第2章は「三千世界」。現代国語例解辞典(小学館)から引く。①「三千大千世界」の略。仏教の想像上の世界。須弥山を中心とする一小世界の千倍を小千世界、その千倍を中千世界といい、更にそれを千倍した大きな世界をいう。大千世界。②世界。世間。「三千世界に頼る者なし」
①の説明によれば、三千というより、千の三乗、ギガワールドである。章中「三千世界にレタスサラダの盛り上がる」という句がある。外食業界で一時期、大盛りの極端なのを「メガ盛り」とか「ギガ盛り」とか言っていたような気もするが、それはさておき「三千世界」、どんなバラエティの世界なのか見て行こう。
夢に見る雨も卯の花腐しかな
甘美である。夢と現実とが「卯の花腐し」という古い季語によって融けあっている。「夢に見る雨も」に現れるm音の連鎖と「夢」「卯の花」「腐し」で頭韻的に現れる母音u音によって、やわらかな雨のなかにとろけてゆくようである。
早苗饗や匙に逆さの山河見ゆ
こちらは徹底的に頭韻にsa音を置いて調べを作っている。早苗饗は田植えが終わった祝い。ほんとうに匙に逆さの山河が見えたのかはどうでもいいことだろう。音韻的な美意識によって句集に彩りを添えている。
あぢさゐの頭があぢさゐの濃きを忌む
リフレインの句である。「あぢさゐの頭」は植物としてのアジサイの意思なのか、七変化する作者の意識のことをそう呼んでいるのか。もはや区別する必要もないのが、作者にとっての「三千世界」なのではないか。
夕立の水面を打ちて湖となる
湖に降る夕立は、ただちにそのまま湖水となる。明らかなことがらをあえて俳句に仕立てているわけだが、このように書かれると、夕立と湖が一体となる不思議を思う。ここでも「夕立」「打ちて」「湖」と母音u音を畳みかけて調べを作っている。
母と海もしくは梅を夜毎見る
三好達治「郷愁」の一節に「――海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。/そして母よ、仏蘭西人(フランス)の言葉では、あなたの中に海がある。」があるせいで、後から来た私たちは類想を封じられてしまった感もあるのだが、岡田一実はさらにこれでもかと「梅」「毎」を重ね、あっさりとハードルを越えてしまった。
どうだろう。なにかしら言い止めるべき現実があって俳句をものしていると思っていると、岡田一実の表現しようとしていることは捉えられないのではないか。岡田一実の「三千世界」は俳句としての調べや表記の純度を追求した、架空の世界のような気がする。
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