Ⅱ章 余白論の試み
4 <発生>の余白--再び、短歌(P.059)
さて、北川透は書きます。
(前略)折口の歌の発生史観は、詩がつねに余白とともに出現したというわたしの思いつきに、理由をあたえてくれている。わたしたちの常識は、短い単純なものが広がって、長い複雑なものに進化すると考えやすいが、折口信夫が詩の発生に見ているものは、その反対のものであった。
《まづ、日本の歌においては、長い形のものがたりから、次第に変化して、長歌(ながうた)といふものが出来て来た一方に、そのえきすとも、えつせんすとも
いつてよい片歌が、二つ合さつて、旋頭歌といふものに発達して行くと同時に、片歌自身が、短歌を作り上げるやうに、次第に、音の数を増し、内容が複雑にな
つてきました。》(「詩の話」『折口信夫全集』第十一巻)
と言われて翻って現代の俳句というものをみたとき、そこに連句のえきすとも、えつせんすともいつてよいものを仮定してみたいのです。常識的には俳句は俳諧
の発句という言い方をしますが、発句と考えるのではなく、連句のえきすとか、えつせんすとして見たときに何か思い当たらないか、ということです。
というわけで今回の出題です。
【連句のえきすとか、えつせんすとしての俳句】5句くらい
投稿締切:8月28日(火)24:00(JST)
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