「冬」からもう何句か見てみよう。
数へてゐれば冬の木にあらはるる 生駒大祐
一読かなり分かりにくい。何を数えていたのか、またなにが現れたのか。鳥とか洞とか数えられるもので冬の木に現れそうなものを思い浮かべても釈然としない。そもそも数える対象が現れるものなら、現れるまではゼロで数えられないだろう。そのあたりで「冬の木」をひとかたまりに季語だと思って読んでいたことに気がつく。現れたのは「冬」ではないか。だとすれば、対象物を数えていたのではなく、時間を数えていたのではないか。例えば自分がかくれんぼの鬼で、木に添えた腕に額をつけて目をつむりゆっくり十数えている間にみんないなくなる気配、孤独感。そこに不意にとりとめもなく冬を感じたのではないか。
目に見える対象やできごとを簡潔にあざやかに描く俳句もあれば、とりとめのない感じをとりとめのないままに描く俳句もあっていいだろう。
たそかれは暖簾の如し牡蠣の海
そもそも「暖簾の如し」という着想を得たのは、「たそかれ」の方からではなく一本の紐に牡蠣がいくつもぶら下がり、それが何十本も何百本もある養殖の景の方だろう。それを「たそかれや暖簾の如き牡蠣の海」としなかったのは、小津夜景がいうところの倒装法だろう。漢詩によくある修辞の意図的な逆転である。「暖簾に腕押し」ということわざがあるが、倒装法によりつかみどころのない「たそかれ」が広がっている。
2019年8月16日金曜日
2019年8月15日木曜日
『水界園丁』を読む(1)
しばらく生駒大祐『水界園丁』(港の人)を読む。約十年間に作られた句が「冬」「春」「雑」「夏」「秋」の五章に収められているという。「冬」から始まっているところに謎がありそうだし、「雑」の章があるところも興味深い。装幀はかなり凝った作りとなっていて、紙の質感も印字の具合も独特である。このブログの常で、全体を読み終わる前に書き始める。読者の私のなかで、要するにこういうものだとフィルターができてしまうと、それに落とし込む作業になってしまいそうだから、そうなる前の一句一句に出会いたいのだ。
鳴るごとく冬きたりなば水少し 生駒大祐
「冬きたりなば」と来れば誰しも「冬来たりなば春遠からじ」が頭を過ぎるだろう。漢詩かと思いきや英国の詩人シェリーの詩「西風の賦」の一節で、誰の訳なのかもよく分からないらしい。人生訓めいた英詩はさておき大祐句に戻ろう。「鳴るごとく」と振りかぶり人口に膾炙した「冬きたりなば」が続いたら下五をおおいに期待するところであるが、かっこいいことは何も言わず「水少し」と置いている。この句が巻頭で「冬」の章の冒頭であるということは、『水界園丁』は渇水から肥沃ののち秋に至る句集なのか。
奥のある冬木の中に立ちゐたり
疎である。十七音の中にできるだけたくさんの情報を詰め込む俳句もあるが、この人の俳句はそうではないようだ。「寒林」と言わず「奥のある冬木の中」とし、「ゐたり」と語調を整えつつできあがる疎な十七音が持ち味というものだろう。
肉食ひしのち山や川なんの冬
いったいどういう食生活なんだろうとも思うが、肉を食べた後の身の充実をいくぶん自虐的に誇張してみせ、つかのま楽しい。
ときに日は冬木に似つつ沈みたり
オーソドックスな万感の自然詠である。
鳴るごとく冬きたりなば水少し 生駒大祐
「冬きたりなば」と来れば誰しも「冬来たりなば春遠からじ」が頭を過ぎるだろう。漢詩かと思いきや英国の詩人シェリーの詩「西風の賦」の一節で、誰の訳なのかもよく分からないらしい。人生訓めいた英詩はさておき大祐句に戻ろう。「鳴るごとく」と振りかぶり人口に膾炙した「冬きたりなば」が続いたら下五をおおいに期待するところであるが、かっこいいことは何も言わず「水少し」と置いている。この句が巻頭で「冬」の章の冒頭であるということは、『水界園丁』は渇水から肥沃ののち秋に至る句集なのか。
奥のある冬木の中に立ちゐたり
疎である。十七音の中にできるだけたくさんの情報を詰め込む俳句もあるが、この人の俳句はそうではないようだ。「寒林」と言わず「奥のある冬木の中」とし、「ゐたり」と語調を整えつつできあがる疎な十七音が持ち味というものだろう。
肉食ひしのち山や川なんの冬
いったいどういう食生活なんだろうとも思うが、肉を食べた後の身の充実をいくぶん自虐的に誇張してみせ、つかのま楽しい。
ときに日は冬木に似つつ沈みたり
オーソドックスな万感の自然詠である。
2019年8月12日月曜日
七吟歌仙 つけて名をの巻 評釈
つけて名を呼ぶことのなき金魚かな 火尖
発句は西川火尖さんから頂いた。飼い始めに名をつけたものの、その後一度もその名で呼ばれたことのない金魚と名付け親の移り気を詠んで過不足ない。ちょっと変わった語順だが「名をつけて呼ぶことのなき金魚かな」としてしまうと、名をつけることにも「なき」がかかって読まれてしまう可能性が生じるし、なにより「名を呼ぶ」ことの情愛が感じられなくなってしまうのだ。
つけて名を呼ぶことのなき金魚かな 火尖
レゴの欠片を拾ふ明易 ゆかり
脇は発句と同季、同じ場所を詠み挨拶とする。激務から帰宅すると、そんな金魚の名付け親くんは安らかに眠っていて、夜は白み始めている。しまい忘れたレゴの欠片を拾って俺も明日に備えよう、という情景を見ているかのように付けているが、空想的挨拶である。
レゴの欠片を拾ふ明易 ゆかり
てつぺんを翔ちたる翼ぶ厚くて 佳世子
発句と脇の挨拶を離れ、第三こそが付け合いの始まりであり、「さて」という場面転換が求められる。鳥類らしきものの唐突な飛翔に転じていて、第三の役割をきっちりこなしている。夏が二句続いたので雑(ぞう。無季)としている。小久保佳世子さんは句歴三十年以上のベテラン俳人だが、連句は初めてとのこと。なお、この句を第三として頂いたときには気がつかなかったのだが、脇の「欠片」からホトトギスの鳴き声「てっぺんかけたか」が導かれたのではないか、とも思う。
てつぺんを翔ちたる翼ぶ厚くて 佳世子
野ねずみひそむ秋草の原 ゆらぎ
前句の飛翔の原因ともこれからの着地先ともとれるが、危険の多い自然を詠んでいる。月の座を前にここから秋。俳句は叙景、短歌は叙情と図式的に考えがちだが、大室ゆらぎさんは三十一文字をフルに使って叙景できる歌人である。
野ねずみひそむ秋草の原 ゆらぎ
姉妹して月のひかりをすがめたる 鯖男
月の座である。この「姉妹して」は人間のようにも野ねずみのようにもとれる。ここでは擬人化されたファンタジーの景として捉えよう。亀山鯖男さんは、私が初学の頃同じ同人誌にいた人で、硬質なユーモアの感じられる句が私にとって当時憧れだった。
姉妹して月のひかりをすがめたる 鯖男
口頭試問迫るうそ寒 正博
このように付けると「姉妹して」はまぎれもなく人間である。姉妹が互いに問題を出し合って口頭試問に備える景が浮かぶ。小池正博さんは関西川柳界、連句界の中心的存在であるが、『川柳スパイラル』東京句会の折におそるおそる声をかけたら気軽に参加して下さった。ありがたい。
口頭試問迫るうそ寒 正博
ウ 滑舌の酷さを買はれ金庫番 七
初折裏から名残表の最後までがあばれどころといわれ、多少羽目をはずしたりもして諧謔を尽くす。前句「口頭試問」から「滑舌の酷さ」が導かれ、まさかの金庫番である。七さんはどういう経緯で「みしみし」に辿り着いたのだかよく思い出せないが、かれこれ十年ほどつかず離れずずっと連衆であり続けている。
滑舌の酷さを買はれ金庫番 七
カションカションと逃げるロボット 尖
前句の「滑舌」「買はれ」「金庫番」とK音で頭韻を揃えてきたのに導かれたのか「カションカション」というしょぼいオノマトペが絶妙で、なんとも弱っちそうである。
カションカションと逃げるロボット 尖
着ぐるみをはづして鯛焼をもらひ り
前句の「ロボット」を着ぐるみと見立て、出番が終わって一服しているものとした。「鯛焼」で冬。
着ぐるみをはづして鯛焼をもらひ り
障子を破る猫の慕し 子
仮に魚に猫であればかなりのベタだが、「鯛焼」に猫というのはひねりがある。「障子」で冬を続けている。
障子を破る猫の慕し 子
絶え絶えに声はつづいて鄙の宿 ぎ
連句の場合、一句で完結して言い過ぎると展開しなくなってしまう。「絶え絶えに声はつづいて」はいい具合に疎で、前句に付けば猫の声だし、次句と付けばまた別のように読める。
絶え絶えに声はつづいて鄙の宿 ぎ
別れの朝のコーヒーにニド 男
前句の「絶え絶えに声はつづいて」は次句とのつながりにより性愛の句となる。「ニド」がなんとも懐かしい。半世紀ほど前、植物性油脂のスジャータなどが出回る前のごく一時期、過渡期的に粉末のクリープとかニドとかが出回った。当然コーヒー本体も粉末だろう。そんな「鄙の宿」なのである。
別れの朝のコーヒーにニド 男
ナオミちやんの足を縛つたまま放つ 博
「ニド」が出回っていた頃、「ヘドバとダビデ」という外国人デュオによる「ナオミの夢」というそこそこヒットした曲があった。前句「別れの朝」から「ナオミ・カム・バック・トゥ・ミー」という歌詞のその曲が導かれたのだと思うが、それだけにとどまらない。わずか数年くだると谷崎潤一郎『痴人の愛』の登場人物から芸名とした谷ナオミという緊縛系女優がいて、そんな時代がぱっくりとここに放置されている。
ナオミちやんの足を縛つたまま放つ 博
ストリ-トビュ-に怪し人影 七
グーグル・ストリ-ト・ビュ-の現代にまで放置されていたのだろうか。「怪し人影」は「怪しき」もしくは「怪しい」ではないのかという文法的な微妙さがあるのだが、韻文や講談ではこういう言い方もするのではないか。調べてみると
(その1)上代に「美し国」という言い方があること。折口信夫『万葉集辞典』には、<うまし国・うまし処女のうましは、形容詞の原始修飾形で、活用のできた後も、終止形に似た原始形を使ふのである>とある。
(その2)「なつかしのメロディー」「いとしのエリー」などの「の」を含む言い方も実は同じ使い方であること。
が分かり、「怪し人影」のまま頂くこととする。
ストリ-トビュ-に怪し人影 七
しわくちやの紙伸しをる朧月 尖
月の座である。監視カメラの怪しい人影が月下になにやらしわくちやの紙を伸している。初折裏では通常、夏または冬の月を詠むものだが、進行上花の座に近接したので春の月とした。ここから春の句が続く。
しわくちやの紙伸しをる朧月 尖
現代貨幣理論うららか り
前句「しわくちやの紙」を紙幣と捉え、なにかと話題のMMTで付けた。MMTは、自国通貨建ての借金をどんなに増やしても、政府が通貨を発行して返済すればよいので国家破たんはないとする考え方で、消費税値上げの代わりにそれで景気回復すればいいではないかという主張の論拠となっている。希望的観測で「うららか」としている。
現代貨幣理論うららか り
花衣かぶせ亡骸若返る 子
花の座である。ホラー映画にありがちなパターンとして、絶命することにより取り憑いていた怪物が消滅し、本来のきれいな死に顔に戻るというのがあるが、このように付けることにより前句の「現代貨幣理論」が取り憑いていた怪物のようにも思われてくる。
ついでながら、「現代貨幣理論」のようなものが句材となり得るのかについて、ひとこと触れておこう。連句は室町時代に始まったものだが、その前身として「連歌」というものがある。連歌はやまとことばしか用いてはならない雅な文芸であったが、時代が下るにつれそれでは物足りなくなり、漢語や俗語を自在に用い、より諧謔を重視する「俳諧之連歌」に取って代わられ、後者が明治時代以降「連句」と呼ばれるようになった。つまり連句は発生の時点で、なんでもありなのである。そのような自由度の中で、片や「ナオミちやん」が出てくれば片や「現代貨幣理論」も出てきて、釣り合いを保っているのである。
花衣かぶせ亡骸若返る 子
ロバのパン屋の歌に反応 ぎ
前句の「亡骸」は若返ってそのまま蘇生したようである。巡回販売の歌に反応している。ちなみに残念ながら私はロバのパン屋の実物を見たことはない。春を離れている。
ロバのパン屋の歌に反応 ぎ
ナオ 関取のひとりふたりと目を覚ます 男
厳しい稽古の合間に昼寝をしていた関取がロバのパン屋の歌に反応して「呼んでいる…」「呼んでいる…」と目を覚ます、いささか薄気味悪い光景である。打越にかかるような気もするが、そこはあばれどころの勢いである。
関取のひとりふたりと目を覚ます 男
雨の匂ひのまじる潮騒 博
しばらく人事句が続いてしまったので、叙景により転じている。
雨の匂ひのまじる潮騒 博
あまやかな夕べを過ぐる舌触り 七
嗅覚と聴覚を刺激する前句に対し、味覚と触覚で応じている。前句や次句次第でどうとでもとれる、うまい付け句である。
あまやかな夕べを過ぐる舌触り 七
手のひらぢかに何を書いたの 尖
前句を甘美な性愛の句ととらえている。舌を這わせて「ばか」とでも書いたのだろうか。
手のひらぢかに何を書いたの 尖
心臓へそのまま続く運命線 り
打越の「舌」は離れ、運命線を書いたとしている。情死行のようでもある。
心臓へそのまま続く運命線 り
暗きところにじつと神馬は 子
前句「運命線」から導かれたであろう「神馬」が「暗きところにじつと」しているところに趣がある。
暗きところにじつと神馬は 子
旧臘の酔ひに若水沁み渡る ぎ
「神馬」が出たのでめでたく正月としているが、しょぼいことを格調高く詠み上げている。 「旧臘」は去年の十二月。
旧臘の酔ひに若水沁み渡る ぎ
選挙に落ちて枯木みつめる 男
折しも現実社会では参議院選挙があった。
選挙に落ちて枯木みつめる 男
メンタルのバリアフリーが必要に 博
その現実社会の参議院選挙では難病の方二名が当選し国会議事堂のバリアフリー化が話題になったが、こちらは俳諧。「メンタルのバリアフリー」というなんともブラックな曰く言い難い概念が提示された。
メンタルのバリアフリーが必要に 博
白い廊下のどこまでも夢 七
バリアフリーといえばまずは廊下とか階段であるが、「白い廊下」であり「どこまでも夢」であるところがなんともメンタルである。
白い廊下のどこまでも夢 七
ジオラマの湾へ月光鉄路へも 尖
ジオラマという目に見える具体的な虚構へ転ずることにより出口とした。月の座であり、ここから秋の句が続く。
ジオラマの湾へ月光鉄路へも 尖
フィリピン沖にふたつ台風 り
前句の硬質な緊張感に対し、まったく別の脅威を付けた。
フィリピン沖にふたつ台風 り
ナウ 洪鐘は座禅のかたち紅葉山 子
釣り鐘が座禅のかたちだというのは、少なくとも私は聞いたことがない。山深き禅寺なのだろうが、前句との取り合わせにより、鎮魂、慰撫の雰囲気が感じられる。ここまで秋。
洪鐘は座禅のかたち紅葉山 子
鳩サブレーで虫押さへする ぎ
生半可な参禅客なのだろうか。空腹に堪えかね鳩サブレーを頬張っている。
鳩サブレーで虫押さへする ぎ
めぐりきてドゴール帽につもる雪 男
ここまでの進行の中で雪が未出だったので、捌き人のリクエストで雪とした。鳩サブレーの平らな感じと、虫押さえの語感とドゴール帽の形状が響き合って妙に可笑しい。
めぐりきてドゴール帽につもる雪 男
修正写真何を消そうか 博
前句「つもる雪」から「何を消そうか」は導かれるとは思うが、「修正写真」とまではなかなか出ない。あったことをなかったことにするのだろう。
修正写真何を消そうか 博
濃きうすき光と影をあそび花 七
前句の逡巡が光と影の移ろいそのものであるかのような花の座である。「光と影」の両方にかかるであろう連体修飾のたたみかけ「濃きうすき」と、連用修飾「あそび」を解決せずにただ「花」と置いたことにより玄妙なゆらぎが感じられる。
濃きうすき光と影をあそび花 七
遠足同士すれ違ひたる 尖
そのような光と影のなかを、明暗を分けるかのように遠足の集団がすれ違う。一対一の個人ではなく、集団であることが一抹の不吉さを感じさせる。挙句といえばめでたい春の句と相場が決まっているのだが、めでたさの中の微量の不吉が印象的である。
発句は西川火尖さんから頂いた。飼い始めに名をつけたものの、その後一度もその名で呼ばれたことのない金魚と名付け親の移り気を詠んで過不足ない。ちょっと変わった語順だが「名をつけて呼ぶことのなき金魚かな」としてしまうと、名をつけることにも「なき」がかかって読まれてしまう可能性が生じるし、なにより「名を呼ぶ」ことの情愛が感じられなくなってしまうのだ。
つけて名を呼ぶことのなき金魚かな 火尖
レゴの欠片を拾ふ明易 ゆかり
脇は発句と同季、同じ場所を詠み挨拶とする。激務から帰宅すると、そんな金魚の名付け親くんは安らかに眠っていて、夜は白み始めている。しまい忘れたレゴの欠片を拾って俺も明日に備えよう、という情景を見ているかのように付けているが、空想的挨拶である。
レゴの欠片を拾ふ明易 ゆかり
てつぺんを翔ちたる翼ぶ厚くて 佳世子
発句と脇の挨拶を離れ、第三こそが付け合いの始まりであり、「さて」という場面転換が求められる。鳥類らしきものの唐突な飛翔に転じていて、第三の役割をきっちりこなしている。夏が二句続いたので雑(ぞう。無季)としている。小久保佳世子さんは句歴三十年以上のベテラン俳人だが、連句は初めてとのこと。なお、この句を第三として頂いたときには気がつかなかったのだが、脇の「欠片」からホトトギスの鳴き声「てっぺんかけたか」が導かれたのではないか、とも思う。
てつぺんを翔ちたる翼ぶ厚くて 佳世子
野ねずみひそむ秋草の原 ゆらぎ
前句の飛翔の原因ともこれからの着地先ともとれるが、危険の多い自然を詠んでいる。月の座を前にここから秋。俳句は叙景、短歌は叙情と図式的に考えがちだが、大室ゆらぎさんは三十一文字をフルに使って叙景できる歌人である。
野ねずみひそむ秋草の原 ゆらぎ
姉妹して月のひかりをすがめたる 鯖男
月の座である。この「姉妹して」は人間のようにも野ねずみのようにもとれる。ここでは擬人化されたファンタジーの景として捉えよう。亀山鯖男さんは、私が初学の頃同じ同人誌にいた人で、硬質なユーモアの感じられる句が私にとって当時憧れだった。
姉妹して月のひかりをすがめたる 鯖男
口頭試問迫るうそ寒 正博
このように付けると「姉妹して」はまぎれもなく人間である。姉妹が互いに問題を出し合って口頭試問に備える景が浮かぶ。小池正博さんは関西川柳界、連句界の中心的存在であるが、『川柳スパイラル』東京句会の折におそるおそる声をかけたら気軽に参加して下さった。ありがたい。
口頭試問迫るうそ寒 正博
ウ 滑舌の酷さを買はれ金庫番 七
初折裏から名残表の最後までがあばれどころといわれ、多少羽目をはずしたりもして諧謔を尽くす。前句「口頭試問」から「滑舌の酷さ」が導かれ、まさかの金庫番である。七さんはどういう経緯で「みしみし」に辿り着いたのだかよく思い出せないが、かれこれ十年ほどつかず離れずずっと連衆であり続けている。
滑舌の酷さを買はれ金庫番 七
カションカションと逃げるロボット 尖
前句の「滑舌」「買はれ」「金庫番」とK音で頭韻を揃えてきたのに導かれたのか「カションカション」というしょぼいオノマトペが絶妙で、なんとも弱っちそうである。
カションカションと逃げるロボット 尖
着ぐるみをはづして鯛焼をもらひ り
前句の「ロボット」を着ぐるみと見立て、出番が終わって一服しているものとした。「鯛焼」で冬。
着ぐるみをはづして鯛焼をもらひ り
障子を破る猫の慕し 子
仮に魚に猫であればかなりのベタだが、「鯛焼」に猫というのはひねりがある。「障子」で冬を続けている。
障子を破る猫の慕し 子
絶え絶えに声はつづいて鄙の宿 ぎ
連句の場合、一句で完結して言い過ぎると展開しなくなってしまう。「絶え絶えに声はつづいて」はいい具合に疎で、前句に付けば猫の声だし、次句と付けばまた別のように読める。
絶え絶えに声はつづいて鄙の宿 ぎ
別れの朝のコーヒーにニド 男
前句の「絶え絶えに声はつづいて」は次句とのつながりにより性愛の句となる。「ニド」がなんとも懐かしい。半世紀ほど前、植物性油脂のスジャータなどが出回る前のごく一時期、過渡期的に粉末のクリープとかニドとかが出回った。当然コーヒー本体も粉末だろう。そんな「鄙の宿」なのである。
別れの朝のコーヒーにニド 男
ナオミちやんの足を縛つたまま放つ 博
「ニド」が出回っていた頃、「ヘドバとダビデ」という外国人デュオによる「ナオミの夢」というそこそこヒットした曲があった。前句「別れの朝」から「ナオミ・カム・バック・トゥ・ミー」という歌詞のその曲が導かれたのだと思うが、それだけにとどまらない。わずか数年くだると谷崎潤一郎『痴人の愛』の登場人物から芸名とした谷ナオミという緊縛系女優がいて、そんな時代がぱっくりとここに放置されている。
ナオミちやんの足を縛つたまま放つ 博
ストリ-トビュ-に怪し人影 七
グーグル・ストリ-ト・ビュ-の現代にまで放置されていたのだろうか。「怪し人影」は「怪しき」もしくは「怪しい」ではないのかという文法的な微妙さがあるのだが、韻文や講談ではこういう言い方もするのではないか。調べてみると
(その1)上代に「美し国」という言い方があること。折口信夫『万葉集辞典』には、<うまし国・うまし処女のうましは、形容詞の原始修飾形で、活用のできた後も、終止形に似た原始形を使ふのである>とある。
(その2)「なつかしのメロディー」「いとしのエリー」などの「の」を含む言い方も実は同じ使い方であること。
が分かり、「怪し人影」のまま頂くこととする。
ストリ-トビュ-に怪し人影 七
しわくちやの紙伸しをる朧月 尖
月の座である。監視カメラの怪しい人影が月下になにやらしわくちやの紙を伸している。初折裏では通常、夏または冬の月を詠むものだが、進行上花の座に近接したので春の月とした。ここから春の句が続く。
しわくちやの紙伸しをる朧月 尖
現代貨幣理論うららか り
前句「しわくちやの紙」を紙幣と捉え、なにかと話題のMMTで付けた。MMTは、自国通貨建ての借金をどんなに増やしても、政府が通貨を発行して返済すればよいので国家破たんはないとする考え方で、消費税値上げの代わりにそれで景気回復すればいいではないかという主張の論拠となっている。希望的観測で「うららか」としている。
現代貨幣理論うららか り
花衣かぶせ亡骸若返る 子
花の座である。ホラー映画にありがちなパターンとして、絶命することにより取り憑いていた怪物が消滅し、本来のきれいな死に顔に戻るというのがあるが、このように付けることにより前句の「現代貨幣理論」が取り憑いていた怪物のようにも思われてくる。
ついでながら、「現代貨幣理論」のようなものが句材となり得るのかについて、ひとこと触れておこう。連句は室町時代に始まったものだが、その前身として「連歌」というものがある。連歌はやまとことばしか用いてはならない雅な文芸であったが、時代が下るにつれそれでは物足りなくなり、漢語や俗語を自在に用い、より諧謔を重視する「俳諧之連歌」に取って代わられ、後者が明治時代以降「連句」と呼ばれるようになった。つまり連句は発生の時点で、なんでもありなのである。そのような自由度の中で、片や「ナオミちやん」が出てくれば片や「現代貨幣理論」も出てきて、釣り合いを保っているのである。
花衣かぶせ亡骸若返る 子
ロバのパン屋の歌に反応 ぎ
前句の「亡骸」は若返ってそのまま蘇生したようである。巡回販売の歌に反応している。ちなみに残念ながら私はロバのパン屋の実物を見たことはない。春を離れている。
ロバのパン屋の歌に反応 ぎ
ナオ 関取のひとりふたりと目を覚ます 男
厳しい稽古の合間に昼寝をしていた関取がロバのパン屋の歌に反応して「呼んでいる…」「呼んでいる…」と目を覚ます、いささか薄気味悪い光景である。打越にかかるような気もするが、そこはあばれどころの勢いである。
関取のひとりふたりと目を覚ます 男
雨の匂ひのまじる潮騒 博
しばらく人事句が続いてしまったので、叙景により転じている。
雨の匂ひのまじる潮騒 博
あまやかな夕べを過ぐる舌触り 七
嗅覚と聴覚を刺激する前句に対し、味覚と触覚で応じている。前句や次句次第でどうとでもとれる、うまい付け句である。
あまやかな夕べを過ぐる舌触り 七
手のひらぢかに何を書いたの 尖
前句を甘美な性愛の句ととらえている。舌を這わせて「ばか」とでも書いたのだろうか。
手のひらぢかに何を書いたの 尖
心臓へそのまま続く運命線 り
打越の「舌」は離れ、運命線を書いたとしている。情死行のようでもある。
心臓へそのまま続く運命線 り
暗きところにじつと神馬は 子
前句「運命線」から導かれたであろう「神馬」が「暗きところにじつと」しているところに趣がある。
暗きところにじつと神馬は 子
旧臘の酔ひに若水沁み渡る ぎ
「神馬」が出たのでめでたく正月としているが、しょぼいことを格調高く詠み上げている。 「旧臘」は去年の十二月。
旧臘の酔ひに若水沁み渡る ぎ
選挙に落ちて枯木みつめる 男
折しも現実社会では参議院選挙があった。
選挙に落ちて枯木みつめる 男
メンタルのバリアフリーが必要に 博
その現実社会の参議院選挙では難病の方二名が当選し国会議事堂のバリアフリー化が話題になったが、こちらは俳諧。「メンタルのバリアフリー」というなんともブラックな曰く言い難い概念が提示された。
メンタルのバリアフリーが必要に 博
白い廊下のどこまでも夢 七
バリアフリーといえばまずは廊下とか階段であるが、「白い廊下」であり「どこまでも夢」であるところがなんともメンタルである。
白い廊下のどこまでも夢 七
ジオラマの湾へ月光鉄路へも 尖
ジオラマという目に見える具体的な虚構へ転ずることにより出口とした。月の座であり、ここから秋の句が続く。
ジオラマの湾へ月光鉄路へも 尖
フィリピン沖にふたつ台風 り
前句の硬質な緊張感に対し、まったく別の脅威を付けた。
フィリピン沖にふたつ台風 り
ナウ 洪鐘は座禅のかたち紅葉山 子
釣り鐘が座禅のかたちだというのは、少なくとも私は聞いたことがない。山深き禅寺なのだろうが、前句との取り合わせにより、鎮魂、慰撫の雰囲気が感じられる。ここまで秋。
洪鐘は座禅のかたち紅葉山 子
鳩サブレーで虫押さへする ぎ
生半可な参禅客なのだろうか。空腹に堪えかね鳩サブレーを頬張っている。
鳩サブレーで虫押さへする ぎ
めぐりきてドゴール帽につもる雪 男
ここまでの進行の中で雪が未出だったので、捌き人のリクエストで雪とした。鳩サブレーの平らな感じと、虫押さえの語感とドゴール帽の形状が響き合って妙に可笑しい。
めぐりきてドゴール帽につもる雪 男
修正写真何を消そうか 博
前句「つもる雪」から「何を消そうか」は導かれるとは思うが、「修正写真」とまではなかなか出ない。あったことをなかったことにするのだろう。
修正写真何を消そうか 博
濃きうすき光と影をあそび花 七
前句の逡巡が光と影の移ろいそのものであるかのような花の座である。「光と影」の両方にかかるであろう連体修飾のたたみかけ「濃きうすき」と、連用修飾「あそび」を解決せずにただ「花」と置いたことにより玄妙なゆらぎが感じられる。
濃きうすき光と影をあそび花 七
遠足同士すれ違ひたる 尖
そのような光と影のなかを、明暗を分けるかのように遠足の集団がすれ違う。一対一の個人ではなく、集団であることが一抹の不吉さを感じさせる。挙句といえばめでたい春の句と相場が決まっているのだが、めでたさの中の微量の不吉が印象的である。
2019年7月28日日曜日
七吟歌仙 つけて名をの巻
つけて名を呼ぶことのなき金魚かな 火尖
レゴの欠片を拾ふ明易 ゆかり
てつぺんを翔ちたる翼ぶ厚くて 佳世子
野ねずみひそむ秋草の原 ゆらぎ
姉妹して月のひかりをすがめたる 鯖男
口頭試問迫るうそ寒 正博
ウ 滑舌の酷さを買はれ金庫番 七
カションカションと逃げるロボット 尖
着ぐるみをはづして鯛焼をもらひ り
障子を破る猫の慕し 子
絶え絶えに声はつづいて鄙の宿 ぎ
別れの朝のコーヒーにニド 男
ナオミちやんの足を縛つたまま放つ 博
ストリ-トビュ-に怪し人影 七
しわくちやの紙伸しをる朧月 尖
現代貨幣理論うららか り
花衣かぶせ亡骸若返る 子
ロバのパン屋の歌に反応 ぎ
ナオ 関取のひとりふたりと目を覚ます 男
雨の匂ひのまじる潮騒 博
あまやかな夕べを過ぐる舌触り 七
手のひらぢかに何を書いたの 尖
心臓へそのまま続く運命線 り
暗きところにじつと神馬は 子
旧臘の酔ひに若水沁み渡る ぎ
選挙に落ちて枯木みつめる 男
メンタルのバリアフリーが必要に 博
白い廊下のどこまでも夢 七
ジオラマの湾へ月光鉄路へも 尖
フィリピン沖にふたつ台風 り
ナウ 洪鐘は座禅のかたち紅葉山 子
鳩サブレーで虫押さへする ぎ
めぐりきてドゴール帽につもる雪 男
修正写真何を消そうか 博
濃きうすき光と影をあそび花 七
遠足同士すれ違ひたる 尖
起首:2019年 7月13日(土)
満尾:2019年 7月28日(日)
捌き:ゆかり
レゴの欠片を拾ふ明易 ゆかり
てつぺんを翔ちたる翼ぶ厚くて 佳世子
野ねずみひそむ秋草の原 ゆらぎ
姉妹して月のひかりをすがめたる 鯖男
口頭試問迫るうそ寒 正博
ウ 滑舌の酷さを買はれ金庫番 七
カションカションと逃げるロボット 尖
着ぐるみをはづして鯛焼をもらひ り
障子を破る猫の慕し 子
絶え絶えに声はつづいて鄙の宿 ぎ
別れの朝のコーヒーにニド 男
ナオミちやんの足を縛つたまま放つ 博
ストリ-トビュ-に怪し人影 七
しわくちやの紙伸しをる朧月 尖
現代貨幣理論うららか り
花衣かぶせ亡骸若返る 子
ロバのパン屋の歌に反応 ぎ
ナオ 関取のひとりふたりと目を覚ます 男
雨の匂ひのまじる潮騒 博
あまやかな夕べを過ぐる舌触り 七
手のひらぢかに何を書いたの 尖
心臓へそのまま続く運命線 り
暗きところにじつと神馬は 子
旧臘の酔ひに若水沁み渡る ぎ
選挙に落ちて枯木みつめる 男
メンタルのバリアフリーが必要に 博
白い廊下のどこまでも夢 七
ジオラマの湾へ月光鉄路へも 尖
フィリピン沖にふたつ台風 り
ナウ 洪鐘は座禅のかたち紅葉山 子
鳩サブレーで虫押さへする ぎ
めぐりきてドゴール帽につもる雪 男
修正写真何を消そうか 博
濃きうすき光と影をあそび花 七
遠足同士すれ違ひたる 尖
起首:2019年 7月13日(土)
満尾:2019年 7月28日(日)
捌き:ゆかり
2019年7月1日月曜日
七吟歌仙 日傘さしの巻 評釈
日傘さし一個の点となりにけり 茱萸
発句は歌人の茱萸さんから頂いた。自身を見られる対象として景の中に配置した絵画的な句である。「けり」により発句として立ち、なんとも印象鮮明である。
日傘さし一個の点となりにけり 茱萸
遠近法で続く万緑 ゆかり
脇は発句と同じ場所、同じ時刻で詠み挨拶とする。絵画的な発句に対し美術用語を用い、背景を描くように奥行きを加えた。「万緑」は季語であるとともに、漢詩の「万緑叢中紅一点」から派生して人口に膾炙した「紅一点」を踏まえ、凜とした発句の人物の印象を言外にほのめかしている。
遠近法で続く万緑 ゆかり
地球儀の海のあたりに耳あてて 小奈生
第三は発句と脇の挨拶から離れ、付け合いのほんとうの開始となる。遠近法の消失点へ向かう数多の直線に対し、地球儀のイメージは確かに遠い。「海のあたりに耳あてて」というのも意表をついている。この人は一体なにをやっているのだろう。小奈生さんは連句人なので、以下ほとんど無注文で自由に付けて頂いた。
地球儀の海のあたりに耳あてて 小奈生
やがて安らぐしろい神経 四羽
前句のよく分からない行動は、平常心を取り戻そうとしていたようである。「しろい」がなんとも繊細である。あえて景のない句で付けて変化としている。四羽さんは俳人で、ジャズ・ミュージシャンでもある。
やがて安らぐしろい神経 四羽
自転車で遅番に行く月明り 媚庵
月の座であるが、打越に「地球儀」があるために丸い月は出せず、かたちに障らない「月明り」としている。前句の世慣れしない人物が遅番で出勤する。媚庵さんはここではほぼ常連で、歌人にして俳人。
自転車で遅番に行く月明り 媚庵
薄原より魔女の飛び立ち 恵
うっ、表六句で「魔女」を出しますか、という気もするが、それが恵さんの持ち味だし、それを通すのも「みしみし」の持ち味である。巨大な月の前を飛ぶ自転車のシルエットの有名な映画ポスターがあるが、打越の人物を離れそんな魔女の姿が浮かぶ。恵さんは久々の参加で、俳人。連句ではぐいぐいと変なものを突っ込んでくる。
薄原より魔女の飛び立ち 恵
ウ カプセルに遺骨を詰める暮の秋 桐子
ここから初折裏で、あばれどころとなる。前句の魔女、一体なにをやらかして飛び去ったものだか…。「カプセル」がSFのようである。桐子さんは柳人。
カプセルに遺骨を詰める暮の秋 桐子
等身大のベティ・デイヴィス 萸
ベティ・デイヴィスはアメリカの女優。ウィキペディアによれば、キャサリン・ヘプバーンと並ぶ、ハリウッド映画史上屈指の演技派女優で、尊敬をこめて「フィルムのファースト・レディ」と呼ばれた由。前句「カプセル」の窮屈さから導かれたであろう「等身大の」は、ベティ・デイヴィス本人の形容であれば女優ではない素顔のといった意味になり得るし、そのものではないレプリカである可能性もある。作者・茱萸さんの弁によれば晩年の作品「何がジェーンに起こったか」における白塗りの怪演ぶりから着想を得たとのことである。
等身大のベティ・デイヴィス 萸
値札ある水族館を冷やかして り
東京タワーの下の方には比較的有名な蝋人形館の他に水族館があり、知る人ぞ知る話ではあるが、この水族館で展示される魚類は値札のついた売り物なのだった。蝋人形館に等身大のベティ・デイヴィスが本当にあったかは知らない。またこの水族館は二〇一八年九月三〇日をもって閉館となった。もっとも句としては東京タワーも蝋人形館も出て来ないので、そんなものをビビビと読み取れるとしたらよほどの東京タワーおたくだろう。普通に読むと、休日のベティ・デイヴィスが一風変わった水族館に立ち寄り、ベティ・デイヴィスと気づかれつつも何も買わず次から次へと水槽を眺めて行く景だと思うし、それでよい。気分としては、恋の呼び出しである。
値札ある水族館を冷やかして り
降れば降るほど逢ひたいと言ふ 生
前句の水っぽさを受けて、長雨に転じている。悶々とした恋人同士の電話だろうか。
降れば降るほど逢ひたいと言ふ 生
夜の土に二人で下りて落書きし 羽
舗装された道路から下りて橋脚とか塀とかそんなものに落書きをしているのだろうか。逢うには逢ったが、道を踏み外している。
夜の土に二人で下りて落書きし 羽
ヘリコプターがよぎる寒空 庵
前句の二人は逃亡中のようである。緊迫した展開である。恋を離れている。
ヘリコプターがよぎる寒空 庵
着膨れて左手重きサイコガン 恵
検索するとサイコガンとは、寺沢武一氏の漫画『コブラ』の主人公である宇宙海賊コブラのパイソン77マグナムと並ぶ武器である。寺沢武一氏も知らなければ『コブラ』も知らないが、前句の緊迫した展開を受けるにはこのくらいの武装が必要だろう。「それ、違うじゃろ」という突っ込みを待つ季語「着膨れて」が妙に可笑しい。
着膨れて左手重きサイコガン 恵
夜が足りない緞帳の裏 子
前句を芝居の演目とした付けだろう。幕が下りたあと、翌朝までにあわただしく撤収し移動しなければいけないのだ。
夜が足りない緞帳の裏 子
初凪の岬を一周廻る猿 茱
「初凪」と正月の季語なので、この猿は野生ではなく家々を廻る猿回しの猿だろう。前句の旅の一座の雰囲気を受けて付けている。
初凪の岬を一周廻る猿 茱
灯台しろくうららかにして り
前句の「岬」を受け単純な叙景で転じている。ここから春。
灯台しろくうららかにして り
バザールのベルベル人と花の下 生
花の座であるが、「バザールのベルベル人」とは変なものを出してきた。検索するとベルベル人とは、北アフリカ(マグレブ)の広い地域に古くから住み、アフロ・アジア語族のベルベル諸語を母語とする人々の総称とのこと。とはいえ、花の座なので北アフリカの景ではなく、インバウンドな当節日本事情なのだろう。句としても濁音の効果により異国情緒があり、前句の「灯台しろく」に対しカラフルな印象がある。
バザールのベルベル人と花の下 生
おほきな箱に蝶がびつしり 羽
バザールの売り物だろうか。このあたり虚実入り乱れてじつに面白い。
おほきな箱に蝶がびつしり 羽
ナオ モニターに迷彩服のやくみつる 庵
漫画家・やくみつるには日本昆虫協会の副会長という一面があり、『やくみつるの昆虫図鑑』(成美堂出版)という著書もある。であれば観察ないし採集のため、迷彩服に身を包んでいるのであろう。
モニターに迷彩服のやくみつる 庵
渋谷スクランブル交差点 恵
連句の評釈というのは雑学の宝庫なのではないかと思わなくもないが、これまた検索すると渋谷スクランブル交差点の大画面は現在「渋谷駅前ビジョン」「DHC Channel」「Q'S EYE」「グリコビジョン」「109フォーラムビジョン」があり、五面シンクロもできるらしい。迷彩服のやくみつるが一斉に映し出されることもあるのだろう。それにしても恵さんの付句、たった一語で十四音を使い切る大胆なわざである。
渋谷スクランブル交差点 恵
うつすらと火薬匂ひて月涼し 子
雑踏に一抹の不吉さを感じ取るのは順当なところだろう。月涼しが効いている。言葉尻だけを捉えれば、打越の「迷彩服」と「火薬」は障らなくもないが、堂々めぐりになっている訳ではないのでよしとする。
うつすらと火薬匂ひて月涼し 子
赤い貼絵にいそしむ画伯 萸
「火」から「赤」という筋である。
赤い貼絵にいそしむ画伯 萸
ポルシェとかボリシェヴィキとか走り抜け り
赤いものをふたつ並べて走り抜けた。とっとと去らないと「交差点では私の車がミラーこすったと」で三句前に障るではないかなどと言われてしまう。
ポルシェとかボリシェヴィキとか走り抜け り
微調整する景気判断 生
前句の革命的左翼に対し、「景気判断」というなんとも資本主義的なもので付けている。
微調整する景気判断 生
裏切の宇宙怪獣やるせなし 羽
「宇宙怪獣」とは面白いところを突いてきた。地球上に東西の目に見える対立があった時代であれば、「宇宙怪獣」という共通の敵に対し地球人も一丸となって結束できたのだろうが、冷戦後のグローバル化した現代においては、目に見えない分断が進んで共通の敵という概念を設定しづらく、「宇宙怪獣」も商売上がったりなのだ。
裏切の宇宙怪獣やるせなし 羽
じゃがたら芋を大鍋に煮る 庵
着ぐるみを脱いで転職したのだろうか。ここから秋の句が続く。
じゃがたら芋を大鍋に煮る 庵
水澄みて洗濯板の硬き音 恵
質素な暮らし向きである。
水澄みて洗濯板の硬き音 恵
こめかみの奥きつつきの来て 子
前句の「硬き音」を受けて、頭痛の描写に「きつつき」を用いている。k音、t音の連鎖がなんとも硬い。
こめかみの奥きつつきの来て 子
体幹は洞となり果て後の月 萸
きつつきにつつかれ続け胴が洞と成り果てた。月の座であるが、秋も四句目なので「後の月」としている。
体幹は洞となり果て後の月 萸
遠めがねにて見やる行くすゑ り
空洞のものとして望遠鏡を出した。わざわざ古風な言い方にしたので人によっては遠眼鏡事件を思い出すかも知れない。
遠めがねにて見やる行くすゑ り
ナウ しんしんと雪の音聞くカテドラル 生
名残裏である。これは前句にいう「行くすゑ」の景だろうか。前句「見やる」に対し「音聞く」で付けている。また、全体を見渡しここまでの展開の中で未出の「雪」で付け、締めにかかっている。
しんしんと雪の音聞くカテドラル 生
二十世紀の冬帽傾ぐ 羽
打越に「行くすゑ」がある状況下で微妙だが、大聖堂だけに歴史的な陳列物などもあるのだろう。
二十世紀の冬帽傾ぐ 羽
蒼穹に輪を描くブルーインパルス 庵
「ブルーインパルス」は航空自衛隊の曲芸飛行隊。一九六四年の東京オリンピック開会式で青空に描いた五輪は国民の度肝を抜いたというが、当時幼稚園生だった私の物心には残念ながら残っていない。できごととしては十月十日のことだが、連句で秋の句を出すと三句続けなければならなくなるので、巧みに季語を避けている。
蒼穹に輪を描くブルーインパルス 庵
赤で記せし恋猫の地図 恵
前句の「蒼穹」もしくは「ブルー」に対し、「赤」で付けている。「恋猫の地図」が人間界の青線地帯、赤線地帯を思い起こさせもする。名残表四句目に「赤」は既出だが、描いている世界が全然異なるので問題ないだろう。ここから挙句まで春の句が続く。
赤で記せし恋猫の地図 恵
あしあとにひかり生まれる花の朝 子
花の座である。花を直接愛でるのではなく、前句を受けつつひらがなを多用した「あしあとにひかり生まれる」と取り合わせることにより、幻想的な生命力が感じられる。
あしあとにひかり生まれる花の朝 子
みんな似てゐる四月の子ども 萸
挙句である。新入園児もしくは新入学児だろうか。もちろん子どもはひとりひとりみな違うが、それがはっきりしてくるのはこれから始まる集団生活の中である。まずはみんな似てゐるものとして、そのエネルギーを受け止めよう。花の座の句と相まって、子どもの生命力が満ちあふれている。なお、近くに月の座があると「月」の字が気になったりするものだが、挙句であれば問題ないだろう。
発句は歌人の茱萸さんから頂いた。自身を見られる対象として景の中に配置した絵画的な句である。「けり」により発句として立ち、なんとも印象鮮明である。
日傘さし一個の点となりにけり 茱萸
遠近法で続く万緑 ゆかり
脇は発句と同じ場所、同じ時刻で詠み挨拶とする。絵画的な発句に対し美術用語を用い、背景を描くように奥行きを加えた。「万緑」は季語であるとともに、漢詩の「万緑叢中紅一点」から派生して人口に膾炙した「紅一点」を踏まえ、凜とした発句の人物の印象を言外にほのめかしている。
遠近法で続く万緑 ゆかり
地球儀の海のあたりに耳あてて 小奈生
第三は発句と脇の挨拶から離れ、付け合いのほんとうの開始となる。遠近法の消失点へ向かう数多の直線に対し、地球儀のイメージは確かに遠い。「海のあたりに耳あてて」というのも意表をついている。この人は一体なにをやっているのだろう。小奈生さんは連句人なので、以下ほとんど無注文で自由に付けて頂いた。
地球儀の海のあたりに耳あてて 小奈生
やがて安らぐしろい神経 四羽
前句のよく分からない行動は、平常心を取り戻そうとしていたようである。「しろい」がなんとも繊細である。あえて景のない句で付けて変化としている。四羽さんは俳人で、ジャズ・ミュージシャンでもある。
やがて安らぐしろい神経 四羽
自転車で遅番に行く月明り 媚庵
月の座であるが、打越に「地球儀」があるために丸い月は出せず、かたちに障らない「月明り」としている。前句の世慣れしない人物が遅番で出勤する。媚庵さんはここではほぼ常連で、歌人にして俳人。
自転車で遅番に行く月明り 媚庵
薄原より魔女の飛び立ち 恵
うっ、表六句で「魔女」を出しますか、という気もするが、それが恵さんの持ち味だし、それを通すのも「みしみし」の持ち味である。巨大な月の前を飛ぶ自転車のシルエットの有名な映画ポスターがあるが、打越の人物を離れそんな魔女の姿が浮かぶ。恵さんは久々の参加で、俳人。連句ではぐいぐいと変なものを突っ込んでくる。
薄原より魔女の飛び立ち 恵
ウ カプセルに遺骨を詰める暮の秋 桐子
ここから初折裏で、あばれどころとなる。前句の魔女、一体なにをやらかして飛び去ったものだか…。「カプセル」がSFのようである。桐子さんは柳人。
カプセルに遺骨を詰める暮の秋 桐子
等身大のベティ・デイヴィス 萸
ベティ・デイヴィスはアメリカの女優。ウィキペディアによれば、キャサリン・ヘプバーンと並ぶ、ハリウッド映画史上屈指の演技派女優で、尊敬をこめて「フィルムのファースト・レディ」と呼ばれた由。前句「カプセル」の窮屈さから導かれたであろう「等身大の」は、ベティ・デイヴィス本人の形容であれば女優ではない素顔のといった意味になり得るし、そのものではないレプリカである可能性もある。作者・茱萸さんの弁によれば晩年の作品「何がジェーンに起こったか」における白塗りの怪演ぶりから着想を得たとのことである。
等身大のベティ・デイヴィス 萸
値札ある水族館を冷やかして り
東京タワーの下の方には比較的有名な蝋人形館の他に水族館があり、知る人ぞ知る話ではあるが、この水族館で展示される魚類は値札のついた売り物なのだった。蝋人形館に等身大のベティ・デイヴィスが本当にあったかは知らない。またこの水族館は二〇一八年九月三〇日をもって閉館となった。もっとも句としては東京タワーも蝋人形館も出て来ないので、そんなものをビビビと読み取れるとしたらよほどの東京タワーおたくだろう。普通に読むと、休日のベティ・デイヴィスが一風変わった水族館に立ち寄り、ベティ・デイヴィスと気づかれつつも何も買わず次から次へと水槽を眺めて行く景だと思うし、それでよい。気分としては、恋の呼び出しである。
値札ある水族館を冷やかして り
降れば降るほど逢ひたいと言ふ 生
前句の水っぽさを受けて、長雨に転じている。悶々とした恋人同士の電話だろうか。
降れば降るほど逢ひたいと言ふ 生
夜の土に二人で下りて落書きし 羽
舗装された道路から下りて橋脚とか塀とかそんなものに落書きをしているのだろうか。逢うには逢ったが、道を踏み外している。
夜の土に二人で下りて落書きし 羽
ヘリコプターがよぎる寒空 庵
前句の二人は逃亡中のようである。緊迫した展開である。恋を離れている。
ヘリコプターがよぎる寒空 庵
着膨れて左手重きサイコガン 恵
検索するとサイコガンとは、寺沢武一氏の漫画『コブラ』の主人公である宇宙海賊コブラのパイソン77マグナムと並ぶ武器である。寺沢武一氏も知らなければ『コブラ』も知らないが、前句の緊迫した展開を受けるにはこのくらいの武装が必要だろう。「それ、違うじゃろ」という突っ込みを待つ季語「着膨れて」が妙に可笑しい。
着膨れて左手重きサイコガン 恵
夜が足りない緞帳の裏 子
前句を芝居の演目とした付けだろう。幕が下りたあと、翌朝までにあわただしく撤収し移動しなければいけないのだ。
夜が足りない緞帳の裏 子
初凪の岬を一周廻る猿 茱
「初凪」と正月の季語なので、この猿は野生ではなく家々を廻る猿回しの猿だろう。前句の旅の一座の雰囲気を受けて付けている。
初凪の岬を一周廻る猿 茱
灯台しろくうららかにして り
前句の「岬」を受け単純な叙景で転じている。ここから春。
灯台しろくうららかにして り
バザールのベルベル人と花の下 生
花の座であるが、「バザールのベルベル人」とは変なものを出してきた。検索するとベルベル人とは、北アフリカ(マグレブ)の広い地域に古くから住み、アフロ・アジア語族のベルベル諸語を母語とする人々の総称とのこと。とはいえ、花の座なので北アフリカの景ではなく、インバウンドな当節日本事情なのだろう。句としても濁音の効果により異国情緒があり、前句の「灯台しろく」に対しカラフルな印象がある。
バザールのベルベル人と花の下 生
おほきな箱に蝶がびつしり 羽
バザールの売り物だろうか。このあたり虚実入り乱れてじつに面白い。
おほきな箱に蝶がびつしり 羽
ナオ モニターに迷彩服のやくみつる 庵
漫画家・やくみつるには日本昆虫協会の副会長という一面があり、『やくみつるの昆虫図鑑』(成美堂出版)という著書もある。であれば観察ないし採集のため、迷彩服に身を包んでいるのであろう。
モニターに迷彩服のやくみつる 庵
渋谷スクランブル交差点 恵
連句の評釈というのは雑学の宝庫なのではないかと思わなくもないが、これまた検索すると渋谷スクランブル交差点の大画面は現在「渋谷駅前ビジョン」「DHC Channel」「Q'S EYE」「グリコビジョン」「109フォーラムビジョン」があり、五面シンクロもできるらしい。迷彩服のやくみつるが一斉に映し出されることもあるのだろう。それにしても恵さんの付句、たった一語で十四音を使い切る大胆なわざである。
渋谷スクランブル交差点 恵
うつすらと火薬匂ひて月涼し 子
雑踏に一抹の不吉さを感じ取るのは順当なところだろう。月涼しが効いている。言葉尻だけを捉えれば、打越の「迷彩服」と「火薬」は障らなくもないが、堂々めぐりになっている訳ではないのでよしとする。
うつすらと火薬匂ひて月涼し 子
赤い貼絵にいそしむ画伯 萸
「火」から「赤」という筋である。
赤い貼絵にいそしむ画伯 萸
ポルシェとかボリシェヴィキとか走り抜け り
赤いものをふたつ並べて走り抜けた。とっとと去らないと「交差点では私の車がミラーこすったと」で三句前に障るではないかなどと言われてしまう。
ポルシェとかボリシェヴィキとか走り抜け り
微調整する景気判断 生
前句の革命的左翼に対し、「景気判断」というなんとも資本主義的なもので付けている。
微調整する景気判断 生
裏切の宇宙怪獣やるせなし 羽
「宇宙怪獣」とは面白いところを突いてきた。地球上に東西の目に見える対立があった時代であれば、「宇宙怪獣」という共通の敵に対し地球人も一丸となって結束できたのだろうが、冷戦後のグローバル化した現代においては、目に見えない分断が進んで共通の敵という概念を設定しづらく、「宇宙怪獣」も商売上がったりなのだ。
裏切の宇宙怪獣やるせなし 羽
じゃがたら芋を大鍋に煮る 庵
着ぐるみを脱いで転職したのだろうか。ここから秋の句が続く。
じゃがたら芋を大鍋に煮る 庵
水澄みて洗濯板の硬き音 恵
質素な暮らし向きである。
水澄みて洗濯板の硬き音 恵
こめかみの奥きつつきの来て 子
前句の「硬き音」を受けて、頭痛の描写に「きつつき」を用いている。k音、t音の連鎖がなんとも硬い。
こめかみの奥きつつきの来て 子
体幹は洞となり果て後の月 萸
きつつきにつつかれ続け胴が洞と成り果てた。月の座であるが、秋も四句目なので「後の月」としている。
体幹は洞となり果て後の月 萸
遠めがねにて見やる行くすゑ り
空洞のものとして望遠鏡を出した。わざわざ古風な言い方にしたので人によっては遠眼鏡事件を思い出すかも知れない。
遠めがねにて見やる行くすゑ り
ナウ しんしんと雪の音聞くカテドラル 生
名残裏である。これは前句にいう「行くすゑ」の景だろうか。前句「見やる」に対し「音聞く」で付けている。また、全体を見渡しここまでの展開の中で未出の「雪」で付け、締めにかかっている。
しんしんと雪の音聞くカテドラル 生
二十世紀の冬帽傾ぐ 羽
打越に「行くすゑ」がある状況下で微妙だが、大聖堂だけに歴史的な陳列物などもあるのだろう。
二十世紀の冬帽傾ぐ 羽
蒼穹に輪を描くブルーインパルス 庵
「ブルーインパルス」は航空自衛隊の曲芸飛行隊。一九六四年の東京オリンピック開会式で青空に描いた五輪は国民の度肝を抜いたというが、当時幼稚園生だった私の物心には残念ながら残っていない。できごととしては十月十日のことだが、連句で秋の句を出すと三句続けなければならなくなるので、巧みに季語を避けている。
蒼穹に輪を描くブルーインパルス 庵
赤で記せし恋猫の地図 恵
前句の「蒼穹」もしくは「ブルー」に対し、「赤」で付けている。「恋猫の地図」が人間界の青線地帯、赤線地帯を思い起こさせもする。名残表四句目に「赤」は既出だが、描いている世界が全然異なるので問題ないだろう。ここから挙句まで春の句が続く。
赤で記せし恋猫の地図 恵
あしあとにひかり生まれる花の朝 子
花の座である。花を直接愛でるのではなく、前句を受けつつひらがなを多用した「あしあとにひかり生まれる」と取り合わせることにより、幻想的な生命力が感じられる。
あしあとにひかり生まれる花の朝 子
みんな似てゐる四月の子ども 萸
挙句である。新入園児もしくは新入学児だろうか。もちろん子どもはひとりひとりみな違うが、それがはっきりしてくるのはこれから始まる集団生活の中である。まずはみんな似てゐるものとして、そのエネルギーを受け止めよう。花の座の句と相まって、子どもの生命力が満ちあふれている。なお、近くに月の座があると「月」の字が気になったりするものだが、挙句であれば問題ないだろう。
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