前号では、俳人にとって個性とは時としてアルゴリズム化された自己模倣ではないのかという話の中で、山口誓子の最晩年の句をいくつか引用した。
ではその句型をロボットに組み込んだら誓子ふうの句を詠むのか。この稿は「はいだんくん」というロボットをネット上に置いて進行していた訳だが、「はいだんくん」に誓子ふうの動詞未然形への執着句型を組み込んだところで、全体として誓子ふうにはならない。「はいだんくん」にはすでに八十個ほどの句型が仕込んであって、すでにある句型がぜんぜん誓子的でないからである。また、語彙の選択も、切れ字に対する考え方も誓子は独特である。それらを徹底的にやれば、ロボットであっても個性的な何かができるかも知れない。そもそも俳句なのだから、ニュートラルなことをやっても誰にも見向きもされないのだ。
ということを推し進めると、「はいだんくん」というただひとつのロボットを改良するのではなく、単目的なロボットを数多く作った方が、より俳句的だという考えに至る。旧作で恐縮だが、私のホームページ上の「俳句自動生成ロボット型録」には、数年来の試作が置いてある。今でも公開しているのは十二個だが、特定の俳人を模倣した六個と、単機能で実験的な六個に大別される。いくつか見よう。
「ひていくん」は山口誓子の「流氷や宗谷の門波(となみ)荒れやまず」「海に出て木枯帰るところなし」のような否定表現の要素のみをフィーチャーしたロボット。
秋の午後沖の降る日のはみ出さず ひていくん
乗つてゐる小鳥の目には鉄鎖なし
海は舞はざれど残暑は浸食す
夢に桃変身直前かも知れず
ううむ、こちらはどうか。「俳諧天狗」は、三橋敏雄をして「天狗俳諧」と言わしめた摂津幸彦の句型と、レトロで官能的な語彙をシャッフルしたもの。
三越にやはらかき眉垂れてをり 俳諧天狗
夜汽車よりあゝ彼方より南浦和
みごもりをあふれて紐が来てゐたり
からだとは指美しく折る花野
収まる場所を変えてはつぎつぎと立ち現れる摂津語彙を眺めていると、くらくらしてくる。このふたつのロボットを合体させることはできない。
(『俳壇』2016年10月号(本阿弥書店)初出)
2016年9月24日土曜日
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