2016年12月21日水曜日

四吟歌仙夜汽車の巻評釈

   夜汽車いま枯野をはしる汽笛かな  媚庵

 蒸気機関車の時代を感じさせる発句である。夜景を枯野と断じているが、その時代の枯野であれば灯りひとつないから、じつは枯野なのか冬田なのかも分からないのではないか。はたして詠み手はどこにいるのか。

    窓の結露にポマードの跡    ゆかり

 脇は発句と時間・空間を共有して交わす挨拶であるが、ネット連句の常で実際に発句の詠み手と同じ場所にいる訳ではない。ひとつの読みとしてうたた寝の夢の中と断じた。夢は枯野をかけめぐる。汽笛で我に返ってみれば、窓にべったりとおのれの整髪料がついている。

   銀幕の男は銜へ煙草して      苑を

 そんな情けない序章から場面は変わり、銀幕の男は煙草を咥えている。

    パチンコ台に秋の涼しさ     ぐみ

 さらにカメラが引くと咥え煙草の男はパチンコをしている。銀幕の銀からパチンコ玉が導かれ、秋の涼しさにふさわしい硬質な雰囲気が感じられる。

   工場の石塀つづく月明り       庵

 夜が更けて、延々と続く工場の石塀を月明かりが照らしている。パチンコの喧噪から転じている。

    休む間もなく匂ふ木犀       り

 「工場」から「休む間もなく」が導かれているが、残業する労働者が出てきそうなところを裏切って「匂ふ木犀」としている。



ウ  走つても走つてもまた同じ場所    を

 「休む間もなく」から「走つても走つても」が導かれ、なにやら混迷を極めている様相である。

    はつかねずみを少女目で追ひ    み

 人間ならば混迷を極めている様相であるが、回し車に読み替えてさらに、それを見ているかたちで少女を登場させた。恋の呼び込みであったか。

   桟橋のヨット真っ赤に塗りかへて   庵

 恋の呼び込みに答えて若大将的青春性を描いたものか。

    還暦といふこそばゆきもの     り

 ところが恋を先送りにして、「真っ赤」から還暦とした。

   膝枕して耳掻きを待つてをり     を

 「こそばゆきもの」から「耳掻き」が導かれ、ここでめでたく恋の座となる。

    焦らされて知る山の頂       み

 「山の頂」は性的絶頂の喩だろう。「耳掻き」と「焦らされて」のつながり具合のむずむず感がなんとも言えない。

   普羅の句を九十九句暗唱す      庵

 山岳俳句の雄・前田普羅を持ち出し恋の座を離れている。なぜ九十九句なのかは、七音に収まるからという理由だけでなく意味ありげである。

    残りひとつに急かされもして    り

 俳句の世界で前句を受け止めようとするとどうしても楽屋落ちとなるのを避けられないため、意味ありげな「九十九」をもとに次句に委ねる遣句としている。

   靴脱げばひだり縞柄みぎは無地    を

 ちんばな靴下の柄によほど急かされた感がある。

    草間彌生の水玉に飽き       み

 「縞」「無地」の続きで「水玉」の「草間彌生」を出している。次が花の座の場面で、「草間彌生」という人名が効いている。

   駅前にサラ金ならぶ花の雲      庵

 日頃気にしていなかったものが、急に気になることがある。駅前に並ぶサラ金の店舗もそんなもののひとつである。前句の「飽き」とじつに微妙なところでつながっているような気がする。なんだか妙に覚醒された花の座である。

    春風に乗り逃げるのは今      り

 サラ金に手を出し、日常から逃げよう。そんな気分の春風だ。


ナオ 迷ひたる偽遍路かと鈴の音      み

 日常からの脱出にはいろいろあるが、春の季語で遍路を持ってきた。春の句は三句続けるルールだが、「草間彌生」は彌生ではあるが春なのか。始まりが悩ましいので、終わりもどちらにもとれるよう「偽遍路」としている。「偽」だし「迷ひたる」だし、作中主体はぜんぜん脱出できていなくてなかなか不憫である。

    生きものもゐる遺失物棚      を

 前句では錫杖だった「鈴の音」を猫と捉えたものか。遺失物棚に動く暖かいものがいる意外性が楽しい。

   傘といふ傘神宮の宙を舞へ      り

 釣った蛸みたいな別の生き物を出そうかとも思ったが、転じることにした。遺失物と言えば傘。傘といえばヤクルトスワローズの応援。東京中の遺失物の傘が神宮球場を埋め尽くし舞う。

    青嵐吹く午後の城跡        庵

 ヤクルトスワローズ的色彩を受けつぎ地続きに江戸城址を詠んでいる。

   カステラの名前の由来短夜に     み

 カステラはポルトガル伝来なので、殿様も食したものだろう。寝物語に名の由来など語ったものか。

    3時のあなたを知つてますか    を

 文明堂の有名なCMをもとにしつつ往年のワイドショー番組と組み合わせ、さらに口語体で意表をついている。

   逢ひみての後もころころしてゐたる  り

 思春期の記憶として、男子が「知る」には性的関係を結んだという意味もあるんだと力説していたのを、甘酸っぱさとともに思い出す。権中納言敦忠を本歌取りしている。

    母の形見の歌留多の絵札      庵

 前句から「母」が出てくるのが、なんだかすごい。現実は現実だ。

   漱石の髭のみ財布より抜かれ     み

 ある意味、母の財布ほど現実的なものはない訳だが、紙幣の肖像から髭のみ抜くという、俳諧的としかいいようがない付け句になっている。

    鏡磨くに袖を使ひて        を

 『吾輩は猫である』の登場人物の水島寒月や、実在の鏡子夫人が頭をよぎる。

   満月はまつたきままに剥落す     り

 月の座の前に水島寒月的なものを出され、いささか困った。袖を使って磨いたらそのまま剥落した、という景を思い浮かべた。

    アポロ計画はるかなる秋      庵

 地球に帰還後のぼろぼろになった船体は、まさに「剥落」だろう。
 


ナウ 東西の神話ひもとく文化の日     み

 アポロ計画の時代はまさに冷戦の時代だった。「東西」の付き具合がじつによい。

    はしばみ色に翳る山々       を

 はしばみ色は瞳の色。西洋の神の瞳の色に山々が翳りゆく。

   腹這ひの台車から撮る脚線美     り

 荘厳な山の風景から、活動写真の現場に転じる。

    五番街まで燭台はこぶ       庵

 この五番街はどこの五番街だろう。チャイナドレスが似合う妖しげな中華街かも知れない。

   外つ国の人のほどけて花吹雪     み

 燭台の灯に照らし出され、異国の人がほどけるさまが花吹雪と同一化する。

    かひやぐらとは見果てぬ夢か    を

 そんなさまはまるで見果てぬ夢さながらの蜃気楼のようではないか。
 

2016年12月15日木曜日

四吟歌仙 夜汽車の巻

掲示板で巻いていた連句が満尾。

   夜汽車いま枯野をはしる汽笛かな  媚庵
    窓の結露にポマードの跡    ゆかり
   銀幕の男は銜へ煙草して      苑を
    パチンコ台に秋の涼しさ     ぐみ
   工場の石塀つづく月明り       庵
    休む間もなく匂ふ木犀       り
ウ  走つても走つてもまた同じ場所    を
    はつかねずみを少女目で追ひ    み
   桟橋のヨット真っ赤に塗りかへて   庵
    還暦といふこそばゆきもの     り
   膝枕して耳掻きを待つてをり     を
    焦らされて知る山の頂       み
   普羅の句を九十九句暗唱す      庵
    残りひとつに急かされもして    り
   靴脱げばひだり縞柄みぎは無地    を
    草間彌生の水玉に飽き       み
   駅前にサラ金ならぶ花の雲      庵
    春風に乗り逃げるのは今      り
ナオ 迷ひたる偽遍路かと鈴の音      み
    生きものもゐる遺失物棚      を
   傘といふ傘神宮の宙を舞へ      り
    青嵐吹く午後の城跡        庵
   カステラの名前の由来短夜に     み
    3時のあなたを知つてますか    を
   逢ひみての後もころころしてゐたる  り
    母の形見の歌留多の絵札      庵
   漱石の髭のみ財布より抜かれ     み
    鏡磨くに袖を使ひて        を
   満月はまつたきままに剥落す     り
    アポロ計画はるかなる秋      庵
ナウ 東西の神話ひもとく文化の日     み
    はしばみ色に翳る山々       を
   腹這ひの台車から撮る脚線美     り
    五番街まで燭台はこぶ       庵
   外つ国の人のほどけて花吹雪     み
    かひやぐらとは見果てぬ夢か    を


起首:2016年11月21日(月)
満尾:2016年12月15日(木)
捌き:ゆかり

2016年12月14日水曜日

(13) 打率を上げる

 今回はいい句を作るのではなく駄目な句を排除することを、ロボットなりに考えたい。

 今のところ、季語だろうがただの名詞だろうが意味判断せずに対等に現れる衝突の可笑しさを狙っている訳だが、いくらなんでもこれは駄目だろうという句ができることがある。

  初雪の雨の鏡を見つめけり   はいだんくん
  しづかなる小春の夜に遅れをり


 どちらもだいたい同じ理由で駄目なのだが、「初雪の雨」も「小春の夜」も衝突を面白がる以前にあり得ない。天気に違う天気をぶつけてはいけないし、明らかに昼を詠んだ「小春」に「夜」をぶつけてはいけないのだ。

 どうしたものか。大抵の歳時記には時候、天文、地理、生活、行事、動物、植物といったカテゴリーがあるが、大ざっぱすぎて役に立たない。「小春」は時候だが、時候だというだけでは「小春の夜」を排除できない。「冬の星」は天文だが、明らかに夜だ。雨の日に「山眠る」とは詠まないだろう。季語に限らずある種の語は、裏情報として天気や時間帯を明確に特定しているのだ。であれば、timeとかweatherとかの属性を季語や名詞に持たせて、その特定のものに対しては「昼」とか「雨」とかあらかじめ設定するしかないだろう。

 連句では自他場という考え方がある。前句が自分を詠んだものなら付句は他人を詠む。前句が他人を詠んだものなら付句は場所を詠む。このようにずらして付けることにより衝突を避けるという知恵だが、それをここでも応用しよう。天気を特定する語が出たら、もう天気の語は出さない。時間帯を特定する語が出たらもう時間帯を特定する語を出さない。季語と名詞間だけでなく、名詞間でもそれができれば、極端な話、「昼の夜」みたいなものは出現しなくなり、ぐんと打率は向上するはずだ。

 また、そのような属性を保持していれば、発展型として時刻や天気を外部から取得することにより、まさに今の時刻や天気に対して即吟することができるのではないか。なんだか無駄にすごい。

(『俳壇』2017年1月号(本阿弥書店)初出)