2019年9月5日木曜日

七吟歌仙 かなかなの巻

   かなかなや他人の住んでゐる生家    陽子
    釣瓶落しへ豆腐屋の笛       ゆかり
   月光を物理学者のすり抜けて     あんこ
    狂ひ咲きをる病院の庭        媚庵
   洟水に似たる氷柱をへし折らん     銀河
    夜毎天狗は高尾の森で        月犬
ウ  語部の塩辛声のしみわたる        令
    南の島の白き砂浜           子
   たつぷりと塗つてと言ひて横たはり    り
    背骨をなぞるこそばゆき指       こ
   三味線の皮は猫だと教へられ       庵
    蝙蝠の影よぎる月面          河
   書棚には伯爵領といふ句集        犬
    前へ倣へで靴の形に          令
   下萌を駆けてくる半ズボンたち      子
    げにかぐはしき佐保姫のひだ      り
   風光るテラスヘスパゲティふたつ     こ
    文庫の中也詩集に落花         庵
ナオ 早紅葉の湯田温泉の駅舎裏        河
    旅の役者と帰る燕と          犬
   菊酒を唐草文の風呂敷に         令
    押し入れの中息をひそめる       子
   熱戦はタイブレークに突入す       り
    ボールボーイのいつも後ろ手      こ
   賭け金をまた倍にする女連れ       庵
    燃える朱色に香を焚きしめ       河
   老画伯襖に描く龍虎の図         犬
    竹林のなか小径小暗し         令
   月光に関守石のひとつあり        子
    抜き差しならぬままに長き夜      り
ナウ 露霜の鉄扉を押せば軋みたる       こ
    グランドピアノ弾く人の影       庵
   抽斗にハズキルーペを置き忘れ      河
    嗚呼恍惚の牡丹雪降る         犬
   雨傘をレフ板として花万朶        令
    整列の前よぎるてふてふ        子
起首:2019年 8月13日(火)
満尾:2019年 9月 5日(木)
捌き:ゆかり

2019年9月4日水曜日

『水界園丁』を読む(4)

 「雑」の章は十四句からなる。有季にこだわって捨てることがはばかられた句群なのだろう。この章では、「冬」や「春」の章に比べると、前後の句の響き合いにもより強く考慮しているようである。前の句のイメージを引き取ったり、前の句との同字反復をしたりを、連句とは違うマナーで行っている。

  星々のあひひかれあふ力の弧  生駒大祐
 万有引力や惑星の軌道に関する科学的な知識が、句のことばに昇華されている。なるほど、ここに季を加えたら余分な感傷が生じてしまうだろう。先に句の配列について触れたが、ここで作者は配列の妙味により、句と句のあわいに余分な感傷をあからさまではなく配置しているようにも思える。この句に後続する四句から語を拾うと「君」「友」「恋愛」「恋」と続くが、例えば「恋愛」の句は「在ることの不思議を欅恋愛す」であって、人間の感傷とは様相を異にする。

  西国の人とまた会ふ水のあと
 極めて抑制された書き方であるが、「水のあと」が喚起するのは津波もしくは水害の傷跡である。そして、この句に続くのは「鉄は鉄幾たび夜が白むとも」である。この鉄は廃墟かもしれないし、武器かもしれないが、句としてはまたしても極めて抑制された書き方で「鉄は鉄」だとしか言っていない。前後する「水のあと」の句と「鉄は鉄」の句のあわいに、言い知れぬ文明の危機に直面した現代への感傷がこみ上げる。

2019年9月2日月曜日

『水界園丁』を読む(3)

  春雨の暗きが夜へ押し移る   生駒大祐
  道ばたや鰆の旬のゆきとどき
  雨のとびかひてあかるき花の昼

 いずれも明確な対象物があっての叙景句ではない。とはいえ個人に属する気分とは異なる、曰く言い難い大気感のようなものだ。たまたま選んだ一句目と三句目は雨を題材としているが、必ずしも雨そのものではなく幼児期の感覚のように暗くて怖い夜や明るくて華やかな昼と結びついている。また二句目は漁村を歩いてでもいたのだろうか、「鰆の旬」という普通なら知覚しがたいものの横溢を感じている。このような句に出会うと、そうそう、これこれ、と思う。

  鳥すら絵薺はやく咲いてやれよ
 八田木枯の句には「鶴」や「針」が頻出するが、生駒大祐にとっての「絵」も同じような頻出アイテムなのかも知れないと思い始めている。ここまですでに「よぎるものなきはつふゆの絵一枚」「手遊びに似て膝掛に描かれし絵」「大寒の寝べき広間に一枚繪」「二ン月はそのまま水の絵となりぬ」「芝焼の煙や壁の真中に絵」がある。共通するのは、動くことができない封じ込まれたもののイメージである。それは希望や危機に直面しても同じである。

2019年8月16日金曜日

『水界園丁』を読む(2)

 「冬」からもう何句か見てみよう。

  数へてゐれば冬の木にあらはるる  生駒大祐
 一読かなり分かりにくい。何を数えていたのか、またなにが現れたのか。鳥とか洞とか数えられるもので冬の木に現れそうなものを思い浮かべても釈然としない。そもそも数える対象が現れるものなら、現れるまではゼロで数えられないだろう。そのあたりで「冬の木」をひとかたまりに季語だと思って読んでいたことに気がつく。現れたのは「冬」ではないか。だとすれば、対象物を数えていたのではなく、時間を数えていたのではないか。例えば自分がかくれんぼの鬼で、木に添えた腕に額をつけて目をつむりゆっくり十数えている間にみんないなくなる気配、孤独感。そこに不意にとりとめもなく冬を感じたのではないか。
 目に見える対象やできごとを簡潔にあざやかに描く俳句もあれば、とりとめのない感じをとりとめのないままに描く俳句もあっていいだろう。

  たそかれは暖簾の如し牡蠣の海
 そもそも「暖簾の如し」という着想を得たのは、「たそかれ」の方からではなく一本の紐に牡蠣がいくつもぶら下がり、それが何十本も何百本もある養殖の景の方だろう。それを「たそかれや暖簾の如き牡蠣の海」としなかったのは、小津夜景がいうところの倒装法だろう。漢詩によくある修辞の意図的な逆転である。「暖簾に腕押し」ということわざがあるが、倒装法によりつかみどころのない「たそかれ」が広がっている。

2019年8月15日木曜日

『水界園丁』を読む(1)

 しばらく生駒大祐『水界園丁』(港の人)を読む。約十年間に作られた句が「冬」「春」「雑」「夏」「秋」の五章に収められているという。「冬」から始まっているところに謎がありそうだし、「雑」の章があるところも興味深い。装幀はかなり凝った作りとなっていて、紙の質感も印字の具合も独特である。このブログの常で、全体を読み終わる前に書き始める。読者の私のなかで、要するにこういうものだとフィルターができてしまうと、それに落とし込む作業になってしまいそうだから、そうなる前の一句一句に出会いたいのだ。

  鳴るごとく冬きたりなば水少し  生駒大祐
 「冬きたりなば」と来れば誰しも「冬来たりなば春遠からじ」が頭を過ぎるだろう。漢詩かと思いきや英国の詩人シェリーの詩「西風の賦」の一節で、誰の訳なのかもよく分からないらしい。人生訓めいた英詩はさておき大祐句に戻ろう。「鳴るごとく」と振りかぶり人口に膾炙した「冬きたりなば」が続いたら下五をおおいに期待するところであるが、かっこいいことは何も言わず「水少し」と置いている。この句が巻頭で「冬」の章の冒頭であるということは、『水界園丁』は渇水から肥沃ののち秋に至る句集なのか。

  奥のある冬木の中に立ちゐたり
 疎である。十七音の中にできるだけたくさんの情報を詰め込む俳句もあるが、この人の俳句はそうではないようだ。「寒林」と言わず「奥のある冬木の中」とし、「ゐたり」と語調を整えつつできあがる疎な十七音が持ち味というものだろう。

  肉食ひしのち山や川なんの冬
 いったいどういう食生活なんだろうとも思うが、肉を食べた後の身の充実をいくぶん自虐的に誇張してみせ、つかのま楽しい。

  ときに日は冬木に似つつ沈みたり
 オーソドックスな万感の自然詠である。