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2018年10月27日土曜日

三田ミチコ顛末

 山田露結さんから2017年6月頃、悪のお誘い。当時私ははいだんくんという俳句自動生成ロボットを成長させながら、月刊誌『俳壇』(本阿弥書店)に連載記事を書いていた。そのロボットの語彙と句型をすべて露結さんのものに純化してどこかの賞に応募したいというのだ。
 きっかけは忘れたが、2009年に私が最初に俳句自動生成ロボットを作ったときにも、露結さんにソースを渡して露結さんが独自に語彙と句型を登録し、「一色悪水」「裏悪水」という二体のロボットができた。その「裏悪水」による作品が、露結さんの第一句集『ホーム・スウィート・ホーム』のつけたり「悲しき大蛇」となった。
 それから8年も経つので、プログラムは複雑怪奇になっている。また、私は私で2017年当時の連載のための思いつきでプログラムをころころ変えるので、語彙と句型の登録とはいえ、露結さんもそうとう苦労されたことと思う。
 ある程度めどが立った段階で、まさに私が当時連載していた『俳壇』誌の「俳壇賞」に匿名で応募しようという悪だくみが進み、三島ゆかりの「三」、山田露結の「田」で姓は「三田」、名前は櫂未知子にあやかったのであったか「ミチコ」とした。もちろんそんなことは「俳壇賞」関係者は誰も知らない。露結さんと私だけの秘密だ。その応募に使用した俳句自動生成ロボットが三田ミチコである。

 応募した作品そのものとその後の経緯は山田露結さんのブログに詳しい。

2018年1月4日木曜日

山田露結『永遠集』(最終回)

 なにしろ豆本で四十一句しか収録されていないのだから、もう語りすぎだろう。最終回とする。

   しあはせをおぼへてゐたり蛇出づる 露結
 ひとつ前の書き込みで『ホームスウィートホーム』とそのつけたり俳句自動生成ロボット・裏悪水による「悲しき大蛇」について触れた。思えば「悲しき大蛇」は露骨なエログロで、山田露結の感性の一部をロボットに押しつけて代わりに詠ませ、「ロボットのやっていることですから」としてしまった感がある。その分『ホームスウィートホーム』本体は清純であったが、今後将来にわたって山田露結が負い続けなければいけないのは、「悲しき大蛇」性の取り込みだろう。『永遠集』に蛇は二匹潜んでいる。掲句ともう一匹は「穴よりも大きな蛇が穴に入る」である。どちらの句も古典的な隠喩により性愛を詠んでいる。また蛇こそ出ないが「男根におもてうらある梅雨湿り」「きつねのかみそりよく燃えさうな老女ゐて」「襟巻を外さぬ首と愛し合ふ」といった句群は、まさに「悲しき大蛇」性というべきものだろう。

   死んだことのない僕たちに夏きざす
 『永遠集』には死も潜んでいる。掲句以外には「祝福のやうな死ががあり花氷」「死ぬ夢の中にも冬菜抱く場面」がある。

 『永遠集』に「永遠」という言葉を詠み込んだ句はない。これまで見てきた妻や過度の詠嘆やエログロや死の、そのすべてが永遠だということだろう。「悲しき大蛇」にまたがり山田露結はどこに向かうのか。今後がますます楽しみである。

(了) 

山田露結『永遠集』(3)

   さびしいぞさびしいぞ鶯餅食らふ 露結
 山田露結といえばリフレインの使い手としても知られるが、『永遠集』においても四十一句中リフレインの句はなんと十句に及ぶ。しかも掲句のように主観的な形容詞を繰り返したものとして他に「花菜漬やさしい人がやさしすぎる」「木犀や悲しい歌がまだ悲しい」がある。
 通常の俳句の表現としては直情的に過ぎるが、このあたり「淋しいぞ一人五本のゆびを開いて見る 放哉」「まつすぐな道でさみしい 山頭火」あたりのより自在な表現から得たものがあるのではないか。第一句集『ホームスウィートホーム』のつけたり「悲しき大蛇」が、俳句自動生成ロボット・裏悪水による自由律俳句だったことを思い出しておこう。 

2018年1月3日水曜日

山田露結『永遠集』(2)

   もう春が来てゐるガラス越しに妻 露結
 総じて山田露結の句に妻を題材としたものは多い。かつて下五がすべて「夢の妻」の連作もあった。『永遠集』にも妻の句は三句収められている。俳句という作品に昇華されたものなので現実の家庭に立ち入るわけではないが、作品に現れる妻はどこか遠い。掲句、作者と妻はガラス越しで、姿が見えるのに仕切られている。どちらかは庭先の肌寒さの中にいて、どちらかは暖房の効いた室内にいる。妻が外にいて作者は室内からその様子を見て春を感じているのか、作者が外にいて春を感じつつ、室内の妻を見ているのか。

   薔薇園に行く妻と行く必ず行く
 約束をすっぽかしたことがあったのだろう。それでこういうただならぬリフレインになっているのだろう。


   妻の声で低く囁く毛布かな
 妻は人格も外観もなく、ただの毛布となっている。くらやみに、季語から喚起されるぬくもり。官能的な句のようでいて、根源的な問いかけを持ったおそろしい句だとも言えよう。

2018年1月2日火曜日

山田露結『永遠集』(1)

 しばらく山田露結『永遠集』について書く。まずは写真をご覧頂きたい。





大きさの比較のためにホチキスの針の箱を並べたが、いわゆる豆本である。豆本に四十一句とあとがきが収められている。発行所は文藝豆本ぽっぺん堂、発行者は先日別の豆本で国際的な賞をとった佐藤りえさん。りえさんは最近NHKの朝の情報番組にも出演されていた。私が知らないだけで、豆本は流行っているらしい。
 『永遠集』はこんな句から始まる。

   右利きのギキキは春を待つ調べ 露結
 山田露結は知る人ぞ知るブルース・ギターの名手でもある。それを念頭におけば、右利きのミは四拍目の裏に置かれ、粘っこい三連のリズムのうねりとともに強拍で耳に飛び込んでくるのはギキキなのだ。ブルースが春を待っている。

(続く)

2013年1月26日土曜日

ホーム・スウィート・ホーム4

ところで露結さんの句にはいかにも「銀化」的な句もあります。

反故にして反故にしてみな牡丹に似 山田露結
空は海をたえず吸ひ上げ稲の花
たましひが人を着てゐる寒さかな


 こうした鮮やかな見立ての句の反面、もう一方では人生のどこかで虚子を徹底的に読み込んだであろうことも感じます。

金亀子擲つ虚子の姿かな      山田露結
たとふれば竹瓮のごとき我が家かな
冷し馬人語を以て相通ず


 直接的なパロディのみならず、先に挙げたようなリフレインの句では、虚子の一部の側面である「茎右往左往菓子器のさくらんぼ」「彼一語吾一語秋深みかも」などのメカニカルで複雑なリズムからの遠い影響も感じます。

 そうした、師系としてもハイブリッドで、虚像や複写によるたくさんのものが入り混じった多面的な山田露結ワールドを形容して、以後「ロケティッシュ」と呼びたいと思います。




ホーム・スウィート・ホーム3

 こうした虚像・複写・多数への嗜好を目の当たりにすると、2009年から2010年くらいの時期に山田露結さんが俳句自動生成ロボットの開発に注力し、ネット上で「一色悪水」「裏悪水」という二体の秀逸なロボットを公開していた事実が、にわかに腑に落ちるもののように感じられてきます。すでに露結さんは公開をやめているので、掘り返すのは差し控えますが、芝不器男俳句新人賞にロボットの作品で応募したというまことしやかなデマも今となれば楽しい思い出です。

 さて、人間としての露結さんの話に戻ります。 人間としての露結さんは、虚像・複写・多数への嗜好に関係あるのかないのか、リフレインの技巧を駆使した句をものにしています。

昼の灯の夜の灯となる桃の花    山田露結
遅き日の亀をはみだす亀の首
春光や鴎の中をゆくかもめ
ひまはりの葉に向日葵の影を置く
月の裏も月母の背(そびら)も
掛けてある妻のコートや妻のごとし
吐くときも吸ふときも息冬の蝶


 ことに次のような、語の一部をリフレインする句。

裏町に裏のにほひのして遅日    山田露結
水に棲むものに水圧養花天
人類にして類想のあたたかし
星宿や西瓜は種を宿しつつ


 これらの句には独特の陰影を感じます。









ホーム・スウィート・ホーム2

かと思うと、こんな句群はいかがでしょうか。いずれも複写をモチーフとしたものです。

僧の子の僧となりけり竹の秋   山田露結
コピーして赤はグレーに昭和の日
秋祭記憶のごとく父となりし

 また、ふたつのもの、あるいは全体と部分が似ている/少し違うというモチーフの句群もあります。

春寒や首細くして姉妹       山田露結
うららかや位牌のひとつあたらしき
涅槃図の外にも人の溢れをり
かなしからずや殻の中まで蝸牛
半畳を囲む四畳や夏椿

 そもそも、同じようなものが「たくさん」ということにセンサーが働いてしまうような面も感じます。

春の川無数に流れゐて頭痛    山田露結
われわれに無数の毛穴蠅生まる
夜の新樹までの襖の無数なる

ホーム・スウィート・ホーム1

山田露結『ホーム・スウィート・ホーム』(邑書林)について、しばらく思いつくままに書きます。

薄氷を割る薄氷の中の日も 山田露結

 このモチーフに集約される句が集中何句かあります。

釣瓶より盥へうつす春の月    山田露結
映りたる顔剥いてゆく林檎かな
鏡店出でて一人にもどる秋

 いずれも眼に映るものがじつはただの虚像に過ぎず、それが破られたことを詠んでいます。また虚像ではありませんが、「鳥帰る絵本の空をたたみけり」も同じグループに含めてよいような気がします。

 まだ破られていない虚像を虚像と知りつつ玩味している句もあります。

蝶うつる眼で見る蝶の眼にうつる  山田露結
鏡にはすべて映らず猫の恋



2011年12月17日土曜日

異次元の並置

声となりほどなく鶴となりにけり 山田露結

 写生的な観点から言えば、例えば雪原に鶴がいるのだけれど保護色のため初めは分からず、声を聴いたのち初めて姿を認識したという情景を的確に捉えた句、ということになりましょう。が、実景はさておきテキストとしてこの句を眺めた場合、抽象的な属性と全体の、次元を無視した並置こそが読者に対し何かしらを喚起するのだと感じます。

クロールの夫と水にすれ違ふ 正木ゆう子

 こちらの場合、人物と物体の並置ということになりますが、大ざっぱにいえば、やはり次元の異なるものの並置の面白さを感じます。

閂に蝶の湿りのありにけり 山田露結

 この句の場合、閂の湿り気と蝶の湿り気は同じだと言っているわけだから、次元の異なるものの並置とは違うかも知れません。しかしながら、湿り気を表す尺度として、蝶というのはそうとう変なものです。そういう意味では、次元の異なるものの並置と同じくらい意表をついて成功しています。実際のところ、雨露にさらされた閂のもつ、決して濡れているわけではないけれどもひんやりとした、あの触感というのは、「蝶の湿り」と断定されたとき大いに腑に落ちるものがあります。

一人称の彷徨

ぼんやりと妻子ある身や夏の月 山田露結

 「妻子ある身」などという紋切型は、犯罪や仕事上の失敗で用いられることはまずなく、色恋沙汰と相場は決まっているのであります。この「ぼんやりと」から思い出されるのは、小田和正のハイノート。そう、

今なんていったの?
他のこと考えて君のこと
ぼんやり見てた
(小田和正『yes・no』より)

なのです。「君を抱いていいの 好きになってもいいの」と続く「ぼんやり」。「夏の月」がなんとも悩ましいです。

昼を来てたがひの汗をゆるしけり 山田露結

 どこにもそうだとは書いていないのに、ただならぬ関係を感じます。

 俳句の主語は、明示していなければ一人称だという暗黙の約束があるわけですが、ではその一人称は事実なのかというと、人間探求派の時代ならいざ知らず、昨今は自在に虚実のあわいを彷徨しているのです。「妻となり母となりたる水着かな」「われの目に抱く吾子の目に遠花火」といったピースフルな句と並んで、ただならぬ句が混入する作品世界。実に楽しいではないですか。

エクリチュールの快感

くちなはとなりとぐろより抜け出づる 山田露結

 この旧仮名遣いで書かれた句、初見でうまく読めましたでしょうか。私など「となり」なんて言葉が目に飛び込んだりして、かなり訳が分からない状態になるのですが、この訳の分からなさこそ、この句の味わいなのだと感じます。なんだか分からないものが動き始めたら実は蛇だったという、そのなんだか分からない感じが、書かれた文字の塩梅によって伝わってきます。

われの目に抱く吾子の目に遠花火 山田露結

 これは分配の法則で同類項をまとめたものではありません。
   (「われの目に」+「抱く吾子の目に」)×遠花火
ではなく、マトリョーシカのように対象が絞られているのです。強いて数式っぽく記述するなら
   われの目に(抱く吾子の目に「遠花火」)
なのです。書かれた文字の塩梅をそのまま追って行くことによって感じられる我が子へのまなざし。それを実現する技巧。俳句の快感って、こんなところにもあるのだなあと、改めて感じます。

2011年12月16日金曜日

三物衝撃のテンプレート

対岸をきのふと思ふ冬桜 山田露結

 たまたま『静かな水』の勉強会で、「深井戸を柱とおもふ朧かな 正木ゆう子」という句が引き合いに出され、そんなものは「露地裏を夜汽車と思ふ金魚かな 摂津幸彦」ですでにできあがっているパターンではないか、みたいな否定的な論調で終わってしまったのだけれども、これは天狗俳諧の摂津幸彦が未来に遺した三物衝撃のテンプレートなのかも知れません。一物仕立てとか二物衝撃とかはよく言われるところですが、「目には青葉山ほととぎす初鰹 山口素堂」となると、「いや、あれは…」と口を濁すようでは俳人たるもの、情けないではありませんか。
 掲句、今もありありと見えるものを過去のものとして訣別しようとしている、未練の残る孤愁を冬桜に感じます。

 さて、そもそも山田露結さんと私との縁というのは、俳句自動生成ロボットに他ならないので、酔狂に「三物くん」というのを作ってみました。句型としては「露地裏を夜汽車と思ふ金魚かな 摂津幸彦」と、(誰もそんなことは言わないけど)これも三物衝撃クラシックである「階段が無くて海鼠の日暮かな 橋閒石」をもとに下五が5音の名詞も仕込んであります。

電灯を画鋲とおもふ師走かな  ゆかり