掛け方にも味がある。ドレスに走る皺の下の肉のたるみまで見えるようである。

  振り向くなはだれ野が背に付いてくる 笹木くろえ
 なにかの神話のような「振り向くな」であるが、それによって引き起こされる災厄が「はだれ野が背に付いてくる」とは、べとべとでぐじょぐじょで妙に可笑しい。

  これが朴と指されし老樹芽吹きをり 谷 雅子
 葉が茂ってみれば一目瞭然の朴ではあるが、落葉樹なので芽吹きの頃には元々知ってなければ分からない。指さしてくれた人には「ほお」と答えたのだろうか。

  草に沖海に沖あり鷹渡る      寺澤一雄
 思い出すのは「恋人よ草の沖には草の鮫 小林恭二」だ。かれこれ三十年くらい前の句だろうか。青春まっただ中のような恭二句への時を超えた返句なのかも知れない一雄句からは、年齢相応の達観が感じられる。

  生者死者喪中はがきに名を書かれ  寺澤一雄
 言われてみればその通りである。この身も蓋もなさが一雄節である。

  寒垢離の人照明に当たりけり    寺澤一雄
 観光客向けにライトアップされているのだろうか。そうでないとしても、現代文明の中での宗教行事は時として妙なことになるのだろう。

2016年8月6日土曜日

じわじわと可笑しい機知

 嵯峨根鈴子『ラストシーン』(邑書林)、第二章は「話がある」。章ごとのキャラクターについては触れないことにする。たぶんない。機知に富んだ無季俳句がじわじわと可笑しい。
 
  むかひあふもやうのちがふ双子かな
 いうまでもなく「秋風や模様のちがふ皿二つ 原石鼎」を踏まえて「双子かあ…」とにやにやして下さいという句である。ほとんど旧仮名フェチのような「むかひあふもやうのちがふ」のひらがな表記が心地よい。無季俳句である。
 
  省略の著しきに雪は降る
 「白魚のさかなたること略しけり 中原道夫」とか「下半身省略されて案山子佇つ 大石雄鬼」とかいろいろ先行句は思い浮かぶが、掲句はなにを略したのかさえ略してしまったのが手柄だろう。きちんとしたものをもいい加減なものをも降る雪が覆ってゆく。

  螺子釘やはじめヒト科のちちとはは
 螺子釘なので下穴を小さく空けて螺子を切りながら固定するわけだが、掲句は性行為の途中で姿を変えられてしまったような可笑しさがある。学名「ヒト科」の片仮名表記に「ちちとはは」とひらがなをぶつけたところが、なんとも人を食っている。無季俳句である。

  みな帰りたる噴水に話がある
 章のタイトルナンバーである。話があるというよりは、「ちょ、ちょっと待ってよ」というか何かしら一心不乱の噴水の水の集団行動に意義を申し立てたい気持ちにかられたのだろう。噴水を眺めているうちにゲシュタルト崩壊を起こしてしまった趣がある。 
 
  残像を先にたたせて御器嚙
 これは以前、週刊俳句の落選展で触れた。「残像を先にたたせて」はもちろん科学的ではないのだが、かの昆虫に対して祖先から遺伝子で受けつがれてきたであろうおぞましさをみごとに捉えている。

2016年8月1日月曜日

七吟歌仙・梅雨の灯の巻

掲示板で巻いていた連句が満尾。

   梅雨の灯を点しさみしき遊びかな  月犬
    きれいななみだ色にでで虫   ゆかり
   板塀の節目いくつも連なりて    銀河
    朝顔ひらく煙草屋のまへ     媚庵
   三日月の湿りはバスの中にまで    恵
    幼き手よりころり団栗      ぐみ
ウ  地球儀に日本を見つけられずゐる  なな
    赤道越える光晴三千代       犬
   スコールがふたりの肌を隠しをり   り
    将来といふばなな齧らん      河
   放蕩をかさねてのちの啖呵売     庵
    寒月までの簡単な橋        恵
   着ぶくれて猫の名前は未だ決めず   み
    ぐるんと回す結婚指輪       な
   雛段に女雛のをらぬ奥座敷      犬
    冴返る夜を湯の沸いてをり     り
   花道をたどる血の池地獄まで     河
    等身大の張りぼての豚       庵
ナオ 穿き込んだ勝負パンツに棲む神よ   恵
    ラスベガスには昼も夜もなく    み
   粉塵を撒き散らしつつたどり着く   な
    西日に黒き廃坑のヤマ       犬
   方丈を蚊遣の煙のまつすぐに     り
    十手先読むロボットの知恵     河
   携帯の地震警報かしましく      庵
    指で辿りし地図の海岸       恵
   上下するのどぼとけにも涼新た    み
    虫らの声に呼応してゐる      な
   煌煌と月の光は鳥籠に        犬
    ワイヤフレームモデルの便器    り
ナウ ひた進む除雪車布を裁つごとく    河
    窓閉ざしたる赤煉瓦館       庵
   埠頭へと荷揚げされたるウヰスキー  恵
    涅槃西風背によろけずに立つ    み
   見上げれば額に触るる枝の花     な
    春のおほきな虹消えるまで     犬


起首:2016年 7月 5日(火)
満尾:2016年 8月 1日(月)
捌き:ゆかり