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2011年12月31日土曜日

間違ってできちゃった俳句

大みそか回送電車明るくて    岡村知昭
菜の花の岬ばんそうこう剥がす
みどりごの固さの氷菓舐めにけり


 そんな岡村知昭ワールドに、間違ってできちゃったみたいに普通の俳句が置かれているのです。一句目、寒い中、終夜運転の電車を待っていると回送の分際でこうこうと明かりをつけた電車が通り過ぎる、この世に見放されたような寂寥感があります。二句目、これ、「岬」が余分なようでいて絶妙です。頭の中に「岬」と呼ばれる関節が立ち上がりませんか。三句目、普通の俳句としてはいささか尋常でない比喩が、岡村知昭ワールドとの圧力調整のための小部屋としての効果をあげています。

林立する瓶

きさらぎがこわい牛乳瓶の立つ     岡村知昭
口語だめペットボトルの直立し
ほんものの雪を見ている麦酒瓶
あんだるしあ空瓶はこわれているか


 これを男性器の象徴などと読み出すと、がらがらと音を立てて瓶がぜんぶ割れてしまう岡村知昭ワールドなのです。すべて書いてあるとおり、牛乳瓶でありペットボトルであり麦酒瓶であり空瓶なのです。
 一句目、パックではありません。中身の見える牛乳瓶です(空なのかも知れないけど)。そういえば子どもの頃、給食のあと「牛乳が飲めるまで遊んじゃ駄目」とか先生に怒られている同級生がいたものです。おそろしい白い牛乳。真冬の冷たい牛乳。「牛乳がこわい」ではないので、きさらぎにまつわる何かしら牛乳のような理不尽があるのでしょう。
 二句目、これ、岡村知昭ワールドのへなへなな国の憲法みたいでいいです。
 三句目、ほんものの雪でないものが何かあるのでしょう。ちなみに検索してみると、日本の冬季限定ビールの発売は1988年、初期の頃は缶と瓶の並行販売だった由。私は、雪の結晶のデザインのラベルを思い浮かべました。
 四句目、「あんだるしあ」とわざわざ平仮名で表記しているのは、貨物船かなにかなのでしょうか。当然こわれていることを期待した書き方が、なんとも岡村知昭ワールドです。

現実界への風刺として機能しない無意味

かごめかごめが官邸で泣いている 岡村知昭
帝国のあんなにあって猫泳ぐ
警官のままの兎の濡れている
淋しくて国民になるバナナかな
梔子の花いきなりの遺憾の意
出征と言わないでおく冬三日月


 現実界への風刺としては機能しないくらい無意味なこれらの語彙は、変なたとえですが『ひょっこりひょうたん島』にガバスという通貨があったみたいに、岡村知昭ワールドの重要な機能としての、国家や政府や軍隊や警察なのでしょう。それにしても、なんと頼りない国家や政府や軍隊や警察であることよ。

やや思ふ青鞋のこと閒石のこと

水売りの言葉によれば立夏かな 岡村知昭

 「水売」というのは、広辞苑によれば「江戸時代、夏、冷水に白玉と砂糖を入れ、町中を売り歩いた商人」とあります。たぶん、この人たちの立夏はまさに仕事がかき入れ時になる頃なのでしょう。
 ところでこの句、「この国の言葉によりて花ぐもり 阿部青鞋」の遠い影があるような気がします。

れんこんのなおも企む日暮かな 岡村知昭

 そう思い出すと、この句も「れんこんの穴もたしかに嚙んで食べ 阿部青鞋」の遠い遠い影があるような気がしてきました。からっぽの分際で、れんこんの穴が悪代官のように企んでいるのです。ついでにいうと、「日暮かな」だけなのに「階段が無くて海鼠の日暮かな 橋閒石」のほのかな影もあるような気がしてきました。阿部青鞋も橋閒石も、意味と無意味のはざまで重大な足跡を残した俳人なので、読者の方で呼び込んでしまうのかも知れません。

秋風も叙情詩もいや三宮 岡村知昭

 閒石といえば、「詩も川も臍も胡瓜も曲りけり 橋閒石」という句があり、詩を含む「も」の連鎖に、やはり影を感じます。三宮といえば、この句ができた頃、復興は進んでいたのでしょうか。

由緒正しき固有名詞

きりぎりす走れ六波羅蜜寺まで  岡村知昭
崇徳院詣でのカラスアゲハかな
祇園こそ偽シベリアを耐えにけり


 六波羅蜜寺は、祇園にほど近い京阪電車清水五条駅下車徒歩7分、明治天皇が崇徳院の御霊を祀った白峯神宮は烏丸線今出川駅下車徒歩8分とあります。ずっしりと歴史の染み込んだ固有名詞を駆使し、作者は変な句に仕立てます。
 なぜ六波羅蜜寺まできりぎりすが走らねばならないのか。なぜ崇徳院詣でのカラスアゲハなのか。たぶん作者として提示するひとつの読み方は何もなく、読者の知る限りの歴史の中で、虚実まぜこぜに意味が隠密のように走り出し、怨霊のように跋扈するのを待っているのです。そんな中、おそらく造語なのでしょう、「偽シベリア」という見たことも聞いたこともない語が目を引きます。まったく人々が知らなかった歴史に祇園が耐えていたのだという、壮大な大嘘がじつに楽しいです。

すり替えられた無意味

夕焼けやウイルスを美しく飼い 岡村知昭

 例えば「文鳥」でも「蘭鋳」でもいいのですが、ほんとうに美しくて飼えるものでも成立する句型を整えておいて、あえてそうでないものをそこに置くことによって出現する意外性、倒錯こそが、岡村知昭ワールドなのでしょう。奇しくも発句は「ウイルス」。罪悪感のない天才少年たちのように、作者はその愉快にうちふるえていることでしょう。

おとうとを白旗にして夏野ゆく 岡村知昭

 例えば「おとうとを先頭にして」だったら、まったく当たり前でノスタルジックなスナップなわけですが、この人は「おとうとを白旗にして」と書かざるを得ないのです。おそらく、ただ「その方が面白いから」。いったい何に降伏したというのか、生きながらに白旗として宙づりにされたおとうとのように、すべての意味が宙づりにされています。