2017年1月25日水曜日

どんどん伸びる犬のひも

 田島健一『ただならぬぽ』(ふらんす堂)の続き。これまでいくつかの特徴を見てきたが、今回はそれ以外も排除しないあっけらかんさについて。

  けむりから京都うまれし桜かな

 この句集には、旧態依然のまったく普通の俳句も排除せず含まれている。掲句は、いくつかの戦乱を経ていま眼前の霞に包まれる京都を詠んで揺るぎない。

  西瓜切る西瓜の上の人影も

 なにかのパロディーではないかとさえ思わせる、手垢にまみれた俳句らしい俳句である。意外なことに『ただならぬぽ』には、このような句も含まれている。

  海みつめ蜜豆みつめ眼が原爆
  戦争やはたらく蛇は笛のよう
  少女基礎的電気通信役務や雪


 「誰か空を」の章に顕著だが、この句集では「ヒトラー」「軍艦」「戦争」「原子炉」などの語が少なからず現れる。掲句は「誰か空を」の章以外から採ったものだが、「海みつめ蜜豆みつめ眼が原爆」「戦争やはたらく蛇は笛のよう」などの句に見られる「原爆」や「戦争」から、作者の社会的な見解は伺い知ることはできない。これらは他のほとんどの句と同様、語と語の衝突に意外性を見出し、その衝突から立ちのぼる意味を作者自身が、骨董でも賞翫するようにして句にまとめる作り方をしているからである。そのような作り方においては、「原爆」も「戦争」もまったく異種の「基礎的電気通信役務」と同じで、素材としての変わった言葉でしかない。ここで、「原爆」や「戦争」を排除するやり方もあろうが、田島健一は敢えてあっけらかんと、そうしない。
 以前このブログで鳥居真里子『月の茗荷』について触れたとき、「昨今、どんどん伸びる犬のひもがおおいに普及していますが、鳥居真里子のことばの操り方は、喩えて言うならその犬のひものような感じです。長いひもの先で、ことばたちにやりたいようにやらせているようです」と書いたが、田島健一も飼っている犬が違うだけで、長いひもであることは同じなのだ。

 『ただならぬぽ』、まだまだ名残惜しいが、この辺で筆を置くこととする。

2017年1月24日火曜日

臥薪嘗胆

 田島健一『ただならぬぽ』(ふらんす堂)の続きで、句型とか口語とかについて。
 句型についていうと、田島健一の句は有季定型の中のかなり自由な立場に位置するということになるだろう。季語についてはざっくり夏なら夏で、その中での初夏、仲夏、晩夏の前後などほとんど気にしていないし、五七五は多くの場合、自在に句またがりされ、それでいて全体で十七音のところに着地し踏みとどまるものが多い。そんな中、口語の句がいくつかある。

  鶴が見たいぞ泥になるまで人間は
  いまも祈るよ音楽の枯野を牛
  流氷動画わたしの言葉ではないの
  菜の花はこのまま出来事になるよ
  戦争したがるド派手なサマーセーターだわ
  クラスメイトは狐火よ信じる鈴


 先に田島健一の句はぜんぜん孤高じゃないと書いたが、そう感じさせる要因のひとつは、これらの句が持つ舌っ足らずな人なつっこさのせいだろう。句集という単位でまとめて田島健一の世界に接する場合、これらは持ち味として賞味されるだろうが、伝統的な句会の場でこれらの句が一句一句の単位で匿名で出されたら、連衆はどう読んだのだろう。一句として立つことを前提として、「甘い」とか「ゆるい」とか酷評を受け続けてきた歴史があったのではないだろうか。

  ただならぬ海月ぽ光追い抜くぽ

 そんななか臥薪嘗胆、田島健一がたどり着いた境地が「ぽ」だったのではないか。そんな気がしてならない。

2017年1月23日月曜日

颱風の眼

 田島健一『ただならぬぽ』(ふらんす堂)の続きで、「見る」とか「眼」への固執について。
 句集全体を通じ「見る」「見える」「見つめる」「ながめる」、あるいはその器官としての「眼」「まなこ」を詠み込んだ句がじつにおびただしい。一般論でいえば、見ているから対象を詠めるのであって「見る」はわざわざ言う必要がなく、そのぶん別のことを表現しましょう、なんて話になりがちなものだが、田島健一の場合はどうか。菅官房長官のように「その批判にはあたらない」「まったく問題ない」と言えるのか。何句か見てみよう。

  玉葱を切るいにしえを直接見る

 玉葱や包丁や俎を「見る」と詠んでいるのであればそれは当然不要であるが、この句で見ると言っているのは「いにしえ」である。「いにしえ」が眼前のものでない以上、まったく問題ない。母にせがんで玉葱を切らせてもらった日、飯盒炊爨の河原、恋人と過ごしたアパートの一室、あるいは小説の一場面。そんな自分の/他人のさまざまないにしえが、玉葱の強烈な匂いとともにまざまざとよみがえる、そんな脳への働きかけのありようを「直接」と言っているのだ。

  枇杷無言雨無言すべてが見える

 目に見えるものとして「枇杷」と「雨」のふたつを挙げ、ことさらに「無言」のリフレインによって聴覚情報がないと言っている。しかもそのうち「枇杷」はもともと音を発するものではない。そこで切れがあり、「すべてが見える」と言っているのだが、この「すべて」が「枇杷」と「雨」のふたつでないことはあきらかである。ここで「見える」と言っているのは、目に見えることではなく、五感を超えて襲ってくる既視感ともいうべきものではなかったか。あるいは「永遠」ともいうべきものではなかったか。

  満月に眼のあり小学校の石

 満月に眼があるなら、満月の光の及ぶところはすべて遮るものなく見えるはずだ。目の前の小学校の校庭の石のような小さいものであっても、はるか彼方の月から見えるはずだ、という科学者のような論理的思考を、俳句の方法で断定している。この眼には全能感がある。

  颱風の眼にいて猫を裏がえす

 困ったことだ。書かれている通りの句のはずなのに、この句集の中に置かれると、「颱風の眼」というあまねく知られた語でさえ、特別な意味を持っているのではないかと思い始めてしまう読者の自分がいる。なんということだ。

2017年1月22日日曜日

なにもない雪のみなみ

 田島健一『ただならぬぽ』(ふらんす堂)の続きで、「ひかり」とか「かがやき」への固執について。
 いったいどれだけ「ひかり」とか「かがやき」の句を句集に入れたのだろう。直接「ひかり」ということばで詠んだ句だけでなく、「虹」とか「晴」とかも含めると相当な数に上る(もちろんたかだか有限個なので数えれば分かるのだが、そんな無粋なことはしない)。さらに「雪」、「白鳥」「鶴」などの白い鳥。方角も印象に残るのは「南」ばかりである(実際に他の方角は一句も句集に入れてないのかもしれないが、確かめるような無粋なことはしない)。

  いなびかり包装の達人といる
  白鳥定食いつまでも聲かがやくよ
  なにもない雪のみなみへつれてゆく


 適当に三句ピックアップしてみた。別の句を取り上げれば別の印象になるのかも知れないが、スピリチュアル俳句になりがちなひかりもの系において、田島健一の句にはあまりその傾向がない。まず孤高性がまったくない。誰かといたり、誰かの声が聞こえたり、誰かを連れて行ったり…。それでいて「包装の達人」からはプレゼントの金銀のシールや花束を包むセロファンなどが想起され、よくぞそんな変な達人といることを句に詠んだものだと思うし、二句目であれば白鳥型遊覧船が運行しているような湖畔のレストランのメニューらしき「白鳥定食」という変なものをよくぞ句にしたものだと思う。そのようにして、気がつくと無意味のディテールの快楽のような世界に読者は連れて行かれ、そしてさらにディテールすらない無意味に連れさられる。それが「なにもない雪のみなみ」という地点だ。

 参考までに橋本多佳子の光の句を紹介しておく。両方よむと田島健一の光の句がどれほど無意味で、それゆえたまらなくいとおしいか気づくはずだ。

2017年1月21日土曜日

周到さを感じさせない無意味

 田島健一『ただならぬぽ』(ふらんす堂)の続き。ひとつ前の記事で「ライトでポップ」と書いた。まったくこの軽さはなんなのだろう。感情からも知性からも自由で、ただそこに無意味なものがなぜだかかっこよく存在する感じ。表紙についても触れようか。シンプルな装丁は、しかしながらひかりの加減で海月のイラストが見え隠れするようになっていて、横書きで配置されたタイトルのフォントがまたポップでありながら、選び抜かれた字体となっている。聞けば「モトヤアポロ」というフォントらしい。句集全体万事がそんな感じで、周到さを感じさせないようにあしらわれている。





 この句集、読んでいるといくつか気がつくことがある。「ひかり」とか「かがやき」への固執。「眼」とか「見る」への固執。特定の季語や語彙への固執。ことばあそびへの固執。かといってそれ以外も排除しないあっけらかんさ。そんなものの偶然で奇跡的な複合体なのではないか。

2017年1月20日金曜日

ことばあそびについて

 田島健一『ただならぬぽ』(ふらんす堂)の続きで、ことばあそびについて。この句集には、ことばあそびからなる句が多々含まれ、句集全体をライトでポップに印象づけることに貢献している。

  海ぞぞぞ水着ひかがみみなみかぜ
 
 「ぞぞぞ」に呆然とする。なんということだ。そして「水着」「ひかがみ」「みなみかぜ」と頭韻を母音iで揃え、「海」も含め全体では「み」を五個ぶち込んで調べを作る。助詞は何ひとつない。語調を整えるというよりは、語調を頼りに予想外の語彙を呼び込むことの快楽があるのではないか。ここでは「ひかがみ」。語調を頼りにでもしなければ、海で水着の人物を詠むのにわざわざ膝の後ろのくぼんでいるところなんて部位は選ばない。「ぞぞぞ」はオノマトペというよりは、「かが」「みみ」という訥弁的な連なりへの呼び込みとして働いているようである。

  ただならぬ海月ぽ光追い抜くぽ

 このような句型で間投詞を選択する際、「よ」とか「ぞ」とか「や」とか迷うのが常であるが、結局どこかで見たような句に落ち着き間投詞としての驚きや詠嘆は薄れてしまう。芭蕉は「切れ字に用ふるときは四十八字皆切れ字なり」と言った。間投詞だって同じではないかと田島健一が考えたかどうかは定かではないが、結果としてただならぬ仕上がりになっている。くらげの表記には「水母」と「海月」があるが、光を追い抜くのであれば断然「海月」だろう。

2017年1月19日木曜日

章のこと

 田島健一『ただならぬぽ』(ふらんす堂)の続きで、章のことを考えてみたい。先に書いたようにこの句集はやたら細分化されている。そこに積極的な意図はあるのか、ないのか。

 「記録しんじつ」と題された章は、次の句からなる。
 
  翡翠の記録しんじつ詩のながさ
  端居してかがやく知恵の杭になる
  玉葱を切るいにしえを直接見る
  口笛のきれいな薔薇の国あるく
  枇杷無言雨無言すべてが見える


 一句目、三句目、五句目から感じることは、言語で書かれているのに言語を自己否定しているような趣である。「詩のながさ」では追いつかず、「直接見る」こと、「無言」なのに「すべてが見える」こと。そして既成の価値を笑い飛ばすように脱力的なひらがなの「しんじつ」「かがやく」「いにしえ」「きれい」「すべて」。どうも章としてこれらの句群は効力を発揮しているようである。

 適当に開く。「揺れている」と題された章は、次の句からなる。

  昼寝より覚めて帆のない船はこぶ
  戦争やはたらく蛇は笛のよう
  虎が蠅みつめる念力でござる
  出航や脳に白夜の大樹あり
  明滅や夕立を少女は絶対
  揺れている硝子の青田道あなた
  紫陽花を仕立てる針と糸のこと
  ひけらかす死のかりそめを明るい雨季
  薔薇を見るあなたが薔薇でない幸せ


 ひとつの句の中で提示されたイメージは、別の句に乱反射して影響を及ぼす。そういう意味では、まさに題のように「揺れている」。二句目の「はたらく」は一句目の「帆のない船はこぶ」の影響を受け三句目の「虎」は二句目の「戦争」の影響を受け四句目は全体が一句目の「帆のない船」の影響を受け五句目の「明滅」は四句目の「白夜」の影響を受け六句目の「あなた」は五句目の「少女」の影響を受け七句目の「仕立てる針と糸」は一句目の「帆」や五句目の「少女」の影響を受け八句目の「死」は二句目の「戦争」の影響を受け「雨季」は五句目の「夕立」の影響を受け九句目の「あなた」は六句目の「あなた」であり、そのようにして章全体が「揺れている」。

2017年1月18日水曜日

翡翠

田島健一『ただならぬぽ』(ふらんす堂)の続き。

  翡翠の記録しんじつ詩のながさ

 巻頭の一句である。名詞だけを拾うと翡翠・記録・しんじつ・詩・ながさ。これらの名詞にどういう関係があるのだろう。記憶であれば翡翠にもあろうが記憶ではない。記録なのだ。翡翠が記録するのか、それとも人間が翡翠を記録した日記とか写真とかなのか。冒頭から読者を迷宮に引きずり込む謎の語の結合である。そして漢語をひらがな表記しなんとも人を食った「しんじつ」。これは助詞を省略して「翡翠の記録」の述語になっているのか、あるいは「詩のながさ」に副詞的にかかっているのか。そして「詩のながさ」とは? これらのすべてが読者に委ねられ、田島健一はなにも言っていない。俳句として並べられたランダムな語の連結は自ずと意味を求めて走り出す。翡翠の刹那刹那の輝きに比べると、人間の伝達手段のなんと間抜けなことよ。意味ではなくそんな像をうかべる。翡翠といえば、霊感に満ちたこの句もこの際思い出しておこう。

  父の恋翡翠飛んで母の恋 仙田洋子

2017年1月17日火曜日

同じ長さの俳句をランダムにつなぎ合わせた、めくるめく世界

 しばらく待望の田島健一第一句集『ただならぬぽ』(ふらんす堂)について書く。
(著者からご恵送頂きました。ありがとうございます。)

 本の厚さからすると三百句くらい収録かと思われるが、章立てが非常に細かく、四十七章に及ぶ。俳句の読者だけを想定した章立てではないのだろう。題のついた一編の現代詩に相当するものが章で、詩の一行一行にあたるものがそれぞれの句であるようでもあり、そうでないようでもあり、一句一句の作風、章内の並べ方はひとこと自在に尽きる。
 思い当たったのはビートルズ『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の中の一曲、ジョン・レノンが書いた「ビーイング・フォー・ザ・ベネフィット・オブ・ミスター・カイト」だ。サーカスを題材にした歌詞の中、「それにもちろん/馬のヘンリーがワルツを踊ります」(片岡義男訳)とともに曲調が一変、三拍子に転じるのだが、その音響がカラフルを極める(とりわけ1:53以降の後奏)。プロデューサーのジョージ・マーティンは、数々の音色の録音された磁気テープを同じ長さに切ってランダムにつなぎ合わせたというが、田島健一のこの句集は、たまらなくそれを思い出させる。『ただならぬぽ』とは、同じ長さの俳句をランダムにつなぎ合わせた、めくるめく世界なのだ。
 なお、石寒太氏の序文は川端茅舎の句集に寄せた虚子の序文(写真)を踏まえている。


2017年1月16日月曜日

永遠の転校生

 岡田由季『犬の眉』(現代俳句協会)の最後は、「超軽量」。
 
  すこし先の約束をして猫じやらし
 約束の中身については何も触れていない。ただ、まったく平生と変わらぬかのような季語と取り合わせる。だから却って人生の転機となる約束なのではないかと想像がふくらむ。
 
  枯芝に思ふぞんぶん菓子こぼす
 句集全体を通して句の幅としても作中主体の生活態度としても非常に抑制が効いていて、おもいっきり羽目をはずして「やったぜ」という感じのものはほとんど見当たらない。そんな中での「思ふぞんぶん」が「菓子こぼす」であるのがひどく微笑ましい。

  追ふ蝶と追はるる蝶の入れ替はる
  急がぬ日急ぐ毛虫を見てゐたり

 句集全体を通して表面的な作句技法に走る傾向はほとんど感じられないし、むしろそういうことを感じさせないように周到に配慮しているのではないかとも思うのだが、そんな中でのリフレインの二句。

  ひとりだけ言葉の違ふ茄子の紺
 あるいは東京から関西に移り住んだ境遇を籠の中の茄子に託しているのかも知れないが、そんな読みはしない方がいいだろう。これまで見てきたように岡田由季の句は、その場所に初めて立ったような奇妙なずれや、小学生が初めて感じたような違和感を打ち出すことによって、岡田由季ならではの飄逸さに充ち満ちている。たとえていうなら、岡田由季とは永遠の転校生なのだ。

2017年1月15日日曜日

極端に単純化された不動の犬

 岡田由季『犬の眉』(現代俳句協会)の続きで、「ネコ科」。
 
  隣り合ふ家の朝顔似てゐたり
 二つの絵が左右にあって「この絵には違うところが何ヶ所あるでしょう」というのがあるが、岡田由季の句の世界も、よく知っているものがなにか違うものに感じられ始めたり、逆に違うものだったはずのものが同じに見え始めたりするようなところがある。掲句、「そりゃ朝顔なんだから似てるでしょう」と片付けられない佇まいを感じる。
 
  天高し待つときの犬三角に
 私自身は犬を飼ったことがないのだが、これは「おすわり」の姿勢だろう。広がる秋空の下、「三角」とまで極端に単純化された不動の犬の従順さ、飼い主への信頼が胸を打つ。

  ギリシャ語をふたつ覚えて秋の航
 「はい」と「いいえ」だろうかとか、「こんにちは」と「ありがとう」だろうかとか、読者の方で想像がふくらむように仕組まれた「ふたつ」がいい。

  川沿ひは歌はずにゆく聖歌隊
 なんだか現金な聖歌隊である。

2017年1月14日土曜日

(14) 派手なことをやる

 「や」「かな」「けり」などの切れ字を基本とした正統派の句型の中で、句型レベルでなにか派手なことをやろうと考えたとき、まず思い浮かぶのはリフレインではないだろうか。うまく行けば、華麗な調べとともに対象を詠み上げることができる。

 リフレインの名手としては、後藤比奈夫、鷹羽狩行、若い世代では山田露結あたりの名を上げることができる。中でも後藤比奈夫は最初期からリフレインのオンパレードで、ライフワークのようにしてその技法にかけていたことが分かる。何句か、雛形として句型をロボットに取り込む観点から取り上げたい。

  人の世に翳ある限り花に翳    比奈夫

 「翳」という名詞が二回繰り返される。リフレインとしてはシンプルなものだろう。

  老に二時睡蓮に二時来てをりぬ  比奈夫

 単語レベルでは「二時」という名詞が二回繰り返されているが、それだけでなく「老に二時」「睡蓮に二時」という対句表現でゆったりとした調べを獲得している。

  滝道といひて坂道のみならず   比奈夫

 「滝+道」「坂+道」という同じ構造の複合名詞の一部を重ねリフレインとしている。

  蒐めたるフラスコにバラ展の薔薇 比奈夫

 「バラ+展」という複合名詞に、そのかたわれの名詞を重ねリフレインとしている。

  深秋といふは心の深むこと    比奈夫

 音読する限りリフレインとはいえないが、音読みの「深秋」に対し、訓読みの「深む」を重ね、字面としてのリフレインを実現している。日本語の漢字ならではの表現だろう。

 ひとことに「リフレイン」と言っても、名手の技法は多彩で奥が深い。ロボットはいつの日かその境地に達することができるのだろうか、と思うはいだんくんなのであった。

  これは夢これはテレビの冬日かな はいだんくん

(『俳壇』2017年2月号(本阿弥書店)初出)

奇妙なずれの可笑しさ

 岡田由季『犬の眉』(現代俳句協会)の続きで、「好きな鏡」。
 
  菜の花の奥へと家族旅行かな
 日常会話であれば旅行の行き先は鴨川であったり館山であったりだろう。そこへいきなり「菜の花の奥」と置く。岡田由季の句では、しばしば解決すべき因果のレイヤーがずれていてなんとも飄逸な味わいが感じられる。

  拾はれて七日目の亀そつと鳴く
 「亀鳴く」は、歳時記を開けば「実際には亀が鳴くことはなく、情緒的な季語」とされている。そこまでは周知のこととして俳人は腕を競うわけだが、岡田由季は何かと取り合わせるでもなくしれっと「拾はれて七日目の亀」などと嘘のディテールを付け加える。そうとう可笑しい。

  帰国して朝顔市に紛れをり
 まるで犯罪者が潜伏しているようなものいいである。

  百号の絵に夏痩せの影映る
 絵画を鑑賞すべき場所で、絵画ではなくその場所にいる自分を俯瞰して詠んでいる。「マスクして大広告の下にゐる」という句もあるが、「百号の絵」も「大広告」も人間界の意味情報としての機能を失い、宇宙人としてそこに佇む趣となっている。

  要点をまとめて祈る初詣
 前の章に「喪失部分ありて土偶の涼しかり」という句もあったが、「要点」とか「喪失部分」とか、詩的とは言えない実務的な語彙が岡田由季の句の世界にはしばしば入り込んでいて、奇妙なずれが絶妙に可笑しい。

2017年1月13日金曜日

7番センター岡田

 岡田由季『犬の眉』(現代俳句協会)の続きで、「アフリカ」。
 
  大人のみ部屋に残れる三日かな
 正月に親戚が集まると、いとこ同士の子どもばかりで外へ出て行って遊びに興じたりすることがある。それを回想するのではなく、小学生の少女・岡田由季として詠む。前章の「悴んでドッジボールに生き残る」も、あるいは「目覚めては金魚の居場所確かむる」も、小学生の少女・岡田由季が息づいている。

  犬笛の音域に垂れ凌霄花
 凌霄花は校庭のネットなどかなり高いところに垂れているのを見かけるが、それを「犬笛の音域に垂れ」と詠めるのは愛犬家の岡田由季ならではだろう。犬と言えば「敷物のやうな犬ゐる海の家」も楽しい。
 
  秋蝶もゐてセンターの守備範囲
 野球の句では他に「どくだみや一塁ベース踏みなほす」「かなかなや攻守の選手すれ違ふ」「ブルペンの音聞こえ来るクロッカス」「敵側のスタンドにゐてかき氷」があり、どの句もじつにリアリティがある。もしかすると、少女・岡田由季は男子に混じって実際にグラウンドに立っていたのではないだろうか。だとすると句集の最初の章が「一塁ベース」だったのは深い必然性があってのことだったのだ。

2017年1月12日木曜日

あるがままにそこにある感じ

 岡田由季『犬の眉』(現代俳句協会)の続きで、「城へ」。
 
  卒業を小部屋に待つてゐたるなり
  釣堀の通路家鴨と歩きけり
  日の溜まる時代祭の支度部屋
  かなかなや攻守の選手すれ違ふ

  岡田由季の句には、華やかな舞台へ出る前とか、場面交代の奇妙な間合いを詠んだものが少なからずあるような気がする。それも、不安だとか感情が高まるとかの描写ではなく、ただそういう間合いがあるという提示。

  しやぼんだま見送りてから次を吹く
  花水木荷物と別に来る手紙

  これらも奇妙な間合いの仲間かも知れない。

  春日傘立つて見てゐるイルカショー
  百日紅モデルハウスの中二階
  自宅兼事務所のまはり田水沸く

  だからなんだ、ということはほとんど言っていないのに、この場所の提示の面白さは何なんだろう。

  だんだんと案山子の力抜けてくる
  霧の這ふ卓球台の上と下

  なにか、見えるものすべてが力が抜けて、あるがままにそこにある感じ。いいなあ。

2017年1月11日水曜日

七吟歌仙 音楽の巻

掲示板で巻いていた連句が満尾。


   音楽のゆふべ山茶花紅きかな      銀河
    ピアノのやうに眠る山の端     ゆかり
   えんえんと線を引く人そばに来て     七
    ロールシャッハのカード十枚     月犬
   ゆるやかに月浮いてゐる水たまり     恵
    秋刀魚積みたる鉄の甲板       ぐみ
ウ  秋冷の神戸に異人二三人        媚庵
    形見にくれた桃色写真         河
   うつちやりのゆつくり落ちる砂かぶり   り
    身は捨てるもの穴は掘るもの      七
   燐寸擦る東北訛りの男かも        犬
    4Bで描く山に棲む鳥         恵
   来る年の息づかひかと波の音       み
    アトランティスの記憶かすかに     庵
   煩悩をこぼした辺り銀化せる       河
    朝には朝の囀りのあり         り
   お喋りな花飼育する管理人        七
    朧に沈む原発の島           犬
ナオ 海溝の底に生まれて光る虫        恵
    釈迦の御手より糸垂らされて      み
   壁登る動画に見入る美少年        庵
    世の定めなり天守炎上         河
   我々の行き着く先の直方体        り
    引き返すには狭すぎる穴        七
   橇の鈴いま高らかに鳴り渡る       犬
    ハスキー犬の尻尾に打たれ       恵
   穂先より揺れて芒野大波に        み
    ゴッドハンドがつかむ熟れ柿      庵
   ことさらの知恵より硬き石の月      河
    水とけむりと異種婚姻譚        り
ナウ 印画紙を粒子の粗き雪時雨        七
    命と一字旗に染め抜く         犬
   竿竹と重なつてゐる水平線        恵
    天上天下麗うららに          み
   見はるかす視野の限りを花の空      庵
    光かかへてかのしやぼん玉       河

起首:2016年12月22日(木)
満尾:2017年 1月10日(火)
捌き:ゆかり

2017年1月10日火曜日

「あるある感」とはちょっと違う微妙な感じ

 しばらく岡田由季『犬の眉』(現代俳句協会)を読むことにする。著者から2014年夏にご恵送頂いたもので、じつに申し訳ない限りである。内容は六章に分かれほぼ経年順とのこと。章ごとに見て行きたい。まずは「一塁ベース」。章のタイトルをどの句から採ったか、みたいなことは書かないことにしよう。

  美術館上へ上へとゆく晩夏
  朝礼の一人上向く今日の秋
  新生児室の匂ひや星祭
  十月の家庭裁判所の小部屋

 章の中の見開きに並んだ四句である。たまたま開いたページがそうというわけでもなく、岡田由季の句は総じて状況の提示が簡潔にして鮮やかである。なんでこんなにうまく切り取れるんだろう。そんな中で三句目は異質だ。いわゆる二物衝撃の作りとなっていて、新生児室が中心で星祭を取り合わせたようにも、星祭が中心でそこに「新生児室の匂ひ」を感じたようにも取れる。新しい生命と星祭りをめぐる伝説との取り合わせの中で、読者の想像は自在に広がる。

  自動ドアひらくたび散る熱帯魚
  遠足の別々にゐる双子かな

 日常のなかの曰く言い難い違和感を印象深く句に仕立てている。「あるある感」とはちょっと違う微妙な感じ。

  父と子が母のこと言ふプールかな
  人日やどちらか眠るまで話す

 血のかよった人間関係というか、了解しあえる機微というか、そういうものがそのまま句に定着されている。この句の世界、そうとう好きだ。

2017年1月9日月曜日

2017年1月8日日曜日

八年の歳月

 広渡敬雄『間取図』(角川書店)の続きで、平成二十五年。

  餅花や障子明りに赤ん坊
 「障子明り」になんとも言えぬ情感がある。「赤ん坊の眉に機嫌や桃の花」もあるが、これらはいわゆる「お孫ちゃん俳句」なのだろうか。赤ん坊と言えば、第一句集『遠賀川』には「赤ん坊を重(おもし)としたり花筵」というなんとも諧謔に満ちた句があったのが懐かしい。

 続いて平成二十六年。

  はるいちばん等圧線の美しき
 風が強い日は等圧線はぎゅっと混み合うのであったか。理科の授業ではないので鑑賞にそんなことは知る必要はないのだが、いかに風が強いからと言って通常死者が出るようなものではない春一番だからこそののんきさで等圧線のありようを詠んでいる。そんな気分が「はるいちばん」というひらがな表記からも感じられる。ところで、広渡敬雄の句にはあまり学術用語は多用されない気がする(「銀河系」とか「冥王星」とか、あるにはあるが…)。そんな中で掲句の「等圧線」のほか、第二句集『ライカ』にあった「山眠る等高線を緩めつつ」の「等高線」が印象に残る。

  漆黒の切符の裏や三鬼の忌
 近年の切符の裏には、自動改札用の磁気がコーティングされている。よくみかけるものだが、俳句に詠んだものはちょっと思い出せず、「三鬼の忌」との取り合わせも思いがけずすごい。ただの切符なのに、とんでもない闇を抱えてしまったような気がする。

  帽子屋に帽取棒や春深し
 壁一面に陳列してある帽子を指さして「あれ、ちょっとサイズみたいんだけど」とか言って、売り子がひょいと棒で取ってくれたさまを即吟したのだろう。たぶん正式名称なんかじゃない「帽取棒」の音の響きの間抜けな感じが効いている。

  秋茄子の影もむらさき籠の中
 一瞬なにを詠んでいるんだか分からなくなり、十秒くらい考えて了解する。そのくらいの機知が好きだ。

  息吸ふは吐くよりさびし渡り鳥
 ここまで読んできた中でいちばん印象に残った句である。息を吐くことはこれまで生きてきたことの延長で、息を吸うことはこれからの数十秒を生きるための未来へ続く行為である。それがさびしいという。なんという寂寥感だろう。「渡り鳥」が効いている。

 続いて平成二十七年。

  大縄跳び初富士を入れ海を入れ
 なんともめでたい句である。平成二十三年のところで「雪吊のなかにいつもの山があり」という句もあったが、縄を見ると条件反射的に句が浮かぶように自身を訓練したということなのかも知れない。
 
 続いて平成二十八年。
 
  白鳥の背に白鳥の頸の影
 地ではなく白鳥自身の背に頸の影を認めたというちょっとした発見が、俳人にスイッチを入れる。景としてはどうということもないものだが、リフレインを駆使して技巧的な句ができあがる。作句がさがのようである。
 
  箸置きに箸休ませて春の月
 句集全体の挙句である。「箸」のリフレインだけでなく、下五も含めha音で頭韻を揃え、安らかに調子を整えている。句集全体を見通すと、八年の歳月は句をそぎ落とし、淡白さを増していったように思われる。掲句は箸を休めただけで、残りの人生まだまだ俳句を作り句集を出すという宣言だろう。次の句集ではどんな句を読ませてくれるのか楽しみである。

2017年1月7日土曜日

編年体なればこその繰り返し

 広渡敬雄『間取図』(角川書店)の続きで、平成二十四年。
 広渡敬雄はこの年に角川俳句賞を受賞された。「角川俳句賞受賞作品五十句」なんて前書きがあったらどうしようと思ったが、さすがにそんな無粋なことにはならず、淡々と編年体は続く。編年体なればこその、始まりと終わりの対とか、同じ視点の繰り返しなどが読者である私の側に意識され始め興味はふくらむ。花鳥諷詠とはそういうものだ。

  呼笛の紐のくれなゐ猟期果つ
 平成二十三年の句で「おがくづに雪の匂ひや猟期来る」があり(またしても「匂ひ」だ)、それに呼応している。

  リラ冷の大使館より公用車
 平成二十三年の句で「片蔭にゐる公用車地鎮祭」がある。思えば公用車というのは至るところに出没するものだ。

  兜虫ふるさとすでに詩のごとし
 平成二十三年の句で「天牛や詩人のかほとなりて鳴く」がある。奇しくも「詩」は二句とも昆虫と取り合わされる。じつに興味深い。
 
  包帯の白の粗さや蝶の昼
 包帯の白を言うのに「粗さ」といい、蝶と取り合わせている。この蝶は紋白蝶だろうか。まさにそんな白が浮かぶ。

2017年1月6日金曜日

自分史の中の起伏

 広渡敬雄『間取図』(角川書店)の続きで、平成二十三年。

  婿となる青年と酌む年の酒
 句集を編年体でまとめると、世の中の動きとシンクロしたり自分史の中の起伏が入り込んだりする。その年は、広渡敬雄にとってはこのように始まった。さらに読み進めると、ごく簡素な前書きにより平成二十三年は東日本大震災があった年で、ご長女が結婚された年でもあったことが知れる。

  探梅やぽつんと西の空開いて
  料峭や山の容に笹吹かれ

 切れ字「や」を二句引いたのだが、俳諧的な観点からは二句とも句尾がオープンでどうにも立句らしくない。立句とは異なる現代俳句としての玄妙で豊穣な味わいとして捉えるべきなのだろう。たまたま「や」の句を挙げたが、広渡敬雄の句の世界は全体に、季語と季語以外が意味の切れを持つ重層的な作りを避け、平明で分かりやすい持ち味となっている。
 
  引くときの砂の素顔や土用波
 土用波は寄せるときは高く険しい。しかし引くときは、じつはいつもと同じではないか、という句意だろう。「砂の素顔」というあまり見かけない措辞が効いている。

  雪吊のなかにいつもの山があり
 松に昨日まではなかった雪吊が張られたのだろう。三角形をなす縄が目に新しいが、よく見ると中にいつもの山が見える、という三角形が入れ子になったような図形的把握が楽しい。

2017年1月5日木曜日

原風景のむせかえるような匂い

 広渡敬雄『間取図』(角川書店)の続きで、平成二十二年。

  凍滝の中も吹雪いてゐたりけり
 じつに凄絶な光景である。まことに万物は季重なりである。
 
  斑雪野や杉の匂ひの濃くなりぬ
  魚籠動く岩魚の匂ひほとばしり
  有刺鉄線巻いて運ぶや草いきれ
  はるかより山羊の匂ひや秋の空
  飾売藁の匂ひの起ちあがり

 臭覚の句を拾ってみた。広渡敬雄の原風景には、むせかえるような匂いが渦巻いているのだろう。しかし匂いを表現するのに五句中四句が「匂ひ」なのか。日本語においてこの領域の語彙が発展しなかったということなのかも知れないと、やや思う。

  銀河系おぼろ砒素食ふバクテリア
 まず思い出すのは「鐵を食ふ鐵バクテリア鐵の中 三橋敏雄」である。深海で年月をかけて沈没船を蝕むイメージの敏雄句を意識しつつ、天空を取り合わせたものであろうが、固いことばとやわらかいことばを組み合わせた「銀河系おぼろ」はバクテリアの微細なイメージに対して効いていると思う。「銀河系」といえば前作『ライカ』には「青き薔薇活けし瓶あり銀河系」という句もあり、もしかすると広渡敬雄の得意フレーズなのかも知れない。そして「青き薔薇」の句は「銀河系のとある酒場のヒヤシンス 橋閒石」を直接的に思い出させる。どこにもそんなことは書いてないが、分かる人には分かるオマージュなのだろう。

  槍投げの一声西日浴びにけり
 こちらは<能村登四郎先生に「春ひとり槍投げて槍に歩み寄る」の句もあれば>と前書があり、明示的にオマージュである。他界した恩師の句業だけがまだ身近にあり影響を及ぼし続けている感じを捉えたであろう「一声」がじつによい。槍を投げた人ではなく「一声」が西日を浴びているのである。
 
  おまへだったのか狐の剃刀は
 学芸会でおなじみの「ごんぎつね」の台詞を取り込んで、植物名と組み合わせた爆笑の句である(という解説は野暮である)。句集には数句、はめをはずした句を混ぜておくと変化が出て効果的である、というセオリー通りであるところも、なんだか可笑しい。

2017年1月4日水曜日

だって裏山ってこうじゃん

 しばらく広渡敬雄『間取図』(角川書店)について書く。読み終わらないうちに書き始めるのがここのブログの進め方なので、変なことになるかも知れないが、そのときどきで心に起こったことをカワウソが魚を並べるように広げたい。『間取図』は著者の第三句集にあたるが、先行する『遠賀川』『ライカ』については以前にこのブログでも触れており、その縁もあって今回ご恵送頂いた(ありがとうございます)。
 さて、『間取図』は平成二十一年から二十八年までの句を編年体で並べていて、途中平成二十四年には角川賞を受賞されている。そこがなにかの転機になっているのか、我が道を行くでなにも変わらないのか、その辺りが読み進める上での楽しみといえば楽しみだろう(予想ではなにも変わらないほうに50ユーロ)。まずは平成二十一年から。

  輪飾の艇庫より空始まりぬ
 日頃は無造作にしかし大切に舟が積まれ、なんの飾り気もない佇まいの艇庫であるが、正月だけは一年の安全を祈念して輪飾りがある。その薄暗がりの向こうに新年の空が明けて行く。巻頭にふさわしい淑気が感じられる句だと思う。

  裏山にこゑ吸はれゆく鬼やらひ
 どの句に代表させてもいいのだが、なにを句に詠むかを探す底に原風景への信頼というのがあると思う。子どもの頃、見たり聞いたり嗅いだりしたあの空気感。それを今現在目の前にある景色やものが、持っているということ。「だって裏山ってこうじゃん」としかいいようのない感じをそのまま句に定着させる確かさ。ノスタルジーとかレトロだとか名付けると、きっと壊れてしまう「感じ」なのだけど…。

  蛇ゆきし草ゆつくりと立ち上がり
 同じことは俳人としてのキャリアの中での原風景についても言えるのかも知れない。「だって俳句ってこうじゃん」としかいいようのない感じ。

2017年1月3日火曜日

歌仙

かの伝説の石川淳、丸谷才一、大岡信、安東次男『歌仙』(青土社 1981年)を購入。


かの伝説の栞(クリックすると多少大きくなります)。







2017年1月2日月曜日

あらゆる手段を使ってでも

 嵯峨根鈴子『ラストシーン』(邑書林)、第五章は「ラストシーン」。前章について「暴れどころはまだまだ続く」と書いたのは、俳諧の名残裏のように最後にはまともなものに戻って大団円という期待があってのことだったのだが、じつは最終章も暴れどころのままなのだった。いや、古典的な交響曲のように最大の暴れどころを最後に持ってきた、というべきか。『あしたのジョー』の最後のホセ・メンドーサ戦でコンニャク戦法やトリプル・クロス・カウンターを繰り出す矢吹丈のように嵯峨根鈴子が技を尽くす。
 
  老鶯のこゑ飴色となりにけり
  言語からはがれてあげはてふのだつぴ


 章頭、「老鶯の」はじつにオーソドックスにして手練れの一句である。飴色と形容された老鶯のこゑは、想像するだに楽しい。それに対し二句目の転じぶりはどうだろう。とりわけ平仮名表記の「だつぴ」。「言語からはがれて」とあるが、もはや意味の世界ではない、書かれた文字の快楽が暴走している。

  テロップのもしもしこちら蛍です。
  図に乗るな方舟は泥舟だ・母
  かまきりの振り向けば、だが、首が無い


 書かれた文字の快楽の暴走といえば、俳句ではあまり使わない「。」「・」「、」の使用もそれに該当するだろう。余談ながら、句読点に関していえば「雷雨です。以上、西陣からでした 中原幸子」の衝撃が私にはずっと忘れられない。

  昼からは姉のかたちになめくじり
  おとうとを薄めてみどりのソーダ水


 先の「図に乗るな」句の母といい、掲句の「姉」「おとうと」といい、作中の家族はまったく架空のもので自在にすがたかたちを変える。

  赤チンを塗つて折笠美秋より淋し
  車谷長吉といふしたたれり


 家族ばかりではない。この際、何でもありで総動員である。車谷長吉とくれば、何句か前にあった「かぶとむしガラス隔てて触れにけり」のかぶとむしの名は武蔵丸だったのか、などとこちらの脳が書かれていないことについ共振する。

  瑠璃揚羽あゝ背後よりブラックホール
  月見草マリアもすなるわるさかな


 総動員は本歌取りに及ぶ。「太古よりあゝ背後よりレエンコート 攝津幸彦」「男もすなる日記といふものを… 紀貫之」…。

 たぶん読者の私がうかつなだけで、他にも仕掛けはいっぱいあるのだろう。さて、このように技を繰り出して終楽章を駆け抜け、作者はどこへ行こうとしているのか。句集のタイトルとなった句を見てみよう。
 
  蜘蛛はクモの仕事に励むラストシーン

 実際に何かのドラマのラストシーンだったのであろうが、いかにもお約束のモンタージュで、一抹の不吉さの象徴としてドラマ本編と取り合わされるべき蜘蛛は、蜘蛛の仕事をしていなければ絵にならない。二物衝撃の本質は、取り合わされたもの同士が等価であることだから、蜘蛛の仕事をしていなければ絵にならないのと同様に、ドラマ本編もドラマ本編の仕事をしなければならない。ひるがえって俳句を見渡せば、季語の仕事に励む季語と、季語以外の仕事に励む季語以外のあまりにも類型的な堆積また堆積。そんな世界から、嵯峨根鈴子はあらゆる手段を使ってでも脱出しようと試みたのではないか。そんな気がする。

2017年1月1日日曜日

俳句の行動展示

 嵯峨根鈴子『ラストシーン』(邑書林)、第四章は「小火」。暴れどころはまだまだ続く。身も蓋もない言い方をすればADHD(注意欠陥多動性障害)的とも感じられるが、作者の意図は「俳句の行動展示」にあるのではないか。行動展示とは旭山動物園などで広く知られるようになった手法で、動物の姿形を見せることに主眼を置いた「形態展示」ではなく、行動や生活を見せるものである。動物の場合であれば、ペンギンのプールに水中トンネルを設ける、ライオンやトラが自然に近い環境の中を自由に動き回れるようにするなど、動物たちが動き、泳ぎ、飛ぶ姿を間近で見られる施設造りを行うわけだが、俳句だとどういうことになるのか。
 これが「俳人」の行動展示なら話は別で、極度にショーアップされたかたちに句会をイベント化した人々の功績も知らない訳ではない。それはさておき、いま語りたいのは「俳句」の行動展示だ。これは難しい。俳句は生まれたところで一度死んでいるからだ。一度死んだものを、あたかも生きているように、読者が旭山動物園にいるかのように見せるにはどうすればいいか。それこそ小火でも起こしてパニックの中を走り回って見せればいいのか。
 
  薄翅かげろふ黒の秘密を舐めてより
  なにも決まらぬ松葉牡丹の会議かな
  校長のまむし酒なら知つてゐる
  脱皮せぬと決めたる蛇の自爆かな

 形態展示だとしたら一句一句に大した意味があるとは思えない。そうではなく、圧倒的な速度で迫り来る句を見切り、耳や肘をわずかに動かしてはかいくぐって前に進むイメージ。「秘密」→「会議」→「校長」、「まむし酒」→「脱皮」と連想が高速に推移しては自爆する。
 
  かはほりのこれ以上愛せぬ総身
  これまでと抛り込んだる銀の匙
  あちらではミカド揚羽を見たのが最期

 かと思うと、突然の指示代名詞の連鎖。そうとう切羽詰まっている。

  金魚田のつまりさびしい水なのか
  へうたんやすなはちすぐにすねる癖
  ユニクロのつまりどこにでもある小火

 これはばらばらに置かれた句。「つまり」や「すなはち」は先を急ぐための加速スイッチとして機能している。

  石灼けて帰るとすればこの半島
  死線まで辿ればみみず鳴く界隈
  折鶴を展けばみんな楽になり
  戻れなくなれば綿虫放つかな
  命綱引けば一気にひこばゆる

 これらもばらばらに置かれた句。仮定法であったり因果であったりする句型であるが、破壊や生死の境を条件として提示し、理不尽なファンタジーを放射する手法である。

  ろんろんと水湧き牡丹崩れさう
  ボサノバの夜がくすくすほうせんくわ
  逃げ水やむりよくむりよくと嚙む駱駝

 これらもばらばらに置かれた独特なオノマトペの句。「ろんろんと」は章頭の句である。その後上述のように加速されまくっているところで舐めきったように出現する「くすくす」や「むりよくむりよくと」は、どこか手塚治虫の漫画に出てくるヒョウタンツギのようでもある。

  龍天にのぼる放屁のうすみどり
 第一章にあった「龍天に上る背中のファスナーを」のリプライズにより、ようやくこの章は終わる。