さて、いよいよ第Ⅱ章です。
Ⅱ 余白論の試み
1 余白の出現、ざしきぼつこのような (p.34)
北川透は書きます。
詩の出現とは、必ず(と言っていいほど)余白の出現である。だれもがそれを自明にして書き、読んでいながら、忘れている。
ひるがえって、私たちの俳句の世界には切れ字というものがあります。仁平勝は『秋の暮』(沖積舎。1991年)に収められた「季語と切字」の中で次のように書いています(p.66)。
(前略)じじつ切字のことを、「や」のように句中に意味的な切れをつくるものと理解している俳人が多い。俳諧でいう切れと、いわゆる区切れとがゴッチャ
になっているのだ。そういう人たちは、なぜか同じく代表的な切字である「かな」や「けり」のことを考えない。「かな」や「けり」のほうを考えればわかるこ
とだが、俳諧で切れというのは、発句が脇句にたいして切れるということだ。
(そして話は、なぜ「や」によって発句が脇句と切れるのかと続く。)
さらにその一方で長谷川櫂の最近出た『一億人の「切れ」入門』(角川学芸出版。2012年)では、手許にテキストがないので正確ではありませんが、「こ
の句の切れは俳句の前と後ろにある」的な表現で、句中の意味的な切れ以外のものを表現しています。(テキストをお持ちの方は、正確な引用でお助け下さ
い。)
さて出題です。
【切字があって余白がある俳句】(3~5句くらい)
【切字がなくて余白がある俳句】(3~5句くらい)
【余白がない俳句】(余力のある方のみ)
投句締切:6月9日(土)24:00(JST)
投句宛先:yukari3434 のあとにアットマークと gmail.com
★整理の都合上、俳句の行には俳句以外の題とか記号とか俳号とか本名とかを書かず左詰で列挙願います。
よろしくどうぞ。
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