2017年3月18日土曜日

不思議としずかな明るさの、幽かなおもむき

 橋閒石『微光』(沖積舎、一九九二年)の最終章Ⅴ。挙句についてだけ書く。
 
  老人と別れてからの真冬かな
 自身が十分老人なのだから、他人のことを「老人」とは呼ばないだろう。ということは、これは自身の肉体が滅びたあとの、さっぱりした魂の存在を仮定して詠んだ句なのではないか。思えば巻頭の句は「春の雪老いたる泥につもりけり」であった。巻頭句において春の雪で消した「老いたる泥」なる肉体と、巻末ではついに別れる。最初から最後まで老いがテーマだったのだ。輪廻する魂は銀河系のとある酒場にもふらりと立ち寄ったりするのだろうか。
 
 あとがきで閒石自身は老いについて以下のように記している。

(前略)さすがに近頃は、忍びよる老いの影の足早なのを意識するようになった。もとよりそれを嘆くいわれはない。むしろしばしば、身も句も共々に、不思議としずかな明るさの、幽かなおもむきを楽しむ折もある。いずれにしても今また一つの、おそらく最後の節目にさしかかってきたことは確かである。

 閒石は本句集を一九九二年八月に刊行後、同年十一月に他界した。その最晩年の「不思議としずかな明るさの、幽かなおもむき」を読者として受け止めたい。

2017年3月17日金曜日

銀河系のとある酒場の…

 橋閒石『微光』(沖積舎、一九九二年)のⅣ。
 
  きさらぎや抛物線また双曲線
 「も」はないが、これも並列たたみ掛けのひとつのバリエーションである。硬い数学用語をふたつ、これもまた硬質な響きを持つ季語と取り合わせて読者に委ねた作りなので、委ねられた読者として読まねばならないのであるが、本格的な春に向かって万物がダイナミックに変化するイメージがこれらの語の取り合わせによって立ち上がらないだろうか。閒石の時代にそんな言葉はなかったかも知れないが、人によっては「板野サーカス」と呼ばれるアニメの演出技法を思い浮かべるかも知れない。

  またひとつ椿が落ちて昏くなる
 「昏くなる」は漢字の用い方により日が暮れて暗くなることだと分かるので、「またひとつ椿が落ちて」と直接的な因果はない。次第に暮れていたのだが、またひとつ椿が落ちてにわかに気がついた、という感じだろうか。「また」が絶妙に効いていて、なんともやるせない老境の時間の流れを感じる。

  銀河系のとある酒場のヒヤシンス
 この句集の中でもっとも知られた句だろう。「とある酒場」はこの地球のものだろうか、それとも銀河系のどこかにパラレルワールドのように存在する生命体のいる惑星に思いを馳せているのだろうか。言い知れぬ寂寥感とともにいま今が過ぎて行く。

  大旱やエンサイクロピディヤブリタニカ
 長い固有名詞と季語だけでできた人を食った句である。ブリタニカ百科事典は1768年創刊で、1994年以降は光ディスクとオンラインでデジタル版が発売され、2010年の第15版を最後に紙媒体での百科事典編纂を取り止めた。この句集が上梓されたのは1992年であるが、すでにデジタル化が話題に上り百科事典の日照りの時代が予見されていたのだろうか。普通エンサイクロペディアと表記するところ、発音に忠実に「エンサイクロピディヤ」としているあたり、思わずにやっとしてしまう。なお、大鑑とか大巻とかの語呂合わせの可能性も捨てきれない。

  夕ずつや揺るるほかなき百合鷗
 語呂合わせといえば、こちらの句ではyuで頭韻を揃えている。「夕ずつ」は宵の明星である金星。ユリカモメは夜間は飛行せず海上を漂うので、事実としてまったく正しいが雅語を駆使して頭韻を揃え、うつくしい句に仕上がっている。
 
  冬空の青き脳死もあるならん
 最近は脳死という言葉が話題になることがあまりないような気がするが、1980年代後半から1990年代にかけては、臓器移植などをめぐる倫理的な観点から関連書籍がいくつも出版され議論がかまびすしかった。そんな中での掲句だろう。生きているのに冬空が青いこともなんにも分からない、それもまた生なのだろうかという感慨だろう。

2017年3月16日木曜日

ラテン語の風格

 橋閒石『微光』(沖積舎、一九九二年)のⅢ。
 
  芹の水言葉となれば濁るなり
 最近俳句界隈で「プレインテキスト」という言葉をよく見かけるのだが、もとより「言葉となれば濁るなり」などと書かれてしまっては二の句が継げないだろう。

  足音がしておのずから草芽ぐむ
 この足音は誰の足音だろう。「おのずから」とあるのだから春をつかさどる存在ないし自然そのものなのではないか。

  さくらさくら少年少女より聰し
 もともとは大学生のサークルなどがやっていた合否確認代行電報の「サクラサク」はすっかり市民権を得て、予備校の広告あたりでも普通に見かける訳だが、この句の場合はどうなんだろう。3/16放送の毎日放送『プレバト』の「車窓には桜つぎこそサクラ咲け 相島一之(夏井いつき添削後)」が頭をよぎる。そういう意味なら、毎年必ず咲くさくらは確かに「少年少女より聰し」だ。
 
  入口も出口もなくて春の昼
 またしても「も」のたたみ掛けであるが、永遠に続くような春昼の気分がよく表れている。

  粽ほどきつつ枕詞のこと
 十七音着地の大破調である。粽寿司のいぐさの紐をほどきながら、ううう、長い、あしひきの山鳥の尾の粽かな…なんてことを思い始めた心の状態を詠んだのだろうか。そう思うと大破調が効いているような気がする。
 
  ラテン語の風格にして夏蜜柑
 これは名句だと思う。木にわんさかなった果実は、まさに南方伝来の風格がある。ところで夏蜜柑の学名はCitrus natsudaidaiといい、後半は日本語そのままである。検索してみると、現在夏蜜柑として知られるものは、江戸時代中期、黒潮に乗って南方から山口県長門市仙崎大日比(青海島)に漂着した文旦系の柑橘の種を地元に住む西本於長が播き育てたのが起源とされ、本来の名称は「夏代々(なつだいだい)」だったが、明治期に上方方面へ出荷する事となった際に、大阪の仲買商人から、名称を「夏蜜柑」に変更するよう言われ、それ以来商品名として命名された「夏みかん」または「夏蜜柑」の名前で広く知れ渡ったらしい。

  水ごころ無くて落葉を掃きいたり
 閒石の句には故事成句のパロディが多い。「魚心あれば水心」は「相手が好意を示せば、こちらも好意を持って対応しようということ」であるが、知るかと落葉を掃いている屈折のし具合が妙に可笑しい。

2017年3月15日水曜日

良夜は月に任せたり

 橋閒石『微光』(沖積舎、一九九二年)のⅡ。今回は順不同で見る。
 
  あかつきの瞳孔や草萌えんとす
 中七の五音目の「や」で切る。しかもその前がなんとも固い語の選択である。視覚器官を「や」で強調し、あかつきに光を知覚するように季節を知覚している。

  蝌蚪の水地球しずかに回るべし
 しずかに回らないと、慣性力で蝌蚪もろとも水がぶっ飛んでしまうのだ…というなんともアホクサな諧謔をしれっと句にまとめている。「べし」が効いている。
  
  郭公の朝の雲形定規かな
 おそらくは「雲形定規」ということばの面白さに導かれてできあがっているのだろう。どんな季語と取り合わせても雲形定規は雲形定規でしかないのだが、郭公の朝の静謐な空気感と、かの製図用具の取り合わせは、これはこれで効いている。
  
  早寝して良夜は月に任せたり
 閒石の晩年の句には独特の老境が感じられるものがいくつもあるが、本句もその類いだろう。「良夜は月に任せたり」の機知がじつによい。
  
  心音もお多福豆も冬うらら
  日輪も氷柱も呼吸始めたり

 
 前章にも「藁しべも円周率も冬至かな」があったが、閒石にとって「も」のたたみ掛けは、まさに自家薬籠中のものだったに違いない。

2017年3月14日火曜日

(16) ロボットが韻を踏む

 すでに前号で予告してしまったようなものだが、音韻の話を書く。

 子音と母音が必ずセットで現れるような日本語において、ましてや俳句において韻など踏んでなんの足しになるのか、という向きもあるかも知れないが、やはり作句においても鑑賞においても、音韻の使われ方に思いを馳せたとき、偶然に導かれることも含め認識を新たにすることはあろう。

  去年今年貫く棒の如きもの       高濱虚子

 この句に含まれる母音oの数は、棒をボオと発音することにすれば、なんと十七音のうちの十一音を占める。この天体の摂理のようなスケールの大きな句の言い知れぬ感じは、もしかすると母音oの多さによってもたらされているのではないか。因果関係を公式化することはできないが、少なくとも無縁ではないのではないか。

  クロイツェル・ソナタ折り鶴凍る夜   浦川聡子

 あるいは「クロイツェル」「折り鶴」「凍る」「夜」と、ru音で脚韻を踏みながら音数が次第に短くなることによってもたらされる(であろう)祈りにも似た切実感。

  海ぞぞぞ水着ひかがみみなみかぜ    田島健一

 あるいは前号にも書いた「水着」「ひかがみ」「みなみかぜ」の頭韻をi音で揃えたmi音の執拗な反復。

 特にここに挙げた浦川句、田島句では音韻先行で思いがけない語の結びつきを達成していると感じられる。いや、注意深く言えば、そのように作者と読者が音韻について価値観を共有する文化圏があるはずだ。

 であれば、そのような文化圏の存在を信じてロボットも韻を踏もうではないか。もっともロボットの場合、もともと思いがけない語の結びつきしかできないのに音韻先行のふりをして、そのような文化圏の読者に句を委ねるわけだけど。

  風花にかざす恋するふたりかな  はいだんくん

(『俳壇』2017年4月号(本阿弥書店)初出)