2009年8月31日月曜日

こしのゆみこ『コイツァンの猫』3

 家族や越野商店と地続きになったファンタジーの世界(というか虚実の定かならざる世界)を構成する句群を見て行きましょう。この虚実の定かならざる世界、句集の構成として時系列を曖昧にしている効果とも言えます。幼年時代、少女時代のこしのゆみこが自在に立ち現われるその世界は、その時点時点の真実であったとしても、作中世界で時間軸を喪失して現われるとき、それはファンタジーとしか呼びようのないものとして意識されます。

卯月野をゆくバス童話ゆきわたる    こしのゆみこ
よびすての少年と行く夏岬
水無月の玻璃に少年鼻を圧す
さみだれや猫の話で眠ってゆく
木下闇のような駄菓子屋ちょうだいな
後退る背泳かなしい手を上げる
まんじゅうのように夕やけ持ち帰る
金魚より小さい私のいる日記
出航をいくつながめる夏帽子


 きりがないので略しますが、このような虚実の定かならざる世界において、かのブルドッグは登場します。

朝顔の顔でふりむくブルドッグ

これはシングルカットしようのない、作中の時系列を失った世界でのブルドッグであり、どうしようもなくシュールでクリアでファンタスティックなブルドッグに他なりません。なんとかなしくうつくしいことでしょう。技術論からは無縁な遠い彼方のブルドッグなのだと私は感じます。

2009年8月30日日曜日

こしのゆみこ『コイツァンの猫』2

 実在するこしのゆみこさんの家族構成は存じ上げませんが、作品中の登場人物は多彩です。

一階に母二階時々緑雨かな      こしのゆみこ
父上京幸福の空豆さげて
待つ母がいちにち在ります花空木
ゆるされておとうと帰る麦の秋
草笛吹く兄を信じて大丈夫
昼寝する父に睫毛のありにけり
ころりころりこどもでてくる夏布団
少し遅れ家族の昼寝にくわわりぬ
片影ゆく兄の不思議なつめたさよ
夏座敷父はともだちがいない
親戚にぼくの如雨露のありにけり
昼寝する君の背中に昼寝する
冷麦の姉妹二人暮らしかな
蜻蛉にまざっていたる父の顔
子規の忌の夜具のおもたき母の家
手枕の父を月光ふりしきる
露つけて帰りし姉の深く眠る
スカートの真ん中に姉後の月
片恋の兄猛烈に黄落す
姉家族白鳥家族たべてばかり
母はひろってきれいに毬をあらう
人買いのごとく磐越西線父黙る
時々は野を焼く父についてゆく
水使う母のゆらゆら雪柳
桜ごと帽子ごと姉はいなくなる
ああ父が恋猫ほうる夕べかな
母太る音のしずかに春日傘


 一人称が「ぼく」の句が混在することからも察せられるように、こしのゆみこの作中世界では必ずしも実在ではない家族がファンタジーの世界と自在に行き来しているようです。句集全体の第一句目「一階に母二階時々緑雨かな」からして、実在する一階をよそに二階はいきなりファンタジーの世界に開かれているのです。「家族ならビーチパラソル支えなさい」の豪快さと、ファンタジーの住民として極度に美化された家族の交錯する、よじれた世界。『サザエさん』や『ちびまる子ちゃん』の世界と通じる、どこにでもありどこにもない、郷愁の中の越野商店が夕日に照らされているようです。

2009年8月29日土曜日

こしのゆみこ『コイツァンの猫』

 こしのゆみこの作品世界は重層構造をなしていて、まず下地としてこの作者ならではの豪快さ、こだわらなさというのがあるような気がします。

藤棚の下に自転車ごと入る         こしのゆみこ
聖五月鳥の真ん真ん中歩く
片恋のキャベツおかわりする自由
家族ならビーチパラソル支えなさい
帰省して母の草履でゆく海辺
風の家シャツパンツシャツパンツ干す
火事あかくどんどん腹の減ってくる
借りている革ジャンパーのポケットに飴
千年の桜の中に手を入れる


 このような基本的性格の上に、家族愛やファンタジーが雑多に混在しているおかしな世界、よじれた世界が『コイツァンの猫』なのだと思います。

追記

 句集冒頭の三句は次のように並んでいます。

一階に母二階時々緑雨かな
藤棚の下に自転車ごと入る
父上京幸福の空豆さげて


自転車の句は、のっけから母と父のあいだに強引に割り込むように配置されているのです。

2009年8月28日金曜日

小西甚一『日本文学史』

 この日記の初期の頃の記事を読んで下さった方から『日本文学史』も薄さに反比例する素晴らしい本ですが、きっとゆかり様の本棚に、だいぶんくたびれて立っているのじゃないでしょうか?」というメールを頂き、恥ずかしながら未読だった私は今まさに読んでいるところです。中国文学との交渉史として日本文学史を俯瞰したこの本、たいへん刺激的で面白いです。芭蕉のくだり、ちょっと長くなりますが引用します。

 芭蕉が杜甫にふかく傾倒していたことは、周知の事実であるが、さきにも述べたとおり、杜甫の詩句をどのように換骨奪胎したかなどは、たいして問題ではない。芭蕉が杜甫からまなびとった最大の収穫は、シナ的な切断性の深さであったろうと思われる。日本人の精神は、もともと自然との間に分裂をもたず、日本語は、常に「つながり」の表現を志向している。これに対して、シナでは、精神と自然がふかく切断されているばかりでなく、その言語も、音声的および意味的にぷつぷつと切れがちである。そうした切断を契機とし、切断されながらもふかく融合しているといったような表現を成就したのが、杜甫にほかならぬ。ところで、芭蕉の俳諧は、発句においても付合においても、鋭い切断を潜めており、それは、融合的・連続的な特性をもつ日本の詩として、はなはだ異例である。しかも、たんに切断されているばかりでなく、切断を媒介としながら、どこかで微妙に流れあい匂いあっているのであって、その深さは、杜甫におけるものときわめて近い感じがある。そうした近似点は、芭蕉があれほど杜甫に傾倒していた以上、杜甫からまなびえたと考えなくてはなるまい。

 じつにさらっと書かれていますが、私たちがこんにち二物衝撃と呼んでいるものは、遠く海を越えて隣の国と密接に関わっているのかも知れないのですね。

ダムありて秋のみづうみ終はりけり ゆかり

2009年8月27日木曜日

正木ゆう子『夏至』5

句の配列とかキーワードに関して、正木ゆう子は『夏至』の後書きで違和感を覚えるほど種明かしをしています。曰く、

①編年体にせず、連句の構成をわずかに意識したこと。
②「恋の座」を設けたこと。
③佐世保の鷹渡り、ノルウェーとロシアの旅吟、家族を詠んだ句、国内の旅などを制作年度を無視してそれぞれ一か所にまとめ、章として立てたこと。
④その章をおよそ季節の順に置き、章の中でさらに季節を追うようにしたこと。
⑤前作『静かな水』で月と水をテーマにしていたのに対し、今回は太陽を中心に据えたこと。

 例えば、次のような配列は確かに「連句の構成をわずかに意識した」妙味があります。

牡丹焚火まづは鼎に組みにけり 正木ゆう子
幻の花噴き上げぬ牡丹榾
瀬を早み岩のかげなる氷柱かな
白い山うすずみの山雪の国
雪山の闇夜をおもふ白か黒か
熊を見し一度を何度でも話す
鯨鯢の胴を接して眠る夜か
潜水の間際しづかな鯨の尾



追記
「連句の構成をわずかに意識した」配列といえば、村井康司が三橋敏雄『真神』について言及しているのを思い出します。