2017年6月4日日曜日

『鏡』二十三号を読む

  マフラーの渦ワッフルの香を運ぶ  笹木くろえ
 勢いのある句である。「マフラーの…」「ワッフルの…」という外来語のたたみ掛けがそう感じさせるのだろうか。「フラ」「フル」という響きの繰り返しがいいのかも知れない。「マフラーの渦」がなんともエネルギーの場を感じさせる。

  大丈夫のなかにある嘘冬苺
 『鉄腕アトム』に「うそつきロボットの巻」というのがある。ロボットは本来本当のことしか言わないのだが、余命幾ばくもない老人の介護のため、わざと回路を逆にしたロボットが騒動を起こす印象深い作品である。そんなものを引き合いに出すまでもなく、老人や病人に直面した場合、私たちは嘘をつく。良心は冬苺のように酸っぱい。

  参加者を聞いて欠席闇汁会
 ほんとうの闇汁会を知るはるか以前に私は『巨人の星』で刷り込まれてしまった。漫画の話ばかりで恐縮だが、青雲高校の伴宙太が主催した闇鍋は、料理の煮えた鍋に部員めいめいが持ち寄った下駄やエキスパンダーをぶち込むのだった。伴宙太の闇汁会なら私も欠席したい。という話はさておき、微妙な感情のしこりというのはある。特に俳句のつながりというのは、俳句の作風の相性で広がってゆき、気がつくと職業も信条も生活水準もまったく異なる人と句座をともにしていたりする。俳句を作るのでなければ遠慮したいこともいろいろあろう。

  外套を外套掛けのやうに着る    村井康司
 「外套」「外套掛け」というリフレインで読ませる作りになっているが、そもそも「外套掛け」ってどんなものだろう。真っ先に思い浮かべたのは、身の丈ほどの棒の先が放射状になっていて、外套の首のところだけ引っかけるようなもの。これだと肩はだらりとなる。であれば「外套掛けのやうに着る」とは袖を通さずにぶかぶかの外套をだらっと羽織ることなのか。もしかすると男物の外套を痩身の女性が羽織っているのかもしれない。

  大寒のバリトンサックス少女隊
 バリトンサックスは首の前で管が一巻きしてあって、見るからに肺活量が要求される。それを少女が吹くのであれば不憫で悲壮なビジュアルが現出する。ましてや隊である。ましてや大寒である。

  新春の早口言葉しやししゆしえしよ
 「新人シャンソン歌手による新春シャンソンショー」みたいなものだろう。平仮名表記の「しやししゆしえしよ」がなんだかくすぐったい。

  ろくじうのてならひとして日向ぼこ
 同じようなものだが、旧仮名表記の効果を知り尽くした「ろくじうのてならひ」と「日向ぼこ」というオチのばかばかしさがじつに楽しい。技巧の垂れ流しっぷりがすばらしい。

  凍星のぐらつく乳歯心地かな    越智友亮
 乳歯が抜ける直前のぐらつくもどかしさの身体感覚の記憶と現在の不安定な心象を重ねたものだろう。現実とほど遠い理想のような「凍星」も効いているし、「ぐらつく」「心地」のG音の頭韻も効いている。

  ペン二本あひだに二物年詰る    大上朝美
 俳句などやっているとつい二物といえば二物衝撃を思い出してしまう。そのような習性をついて「二本」「二物」とたたみ掛けて下五に季語を置いている。「二物」はこの場合、二物衝撃には関係なくて、コップでも消しゴムでもいいのだが具体的に示す必要のない、採るに足らないものであろう。そのような眼前のありようというか空気感が、なんとも年の瀬だ言っているのである。

  思ふこと言はねば忘れ枇杷の花
 何人かで話をしていると、自分が口を開くタイミングを見計らっているうちに、言いたかったことを忘れてしまうことがある。枇杷の花もどこか忘れられてしまった感があるので、響き合っている。ところで人間、歳をとると、言おう言おうとタイミングを見計らっていた状態なのか、すでに発言した状態なのかが分からなくなって、同じことを何度でも何度でも言うようになる。その段階に進んだ俳句もいずれ拝見したい。

  去年今年グーグルアースいつも昼  佐川盟子
 グーグルストリートビューは、十一個のカメラを取り付けた球体を載せた車両で撮影し、その写真を縫い合わせるようにして三百六十度のパノラマにしているらしい。とはいえ、パソコンで地球外からだんだん拡大して迫ると、ついまさに今の時間の映像が見えるような錯覚を抱いてしまう。「いつも昼」はその錯覚をついて巧いこと云ったものだし、「去年今年」もばかばかしくてよい。しかしながら、二十四時間いつもまさに今の時間の映像が見えたら、それはそれで怖い。

  ふゆといふとき唇のふたしかに   八田夕刈
 外国語など習わなければそんな感覚を獲得することはなかったのかも知れないが、日本語のハ行、とりわけ「フ」の発音は難しい。ネットによれば、日本語の「フ」は、無声両唇摩擦音というもので、fの無声唇歯摩擦音ともhの無声声門摩擦音とも異なるらしい。その辺の微妙な感じを掲句は平仮名表記の駆使により言い止めている。

  暁光の身のまつさらに初湯かな
 なぜそんな時間に入浴しようとしているのか事情は定かでないが、新年のあらたまった気分を感じる。

  有りつ丈の雪撒くといふ空の色
 これは今、雪は降っているのだろうか。眼前に雪が降っているのなら空の色など触れないと思うし、これから降るのだったら「有りつ丈の」という措辞は得られないだろうとも思う。降りが小休止した状態で空の様子を見て詠んだのではないか。

  冬木立の向かうの方へ人を置く   羽田野 令
 絵とか写真とかの構図決めの場面だろうか。生活者ではなく美のための駒に過ぎない感じの「人を置く」がよい。

  親族のなまあたたかし松の内
 松の内くらいしか会わないような親族なのだろうか。ちょっとめんどくさい気分も「なまあたたかし」からは感じられる。

  満潮の小春の島へ着きにけり    谷 雅子
 ことさらに潮位に触れているのは、引き潮の時だけ歩けるとか満ち潮の時の水没し具合がうつくしいとか、いわくがある名所なのだろう。小春がなんとも穏やかな気分である。

  家族として撮られに並ぶ梅の花   佐藤文香
 照れくさくってなどと逃げ回っていても、人生の節目には家族写真に収まっておくものである。「梅の花」からは、未来のある幸福を感じる。

  どんぶり一杯の蝦蛄どんぶり一杯の殻に 寺澤一雄
 殻を剥く前の蝦蛄と、剥いたあとの殻とが、かさとして全然変わらないことに興じて句を仕立てたものだろう。

  船で来て乗る鉄道や残る菊
 途中で手段が変わることを詠んだ一雄句としては『虎刈』に「クロールで行きて帰りは平泳」があり、跋文の辻桃子を絶句させている。なんとも寺澤一雄的な句風である。

  体育館ほどに大きな家の夜業
 間仕切りの少ない農家のような空間を想像すればよいのだろうか。人間が小さく見えるだだっ広い空間の中で夜業にいそしんでいる。「体育館ほどに」の誇張が楽しい。

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