今さらながら鴇田智哉『こゑふたつ』(木の山文庫、2005年)を読む。
常日頃、俳句自動生成ロボット「ゆかりり」なんかで遊んでいるせいか、ちょっとした作句上の文体が大いに気になったりするわけだが、例えば以下の句群などどうだろう。
① 干潟とは今を忘れてゆく模様 鴇田智哉(P91,92)
② 影ばかりうまれて春のをはりけり
③ 蟻に気をとられてをれば夜になりぬ
④ 夏いつか鰭のうすれてゆく魚
⑤ 甘くしてこぼるる蜜や盆の家 (P105,106)
⑥ 虫の夜はひとみをあけて帰りけり
⑦ 送火の炎のきえてゆくはやさ
⑧ 空の絵を描いてをれば末枯るる (P110,111)
⑨ 露の手に厚みのありてうごかしぬ
⑩ 棕櫚の木の掘られて寒き冬に入る
たまたま目についた「て」を含み連続する句群である。すべて「て」ではあるが、大きく分ければ接続助詞としての「て」と、動詞に連なる「て」があり機能は異なる。
◆接続助詞としての「て」
ふたつ以上の文を接続して、順次成立、並列、原因・理由、方法・手段などを表すものである。②⑤⑥⑨⑩が該当する。/で強調してみる。
② 影ばかりうまれて/春のをはりけり
⑤ 甘くして/こぼるる蜜や盆の家
⑥ 虫の夜はひとみをあけて/帰りけり
⑨ 露の手に厚みのありて/うごかしぬ
⑩ 棕櫚の木の掘られて/寒き冬に入る
こうして並べてみると、接続助詞としての機能はほとんど感じられず、仮に韻律を無視していいのなら「て」などなくてもそのまま成立するだろう。逆に言うと、これらの「て」は調べを整えるためだけに存在する。「上善如水」という日本酒があるが、鴇田智哉の句の希薄な質感は、このような調べを整えるだけの措辞によっても、水の如き効果がもたらされているのではないか。
◆動詞に連なる「て」
動詞「ゆく」「をる」などに連なるものである。①③④⑦⑧が該当する。「」で強調してみる。
① 干潟とは今を「忘れてゆく」模様
③ 蟻に「気をとられてをれば」夜になりぬ
④ 夏いつか鰭の「うすれてゆく」魚
⑦ 送火の炎の「きえてゆく」はやさ
⑧ 空の絵を「描いてをれば」末枯るる
客観写生系だと写真のように瞬間を切り取ることを最大の美とする向きもあるが、鴇田智哉はそうではない。「~てゆく」による未来への継続、「~てをる」による現時点での存続などの時間の流れが、句に陰影を与えている。また、③⑧はともに「…てをれば」のかたちで順接の接続助詞「ば」に連なり、結局のところ接続助詞としての「て」に近い用法となっている。それにしても「忘れて」「気をとられて」「うすれて」「きえて」と、なんと儚い動詞の選択だろう。「描いて」は一見そうでもないが、「末枯るる」に着地する。総じて、意外にもセンチメンタルな語の運びである。
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