2006年4月1日土曜日

発句の独立

 30日の書き込みにりんりんさんからコメントを頂きました。実はまったくもって私にとっても芭蕉はなかなかの難題でして、加藤楸邨『芭蕉全句 上』(ちくま学芸文庫)の巻末の「芭蕉の生涯とその発想」を読んだ後、本文を読む気が起こらず、小西甚一『俳句の世界』(講談社学術文庫)をまた読み始めてしまいました。『俳句の世界』は、おりおりの私自身の関心の方向によって、何度読んでも新しい発見があり驚かされます。
 さて、先日引用した山川の日本史の教科書はかなりさすがで「連歌の第一句(発句)を独立した文学作品として鑑賞にたえうるものに高めた」ということを書いています。現国の副読本の文学史あたりでも俳諧と俳句を区別せず俳諧が百韻とか三十六歌仙とか続くものであることをよく伝えていないものがある中で、日本史の教科書なのにしっかりとしています。
 そこで気になるのが、加藤楸邨『芭蕉全句』はなぜ発句のことしか書いていないのか、と、発句は芭蕉が独立させたのか、ということです。小西甚一『俳句の世界』には驚くべき仮説が書いてあります。

・俳諧じたいは室町時代からあったが、寛永ごろから急ににぎやかになる。
・直接的には松永貞徳がさかんに活動したこと、間接的には印刷術が発達したことが原因である。
・朝鮮出兵で活字技術を持ち帰り、江戸初期から出版が見る見るさかんになった。
・俳書もどしどし出版された。
★俳書の作成費用としては入集料をとったのではないか。
★この時代の俳書が発句を主にしたのは、なるべく多数の人から句を集めるためではないか。(=なるべく多数の人が入集料を払い、かつ購入する。現代の総合誌が作家に原稿料を払うものなのであれば、現代の考え方とは逆ですね。同じ現代でも、結社誌や同人誌のほうは、このやり方を踏襲していますね。)

 ★が小西甚一の仮説なのですが、おおいに説得力があります。このようにして印刷メディアで長大な俳諧そのものとは別に、コンパクトな発句が大量に扱われるようになり、それを背景として芭蕉が出現したということなのでしょうか。じつにわくわくする仮説ではないですか。

クローンのただ待つてゐる夕桜 ゆかり

0 件のコメント:

コメントを投稿