2010年2月8日月曜日

渋川京子『レモンの種』5

 渋川京子は未亡人である、と書き出したら失礼に過ぎるだろうか。歳を重ねて生きることは、伴侶、肉親、親しかった人々の死と直面し、それを受け入れて行くことに他ならない。死を直接詠んだ句では、このような句がある。
 
良夜かな独りになりに夫が逝く   渋川京子
なかんずく白菊に堪え死者の顔
死にゆくに大きな耳の要る二月
死者もまた旅の途中か春の蝉
出棺のあとさきに滝現われる


 「良夜かな」の句以外は、どなたが亡くなったのかは明示されていない。「良夜かな」の句にしても、「独りになりに夫が逝く」の揺るぎない措辞は、もはや渋川京子のパーソナルな体験以上のところへ昇華されている。死を直接詠んだ句においても、滝が現れる。この滝は「いちにちの赤きところ」で鳴っている滝であり、この世ならざるかなしみの声に他ならない。渋川京子にとって、未亡人として生きて行くことは、その声を伝えることなのである。

われら紅葉夫あるなしにかかわらず

 老境に生きる喜びとかなしみを詠んだこの句が、しずかに私の胸を打つ。

2010年2月7日日曜日

渋川京子『レモンの種』4

 渋川京子は水でできている。すくなくとも作句に向かう意識の中では、そのように自覚されている。そして、その水はときにエロスを湛え、ときにかなしみを湛えている。あるいはエロスとかなしみは渋川京子にとって同義である。

海鳴りをこぼしつつ解く夏の帯 渋川京子
夏帯のなかひろびろと波の道
水中花一糸まといて咲きいたり
氷柱よりきれいに正座し給えり


 夏帯の句はいささか類型的かも知れないが、一転して氷柱の句はどうだろう。なんと引き締まった美へのあこがれだろう。「給えり」と尊敬の助動詞で詠まれた架空の対象は、他者のようでいて渋川京子の美意識に他ならない。

 そして、渋川京子は水に包まれている。見えない水を感じて溺れ、闇を水のように湛えている。

水際の匂いこもれる菊枕
まっさきに睫が溺れ蛍狩
見えぬ手を濡らしたっぷり昼寝する
緑陰を抜けて両袖水浸し
雛飾り川の満ち引き映る家
船着場まで陽炎にもたれゆく
水吸って人の匂いの苔の花
霧深し自分を寝押しするとせん
紫蘇をもむ満々と夜が湛えられ


 かたちを変えつつ確かに存在する見えない水に包まれるとき、渋川京子はこの世にしてこの世ならざるところに身を置いている。いっけんただの客観写生に過ぎない雛飾りの句や船着場の句でさえ、句集全体の中に配置されるとき、妖しげな気配を放ち出す。

【追記】
『―俳句空間―豈weekly』2008年10月18日土曜日号で、渋川京子について書かれている。その記事を見ると「氷柱」の句は句集収録以前の発表形では以下だったことが分かる。

氷柱よりきれいに母の正座かな

 具体的な「母」を消して「し給えり」と結んだ推敲が、じつに見事である。

2010年2月4日木曜日

渋川京子『レモンの種』3

 例えばこんな句はどうだろう。
 
一枚の葉書の広さ秋の夜    渋川京子
間取図に足す月光の出入り口
秋風鈴夜は大きな袋なり


 いずれも空間把握の句であるが、二句目の風狂な味わいはどうだろう。前述の「覗き穴」のように、空間が空間として完結してなく、どこか途方もないところへつながっている。三句目の「夜は大きな袋なり」の大きさも計り知れない。
 
はればれと布団の中は流れおり 渋川京子
仏壇のなかは吹き抜け鳥帰る

 同工異曲と言うなかれ。単なるレトリックではなく、そういうものを感じ続けて、俳句に置き換える作業を続けてきたのが渋川京子であるに違いない。

2010年2月3日水曜日

渋川京子『レモンの種』2

 例えばこんな句はどうだろう。
 
鳴り止まぬ耳から蝶をつまみ出す 渋川京子
末黒野やつかわぬ方の脳が鳴る

「鳴り止まぬ耳」はまだ自覚的な身体感覚にまつわる比喩として読めるが、「つかわぬ方の脳」は、というと、野焼きに呼応して、ヒトの古い部分がなにやら呼び覚まされているのであろう。「つかわぬ方の脳」という把握が、なんとも楽しいではないか。

2010年2月2日火曜日

渋川京子『レモンの種』

 渋川京子『レモンの種』(ふらんす堂)は、かれこれ四十年近い俳歴を持つ著者の満を持した処女句集だが、とにかくすごい。もしこの日記を読んでいるあなたが句集を出そうとしているなら、今年はやめた方がいい。絶対勝ち目がない(もちろん、勝ち負けで俳句をやっているわけではないんだけど…)。しばらく、この句集について書く。

いちにちの赤きところに滝の音  渋川京子
潮うごく前のしずけさ桃にあり
鳥渡る風にいくつも覗き穴


 これらの句は、俳句以外の表現では代替不能で、散文にパラフレーズすることは不可能だし無意味である。それなのに、ずっと昔から「いちにちの赤きところに滝の音」がすることを知っていたような感じが確かにするし、「潮うごく前のしずけさ」が桃にあったような気がするし、「風にいくつも覗き穴」があったような既視感がある。既視感がありながら、そんなふうに詠んだ人はいない。人のこころのある局面を、まさに「覗き穴」から客観写生のクールさで言い止めたような静謐な味わいがある。
 「いちにちの赤きところ」にありつつ「滝の音」を聴きとめる姿勢は、句集全体(あるいは渋川京子の俳句的生涯)を貫いていて揺るぎない。