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2013年6月11日火曜日

詩レ入句会(9)出題

 ほぼ半年ぶりの出題です。いよいよⅢ章です。とはいえ、論考は次第に俳句に応用しづらい地平へと向かっているので、途方に暮れてそれっきりになっていたのでした。

Ⅲ章 詩と散文のあいだで
1 「かやの実」の不思議

 北原白秋に「かやの実」という短歌に似た韻律を持つ詩があり、同じ白秋の短歌「から松」や白秋の自解を引用しつつ、北川透は論考します。

かやの木に
かやの実の生り
かやの実は熟れて落ちたり、
かやの実をひろはな。

北原白秋「かやの実」

 こんな歌があるものかと批判されて、白秋が反論のためにあえて短歌に仕立てたものは以下。

かやの木にかやの実のなりかやの実は熟れて落ちたりその実ひろはな

 これに対し北川透は<白秋が、もし、はじめから歌をつくるつもりだったら、決して、こんな発想はとらないだろう>として、白秋の「から松」を紹介します。

から松にから松の影うつりをり月の山路に眺めて来れば

 北川透曰く、<後者は叙景とそれを叙する作者の眼の位相とが、音数律の構成における上句と下句として、きっちり対応させられているが、前者にはそんな短 歌的な構成の意識が、まったくないところが、発想として根本的に違うのである。「かやの実」は、韻律がほぼ短歌の形式をもっていても、それを書き下ろした 時に、しまりのない(歌らしくない)印象を与えるのは、そこに理由がある。では、それを行分けにしたときに、まさしく詩にほかならないものとして、好まし い印象を与えるのはなぜだろうか。>と。
 続けて白秋の自解(繰り返しの省略をも想定した面白いもの)を紹介した上で、白秋が<気合>とか<味>と呼んだものを北川透は論理的に解いてみせます。

 たしかに、そこで《かやの》ということばは繰り返され、それが聴覚的、視覚的に、頭韻としてのひびき合いの効果を生んでいる、と言っていい。しかし、そ の同語と繰り返しと見えるものも、行かえ(余白)を媒介にして、意味の変化を生み出していることに注意すべきである。一行目のかやは木をさしており、二行 目のかやはなったばかりの実をさし、三行目のかやは熟れたそれ、四行目は落ちているそれである。つまり《かやの》木や実は、その下に連接されることばとの 関係で、同じ<かや>でありながら、それこそ微妙な意味の差異をつくりあげている。この詩は、そのことを通して自然や宇宙の流転のもつ神秘さや淋しさを象 徴しようとしている。とすれば、《かやの》の省略は、ことばが同じでありながら、意味だけが微妙にずれてゆく過程を見えなくしてしまい、それはたしかにこ の詩の<いのち>を奪ってしまうことになるだろう。(後略)

 この後、白秋が口語自由詩を批判したことに関するくだりも面白いのですが、それは割愛して、お題です。俳句の場合、重信とそのフォロワー以外は、まあ改行などせず、貫く棒の如く書くわけですが…。

【繰り返しの句】(2~3句)
【繰り返しを省略した句】(2~3句)

投稿締切:6月15日(土)24:00(JST)
投稿宛先:yukari3434 のあとにアットマークと gmail.com

よろしくどうぞ。

2012年12月29日土曜日

詩レ入句会(8)出題

 すみません、放置しておりました。話が口語自由詩になると、俳句としてはなかなか出題しづらく…。

Ⅱ章 余白論の試み
5 恣意的な余白、口語自由詩(P.070)

 さて、北川透は書きます。(ちょっと長いけど)
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 わが国において、自然主義との深いかかわりで出現した口語自由詩も、むろん、余白を前提にして書かれたが、それはあらかじめ構成されたものではなかっ た。従って自由詩の作者にとって、どこで余白を行かえとしてあらわすかは、彼の自己基準(恣意性)いがいには何もない、といちおうは言える。しかし、その 恣意性そのものを無意識に拘束している規範性がないわけではない。それは一行二十字の四百字詰原稿用紙の存在が暗示している。わたしはこの原稿用紙が、ど のようないきさつによって生まれたのか知らないが、詩人たちの行かえを無意識に規定してきたことは疑えない、と思う。
 そして、それに容易に規定されたということは、一行二十字前後までの範囲で、意味の流れやイメージの表出を切断し、転換することが詩的であること、散文 性をこばむことであるという共同の感性が、いつからか成立していたことを示しているのではないか。それは短歌の三十一音が、上句と下句との分離・連合とし て構成されていること、また、新体詩がおそらくはその短歌の句切れとの対応で、七五調、五七調あるいは七七調などとして、行かえをもったこととも、内的に 関連づけられるだろう。つまり、日本語の表現は二十字以内で、韻律的にも、意味的にも、イメージとしても、切断あるいは転換しなければ、詩として感じられ ないという感性が、古来からつくられてきている……のだ。その意味では、自由詩の行かえ(余白)も、古代における詩の<発生>の余白を引きついでいる、と 言える。
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 じつに興味深い推論であります。ところで(この「ところで」が三島ゆかり的無茶ぶりなわけですが)、字数でいうなら、いわゆる自由律俳句に「長い自由律」と「短い自由律」があることに思いが及びます。

●長い自由律
水鳥水に浮いてゐ夫人はこれにはかなはないと思つてもゐない 中塚一碧楼
大きな湯のそちらに女が居る秋の夜こちらに浸る 荻原井泉水
姉の朝起がつゞいて上野の小鳥の木の芽空 河東碧梧桐
水飲む揚羽、羽を揚げ日の葉日の葉平ら 中村草田男

●短い自由律
鉄鉢の中へも霰 種田山頭火
霜とけ鳥光る 尾崎放哉
陽へ病む 大橋裸木

 こうした自由律俳人たちは、北川透のいう「一行二十字前後までの範囲で、意味の流れやイメージの表出を切断し、転換することが詩的であること、散文性を こばむことであるという共同の感性」の枠の中にいたのか、それと積極的に戦おうとしていたのか。今回は、そういう共同の感性があると仮定して、出題しま す。

●「共同の感性」の中の句(2~3句)
●「共同の感性」の外の句(2~3句)

投稿締切:1月5日(土)24:00(JST)
投稿宛先:yukari3434 のあとにアットマークと gmail.com

 よろしくどうぞ。

2012年9月3日月曜日

詩レ入句会(7)作者発表

ブログでは自句のみ引用します。全貌は掲示板をご覧下さい。

受付のてきぱきとして石榴かな       ゆかり    裕
西瓜とも糸瓜とも銀板写真         ゆかり    裕令七苑
秋澄むや木目のやうなかほをして      ゆかり    裕苑
へうへうと高きところを糸瓜かな      ゆかり    裕銀苑
秋色やひとには言へぬ同じ夢        ゆかり    令

2012年8月24日金曜日

詩レ入句会(7)出題

Ⅱ章 余白論の試み
4 <発生>の余白--再び、短歌(P.059)

 さて、北川透は書きます。

(前略)折口の歌の発生史観は、詩がつねに余白とともに出現したというわたしの思いつきに、理由をあたえてくれている。わたしたちの常識は、短い単純なものが広がって、長い複雑なものに進化すると考えやすいが、折口信夫が詩の発生に見ているものは、その反対のものであった。
《まづ、日本の歌においては、長い形のものがたりから、次第に変化して、長歌(ながうた)といふものが出来て来た一方に、そのえきすとも、えつせんすとも いつてよい片歌が、二つ合さつて、旋頭歌といふものに発達して行くと同時に、片歌自身が、短歌を作り上げるやうに、次第に、音の数を増し、内容が複雑にな つてきました。》(「詩の話」『折口信夫全集』第十一巻)


と言われて翻って現代の俳句というものをみたとき、そこに連句のえきすとも、えつせんすともいつてよいものを仮定してみたいのです。常識的には俳句は俳諧 の発句という言い方をしますが、発句と考えるのではなく、連句のえきすとか、えつせんすとして見たときに何か思い当たらないか、ということです。

 というわけで今回の出題です。

【連句のえきすとか、えつせんすとしての俳句】5句くらい

投稿締切:8月28日(火)24:00(JST)
投稿宛先:yukari3434 のあとにアットマークと gmail.com

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2012年7月31日火曜日

詩レ入句会(6)作者発表

ブログでは自句のみ引用します。全貌は掲示板をご覧下さい。

【幻の手や足が無数に生えた俳句】
片蔭の果つるあたりに呼ばれけり  ゆかり  銀ら苑七
香水は碁盤黒眼鏡は零番      ゆかり
炎昼を仕込む豚骨スープかな    ゆかり  銀ら令裕苑七
忽然と暗渠途切れる緑かな     ゆかり  銀ら
緑陰を婆婆婆と仕舞ひけり     ゆかり  ら七
 

2012年7月24日火曜日

詩レ入句会(6)出題


Ⅱ章 余白論の試み
3 幻肢としての余白、俳句・短歌(P.045)

 前回は文語定型詩で大変なことになってしまいましたが、今回は私たちのホームグラウンドなので、考えようによってはもっと大変です。そもそも私たちは連 句実作者/俳句実作者としてここに集うわけですが、仁平勝が提示し北川透が共感する<幻肢としての下句>なるものを、ほんとうのところ、実作者として私た ちは感じながら作句しているのでしょうか。

 北川透は仁平勝の俳論集『詩的ナショナリズム』に収められている「虚構としての定型」から次のくだりを引用します。

《さきに<短歌の上句>ということを、五・七・五=十七音の"定型"の発生的な本質として考えようとした。それは言葉をかえれば、その"定型"自体のうち に、発生的に切り捨てられた「七七」の<下句>が、いわば幻肢として、構造的に抱え込まれているといってみてもよい。この<幻肢としての下句>は、ことさ ら俳諧の脇句のなごりと考える必要はない。五・七・五という音韻律そのものの本質的不安定さなのだ。そして「切れ」とは、すなわちこの<幻肢としての下 句>から切れる方法意識にほかならない。》(「虚構としての定型」)

 これを受けて北川透は次のように続けます。

 この《幻肢としての下句》という考えは魅力的である。それをわたしは余白の概念でとらえ直すことで、詩としての共通の場所を用意したいと思う。もともと 短歌の上句(五七五)が、連歌の発句として下句(七七)から切れ、更に、蕉風においてその切字が意識化されることで、俳句は詩型として独立した。しかし、 短歌の下句(七七)は余白として、いつまでも俳句につきまとっているわけではない。七七が切れて俳句が詩型として自立したとたんに、もはや七七は消失し、 ただ、余白だけが意識されるのだ。もし、切れた尻尾である七七をつけてみたくなるような句があれば、それは俳句として失格にちがいない。だから《幻肢とし ての下句》という言い方を借りれば、<幻肢としての余白>とか<幻体としての余白>という言い方も同時に成り立つし、それらの幻の手や足は俳句に無数に生 えており、余白として、沈黙を表現している。

 というわけで、今回の出題です。

【幻の手や足が無数に生えた俳句】5句くらい
投稿締切:7月28日(土)24:00(JST)
投稿宛先:yukari3434 のあとにアットマークと gmail.com

 よろしくどうぞ。
 

2012年7月10日火曜日

詩レ入(5)作者発表

ブログでは自句のみ引用します。全貌は掲示板をご覧下さい。

●作品6--------------------------------------ゆかり

 紫陽花十二号

十二分発の紫陽花十二号
一路神州鞄には銀の横笛
眼中のもの皆みどりゆつくりと
回転しをる大地平畝といふ畝

香草の名を連ねたる歌ありて
妙なり夢の如きなり三つ編みの頃
級長の姉のふくらみ地上には
母の紫陽花地上には祖母の紫陽花

等速度運動の雨やはらかに
力士を濡らす奉納の大樹の下に
発光し魚の時間を律動し
陸といふ家具くつがへす海といふ意味

まづ構へ嚇と見開きややあつて
嘘つくやうに笛を吹くなり

2012年6月17日日曜日

詩レ入句会(5)出題

 次の出題をめぐりいろいろ考えているのですが、次の節は「2 構成された余白、文語定型詩」。藤村や泣菫、有明をめぐる話なので、はなはだ句会の出題のネタにしづらく…。話を飛躍して連作俳句にからめてみましょうか。構成というなら、例えば誓子。

  航行

船厨(せんちゆう)の蠅青潮に向きて去る
船欄は蠅ををらしめ浪を白(しら)め
夏の夕餐(ゆふげ)船は蛇輪(だりん)をまはすなる
顔こすり睡(ねむ)がる子よ夏の海暮るる
夏の夜の星ひとつ撰(え)りて船にかかぐ
船に垂れ晩夏星座のみづみづしさ
夏のあさ薄翅蟲類船とすすむ

(昭和十二年) 


 ところでp.40の「つまり、行かえは、物語の展開をになっているのではなく、客観、主観、主観の客観化といった千鳥をめぐる観点の移動を可能にしているのだ」というくだり、なにかを思い出しませんか。

 これって、じつに我らが俳諧の、自他場に近いものを感じます。物語の単調さを救うための余白の技法が、反対向きに物語性を否定する俳諧の付け方の技法に近いものとして現れるところに、俳人としての私は妙味を覚えます。


 というわけで、今回は文語定型詩と俳諧の余白の現れ方を味わってみたいと思います。

【文語定型詩】一篇(五七五/七五七交互ソネット形式)
または
【独吟半歌仙】一巻

投稿締切:6月23日(土)24:00(JST)
投稿宛先:yukari3434 のあとにアットマークと gmail.com

 余力のある方は両方でも構いませんし、二篇以上、二巻以上でも構いません。上記に適合していれば旧作でも構いません。
 

2012年6月15日金曜日

詩レ入(4)作者発表

ブログでは自句のみ引用します。全貌は掲示板をご覧下さい。

【切字があって余白がある俳句】
飛ぶ蠅は星のかたちを重ねけり      ゆかり 裕
モロゾフに口説かれてゐる梅雨入かな   ゆかり 裕
ワシコフの犬として夏木立かな      ゆかり 令


【切字がなくて余白がある俳句】
鰻食ふ西郷の犬雲の峰          ゆかり 裕
蠅を打ち乳房の揺れの収斂す       ゆかり
パブロフが大好きな犬夕薄暑       ゆかり


【余白がない俳句】
鋭角を描いて迫る蠅を打つ        ゆかり
梅雨入のタチアナ・ニコラーエワの犬   ゆかり 七
犬捕は瀑布の犬を捕らへけり       ゆかり 裕
精確に蠅の軌跡を打ちにけり       ゆかり 銀
 
 
 
 
 

2012年6月3日日曜日

詩レ入句会(4)出題

 さて、いよいよ第Ⅱ章です。

Ⅱ 余白論の試み
1 余白の出現、ざしきぼつこのような (p.34)

 北川透は書きます。

 詩の出現とは、必ず(と言っていいほど)余白の出現である。だれもがそれを自明にして書き、読んでいながら、忘れている。

 ひるがえって、私たちの俳句の世界には切れ字というものがあります。仁平勝は『秋の暮』(沖積舎。1991年)に収められた「季語と切字」の中で次のように書いています(p.66)。

 (前略)じじつ切字のことを、「や」のように句中に意味的な切れをつくるものと理解している俳人が多い。俳諧でいう切れと、いわゆる区切れとがゴッチャ になっているのだ。そういう人たちは、なぜか同じく代表的な切字である「かな」や「けり」のことを考えない。「かな」や「けり」のほうを考えればわかるこ とだが、俳諧で切れというのは、発句が脇句にたいして切れるということだ。

(そして話は、なぜ「や」によって発句が脇句と切れるのかと続く。)

 さらにその一方で長谷川櫂の最近出た『一億人の「切れ」入門』(角川学芸出版。2012年)では、手許にテキストがないので正確ではありませんが、「こ の句の切れは俳句の前と後ろにある」的な表現で、句中の意味的な切れ以外のものを表現しています。(テキストをお持ちの方は、正確な引用でお助け下さ い。)

 さて出題です。

【切字があって余白がある俳句】(3~5句くらい)
【切字がなくて余白がある俳句】(3~5句くらい)
【余白がない俳句】(余力のある方のみ)

投句締切:6月9日(土)24:00(JST)
投句宛先:yukari3434 のあとにアットマークと gmail.com

★整理の都合上、俳句の行には俳句以外の題とか記号とか俳号とか本名とかを書かず左詰で列挙願います。

 よろしくどうぞ。

2012年5月23日水曜日

詩レ入句会(3)作者発表

ブログでは自句のみ引用します。全貌は掲示板をご覧下さい。今回はロボットの句を多々投句して非難囂々。

【俳句にとって日常的、慣習的な語法や文脈の世界の俳句】
胸もとを烏と思ふ蝉の穴         三物くん  銀
ふるさとを昼寝と思ふ水あかり      三物くん  銀七
おほぞらが無くて鏡の捕虫網       三物くん  裕苑七
かなしみの夢の祭のありにけり      ゆかりり
関節や側溝といふみどりの夜       ゆかりり  ら
珍獣の肢体の走る青あらし        ゆかりり
紫陽花の薄着の思う男かな        キヨヒロー
入梅の世界をつかむ美人です       キヨヒロー 七
密告の五月のようなキスの風       キヨヒロー
卯月野と夜の二階のありにけり      ねここ   裕苑
黒板と金魚の水に思いけり        ねここ
空豆の家族と魚へ眠るかな        ねここ   銀苑七
搭乗を見合はせてゐる夕立かな      ゆかり   裕
補助翼の裏に文字ある夕薄暑       ゆかり   裕ら苑
ほんたうに白山しろき薄暑かな      ゆかり   銀


【違犯の俳句】
晩節が無くて金魚の昭和かな       三物くん  苑七
ふるさとが無くて箪笥の金魚かな     三物くん  ら七
どん底が無くて昭和の蜥蜴かな      三物くん  七
細胞のポルシェの蝉にゆるしけり     ゆかりり
妹の蜥蜴の並ぶ目方かな         ゆかりり
首すぢの刃の夏の並びけり        ゆかりり  令
西行の私を夏へ濡らすかな        キヨヒロー 令ら
唇の五月の母と歩くかな         キヨヒロー 銀苑
再婚の薄暑と告げる川の風        キヨヒロー
六月の少女のにこにこ手足かな      ねここ   銀苑
仁丹と祭にじゃぶじゃぶしっぽかな    ねここ   令苑
六月と姉妹と影もつかみけり       ねここ   令七
はつなつの胴体と飛ぶ翼かな       ゆかり
機影いま画面に止まる蠅のごと      ゆかり   裕
サイフォンの噴水高き青葉かな      ゆかり

(以上)
三物くん http://yukari3434.web.fc2.com/sanbutukun.html
 「階段が無くて海鼠の日暮かな   橋閒石」「路地裏を夜汽車と思ふ金魚かな 摂津幸彦」の句型だけで、八田木枯氏の語彙で詠むロボット。旧仮名。

ゆかりり http://yukari3434.web.fc2.com/yukariri.html
 三島ゆかりの語彙で詠むロボット。旧仮名。

キヨヒロー http://yukari3434.web.fc2.com/kiyohiroh.html
 峠谷清広氏の語彙で詠むロボット。新仮名。

ねここ http://yukari3434.web.fc2.com/nekoko.html
 こしのゆみこ氏の語彙で詠むロボット。新仮名。破調容認。
 
 

2012年5月14日月曜日

詩レ入句会(3)出題

 では3回目です。

Ⅰ レトリックの誘惑
 3 違犯の関係が価値にかかわる

 北川透は書きます。(p.030)

(前略)
 それに比して、詩的レトリックは、それがどこまで意識されるかどうかは別にしても、慣習化されたことばの在り方に対する違犯の関係に置 かれる。それは発信者が受信者に対して《意表に出ようとする技術》や《驚かす戦術》ではないにしても、その違犯の関係が、読者を挑撥したり、誘惑したりす ることはたしかだ。そうでなければ、なんらかの理由で、ことさら意味(思想)の流れを拒んだり、切断したり、ずらしたりしている詩作品に、読者が魅き寄せ られることはない。詩的レトリックは、日常的、慣習的な語法や文脈に違犯の関係をつくりだすことで、おいしいことばになっている。ただ空腹が満たされれば いいというのが意味の関係であるとすれば、おいしいというのは、価値の関係である。違犯は、言語の価値にかかわっている。

 さて、ではひるがえって目を俳句に転じた時、私たちは知らず知らずに俳句にとって日常的、慣習的な語法や文脈の世界に甘んじてはいなかったでしょうか。 極論を言えば、季語とか切れとかの制度のもとに、私たちは工業製品のように俳句のようなものを生産しているだけなのではないのでしょうか。とはいえ、私た ちは真にすぐれた俳句から数多くの違犯を読み取ってきたことも事実です。

今回の出題です。

【俳句にとって日常的、慣習的な語法や文脈の世界の俳句】(3~5句くらい)
【違犯の俳句】(3~5句くらい)

投句締切:5月19日(土)24:00(JST)
投句宛先:yukari3434 のあとにアットマークと gmail.com

★整理の都合上、俳句の行には俳句以外の題とか記号とか俳号とか本名とかを書かず左詰で列挙願います。
今回の書式の例

【俳句にとって日常的、慣習的な語法や文脈の世界の俳句】
はつなつの日常的な俳句かな
まつたくの慣習的な五月闇
麦秋の慣習的な語法かな

【違犯の俳句】
はつなつの違犯はじつにむづかしい
まつたくの違犯だらけの五月闇
麦秋の取締りたる違犯かな

 よろしくどうぞ。

2012年5月9日水曜日

詩レ入句会(2)作者発表

ブログでは自句のみ引用します。全貌は掲示板をご覧下さい。

【俳句】
はつなつの屋根ある街を犬ほゆる   ゆかり 銀苑
ヒラメ筋たつぷり用ゐ春惜しむ    ゆかり ら
青果店酒店隔て春の昼        ゆかり 令苑
立ち止まり眼鏡はづして夏来る    ゆかり 銀


【俳句でないもの】
我等みな夏帽子にて春惜しむ     ゆかり
行く川の流れは絶えず貼つてある   ゆかり ら
聖五月胸はたわわな方がよい     ゆかり
噴水や全人格を否定する       ゆかり 銀苑
 
 
 

2012年5月1日火曜日

詩レ入句会(2)出題

 では2回目です。

Ⅰ レトリックの誘惑
 2 詩的レトリックは修辞ではない

 らくださんがいみじくも書かれた「俳句としてはどうなのよ的なもの」、今回はそれで行きましょうか。谷川俊太郎の短い詩を引用したのち、北川透は書きます。

 このような平叙文や慣習化されたことばの在り方とは区別される、詩的なことばの在り方を、先の詩の例から取りだせば、行分け、連構成、 余白、省略(選択)、比喩、多義的な語の使用、繰り返し(リズム)、暗示、助詞や語尾の変化への細心の注意ということになる。むろん、これは詩的なことば の在り方の一部に過ぎないが、これらの総体の関係をわたしは<詩的レトリック=詩的仮構>と呼びたい。詩的レトリックは、詩作品のすべてではないことは当 然だが、しかし、詩と詩でないものとを相対的に区別していることはたしかであろう。

 ここでさらに文章は「俳句や短歌における音数律構成も、詩的レトリックの在り方の一つであり、それは先にも書いたように絶対的な規範であるが」(後略)と続くわけですが、俳人の立場から言えば、音数律構成などというものは、あまりにも絶対的過ぎて、俳句と俳句でないものを区別する尺度として、なんら役に立ちません。

 というわけで出題します。

【俳句】(3~5句くらい)
【俳句でないもの】(3~5句くらい)

投句締切:5月4日(金)24:00(JST)
投句宛先:yukari3434 のあとにアットマークと gmail.com

★整理の都合上、俳句の行には俳句以外の題とか記号とか俳号とか本名とかを書かず左詰で列挙願います。
今回の書式の例

【俳句】
はつなつやこれは俳句に違ひない
鯉幟これは俳句に違ひない
麦秋やこれは俳句に違ひない

【俳句でないもの】
はつなつやこれが俳句のわけがない
鯉幟これが俳句のわけがない
麦秋やこれが俳句のわけがない

 よろしくどうぞ。

2012年4月29日日曜日

詩レ入句会(1)作者発表

ブログでは自句のみ引用します。全貌は掲示板をご覧下さい。

お祝ひの歌に囲まれ風光る          ゆかり
かんたんな名前の街の花水木         ゆかり 令
音階の聞こえる家や大手毬          ゆかり

2012年4月22日日曜日

詩レ入(1)

 そろそろ始動します。

Ⅰ レトリックの誘惑
 1 <思いつき>からはじめて

 そういえば私、かの有名な吉本隆明『言語にとって美とはなにか』を読んだことも手に取ったこともない。ひどいもぐりです。でも朔太郎『詩の原理』は持っている。持っているけど、途中で挫折しました。とりあえず、北川透のいう、

 わたしは《何人にも承認され得る普遍共通の詩の原理》という発想を、前提とする考え方を捨てたい、と思う。

というのを道しるべにして進めて行きたいと思います。

 さて、《ちょっといま思いついたんだけど……》ということで言えば、俳句の技法のいわゆる二物衝撃というのは、かなり思いつきに近いものなのかもしれません。北村透は次のように書いています。

 この場合、ほんとうにふと思いついたということもあるだろうし、<思いつき>を意図的に使うことで、本筋がひそませているいくつかの豊 かな支筋を暗示したり、逆に、本筋そのものをパロディやエピソードにしてしまう、いわば戦術的な<思いつき>話法というものもあるにちがいない。それは一 見、いかにも自然発生的に見えるが、しかし、何かを思いつくこと自体、あるいは思いついたとあえて発語すること自体、その場面が要求するかけひきやら、発 語者の意識の深層にうながされてそうしているのであり、なんの脈絡もなく、ふとこころに浮かんだことを語っているわけではない。

 なんだか、これって二物衝撃そのものじゃんって、くらくらしてきませんか。

 というわけで出題します。

【<思いつき>のような二物衝撃】(3~5句くらい)

 普通の切れ字ではなく「ところで」「さて」などなんでもありです。

投句締切:4月25日(水)24:00(JST)
投句宛先:yukari3434 のあとにアットマークと gmail.com

★整理の都合上、俳句の行には俳句以外の題とか記号とか俳号とか本名とかを
 書かないで下さい。
 また、空白行や題の行を置かず出題順に左詰で列挙願います。

 よろしくどうぞ。
 

2012年4月14日土曜日

詩的レトリック入門句会というのを始める

北川透『詩的レトリック入門』(思潮社、1993年)というたいへん魅力的な本があるのですが、ひとりで読んでいると永遠に読み終わりません。どなたか一緒に読んでくれませんか。で、一節ごとにインスパイアされたもので、ほぼ毎週ここで句会をやります。

 この本、いまや古本でしか手に入らないのですね。目次ですが、こんな感じ。

Ⅰ レトリックの誘惑
Ⅱ 余白論の試み
Ⅲ 詩と散文のあいだで
Ⅳ 詩作品の<語り手>とは--詩・短歌・俳句における<私>
Ⅴ 詩的意味論の試み
Ⅵ 未知の像--詩的比喩論の試み
Ⅶ 反喩の構造--詩的仮構論の試み
Ⅷ 詩的境界について
Ⅸ 詩型論の試み

 で、各章は3~7の節に細分化されています。例えばⅠ章なら

Ⅰ レトリックの誘惑
 1 <思いつき>からはじめて
 2 詩的レトリックは修辞ではない
 3 違犯の関係が価値にかかわる

 で、この節の単位で、逐語的な勉強会ではなく、句会として得たものを還元して行きたいなあ、という構想です。ひとりでもお付き合い頂ければ、さっそく始めます。