2006年4月5日水曜日

不易流行

 『俳句の世界』、元禄六年に至りました。途中何か所か芭蕉の文章を小西甚一が現代語に訳しているところがあるのですが、それが胸を打ちます。

 西行の和歌、宗祇の連歌、雪舟の画、利休の茶、これらを貫くものは、ただひとつである。かれらの藝術は、宇宙の無限なる「いのち」に深まり、それを表現してゆくものだから、把握するところは、ことごとく真の「美」である。この「美」がわからない者は、人間のなかまでもあまり上等の部類ではない。どこまでも宇宙の無限なる「いのち」に深まってゆくのでなくてはならぬ。

 宇宙の無限なる「いのち」とは、原文では「造化」で、「造化」とは自然のことではなく、老荘哲学に出てくる造化は、創造の無限連続とでも訳すはたらきをさす、とのことです。『モモ』に出てくる時間の花のようなものでしょうか。もう一箇所、引用します。

 俳諧には、そのときどきに移り変わってゆく表現と、いつまでも人の心をうつ変わらない表現とがある。前者を流行、後者を不易とよぶ。しかし、両者は、もともと別ものではない。いっしょけんめい真実なるものに深まってゆく人は、どうしても同じところに足をとめることができず、必然的に新しい境地へと進む。それが流行である。永遠にわれわれを感嘆させる作品は、その流行の中から生まれる。それが不易である。流行も不易も、そのもとは、どこまでも藝術の無限なる新しみへ深まってゆく「まこと」である。

 なんと真摯な姿勢でしょうか。芭蕉の句は正直よく分からないのですが、この現代語に訳された所信表明は胸を打ちます。芭蕉における流行というのは、日常会話における流行とはぜんぜん違う意味なのですね。

吹き溜まる花の屑さへあたたかき ゆかり

2006年4月4日火曜日

俳諧人口の増大

 『初期俳諧集』の巻末に「初期俳諧の展開」という解説があり、その中に「俳諧人口の増大」という章があります。

 専門俳諧師の誕生は、俳諧人口の増大に応ずるものであった。すなわち、俳諧作者の階層的拡大と俳諧の地方への普及とが、俳諧の指導を糊口の道とする職業人(プロフェッショナル)を生み出したのである。

 (中略。連歌と俳諧は別の作者によるものではなく、連歌の座がそのまま俳諧の座へ横すべりしたことと、このときに同じ階層の連歌を嗜まない人々をも俳諧に巻き込んだことの説明。)

 俳諧人口の増大は、俳諧の地方への普及によって支えられていた。それは撰集への入集状況にはっきりとあらわれている。

(中略。貞門前期の主な撰集への入集者数を国別に整理した図が、寛永十年から明暦四年までの推移を示す。)

 こうした現象はおそらく貞門俳諧の中央集権的なありように風穴をあけるものだったにちがいない。 

 なんだかマーケットを地方に求めるあたりが列強の植民地政策みたいですが、この時代、このようにして劇的に俳諧は町人に広まっていったのですね。談林が台頭してくるのはこの後です。変なところに感動して、なかなか中身の話になりませんが、『俳句の歴史』の方はいま芭蕉のところをずっと読んでいて、元禄二年までたどり着きました。

帯電する桜並木や遅刻坂 ゆかり

2006年4月2日日曜日

初期俳諧集

 『俳句の歴史』は天和三年あたりまで読み進みましたが、それとは別に図書館と書店で文献を探してみました。
 何に書いてあったのかもう忘れてしまいましたが、芭蕉復興などと盛り上がる時代は沈滞の時代なのだそうです。つまり「芭蕉えらい」と「旧習の否定」(芭蕉の場合は貞門、談林)をセットとして、沈滞を打ち払おうとする動きとなるようです。
 困ったことにわたしは、貞門や談林の句を読んでいて、妙に感じ入ってしまうのです(変なものとして引用される談林のよっぽど変なのは別ですが…)。これを否定したらわたしの存在も否定されてしまうような危機感すら覚えるのです。
 けっきょく図書館で『新日本古典文学大系69 初期俳諧集』(岩波書店)を借りてきました。中に『犬子集』『大阪独吟集』『談林百十韻』が収められています。

予報では花曇りのち花の雨 ゆかり

2006年4月1日土曜日

発句の発生

 変なタイトルですが、発句のみを鑑賞することは室町時代の宗祇(1421~1502)の頃にはすでに行われていて、『新撰菟玖波集』(1495)には発句の章があるということを知りました。が、それはそれとして、寛永年間に俳諧や発句が新しい階層にブレークしたというのも事実なのでしょう。『新撰菟玖波集』の方は、勅撰に準ずるとのことなので、かなり身分が高かったはずです。

花冷えを隔てて書架の並びをり ゆかり

発句の独立

 30日の書き込みにりんりんさんからコメントを頂きました。実はまったくもって私にとっても芭蕉はなかなかの難題でして、加藤楸邨『芭蕉全句 上』(ちくま学芸文庫)の巻末の「芭蕉の生涯とその発想」を読んだ後、本文を読む気が起こらず、小西甚一『俳句の世界』(講談社学術文庫)をまた読み始めてしまいました。『俳句の世界』は、おりおりの私自身の関心の方向によって、何度読んでも新しい発見があり驚かされます。
 さて、先日引用した山川の日本史の教科書はかなりさすがで「連歌の第一句(発句)を独立した文学作品として鑑賞にたえうるものに高めた」ということを書いています。現国の副読本の文学史あたりでも俳諧と俳句を区別せず俳諧が百韻とか三十六歌仙とか続くものであることをよく伝えていないものがある中で、日本史の教科書なのにしっかりとしています。
 そこで気になるのが、加藤楸邨『芭蕉全句』はなぜ発句のことしか書いていないのか、と、発句は芭蕉が独立させたのか、ということです。小西甚一『俳句の世界』には驚くべき仮説が書いてあります。

・俳諧じたいは室町時代からあったが、寛永ごろから急ににぎやかになる。
・直接的には松永貞徳がさかんに活動したこと、間接的には印刷術が発達したことが原因である。
・朝鮮出兵で活字技術を持ち帰り、江戸初期から出版が見る見るさかんになった。
・俳書もどしどし出版された。
★俳書の作成費用としては入集料をとったのではないか。
★この時代の俳書が発句を主にしたのは、なるべく多数の人から句を集めるためではないか。(=なるべく多数の人が入集料を払い、かつ購入する。現代の総合誌が作家に原稿料を払うものなのであれば、現代の考え方とは逆ですね。同じ現代でも、結社誌や同人誌のほうは、このやり方を踏襲していますね。)

 ★が小西甚一の仮説なのですが、おおいに説得力があります。このようにして印刷メディアで長大な俳諧そのものとは別に、コンパクトな発句が大量に扱われるようになり、それを背景として芭蕉が出現したということなのでしょうか。じつにわくわくする仮説ではないですか。

クローンのただ待つてゐる夕桜 ゆかり