掲示板で巻いていた連句が満尾。
着ぶくれて高き塔指す異郷かな ぽぽな
目抜通りの幅を木枯 ゆかり
舌先で舐める奥歯の痛みゐて なな
秋の出水に耐へし石橋 まにょん
月明に近づいて来る杖の音 苑を
蛇はそろりと馴染の穴へ 玉簾
ウ 朗読の女人白石加代子なる 媚庵
体の奥に渦を巻く薔薇 ぽ
とめどなくあふるるゆめのやうなもの り
犬が咥へてなほやはらかく な
聖霊の御名を讃へて切る十字 ん
ハモれば無敵なるシスターズ を
どの鳥の羽根をシャッポに飾らうか 簾
駅馬車に乗る客十五人 庵
どこからか銃声聞こえ冴返る ぽ
ひかる恋猫はしる恋猫 り
雨はらりはらりと花になりたれば な
伝説を生む欠けたる茶碗 ん
ナオ リア充のDIYで日が暮れて を
つまんでひいて電気をつけて 簾
また同じ顔ぶれ並ぶバラエティ 庵
宇宙船には蜜柑ただよふ ぽ
ことごとく手を船長の女癖 り
カーネルサンダースのやうな髭 な
斑鳩のぽつくり寺へ参拝す ん
少女漫画に耽溺の日々 を
目の中に流星を飼ふ人ばかり 簾
九九唱へれば銀色の月 庵
兄妹の河童かほ出す秋の沼 ぽ
胡瓜夫人の骨あらはなる り
ナウ しづかなる螺旋階段踏みしめて な
絵紙に残る麒麟鳳凰 ん
地吹雪に忽然と村ひとつ消ゆ を
いつ鳴かうかと暦読む亀 簾
達磨にも招き猫にも花明かり ぽ
山が笑へば世界も笑ふ 庵
起首:2015年11月29日(日)
満尾:2015年12月25日(金)
捌き:ゆかり
2015年12月25日金曜日
2015年12月14日月曜日
(1) 福笑いのように
お正月と云えば炬燵を囲んで福笑いに興じたことを思い出す人も多いことだろう。顔の輪郭を描いた紙の上に目隠しをした子が目、鼻、口を並べてゆき、できあがった変な顔を面白がるという単純な遊びではあったが、おさなごころに偶然の快楽ともいうべきものを強烈にインプットされたのだった。
さて、俳句である。袋回しという遊びをやったことがある人も多いだろう。五人なら袋を五つと短冊をたくさん用意して一題ずつ袋に題を書き、五分とか時間を決めたら後はひたすら全員で自分の手許の袋の題で時間内にできる限り句を作って短冊を袋に入れ、五分経ったら隣の人に袋を回し、というのを一巡するまで繰り返す。そのような追い詰められた状況の中から、なんでそんな句ができたのか自分でも分からないようなよい句ができることがある。なまじ考えると、人はマンネリズムに陥りやすい。語の思いがけない衝突を「とりあはせ」として重んじる俳句においては、偶然をあなどってはいけないのだ。その考えをさらに発展させると、コンピューター・プログラミングというテクノロジーを利用して、客観的、散文的に意味をくみ取ることができない語の連なりをランダムに無尽蔵に作り出そうという試みに至る。俳句自動生成ロボット「はいだんくん」の誕生である。
手始めに句型の雛形をいくつか用意して、そこに季語や名詞をランダムに流し込んでみよう。
①ララララをリリリと思ふルルルかな
②ララララがなくてリリリのルルルかな
③ララララのリリララララのルルルルル
④ララララにリリのルルルのありにけり
⑤ララララにしてリリリリのルルルルル
などいくつかの句型の「ララララ」とか「リリリ」に音数だけ合わせ意味を無視してランダムに名詞や新年の季語を流し込むとこんな句が生まれる。
あかるさを今年と思ふ烏かな はいだんくん
をととひがなくてつぎめの年男
正月の影正月の水あかり
身長に去年の昭和のありにけり
しろがねにして真空の鏡餅
私は一年中こんな福笑いみたいなことをしている。
(『俳壇』2016年1月号(本阿弥書店)初出)
さて、俳句である。袋回しという遊びをやったことがある人も多いだろう。五人なら袋を五つと短冊をたくさん用意して一題ずつ袋に題を書き、五分とか時間を決めたら後はひたすら全員で自分の手許の袋の題で時間内にできる限り句を作って短冊を袋に入れ、五分経ったら隣の人に袋を回し、というのを一巡するまで繰り返す。そのような追い詰められた状況の中から、なんでそんな句ができたのか自分でも分からないようなよい句ができることがある。なまじ考えると、人はマンネリズムに陥りやすい。語の思いがけない衝突を「とりあはせ」として重んじる俳句においては、偶然をあなどってはいけないのだ。その考えをさらに発展させると、コンピューター・プログラミングというテクノロジーを利用して、客観的、散文的に意味をくみ取ることができない語の連なりをランダムに無尽蔵に作り出そうという試みに至る。俳句自動生成ロボット「はいだんくん」の誕生である。
手始めに句型の雛形をいくつか用意して、そこに季語や名詞をランダムに流し込んでみよう。
①ララララをリリリと思ふルルルかな
②ララララがなくてリリリのルルルかな
③ララララのリリララララのルルルルル
④ララララにリリのルルルのありにけり
⑤ララララにしてリリリリのルルルルル
などいくつかの句型の「ララララ」とか「リリリ」に音数だけ合わせ意味を無視してランダムに名詞や新年の季語を流し込むとこんな句が生まれる。
あかるさを今年と思ふ烏かな はいだんくん
をととひがなくてつぎめの年男
正月の影正月の水あかり
身長に去年の昭和のありにけり
しろがねにして真空の鏡餅
私は一年中こんな福笑いみたいなことをしている。
(『俳壇』2016年1月号(本阿弥書店)初出)
ラベル:
ロボットが俳句を詠む
2015年11月26日木曜日
七吟歌仙 下町にの巻・評釈
下町に血縁おほき秋暑かな 媚庵
「下町に血縁おほき」というだけで、作中主体の性格が立ち上がってくるようである。季語とあいまって「血縁おほき」と言っているだけなのにどこか血の気が多い気もしてくる。一句それだけで読者の心をわしづかみにする発句ではないだろうか。
このあたりまで来ては飛ぶ鰡 ゆかり
脇は人物を離れ、別の角度から下町を描き挨拶としている。川なのか運河なのか定かでないが、海ではないところで鰡が跳ねている。かつて隅田川が死の川と言われた時期もあったが、いろいろな変遷を経て下町は今も存続している。
お太鼓を結ぶ頃には月の出て 玉簾
発句が秋だったので、月の座を第三に繰り上げている。どこかの女将だろうか。着物の帯をお太鼓に結ぶ頃には、はや月が出ている。
風にまじりてシュプレヒコール 令
どこか遠くからシュプレヒコールが聞こえる。本巻は 8月29日に起首したが、折しも世間では9月19日に可決されることになる安保法案をめぐり世相が沸騰していた。とはいえ、「シュプレヒコール」の語感は最近のラップ的なデモとは雰囲気を異にする。どこか遠い時代の怨念のようでもある。
薄暗き地階のバーで呷る火酒 月犬
そんな雰囲気を捉えて空間を設定する。火酒はストリチナヤとかストロワヤとかやたら強くて割と安い銘柄だろう。
赤鱏がゐる大きな水槽 七
そんなバーに現実なのか悪酔いした夢なのか分からない水槽がある。
ウ 毒針を使ふ忍術会得して 槇
初折裏からが暴れどころとなる。「赤鱏がゐる大きな水槽」は、もはやバーにあるのではない。この忍者は正義の味方なのか、悪の手先なのか。
千姫背負ひ逃げる若武者 庵
歴史には疎いので、千姫についてはまったく知らない。検索すると墓所は小石川傳通院とあるから、そうとは知らず見たことはあるかも知れない。大坂夏の陣では、祖父・徳川家康の命により落城する大坂城から救出される、とあるから本句はそのときのさまか。すると忍術を会得したのは家康の息がかかった者だったのか。
トランプの兵隊婆娑と押し寄せる り
なにしろ千姫を何も知らないので、追っ手を『不思議の国のアリス』のトランプの兵隊とした。ルイス・キャロルの原作よりもむしろディズニーのアニメのイメージである。
並べ堤に化けよ堤に 簾
折しも世間では9月10日に鬼怒川堤防が決壊した。現実社会では祈ることくらいしかできないが、連句の作品世界にも先ほどのシュプレヒコールといい、何らかの影響が入り込む。
CGの液体金属煌めけり 令
といって、現実社会でそのまま付けるようなことはしない。コンピューター・グラフィックスのねっとりとした液体金属のきらめきの超現実的なディテールを思い浮かべる。
なにも映さぬモノリスの前 犬
前句に対し『2001年宇宙の旅』のモノリスを出してきたのは大きな手柄だろう。
チェンバロの通奏低音大空に 七
『2001年宇宙の旅』の中で、宇宙船内の孤独を紛らわすために音楽をがんがんかけるが、次第に人間くさい音楽が聴けなくなり、バッハばかりを好むようになるシーンがある。
フリルのシャツを着こなす男 槇
フリルのシャツを着こなす男は、宮廷音楽家のようでもあるし、映画が作られた頃のロック・ミュージシャンのようでもある。
蛇穴を出づとわざわざ言ひに来る 庵
そんな男が「蛇穴を出づとわざわざ言ひに来る」。このあたりの脈絡のなさはそうとう可笑しい。
残雪のごとびしよびしよの母 り
言いに来た相手は、びしょびしょになって働いている母。
桂馬打つ音響きをり花の下 簾
母がびしょびしょになっているのに一方では、のんきに将棋。あまりにものんきでしずかな花の座である。
高飛びをしてどこに行かうか 令
桂馬は、二マス先で右か左に一マスずれたところへ移動する。一マス先に相手の駒があっても飛び越えられるルールなので、俗に「桂馬飛び」ということばがある。あまりにのんきだったので立場が危うくなったのかも知れない。
ナオ 国境のフェンスに蔦のみどり濃し 犬
国境のフェンスというと、バイクで物理的に高飛びしようとした『大脱走』のスティーヴ・マックイーンを思い出す(後年スタントマンが名乗り出ているが…)。そのシーンは別の連句でも見たような既視感があり「蔦のみどり濃し」となったものか。
監視カメラの迷路を歩き 七
時間は前後するが、世間では寝屋川市で中学生二人が殺害される事件があり、8月13日未明に商店街を歩く被害者二人の監視カメラ映像が繰り返し放映された。ありふれた商店街でさえそうなのだから国境であればなおさらだろう。
靴ひもを結びなほしてゐる背中 槇
なにか事件があれば、一見なんでもない「靴ひもを結びなほしてゐる背中」も糸口としてコメンテイターによってあることないこと口々に語られるのだろう。
定年ののち茶器つくるひと 庵
さて、一方で定年を迎えたのち茶器をつくるひとがいる。この人がかつて何かに関わっていたのか知るよしもない。上体を固定してろくろを回しているさまは、案外靴ひもを結びなおしている背中とそっくりなのかも知れない。
こちこちと壁いちめんの古時計 り
茶器をつくる部屋の壁面には、誰が集めたものか古時計がいっせいに時を刻んでいる。定年の身の上には、実用の意味を失っている。ミヒャエル・エンデの『モモ』がどこかしら念頭にあった。
星の女神が降りて来る夜 簾
よくここで「星の女神」が出てきたものだ。『モモ』の中の開いては閉じる時間の花のように、それとは別のことばで時の摂理が視覚化されている。
息白く嘘つく度に鼻のびて 令
これは『ピノキオ』だろう。ディズニーの挿入歌「星に願いを」から導かれたと思われる。
サーカス団の天幕に影 犬
そのままピノキオで付けている。
終の地の何処か知らで馬肥ゆる 七
月の座が近づき、ここから秋の句となる。サーカスに売られる前の馬を詠んでいる。
梨をむけども猫はかへらず 槇
馬はさておき、飼い猫が帰ってこない。
天窓に月見えてゐる十二階 庵
どこかに行くにしたって、ここは十二階なのだ。折しも天窓に月が見えている。この巻、媚庵さんの「さて」「折しも」という感じの前句との距離の置き方が絶妙である。
神託のごとやつてくるバス り
小室等「12階建てのバス」に基づいている。同曲、歌詞はイラストレーター・小島武による由。
ナウ 嗣治の雪がふはりとすわる椅子 簾
名残裏である。暴れどころは名残表までで、ここからは挙句に向かい、格調を取り戻した句が続く。停留所の椅子なのだろうか。嗣治のどの絵と特定する必要はないのかも知れない。ちなみに嗣治の三人目の妻のフランス人は嗣治から「お雪」と呼ばれた由。
絵はがきの裸婦微笑むでなし 令
確かにそのような絵はがきが実在する。表情に着目することで雰囲気を変えている。
遠国の大河が海と出会ふ場所 犬
打越以来の異国情緒を引きずっていなくもないが、大きな景である。
薄霞刷くやうな墨跡 七
場所の特定の曖昧な前句を水墨画文化圏に引き寄せている。実景としての春以上に浅い春を感じさせる。
クッキーに卵黄を塗る花月夜 槇
前句に色を添えるようにして、花月夜を導いている。この色彩感はなかなかなものだ。
都へ錦飾る太郎よ 庵
太郎というからには長子なのだろう。普通の慣用句なら「故郷に錦を飾る」であるが、発句が「下町に血縁おほき秋暑かな」であることを意識して「都へ」とすることにより、挙句から発句に回帰するループ構造としている。太郎は一族にどのように迎えられたのだろう。「太郎よ」と呼びかけているところをみると、クッキーに卵黄を塗っていたのは、あるいは老いた母であったか。
「下町に血縁おほき」というだけで、作中主体の性格が立ち上がってくるようである。季語とあいまって「血縁おほき」と言っているだけなのにどこか血の気が多い気もしてくる。一句それだけで読者の心をわしづかみにする発句ではないだろうか。
このあたりまで来ては飛ぶ鰡 ゆかり
脇は人物を離れ、別の角度から下町を描き挨拶としている。川なのか運河なのか定かでないが、海ではないところで鰡が跳ねている。かつて隅田川が死の川と言われた時期もあったが、いろいろな変遷を経て下町は今も存続している。
お太鼓を結ぶ頃には月の出て 玉簾
発句が秋だったので、月の座を第三に繰り上げている。どこかの女将だろうか。着物の帯をお太鼓に結ぶ頃には、はや月が出ている。
風にまじりてシュプレヒコール 令
どこか遠くからシュプレヒコールが聞こえる。本巻は 8月29日に起首したが、折しも世間では9月19日に可決されることになる安保法案をめぐり世相が沸騰していた。とはいえ、「シュプレヒコール」の語感は最近のラップ的なデモとは雰囲気を異にする。どこか遠い時代の怨念のようでもある。
薄暗き地階のバーで呷る火酒 月犬
そんな雰囲気を捉えて空間を設定する。火酒はストリチナヤとかストロワヤとかやたら強くて割と安い銘柄だろう。
赤鱏がゐる大きな水槽 七
そんなバーに現実なのか悪酔いした夢なのか分からない水槽がある。
ウ 毒針を使ふ忍術会得して 槇
初折裏からが暴れどころとなる。「赤鱏がゐる大きな水槽」は、もはやバーにあるのではない。この忍者は正義の味方なのか、悪の手先なのか。
千姫背負ひ逃げる若武者 庵
歴史には疎いので、千姫についてはまったく知らない。検索すると墓所は小石川傳通院とあるから、そうとは知らず見たことはあるかも知れない。大坂夏の陣では、祖父・徳川家康の命により落城する大坂城から救出される、とあるから本句はそのときのさまか。すると忍術を会得したのは家康の息がかかった者だったのか。
トランプの兵隊婆娑と押し寄せる り
なにしろ千姫を何も知らないので、追っ手を『不思議の国のアリス』のトランプの兵隊とした。ルイス・キャロルの原作よりもむしろディズニーのアニメのイメージである。
並べ堤に化けよ堤に 簾
折しも世間では9月10日に鬼怒川堤防が決壊した。現実社会では祈ることくらいしかできないが、連句の作品世界にも先ほどのシュプレヒコールといい、何らかの影響が入り込む。
CGの液体金属煌めけり 令
といって、現実社会でそのまま付けるようなことはしない。コンピューター・グラフィックスのねっとりとした液体金属のきらめきの超現実的なディテールを思い浮かべる。
なにも映さぬモノリスの前 犬
前句に対し『2001年宇宙の旅』のモノリスを出してきたのは大きな手柄だろう。
チェンバロの通奏低音大空に 七
『2001年宇宙の旅』の中で、宇宙船内の孤独を紛らわすために音楽をがんがんかけるが、次第に人間くさい音楽が聴けなくなり、バッハばかりを好むようになるシーンがある。
フリルのシャツを着こなす男 槇
フリルのシャツを着こなす男は、宮廷音楽家のようでもあるし、映画が作られた頃のロック・ミュージシャンのようでもある。
蛇穴を出づとわざわざ言ひに来る 庵
そんな男が「蛇穴を出づとわざわざ言ひに来る」。このあたりの脈絡のなさはそうとう可笑しい。
残雪のごとびしよびしよの母 り
言いに来た相手は、びしょびしょになって働いている母。
桂馬打つ音響きをり花の下 簾
母がびしょびしょになっているのに一方では、のんきに将棋。あまりにものんきでしずかな花の座である。
高飛びをしてどこに行かうか 令
桂馬は、二マス先で右か左に一マスずれたところへ移動する。一マス先に相手の駒があっても飛び越えられるルールなので、俗に「桂馬飛び」ということばがある。あまりにのんきだったので立場が危うくなったのかも知れない。
ナオ 国境のフェンスに蔦のみどり濃し 犬
国境のフェンスというと、バイクで物理的に高飛びしようとした『大脱走』のスティーヴ・マックイーンを思い出す(後年スタントマンが名乗り出ているが…)。そのシーンは別の連句でも見たような既視感があり「蔦のみどり濃し」となったものか。
監視カメラの迷路を歩き 七
時間は前後するが、世間では寝屋川市で中学生二人が殺害される事件があり、8月13日未明に商店街を歩く被害者二人の監視カメラ映像が繰り返し放映された。ありふれた商店街でさえそうなのだから国境であればなおさらだろう。
靴ひもを結びなほしてゐる背中 槇
なにか事件があれば、一見なんでもない「靴ひもを結びなほしてゐる背中」も糸口としてコメンテイターによってあることないこと口々に語られるのだろう。
定年ののち茶器つくるひと 庵
さて、一方で定年を迎えたのち茶器をつくるひとがいる。この人がかつて何かに関わっていたのか知るよしもない。上体を固定してろくろを回しているさまは、案外靴ひもを結びなおしている背中とそっくりなのかも知れない。
こちこちと壁いちめんの古時計 り
茶器をつくる部屋の壁面には、誰が集めたものか古時計がいっせいに時を刻んでいる。定年の身の上には、実用の意味を失っている。ミヒャエル・エンデの『モモ』がどこかしら念頭にあった。
星の女神が降りて来る夜 簾
よくここで「星の女神」が出てきたものだ。『モモ』の中の開いては閉じる時間の花のように、それとは別のことばで時の摂理が視覚化されている。
息白く嘘つく度に鼻のびて 令
これは『ピノキオ』だろう。ディズニーの挿入歌「星に願いを」から導かれたと思われる。
サーカス団の天幕に影 犬
そのままピノキオで付けている。
終の地の何処か知らで馬肥ゆる 七
月の座が近づき、ここから秋の句となる。サーカスに売られる前の馬を詠んでいる。
梨をむけども猫はかへらず 槇
馬はさておき、飼い猫が帰ってこない。
天窓に月見えてゐる十二階 庵
どこかに行くにしたって、ここは十二階なのだ。折しも天窓に月が見えている。この巻、媚庵さんの「さて」「折しも」という感じの前句との距離の置き方が絶妙である。
神託のごとやつてくるバス り
小室等「12階建てのバス」に基づいている。同曲、歌詞はイラストレーター・小島武による由。
ナウ 嗣治の雪がふはりとすわる椅子 簾
名残裏である。暴れどころは名残表までで、ここからは挙句に向かい、格調を取り戻した句が続く。停留所の椅子なのだろうか。嗣治のどの絵と特定する必要はないのかも知れない。ちなみに嗣治の三人目の妻のフランス人は嗣治から「お雪」と呼ばれた由。
絵はがきの裸婦微笑むでなし 令
確かにそのような絵はがきが実在する。表情に着目することで雰囲気を変えている。
遠国の大河が海と出会ふ場所 犬
打越以来の異国情緒を引きずっていなくもないが、大きな景である。
薄霞刷くやうな墨跡 七
場所の特定の曖昧な前句を水墨画文化圏に引き寄せている。実景としての春以上に浅い春を感じさせる。
クッキーに卵黄を塗る花月夜 槇
前句に色を添えるようにして、花月夜を導いている。この色彩感はなかなかなものだ。
都へ錦飾る太郎よ 庵
太郎というからには長子なのだろう。普通の慣用句なら「故郷に錦を飾る」であるが、発句が「下町に血縁おほき秋暑かな」であることを意識して「都へ」とすることにより、挙句から発句に回帰するループ構造としている。太郎は一族にどのように迎えられたのだろう。「太郎よ」と呼びかけているところをみると、クッキーに卵黄を塗っていたのは、あるいは老いた母であったか。
2015年11月9日月曜日
七吟歌仙・下町にの巻
掲示板で巻いていた連句が満尾。
下町に血縁おほき秋暑かな 媚庵
このあたりまで来ては飛ぶ鰡 ゆかり
お太鼓を結ぶ頃には月の出て 玉簾
風にまじりてシュプレヒコール 令
薄暗き地階のバーで呷る火酒 月犬
赤鱏がゐる大きな水槽 七
ウ 毒針を使ふ忍術会得して 槇
千姫背負ひ逃げる若武者 庵
トランプの兵隊婆娑と押し寄せる り
並べ堤に化けよ堤に 簾
CGの液体金属煌めけり 令
なにも映さぬモノリスの前 犬
チェンバロの通奏低音大空に 七
フリルのシャツを着こなす男 槇
蛇穴を出づとわざわざ言ひに来る 庵
残雪のごとびしよびしよの母 り
桂馬打つ音響きをり花の下 簾
高飛びをしてどこに行かうか 令
ナオ 国境のフェンスに蔦のみどり濃し 犬
監視カメラの迷路を歩き 七
靴ひもを結びなほしてゐる背中 槇
定年ののち茶器つくるひと 庵
こちこちと壁いちめんの古時計 り
星の女神が降りて来る夜 簾
息白く嘘つく度に鼻のびて 令
サーカス団の天幕に影 犬
終の地の何処か知らで馬肥ゆる 七
梨をむけども猫はかへらず 槇
天窓に月見えてゐる十二階 庵
神託のごとやつてくるバス り
ナウ 嗣治の雪がふはりとすわる椅子 簾
絵はがきの裸婦微笑むでなし 令
遠国の大河が海と出会ふ場所 犬
薄霞刷くやうな墨跡 七
クッキーに卵黄を塗る花月夜 槇
都へ錦飾る太郎よ 庵
起首:2015年 8月29日(土)
満尾:2015年11月 9日(月)
捌き:ゆかり
下町に血縁おほき秋暑かな 媚庵
このあたりまで来ては飛ぶ鰡 ゆかり
お太鼓を結ぶ頃には月の出て 玉簾
風にまじりてシュプレヒコール 令
薄暗き地階のバーで呷る火酒 月犬
赤鱏がゐる大きな水槽 七
ウ 毒針を使ふ忍術会得して 槇
千姫背負ひ逃げる若武者 庵
トランプの兵隊婆娑と押し寄せる り
並べ堤に化けよ堤に 簾
CGの液体金属煌めけり 令
なにも映さぬモノリスの前 犬
チェンバロの通奏低音大空に 七
フリルのシャツを着こなす男 槇
蛇穴を出づとわざわざ言ひに来る 庵
残雪のごとびしよびしよの母 り
桂馬打つ音響きをり花の下 簾
高飛びをしてどこに行かうか 令
ナオ 国境のフェンスに蔦のみどり濃し 犬
監視カメラの迷路を歩き 七
靴ひもを結びなほしてゐる背中 槇
定年ののち茶器つくるひと 庵
こちこちと壁いちめんの古時計 り
星の女神が降りて来る夜 簾
息白く嘘つく度に鼻のびて 令
サーカス団の天幕に影 犬
終の地の何処か知らで馬肥ゆる 七
梨をむけども猫はかへらず 槇
天窓に月見えてゐる十二階 庵
神託のごとやつてくるバス り
ナウ 嗣治の雪がふはりとすわる椅子 簾
絵はがきの裸婦微笑むでなし 令
遠国の大河が海と出会ふ場所 犬
薄霞刷くやうな墨跡 七
クッキーに卵黄を塗る花月夜 槇
都へ錦飾る太郎よ 庵
起首:2015年 8月29日(土)
満尾:2015年11月 9日(月)
捌き:ゆかり
2015年9月28日月曜日
六吟折句歌仙 貰ひたるの巻・評釈
貰ひたる秋の駱駝の埃かな なな
のちに折句歌仙と銘打ったものの、発句はごく普通に始まった。日本国内の常識で考えれば、もらったのは埃なのだろうが、駱駝をもらったと読めなくもないおおらかな発句である。このあたり、実際の歌仙のようにリアルに客人と主人が同じ場所、同じ空間にいる訳ではないので、想像は広がる。
眺めはるかに舐めるどぶろく ゆかり
脇は発句の客人に対する挨拶でもあるので、「なな」を折句とした。もらった駱駝にまたがって高い位置でどぶろくを舐めるななさんを思い浮かべた。
夕月に影曳く一機離陸して ぐみ
第三は、くっきりしたシルエットに孤愁を感じさせる仕上がりとなっている。あろうことかぐみさんも「ゆかり」を折句としたので以後折句歌仙とし、長短があるので俳号が三音または二音で「ん」を含まない人に参加してもらい、偶数人で巻くこととした。
寓話の声に耳を澄ませば 苑を
月に関わる寓話を直接は思い出せないのだが、耳も出てくるのでうさぎが餅をつく類いのなにかだろう。「ぐみ」折句。
そのかみの野を宵宮の男舞 なむ
「そのかみ」は昔。「宵宮」は前夜祭。前句「耳を澄ませば」から眼前の現実を離れた世界へ誘われる。「そのを」折句。
夏のなごりの紫の種 らくだ
発句「駱駝」におびき寄せられて、らくださんが久々の参加。紫の種がなにやら落とし胤のようなものを感じさせる。「なむ」折句。
ウ 卵管をくるくるまはる楕円形 な
初折裏である。前句「紫の種」を精液と見立てた付句だろう。恋の座らしからぬクールな句である。「らくだ」折句。
ぐつたりとして身動きできぬ り
なにやら倦怠感のまっただ中ですぐれない。「ぐみ」折句。
そつと触れのどぼとけにも尾の痕も み
ようやく普通の意味で恋の句らしくなるが、それにとどまらず、どこか進化論的な味わいも付加されている。「そのを」折句。
泣いちやふくらゐむちやくちやにして を
ストレートで大胆な句である。「なむ」折句。
乱心を悔い改める大司教 む
じつは大司教の乱心なのであった。「らくだ」折句。
流されてゆく謎の古文書 だ
教会を追われた大司教について記された古文書も行方不明となる。「なな」折句。
友人を噛む冬の月凛として な
折しも冬の月が冴え渡る。その比喩として「友人を噛む」は新鮮である。「ゆかり」折句。
ナスターシャからムイシュキンへの り
ナスターシャとムイシュキンはドストエフスキー『白痴』の登場人物。ムイシュキンは友人が好意を寄せていたナスターシャと結婚することになったが、ナスターシャはその友人に殺される。「友人を噛む」ことになっているのか、複雑すぎて分からない。「なむ」折句。
羅府で読み桑つむ港で怠武林で み
ドストエフスキー『白痴』はロサンゼルスでもサンフランシスコでもダブリンでも読まれている。桑港を言葉遊びで「桑つむ港」とすることにより春の句に仕立てている。「らくだ」折句。
永すぎる日のなぞなぞ遊び を
遣句とも言えるが、折句歌仙として不可思議な進行を見せているこの連句自体を「なぞなぞ遊び」と捉えているメタな付句なのではあるまいか。「なな」折句。
幽谷に花神眠れる流離譚 む
しばしば伝説は童謡などのかたちをとって、本来の意味が忘れ去られた後も意味不明な歌詞だけが歌い継がれる。謎めいたことばは花神の流離譚だったのである。「ゆかり」折句。
具足一式身につかぬまま だ
這々の体で難を逃れた落武者だろうか。「ぐみ」折句。
ナオ ゆふぐれの観覧車にて離婚する り
名残表である。もはや敷居をまたぐこともままならず、遊園地で落ち合って離婚話をする。打越「流離譚」にかからなくもないが、さらに遡れば「流されてゆく謎の古文書」もあり、歌仙全体のトーナリティがしきりに流転に向かっている。「ゆかり」折句。
何回も書き殴つてをりぬ な
離婚届だろうか、それに先立つ三行半だろうか。書き損じている訳ではなく、度重なり「書き殴つて」いるところが眼目である。なお、句またがりの途中の定位置をもって折句としているのは独特である。「なな」折句。
そよ風に乗つて笑つて幼くて を
往年を回顧している。「そのを」折句。
グルメの日々を三十一文字に み
思い返せば当時はグルメブームで『サラダ記念日』に端を発する短歌ブームのまっただ中でもあったのだった。「ぐみ」折句。
ラムネでは口説き文句も駄洒落風 だ
カンチューハイならいざ知らず、ラムネでは口説き文句も駄洒落にしかならない。「らくだ」折句。
なあなあ主義のムーの一族 む
ムーの一族は幻の大陸の住民ではなく久世光彦プロデュースのテレビドラマ『ムー一族』由来なのだろうが、未見なので本当のところは分からない。駄洒落のような口説き文句で始まった交際が、娯楽指向のテレビドラマのように、なあなあ主義で続いている。「なむ」折句。
草々と伸びやかに書き終はりとす り
そんな日常を終わりにすべく、大きな字で葉書を書いた。「そのを」折句。
ぐい呑みの薄みどりに酔へば な
ぐい呑みを見つめ酔うばかりである。またしても句またがり折句となっている。「ぐみ」折句。
乱歩なる奇しくも美しき断頭台 を
酩酊してすっかり破滅の王妃気取りである。「らくだ」折句。
ななかまど燃え村に葬列 み
紅葉したななかまどの赤のイメージが鮮烈である。「なむ」折句。
ゆくりなく語る月夜の竜の骨 だ
「ゆくりなく」は思いがけず、突然に。であるが、前句の鮮烈な赤に対し骨の白で呼応した月の座となっている。「ゆかり」折句。
名をばトマスと名乗る秋茄子 む
突然語り始めた男が、申し遅れたがわしはこういう者じゃと名乗る。『神学大全』で知られる十三世紀の神学者、哲学者トマス・アクィナスをもじり秋の句としている。「なな」折句。
ナウ 喇叭いまクレッシェンドして壇上に り
名残裏である。名乗った男が華やかなファンファーレとともに登壇する。「らくだ」折句。
何人もただ夢中になりぬ な
誰もが熱狂している。「なむ」折句。
その後も野山の吹雪をさまらず だ
一向に衰えを知らず、吹雪が続いている。「そのを」折句。
生番組では菜飯取り上げ み
テレビでは、生番組が菜飯を取り上げている。どこかでは春なのだなあ。「なな」折句。
湯に落つる花片ひとひら旅情とす を
花の座である。ことさらに旅情というあたりが、テレビによって刷り込まれた感性のようでもある。「ゆかり」折句。
愚陀佛庵に水草生ふ朝 む
愚陀仏庵は、夏目漱石が愛媛県松山市に赴任していた時の下宿先。戦災で焼失後一九八二年に復元されたが、それも二〇一〇年大雨による土砂崩れで全壊した。旅情を感じるようなものであれば、復元されたレプリカこそがふさわしいとも言えるが、湯に水草と付けた庵がじつは大雨で全壊していたというのは、なんとも皮肉である。「ぐみ」折句。
折句は、どこかしら詠み込まれた人物を投影するところがある。連衆それぞれが互いに相手を詠み、また自分自身を詠んだこの歌仙、そんな観点で捉えなおすと、意外な相関図があらためて浮かび上がってくるのかも知れない。
のちに折句歌仙と銘打ったものの、発句はごく普通に始まった。日本国内の常識で考えれば、もらったのは埃なのだろうが、駱駝をもらったと読めなくもないおおらかな発句である。このあたり、実際の歌仙のようにリアルに客人と主人が同じ場所、同じ空間にいる訳ではないので、想像は広がる。
眺めはるかに舐めるどぶろく ゆかり
脇は発句の客人に対する挨拶でもあるので、「なな」を折句とした。もらった駱駝にまたがって高い位置でどぶろくを舐めるななさんを思い浮かべた。
夕月に影曳く一機離陸して ぐみ
第三は、くっきりしたシルエットに孤愁を感じさせる仕上がりとなっている。あろうことかぐみさんも「ゆかり」を折句としたので以後折句歌仙とし、長短があるので俳号が三音または二音で「ん」を含まない人に参加してもらい、偶数人で巻くこととした。
寓話の声に耳を澄ませば 苑を
月に関わる寓話を直接は思い出せないのだが、耳も出てくるのでうさぎが餅をつく類いのなにかだろう。「ぐみ」折句。
そのかみの野を宵宮の男舞 なむ
「そのかみ」は昔。「宵宮」は前夜祭。前句「耳を澄ませば」から眼前の現実を離れた世界へ誘われる。「そのを」折句。
夏のなごりの紫の種 らくだ
発句「駱駝」におびき寄せられて、らくださんが久々の参加。紫の種がなにやら落とし胤のようなものを感じさせる。「なむ」折句。
ウ 卵管をくるくるまはる楕円形 な
初折裏である。前句「紫の種」を精液と見立てた付句だろう。恋の座らしからぬクールな句である。「らくだ」折句。
ぐつたりとして身動きできぬ り
なにやら倦怠感のまっただ中ですぐれない。「ぐみ」折句。
そつと触れのどぼとけにも尾の痕も み
ようやく普通の意味で恋の句らしくなるが、それにとどまらず、どこか進化論的な味わいも付加されている。「そのを」折句。
泣いちやふくらゐむちやくちやにして を
ストレートで大胆な句である。「なむ」折句。
乱心を悔い改める大司教 む
じつは大司教の乱心なのであった。「らくだ」折句。
流されてゆく謎の古文書 だ
教会を追われた大司教について記された古文書も行方不明となる。「なな」折句。
友人を噛む冬の月凛として な
折しも冬の月が冴え渡る。その比喩として「友人を噛む」は新鮮である。「ゆかり」折句。
ナスターシャからムイシュキンへの り
ナスターシャとムイシュキンはドストエフスキー『白痴』の登場人物。ムイシュキンは友人が好意を寄せていたナスターシャと結婚することになったが、ナスターシャはその友人に殺される。「友人を噛む」ことになっているのか、複雑すぎて分からない。「なむ」折句。
羅府で読み桑つむ港で怠武林で み
ドストエフスキー『白痴』はロサンゼルスでもサンフランシスコでもダブリンでも読まれている。桑港を言葉遊びで「桑つむ港」とすることにより春の句に仕立てている。「らくだ」折句。
永すぎる日のなぞなぞ遊び を
遣句とも言えるが、折句歌仙として不可思議な進行を見せているこの連句自体を「なぞなぞ遊び」と捉えているメタな付句なのではあるまいか。「なな」折句。
幽谷に花神眠れる流離譚 む
しばしば伝説は童謡などのかたちをとって、本来の意味が忘れ去られた後も意味不明な歌詞だけが歌い継がれる。謎めいたことばは花神の流離譚だったのである。「ゆかり」折句。
具足一式身につかぬまま だ
這々の体で難を逃れた落武者だろうか。「ぐみ」折句。
ナオ ゆふぐれの観覧車にて離婚する り
名残表である。もはや敷居をまたぐこともままならず、遊園地で落ち合って離婚話をする。打越「流離譚」にかからなくもないが、さらに遡れば「流されてゆく謎の古文書」もあり、歌仙全体のトーナリティがしきりに流転に向かっている。「ゆかり」折句。
何回も書き殴つてをりぬ な
離婚届だろうか、それに先立つ三行半だろうか。書き損じている訳ではなく、度重なり「書き殴つて」いるところが眼目である。なお、句またがりの途中の定位置をもって折句としているのは独特である。「なな」折句。
そよ風に乗つて笑つて幼くて を
往年を回顧している。「そのを」折句。
グルメの日々を三十一文字に み
思い返せば当時はグルメブームで『サラダ記念日』に端を発する短歌ブームのまっただ中でもあったのだった。「ぐみ」折句。
ラムネでは口説き文句も駄洒落風 だ
カンチューハイならいざ知らず、ラムネでは口説き文句も駄洒落にしかならない。「らくだ」折句。
なあなあ主義のムーの一族 む
ムーの一族は幻の大陸の住民ではなく久世光彦プロデュースのテレビドラマ『ムー一族』由来なのだろうが、未見なので本当のところは分からない。駄洒落のような口説き文句で始まった交際が、娯楽指向のテレビドラマのように、なあなあ主義で続いている。「なむ」折句。
草々と伸びやかに書き終はりとす り
そんな日常を終わりにすべく、大きな字で葉書を書いた。「そのを」折句。
ぐい呑みの薄みどりに酔へば な
ぐい呑みを見つめ酔うばかりである。またしても句またがり折句となっている。「ぐみ」折句。
乱歩なる奇しくも美しき断頭台 を
酩酊してすっかり破滅の王妃気取りである。「らくだ」折句。
ななかまど燃え村に葬列 み
紅葉したななかまどの赤のイメージが鮮烈である。「なむ」折句。
ゆくりなく語る月夜の竜の骨 だ
「ゆくりなく」は思いがけず、突然に。であるが、前句の鮮烈な赤に対し骨の白で呼応した月の座となっている。「ゆかり」折句。
名をばトマスと名乗る秋茄子 む
突然語り始めた男が、申し遅れたがわしはこういう者じゃと名乗る。『神学大全』で知られる十三世紀の神学者、哲学者トマス・アクィナスをもじり秋の句としている。「なな」折句。
ナウ 喇叭いまクレッシェンドして壇上に り
名残裏である。名乗った男が華やかなファンファーレとともに登壇する。「らくだ」折句。
何人もただ夢中になりぬ な
誰もが熱狂している。「なむ」折句。
その後も野山の吹雪をさまらず だ
一向に衰えを知らず、吹雪が続いている。「そのを」折句。
生番組では菜飯取り上げ み
テレビでは、生番組が菜飯を取り上げている。どこかでは春なのだなあ。「なな」折句。
湯に落つる花片ひとひら旅情とす を
花の座である。ことさらに旅情というあたりが、テレビによって刷り込まれた感性のようでもある。「ゆかり」折句。
愚陀佛庵に水草生ふ朝 む
愚陀仏庵は、夏目漱石が愛媛県松山市に赴任していた時の下宿先。戦災で焼失後一九八二年に復元されたが、それも二〇一〇年大雨による土砂崩れで全壊した。旅情を感じるようなものであれば、復元されたレプリカこそがふさわしいとも言えるが、湯に水草と付けた庵がじつは大雨で全壊していたというのは、なんとも皮肉である。「ぐみ」折句。
折句は、どこかしら詠み込まれた人物を投影するところがある。連衆それぞれが互いに相手を詠み、また自分自身を詠んだこの歌仙、そんな観点で捉えなおすと、意外な相関図があらためて浮かび上がってくるのかも知れない。
2015年9月21日月曜日
六吟折句歌仙 貰ひたるの巻
掲示板で巻いていた連句が満尾。
貰ひたる秋の駱駝の埃かな なな
眺めはるかに舐めるどぶろく ゆかり
夕月に影曳く一機離陸して ぐみ
寓話の声に耳を澄ませば 苑を
そのかみの野を宵宮の男舞 なむ
夏のなごりの紫の種 らくだ
ウ 卵管をくるくるまはる楕円形 な
ぐつたりとして身動きできぬ り
そつと触れのどぼとけにも尾の痕も み
泣いちやふくらゐむちやくちやにして を
乱心を悔い改める大司教 む
流されてゆく謎の古文書 だ
友人を噛む冬の月凛として な
ナスターシャからムイシュキンへの り
羅府で読み桑つむ港で怠武林で み
永すぎる日のなぞなぞ遊び を
幽谷に花神眠れる流離譚 む
具足一式身につかぬまま だ
ナオ ゆふぐれの観覧車にて離婚する り
何回も書き殴つてをりぬ な
そよ風に乗つて笑つて幼くて を
グルメの日々を三十一文字に み
ラムネでは口説き文句も駄洒落風 だ
なあなあ主義のムーの一族 む
草々と伸びやかに書き終はりとす り
ぐい呑みの薄みどりに酔へば な
乱歩なる奇しくも美しき断頭台 を
ななかまど燃え村に葬列 み
ゆくりなく語る月夜の竜の骨 だ
名をばトマスと名乗る秋茄子 む
ナウ 喇叭いまクレッシェンドして壇上に り
何人もただ夢中になりぬ な
その後も野山の吹雪をさまらず だ
生番組では菜飯取り上げ み
湯に落つる花片ひとひら旅情とす を
愚陀佛庵に水草生ふ朝 む
起首:2015年 8月27日(木)
満尾:2015年 9月21日(月)
捌き:ゆかり
貰ひたる秋の駱駝の埃かな なな
眺めはるかに舐めるどぶろく ゆかり
夕月に影曳く一機離陸して ぐみ
寓話の声に耳を澄ませば 苑を
そのかみの野を宵宮の男舞 なむ
夏のなごりの紫の種 らくだ
ウ 卵管をくるくるまはる楕円形 な
ぐつたりとして身動きできぬ り
そつと触れのどぼとけにも尾の痕も み
泣いちやふくらゐむちやくちやにして を
乱心を悔い改める大司教 む
流されてゆく謎の古文書 だ
友人を噛む冬の月凛として な
ナスターシャからムイシュキンへの り
羅府で読み桑つむ港で怠武林で み
永すぎる日のなぞなぞ遊び を
幽谷に花神眠れる流離譚 む
具足一式身につかぬまま だ
ナオ ゆふぐれの観覧車にて離婚する り
何回も書き殴つてをりぬ な
そよ風に乗つて笑つて幼くて を
グルメの日々を三十一文字に み
ラムネでは口説き文句も駄洒落風 だ
なあなあ主義のムーの一族 む
草々と伸びやかに書き終はりとす り
ぐい呑みの薄みどりに酔へば な
乱歩なる奇しくも美しき断頭台 を
ななかまど燃え村に葬列 み
ゆくりなく語る月夜の竜の骨 だ
名をばトマスと名乗る秋茄子 む
ナウ 喇叭いまクレッシェンドして壇上に り
何人もただ夢中になりぬ な
その後も野山の吹雪をさまらず だ
生番組では菜飯取り上げ み
湯に落つる花片ひとひら旅情とす を
愚陀佛庵に水草生ふ朝 む
起首:2015年 8月27日(木)
満尾:2015年 9月21日(月)
捌き:ゆかり
2015年8月23日日曜日
ひとときのの巻 評釈
2015年2月23日に永眠された和田悟朗さんを悼んで脇起しにて追善興行致しました。銀河さんの呼びかけに参集した故人に縁のある方々とネット上の座「みしみし」に居合わせた常連の酔客による九吟歌仙という不思議な場だったのかも知れません。失礼を承知で仮に名づけるなら、追悼クラスターと酔客クラスター。
【追悼クラスター】銀河、令、由季、媚庵、裕
【酔客クラスター】ゆかり、七、苑を、なむ
膝送りなので、(令、由季、媚庵、裕)というかたまりと、一周したところの(なむ、ゆかり、七、苑を)というかたまりの中で、銀河さんは酔客クラスターに囲まれ、すごく苦労されたのではないかと思います。追悼という意味では、なむさんは最後の花の座しか仕事をしていないし(それがとんでもなくすごい)、私は脇しか仕事をしていません。
で、たぶんそういう人員構成で序破急を進めたことにより、奇跡的とも言える名残裏をなし得たのだと思います。以下の評釈は初折表を令さん、同裏を苑をさんにお願いし、名残表裏はゆかりが担当し全体の体裁を調整しました。
ひとときの太古の焔お水取り 和田悟朗
「風来」20号の最後の一句であり、亡くなられた直後に発売された「俳句界」3月号にも寄せられていた句。丁度お水取りの時期に、和田悟朗さんの命の際に書かれた句を頂いた脇起し歌仙となりました。
余寒おほきくうつろへる影 ゆかり
脇は、発句に寄り添ってお水取りの炎と対比された影が詠まれています。お水取りが終るまでは寒い、と関西では、特に奈良に近い所ではよく言いますが、その余寒を詠まれました。
かざぐるま風を愉しみ音立てて 銀河
連句は第三句から世界始まるとされますが、まさにそういった句です。和田悟朗さんのお家の庭に棒が一本立っていてそこに風車が回っているということを銀河さんが書いてくれていますが、軽やかな音が楽しげに響いてきて、ここから明るく開かれます。氏の最後の句集名が「風車」であることも思い起こさせてくれます。
どこからか来るなつかしき声 七
その風車の音に合わせる様な懐かしい声、これは故人の声をふと思い出すということなのでしょう。追悼を意識した付け合いです。
昼月のぼやけ両国橋の上 苑を
次に橋ですが、橋という場所は、こちらからあちらへの、この岸から向こう岸への途中の場であり、前句の「どこかから来る」ものをキャッチ出来そうな場として登場。そこに東京の月。両国橋は、芭蕉記念館や、深川の芭蕉庵跡も近い所だし、東京にもよく行かれた悟朗さんは、両国橋の上を眺められたかも知れません。「東京を一日あるき諸葛菜 悟朗」という句もありますが、歩きくたびれた目に昼の月がぼんやりと映ります。
電車から見て町は爽やか 令
東京の空が大きく広がる景色が車窓の風景となっていきます。和田悟朗さんは九十近い時でも電車ででも背筋をすっと伸ばして立たれて、とてもお若く見えたので、すぐに席を譲られるということもあまりなかったのではないかと思います。
表六句は、故人の句集名も入り静かに追悼の巻が始まっていきます。
ウ 紅葉へと女子大生の集まれる 由季
楽屋口には菓子と手紙と 媚庵
ささやきは拍手の波をくぐりきて 裕
初折裏一句から三句までの紅葉→楽屋口→観客席(恋)。由季さんが女子大、媚庵さんが宝塚の出待ちと、和田悟朗さんの居た場所(関西)を思わせつつ、(悟朗さんへの)拍手の波と繋がっていく。全体の中でもでも華やいでいる箇所ですね。
鎖骨に触れる罪の舌先 なむ
蒟蒻を用ゐ閻魔を手なづける り
なに言ってンですか(笑)。なむ&ゆかりさんが並んで、遊び心爆発。大きく転じます。これが連句の楽しさ。
天動説に沿ふも夏月 河
天動説でさらに転じて、大きな世界へ。
レコ-ドの傷撫でてゐる宵涼し 七
先端恐怖症の眼科医 を
そこで、七さんと私(苑を)という酔人群は遣句的に場面を転換していく。
学会へマジックインキで書く図表 令
乾けばすぐに羽織る春服 季
大丈夫、九句目では学者としての和田悟朗さんへの挨拶をして、十句目の春服は氏の佇まいを感じさせるもの。
夜の花の向かふ側から汽笛鳴る 庵
鮊子釘煮水分子形 裕
初折裏最後の二句、向かふ側からと彼岸を思わせたあと、水分子形なんて人事を遠く離れたところが見事です。ここで裕さんによる解説を引用します。
《和田悟朗の科学者としての最大の業績は、水分子の性質に関してのものです。
普通の液体は、低温になるほど体積が小さくなります。ところが、水は凍る寸前の摂氏0度ではなく、摂氏4度ほどのときに体積が最小になります。この性質を、和田悟朗は水分子の形状に着目して説明しました。水分子のような、くの字の形状のものが整然と並ぶとくの字の開口部がスペースを取って体積が小さくなりません。少し雑然としているときの方が、くの字の開口部に他の水分子が入り込んで体積が小さくなります。本人のエッセイによると、和田モデルと呼ばれていたそうです。
後年、南部陽一郎がノーベル賞を取ったことで有名になった、「自発的対称性の破れ」の例として、水分子の形状がよく取り上げられます。水分子の形状のせいで、摂氏0度ではなく、摂氏4度付近で体積が最小になることも、「自発的対称性の破れ」の帰結として出てくる素粒子の性質と関連づけることが出来ます。
句会で、和田悟朗自らがその辺の事情について言及していました。司会をしながら、やっぱり和田悟朗は「自発的対称性の破れ」を意識していたかと思いつつ聞いていたことも、少し昔の話になってしまいました。》
ナオ 抜け忍の家系で草を煎じ飲む む
このあたりで大河ドラマの番宣を観ていた捌き人が「諸君狂ひたまへ」と大号令をかけたのでした。名残表はしばし表面上は和田悟朗追悼を離れ、大いに展開します。
前句の釘煮から古民家が導かれたのか、漢字ばかりの字面から暗号文書を思い浮かべたのか、突然忍者に飛躍します。しかも抜け忍のそのまた家系でなにやら薬のようなものを煎じています。
貨物列車のやうなリビドー り
前句の薬をなんの薬ととらえたものか、長大で重量級の性衝動に苦しんでいます。
速読で知つたつもりのこと多く 河
酔客クラスターに包囲された銀河さんが必死の抵抗を試み、和田悟朗さんのエッセイ集「俳句文明」の後書き「この本は、速読癖のある人には向かない気がする」を引きます。
蕩蕩として忘却の川 七
前句に対し素直に「忘却の川」と付けます。
この冬に流行るてふ縞馬模様 を
前句を去りゆくものととらえ、やってくるものを付けています。「遠国に縞馬逃げる眩しさよ 悟朗」(『即興の山』)という去りゆく縞馬の句があることを思い出しておきましょう。
氷湖の上でスピン楽しき 令
縞馬模様のスピンというなんだか瑪瑙のようなさまを思い浮かべます。
五年後の五輪に備へ竹植うる 季
冬季五輪のイメージから五、五と音を重ね、しかも竹を出してきて東京オリンピックのイメージに持ち込んでいます。ちなみに記念植樹のようではありますが、「竹植うる」は夏の季語です。
洗ひ飯食ふ宮本武蔵 庵
五輪書の宮本武蔵で付けます。「洗ひ飯食ふ」がなんともむさくるしい感じです。
帰りゆく燕の彼方眺めつつ 裕
武蔵といえば小次郎。「燕返し」を帰燕とすることにより、句に仕立てています。
物の音の澄む神宮球場 む
燕といえばスワローズで神宮球場が出てきます。東京オリンピックで取り壊されるイメージを帯びてしまうのが気にならなくもないのですが、打越よりも前のことなので、委細構わず進行します。
たれかれを招くでもなく月招く 七
膝送りだとゆかりの番ですが、脇起こしで三十五句を九吟で巻いているので捌き人が抜け、長短が狂わぬよう七さんにお願いして、悪の枢軸のごときなむ&ゆかりのタッグを解消しています。七さんはたいへんきれいに、人のいない球場が月を呼んでいると付けています。
猫は伸びたりまるくなつたり を
月の満ち欠けのイメージもあったのでしょうか。猫を詠みつつ、着実に名残裏に向けて狂騒を鎮静化しています。
ナウ 二上の雪の時空に律あらむ 令
前句の「伸びたりまるくなつたり」を和田悟朗語彙で「律」ととらえ、二上山が好きだったというエピソードを踏まえ、「二上の雪の時空に」としています。「二上山(ふたかみ)のいただきはるか死後の春 悟朗」の「死後の春」に対し本句の「あらむ」を重ね合わせるとき、すばらしい深みを感じます。ちなみに「二上山(ふたかみ)も三輪山(みわ)もゆるびぬ別れ雪 悟朗」という雪の句もあります。
揺れをさまりて曇る白息 河
前句「律」から、阪神淡路大震災被災の記憶を踏まえ付けています。
眼球を動かしてゐる画学生 庵
「秋の入水眼球に若き魚ささり 悟朗」を踏まえた句。前句の「揺れ」に対し、いかにも和田悟朗語彙の「眼球」が絶妙に収まっています。
庭を旅して逃げ水を追ふ 裕
「我が庭をしばらく旅す人麻呂忌 悟朗」を踏まえた句。「逃げ水を追ふ」に追悼の念を感じますが、奇しくも元になった句も忌日俳句で、なにかしらの因縁を思います。
永劫のまほろばに置く花の昼 む
「永劫の入り口にあり山ざくら 悟朗」を踏まえているのかも知れないのですが、それに留まらない万感の花の座です。「まほろば」は「すぐれたよい所、ひいでた国土」。
この世に誘ふ一頭の蝶 季
「この世」と付ける以上、「永劫のまほろば」とは故人が召された「あの世」だと由季さんは前句をとらえられたのでしょう。あの世の悟朗さんを蝶がこの世に呼び戻そうとするのです。そのように付けたことにより、前句の「花」は庭の旅で見つけたものから一変して、極楽を永遠の昼たらしめる壮大な献花として機能します。まさに付合のマジックです。
なにを詠んでも響きあうのが追悼連句の妙味ですが、由季さんの句は「少年をこの世に誘い櫻守 悟朗」と「蝶一頭一頭ほどの山河かな 悟朗」をも思い出させます。花の座から前者が導かれ、後者を引用して挙句にまとめたようにも読めますが、実際にどのようにしてできたかは特に明かさなくてもいいものだと思います。ただ結果として、みごとなまでに収まるところに収まっている、それでよいのだと思います。そしてこの蝶に込められたかなわぬ思いは発句にめぐり、いま生きているこの世のことを「ひととき」に過ぎないものだと言っているかのようです。
【追悼クラスター】銀河、令、由季、媚庵、裕
【酔客クラスター】ゆかり、七、苑を、なむ
膝送りなので、(令、由季、媚庵、裕)というかたまりと、一周したところの(なむ、ゆかり、七、苑を)というかたまりの中で、銀河さんは酔客クラスターに囲まれ、すごく苦労されたのではないかと思います。追悼という意味では、なむさんは最後の花の座しか仕事をしていないし(それがとんでもなくすごい)、私は脇しか仕事をしていません。
で、たぶんそういう人員構成で序破急を進めたことにより、奇跡的とも言える名残裏をなし得たのだと思います。以下の評釈は初折表を令さん、同裏を苑をさんにお願いし、名残表裏はゆかりが担当し全体の体裁を調整しました。
ひとときの太古の焔お水取り 和田悟朗
「風来」20号の最後の一句であり、亡くなられた直後に発売された「俳句界」3月号にも寄せられていた句。丁度お水取りの時期に、和田悟朗さんの命の際に書かれた句を頂いた脇起し歌仙となりました。
余寒おほきくうつろへる影 ゆかり
脇は、発句に寄り添ってお水取りの炎と対比された影が詠まれています。お水取りが終るまでは寒い、と関西では、特に奈良に近い所ではよく言いますが、その余寒を詠まれました。
かざぐるま風を愉しみ音立てて 銀河
連句は第三句から世界始まるとされますが、まさにそういった句です。和田悟朗さんのお家の庭に棒が一本立っていてそこに風車が回っているということを銀河さんが書いてくれていますが、軽やかな音が楽しげに響いてきて、ここから明るく開かれます。氏の最後の句集名が「風車」であることも思い起こさせてくれます。
どこからか来るなつかしき声 七
その風車の音に合わせる様な懐かしい声、これは故人の声をふと思い出すということなのでしょう。追悼を意識した付け合いです。
昼月のぼやけ両国橋の上 苑を
次に橋ですが、橋という場所は、こちらからあちらへの、この岸から向こう岸への途中の場であり、前句の「どこかから来る」ものをキャッチ出来そうな場として登場。そこに東京の月。両国橋は、芭蕉記念館や、深川の芭蕉庵跡も近い所だし、東京にもよく行かれた悟朗さんは、両国橋の上を眺められたかも知れません。「東京を一日あるき諸葛菜 悟朗」という句もありますが、歩きくたびれた目に昼の月がぼんやりと映ります。
電車から見て町は爽やか 令
東京の空が大きく広がる景色が車窓の風景となっていきます。和田悟朗さんは九十近い時でも電車ででも背筋をすっと伸ばして立たれて、とてもお若く見えたので、すぐに席を譲られるということもあまりなかったのではないかと思います。
表六句は、故人の句集名も入り静かに追悼の巻が始まっていきます。
ウ 紅葉へと女子大生の集まれる 由季
楽屋口には菓子と手紙と 媚庵
ささやきは拍手の波をくぐりきて 裕
初折裏一句から三句までの紅葉→楽屋口→観客席(恋)。由季さんが女子大、媚庵さんが宝塚の出待ちと、和田悟朗さんの居た場所(関西)を思わせつつ、(悟朗さんへの)拍手の波と繋がっていく。全体の中でもでも華やいでいる箇所ですね。
鎖骨に触れる罪の舌先 なむ
蒟蒻を用ゐ閻魔を手なづける り
なに言ってンですか(笑)。なむ&ゆかりさんが並んで、遊び心爆発。大きく転じます。これが連句の楽しさ。
天動説に沿ふも夏月 河
天動説でさらに転じて、大きな世界へ。
レコ-ドの傷撫でてゐる宵涼し 七
先端恐怖症の眼科医 を
そこで、七さんと私(苑を)という酔人群は遣句的に場面を転換していく。
学会へマジックインキで書く図表 令
乾けばすぐに羽織る春服 季
大丈夫、九句目では学者としての和田悟朗さんへの挨拶をして、十句目の春服は氏の佇まいを感じさせるもの。
夜の花の向かふ側から汽笛鳴る 庵
鮊子釘煮水分子形 裕
初折裏最後の二句、向かふ側からと彼岸を思わせたあと、水分子形なんて人事を遠く離れたところが見事です。ここで裕さんによる解説を引用します。
《和田悟朗の科学者としての最大の業績は、水分子の性質に関してのものです。
普通の液体は、低温になるほど体積が小さくなります。ところが、水は凍る寸前の摂氏0度ではなく、摂氏4度ほどのときに体積が最小になります。この性質を、和田悟朗は水分子の形状に着目して説明しました。水分子のような、くの字の形状のものが整然と並ぶとくの字の開口部がスペースを取って体積が小さくなりません。少し雑然としているときの方が、くの字の開口部に他の水分子が入り込んで体積が小さくなります。本人のエッセイによると、和田モデルと呼ばれていたそうです。
後年、南部陽一郎がノーベル賞を取ったことで有名になった、「自発的対称性の破れ」の例として、水分子の形状がよく取り上げられます。水分子の形状のせいで、摂氏0度ではなく、摂氏4度付近で体積が最小になることも、「自発的対称性の破れ」の帰結として出てくる素粒子の性質と関連づけることが出来ます。
句会で、和田悟朗自らがその辺の事情について言及していました。司会をしながら、やっぱり和田悟朗は「自発的対称性の破れ」を意識していたかと思いつつ聞いていたことも、少し昔の話になってしまいました。》
ナオ 抜け忍の家系で草を煎じ飲む む
このあたりで大河ドラマの番宣を観ていた捌き人が「諸君狂ひたまへ」と大号令をかけたのでした。名残表はしばし表面上は和田悟朗追悼を離れ、大いに展開します。
前句の釘煮から古民家が導かれたのか、漢字ばかりの字面から暗号文書を思い浮かべたのか、突然忍者に飛躍します。しかも抜け忍のそのまた家系でなにやら薬のようなものを煎じています。
貨物列車のやうなリビドー り
前句の薬をなんの薬ととらえたものか、長大で重量級の性衝動に苦しんでいます。
速読で知つたつもりのこと多く 河
酔客クラスターに包囲された銀河さんが必死の抵抗を試み、和田悟朗さんのエッセイ集「俳句文明」の後書き「この本は、速読癖のある人には向かない気がする」を引きます。
蕩蕩として忘却の川 七
前句に対し素直に「忘却の川」と付けます。
この冬に流行るてふ縞馬模様 を
前句を去りゆくものととらえ、やってくるものを付けています。「遠国に縞馬逃げる眩しさよ 悟朗」(『即興の山』)という去りゆく縞馬の句があることを思い出しておきましょう。
氷湖の上でスピン楽しき 令
縞馬模様のスピンというなんだか瑪瑙のようなさまを思い浮かべます。
五年後の五輪に備へ竹植うる 季
冬季五輪のイメージから五、五と音を重ね、しかも竹を出してきて東京オリンピックのイメージに持ち込んでいます。ちなみに記念植樹のようではありますが、「竹植うる」は夏の季語です。
洗ひ飯食ふ宮本武蔵 庵
五輪書の宮本武蔵で付けます。「洗ひ飯食ふ」がなんともむさくるしい感じです。
帰りゆく燕の彼方眺めつつ 裕
武蔵といえば小次郎。「燕返し」を帰燕とすることにより、句に仕立てています。
物の音の澄む神宮球場 む
燕といえばスワローズで神宮球場が出てきます。東京オリンピックで取り壊されるイメージを帯びてしまうのが気にならなくもないのですが、打越よりも前のことなので、委細構わず進行します。
たれかれを招くでもなく月招く 七
膝送りだとゆかりの番ですが、脇起こしで三十五句を九吟で巻いているので捌き人が抜け、長短が狂わぬよう七さんにお願いして、悪の枢軸のごときなむ&ゆかりのタッグを解消しています。七さんはたいへんきれいに、人のいない球場が月を呼んでいると付けています。
猫は伸びたりまるくなつたり を
月の満ち欠けのイメージもあったのでしょうか。猫を詠みつつ、着実に名残裏に向けて狂騒を鎮静化しています。
ナウ 二上の雪の時空に律あらむ 令
前句の「伸びたりまるくなつたり」を和田悟朗語彙で「律」ととらえ、二上山が好きだったというエピソードを踏まえ、「二上の雪の時空に」としています。「二上山(ふたかみ)のいただきはるか死後の春 悟朗」の「死後の春」に対し本句の「あらむ」を重ね合わせるとき、すばらしい深みを感じます。ちなみに「二上山(ふたかみ)も三輪山(みわ)もゆるびぬ別れ雪 悟朗」という雪の句もあります。
揺れをさまりて曇る白息 河
前句「律」から、阪神淡路大震災被災の記憶を踏まえ付けています。
眼球を動かしてゐる画学生 庵
「秋の入水眼球に若き魚ささり 悟朗」を踏まえた句。前句の「揺れ」に対し、いかにも和田悟朗語彙の「眼球」が絶妙に収まっています。
庭を旅して逃げ水を追ふ 裕
「我が庭をしばらく旅す人麻呂忌 悟朗」を踏まえた句。「逃げ水を追ふ」に追悼の念を感じますが、奇しくも元になった句も忌日俳句で、なにかしらの因縁を思います。
永劫のまほろばに置く花の昼 む
「永劫の入り口にあり山ざくら 悟朗」を踏まえているのかも知れないのですが、それに留まらない万感の花の座です。「まほろば」は「すぐれたよい所、ひいでた国土」。
この世に誘ふ一頭の蝶 季
「この世」と付ける以上、「永劫のまほろば」とは故人が召された「あの世」だと由季さんは前句をとらえられたのでしょう。あの世の悟朗さんを蝶がこの世に呼び戻そうとするのです。そのように付けたことにより、前句の「花」は庭の旅で見つけたものから一変して、極楽を永遠の昼たらしめる壮大な献花として機能します。まさに付合のマジックです。
なにを詠んでも響きあうのが追悼連句の妙味ですが、由季さんの句は「少年をこの世に誘い櫻守 悟朗」と「蝶一頭一頭ほどの山河かな 悟朗」をも思い出させます。花の座から前者が導かれ、後者を引用して挙句にまとめたようにも読めますが、実際にどのようにしてできたかは特に明かさなくてもいいものだと思います。ただ結果として、みごとなまでに収まるところに収まっている、それでよいのだと思います。そしてこの蝶に込められたかなわぬ思いは発句にめぐり、いま生きているこの世のことを「ひととき」に過ぎないものだと言っているかのようです。
2015年8月15日土曜日
旅支度の巻・評釈
いつものように捌き人の逡巡メモです。
旅支度終へて真黒きバナナかな 恵
発句は近恵の既成作品で、『炎環新鋭叢書シリーズ5 きざし』(ふらんす堂、2011年)所収。もうひとつ「一房の一気に黒くなるバナナ」という句もあり、作者が「黒いバナナの女王」と異名をとる所以のものである。
しづかにうなる金魚の水槽 ゆかり
もうひとつ気がかりなもので脇を付けた。旅中、金魚の餌はどうするのだろう。色の対比も意識した。
町角にポストも煙草屋もなくて 媚庵
第三のセオリーどおり発句と脇の日常世界から飛躍し、うらさびしい旅先を詠んでいる。
暑さの残る射的場跡 七
かつての賑わいを彷彿させながら、残暑の温泉街を詠んでいる。
望月の翳の起伏に尾根裾野 銀河
月の座であるが、高細密カメラで月の地形を捉えた趣となっている。発句からずっと人事句が続いてしまったため、一風変わった月の座となった。
指にじませて秋茱萸を食む なむ
翻って地上の尾根裾野では、という付け方になっている。人事句に戻っているとも言えるが、かといって打越に障るわけでもないので、次句以降の流れにゆだねるものとする。
初折裏である。
ウ 修行僧弥勒菩薩に見つめられ ぐみ
秋茱萸を食んだのは断食中の修行僧であった。弥勒菩薩の前でその胸中やいかに。
微熱繰り出す薄きくちびる 恵
恋の座の位置である。読みようによっては弥勒菩薩と恋に落ちたようにも読める書き方となっている。
歌姫に芸の肥やしのふたつみつ り
冷淡なくちびるの薄い男にもてあそばれた歌姫が、その過去をネタとして芸能界にしぶとく生き残っている。
独楽が刀の刃を渡り行く 庵
人の世の人気など所詮、刀の刃を渡り行く独楽のようなもので、いつかは終わりが来る。
蜘蛛の囲の掛けられてゐる朝帰り 七
前句の綱渡りのようなスリルと蜘蛛の囲が響き合う。言外に妻の怒りが爆発寸前である様子が伺い知れる。「朝帰り」は打越までの恋の座に戻っているような気がしないでもないが、面白いので許す。
水栓漏るるおふくろの家 河
「いやあ、おふくろん家で水道が壊れちゃってさあ、夜中に業者呼んで大変だったんだよ」と切り出すことにした。もちろん真っ赤な嘘で実家には寄っていない。ただの朝帰りである。
冥王に五つ月あり凍ててをり む
嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれるわけだが、実際の冥王星では釜が煮え立っているのではなく、月が5個ある厳寒の世界である。このあたり、無人探査機ニュー・ホライズンのニュースも取り込んで巧みな付けである。
面壁九年因縁解脱 み
厳寒の世界から達磨大師の苦行を付けた。ところで一巡前は「修行僧弥勒菩薩に見つめられ」だし、なむ住職からインスパイアされるものがあるのかも知れない。
淡雪を舌に受くるも直ぐに飽き 恵
打越が「凍ててをり」なので、別の座なら駄目出しされているかも知れない。ここ「みしみし」では同じ世界に堂々めぐりしない限り、字句のレベルでは委細構わず進行する。
卒業式なき卒業アルバム り
卒業アルバムは卒業式の日に配られるので、卒業式の写真は載っていない。
坊ちやんとマドンナと見る花盛り 庵
手許に文献がないのだが、ウィキペディアによれば、卒業後8日目、母校の校長の誘いに「行きましょうと即席に返事をした」とあり、また、坊っちゃん の教師生活は、1か月間ほどにすぎなかった、ともある。その間に蚊帳の中にイナゴを入れられたりもするので、当時は秋から学年が始まっていたのか。だとすると、「坊ちやんとマドンナと見る花盛り」は離職後のできごととなる。
島々渡る風は緑に 七
なにかと人事句ばかりになりがちな一巻で、このような叙景句が挿入されるとほんとにありがたい。
名残表である。
ナオ ステーキの皿をふちどる油虫 河
なんともナンセンスな折立である。生きている油虫なのか、油虫の絵柄なのか。
まざあ・ぐうすに紛れ込む歌 む
そんなナンセンスな歌がマザー・グースに紛れ込んでいても不思議はない。ひらがな表記された「まざあ・ぐうす」は、いかにもいかがわしくなんでもありな感じがする。
ドローンに運ばれみどり児は生まれ み
出生について親が幼い子にいういい加減な説明もいろいろな伝承があって、橋の下で拾われたとか、キャベツ畑で拾われたとか、ペリカンが運んできたとかあるわけだが、近未来においては「お前はドローンで運ばれてきたんだよ」なんていうのもあるのかも知れない。
忍者屋敷を包む陽光 恵
ここで時代を超えて忍者屋敷を持ってきたところがなんとも楽しい。
巻物を広げ訪ねる高低差 り
安易に『ブラタモリ』冒頭の「今回のお題は…」と言って出てくる巻物で付けている。
壮年ランボー駱駝に乗って 庵
高低差から二瘤駱駝の着想を得たのだろう。詩人ランボーはのちに武器商人としてアフリカに渡ったという。
洪水のあとに始まる物語 七
ランボーと言えば、『イリュミナシオン』の「大洪水の後」である。
こは恐竜の顎の骨かと 河
余談めくがウィキペディアによれば、更新世の旧称・洪積世について以下の説明がある。「洪積世の名は地質学に時期区分が導入された17世紀にこの時代の 地層がノアの洪水の反映と信じられたことによる。現在では神話に結びつけることは望ましくないため、この区分名は使われなくなった。」
マリちゃんを挟んでパフをハモります む
往年のPP&Mのヒット・ナンバーで「パフ」という不思議な竜の歌がある。本家のMはマリー・トラバースであるが、「マリちゃん」というのが下心丸見えの即席学園祭バンドっぽい。
五番街にて空似追ひたり み
ペドロ・アンド・カプリシャスのヒット曲「五番街のマリー」で付ける。どんな暮らしをしているのか見るように頼まれたのだが、空似しか見つからず任務を遂行できなかったようである。
メロンパンひとつ置かれし月の膳 恵
「秋空やあつぱれなメロンパンひとつ 麻里伊」を知らない人には、どうしてここでメロンパンが出てくるのか分からないだろう。そういう意味ではずっとマ リー・トラバースを引きずっていて打越にかかると言えなくもないのだが、結果としてぜんぜん違う世界に行っているのでよしとした。さらに全体を見回すと、 食べ物がひとつあるだけという提示の仕方が発句「旅支度終へて真黒きバナナかな」とも通じるのだが、委細構わぬこととする。
またも引つ越す吾は鯖雲 り
発句が旅支度だったのに対し、ここでは引越とした。秋の空のように気まぐれに引越を繰り返す性癖とした。
名残裏である。名残裏は暴れどころではなく、花の座を経て挙句に至る、姿勢を正した運びであるべきところであるが、「みしみし」にしては珍しく花の座の前まで暴走した。
ナウ テレビには菊人形の大写し 庵
引越先で多くの梱包がそのままの中、まずはテレビの据付と配線をしてスイッチを入れたときの画像には格別のものがある。
もつてのほかを酒の肴に 七
でもそれがなんだかとんでもないものだったのである。全体のバランスを考えれば、毅然と駄目出ししてもよかったのであるが、付句次第でどうにでもなると思い、次に託した。
カラオケのマイクを磨く役どころ 河
ところが、句の内容そのままにパスされてしまった。
蟇も穴出る大ハウリング む
さすがなむさんというか、花の座の前で確信犯的に大パニックを発生させる。ほとんど「みしみし」破壊の命を受けた工作員のようである。言わずもがなであ るが、ハウリングとはマイクを不注意にスピーカーに向けたときに発生する無限の増幅で、強いて文字にするなら、ぴいいいいいいいいい、という感じの音であ る。名残裏で普通やるか、という句を頂くのも「みしみし」である。
天に満ち地に満ち花の息づかひ み
こういう場面で名句は現れる。短詩系用音韻解析ツール「おんいんくん」も以下のように絶賛する。
「にみち」「にみち」とたたみかけるリフレイン、母音による頭韻「い」「い」、子音による脚韻「ch」「ch」、母音による脚韻「い」「い」「い」があい まって、じつに美しい調べが感じられる。また、全体として極めて母音「い」が多いことによりどこか硬い印象があるといえよう。
「おんいんくん」の気づかないところでは「天に満ち」(5音)「地に満ち」(4音)「花の」(3音)と一拍ずつ短くなって緊張を高めるリズムが最後に 「息づかひ」(5音)で解放されるさまに、まさに「息づかひ」の機微を感じる。前句「ハウリング」の制御不能に対し、このような細やかさをもって花の座と するところがまさに付け合いの醍醐味ではないだろうか。
ちなみに母音iの発音において顔面の筋肉は確かに緊張するが、だからといって「全体として極めて母音「い」が多いことによりどこか硬い印象があるといえよう」と言えるのか。はなはだ疑問である。
霞開けば故郷の山河 恵
前句「花の息づかひ」を霞と捉えて、それが開けたところに「故郷の山河」を見出だしている。このようにして発句の「旅支度」から「故郷」にたどり着いた万感の挙句である。
旅支度終へて真黒きバナナかな 恵
発句は近恵の既成作品で、『炎環新鋭叢書シリーズ5 きざし』(ふらんす堂、2011年)所収。もうひとつ「一房の一気に黒くなるバナナ」という句もあり、作者が「黒いバナナの女王」と異名をとる所以のものである。
しづかにうなる金魚の水槽 ゆかり
もうひとつ気がかりなもので脇を付けた。旅中、金魚の餌はどうするのだろう。色の対比も意識した。
町角にポストも煙草屋もなくて 媚庵
第三のセオリーどおり発句と脇の日常世界から飛躍し、うらさびしい旅先を詠んでいる。
暑さの残る射的場跡 七
かつての賑わいを彷彿させながら、残暑の温泉街を詠んでいる。
望月の翳の起伏に尾根裾野 銀河
月の座であるが、高細密カメラで月の地形を捉えた趣となっている。発句からずっと人事句が続いてしまったため、一風変わった月の座となった。
指にじませて秋茱萸を食む なむ
翻って地上の尾根裾野では、という付け方になっている。人事句に戻っているとも言えるが、かといって打越に障るわけでもないので、次句以降の流れにゆだねるものとする。
初折裏である。
ウ 修行僧弥勒菩薩に見つめられ ぐみ
秋茱萸を食んだのは断食中の修行僧であった。弥勒菩薩の前でその胸中やいかに。
微熱繰り出す薄きくちびる 恵
恋の座の位置である。読みようによっては弥勒菩薩と恋に落ちたようにも読める書き方となっている。
歌姫に芸の肥やしのふたつみつ り
冷淡なくちびるの薄い男にもてあそばれた歌姫が、その過去をネタとして芸能界にしぶとく生き残っている。
独楽が刀の刃を渡り行く 庵
人の世の人気など所詮、刀の刃を渡り行く独楽のようなもので、いつかは終わりが来る。
蜘蛛の囲の掛けられてゐる朝帰り 七
前句の綱渡りのようなスリルと蜘蛛の囲が響き合う。言外に妻の怒りが爆発寸前である様子が伺い知れる。「朝帰り」は打越までの恋の座に戻っているような気がしないでもないが、面白いので許す。
水栓漏るるおふくろの家 河
「いやあ、おふくろん家で水道が壊れちゃってさあ、夜中に業者呼んで大変だったんだよ」と切り出すことにした。もちろん真っ赤な嘘で実家には寄っていない。ただの朝帰りである。
冥王に五つ月あり凍ててをり む
嘘をつくと閻魔様に舌を抜かれるわけだが、実際の冥王星では釜が煮え立っているのではなく、月が5個ある厳寒の世界である。このあたり、無人探査機ニュー・ホライズンのニュースも取り込んで巧みな付けである。
面壁九年因縁解脱 み
厳寒の世界から達磨大師の苦行を付けた。ところで一巡前は「修行僧弥勒菩薩に見つめられ」だし、なむ住職からインスパイアされるものがあるのかも知れない。
淡雪を舌に受くるも直ぐに飽き 恵
打越が「凍ててをり」なので、別の座なら駄目出しされているかも知れない。ここ「みしみし」では同じ世界に堂々めぐりしない限り、字句のレベルでは委細構わず進行する。
卒業式なき卒業アルバム り
卒業アルバムは卒業式の日に配られるので、卒業式の写真は載っていない。
坊ちやんとマドンナと見る花盛り 庵
手許に文献がないのだが、ウィキペディアによれば、卒業後8日目、母校の校長の誘いに「行きましょうと即席に返事をした」とあり、また、坊っちゃん の教師生活は、1か月間ほどにすぎなかった、ともある。その間に蚊帳の中にイナゴを入れられたりもするので、当時は秋から学年が始まっていたのか。だとすると、「坊ちやんとマドンナと見る花盛り」は離職後のできごととなる。
島々渡る風は緑に 七
なにかと人事句ばかりになりがちな一巻で、このような叙景句が挿入されるとほんとにありがたい。
名残表である。
ナオ ステーキの皿をふちどる油虫 河
なんともナンセンスな折立である。生きている油虫なのか、油虫の絵柄なのか。
まざあ・ぐうすに紛れ込む歌 む
そんなナンセンスな歌がマザー・グースに紛れ込んでいても不思議はない。ひらがな表記された「まざあ・ぐうす」は、いかにもいかがわしくなんでもありな感じがする。
ドローンに運ばれみどり児は生まれ み
出生について親が幼い子にいういい加減な説明もいろいろな伝承があって、橋の下で拾われたとか、キャベツ畑で拾われたとか、ペリカンが運んできたとかあるわけだが、近未来においては「お前はドローンで運ばれてきたんだよ」なんていうのもあるのかも知れない。
忍者屋敷を包む陽光 恵
ここで時代を超えて忍者屋敷を持ってきたところがなんとも楽しい。
巻物を広げ訪ねる高低差 り
安易に『ブラタモリ』冒頭の「今回のお題は…」と言って出てくる巻物で付けている。
壮年ランボー駱駝に乗って 庵
高低差から二瘤駱駝の着想を得たのだろう。詩人ランボーはのちに武器商人としてアフリカに渡ったという。
洪水のあとに始まる物語 七
ランボーと言えば、『イリュミナシオン』の「大洪水の後」である。
こは恐竜の顎の骨かと 河
余談めくがウィキペディアによれば、更新世の旧称・洪積世について以下の説明がある。「洪積世の名は地質学に時期区分が導入された17世紀にこの時代の 地層がノアの洪水の反映と信じられたことによる。現在では神話に結びつけることは望ましくないため、この区分名は使われなくなった。」
マリちゃんを挟んでパフをハモります む
往年のPP&Mのヒット・ナンバーで「パフ」という不思議な竜の歌がある。本家のMはマリー・トラバースであるが、「マリちゃん」というのが下心丸見えの即席学園祭バンドっぽい。
五番街にて空似追ひたり み
ペドロ・アンド・カプリシャスのヒット曲「五番街のマリー」で付ける。どんな暮らしをしているのか見るように頼まれたのだが、空似しか見つからず任務を遂行できなかったようである。
メロンパンひとつ置かれし月の膳 恵
「秋空やあつぱれなメロンパンひとつ 麻里伊」を知らない人には、どうしてここでメロンパンが出てくるのか分からないだろう。そういう意味ではずっとマ リー・トラバースを引きずっていて打越にかかると言えなくもないのだが、結果としてぜんぜん違う世界に行っているのでよしとした。さらに全体を見回すと、 食べ物がひとつあるだけという提示の仕方が発句「旅支度終へて真黒きバナナかな」とも通じるのだが、委細構わぬこととする。
またも引つ越す吾は鯖雲 り
発句が旅支度だったのに対し、ここでは引越とした。秋の空のように気まぐれに引越を繰り返す性癖とした。
名残裏である。名残裏は暴れどころではなく、花の座を経て挙句に至る、姿勢を正した運びであるべきところであるが、「みしみし」にしては珍しく花の座の前まで暴走した。
ナウ テレビには菊人形の大写し 庵
引越先で多くの梱包がそのままの中、まずはテレビの据付と配線をしてスイッチを入れたときの画像には格別のものがある。
もつてのほかを酒の肴に 七
でもそれがなんだかとんでもないものだったのである。全体のバランスを考えれば、毅然と駄目出ししてもよかったのであるが、付句次第でどうにでもなると思い、次に託した。
カラオケのマイクを磨く役どころ 河
ところが、句の内容そのままにパスされてしまった。
蟇も穴出る大ハウリング む
さすがなむさんというか、花の座の前で確信犯的に大パニックを発生させる。ほとんど「みしみし」破壊の命を受けた工作員のようである。言わずもがなであ るが、ハウリングとはマイクを不注意にスピーカーに向けたときに発生する無限の増幅で、強いて文字にするなら、ぴいいいいいいいいい、という感じの音であ る。名残裏で普通やるか、という句を頂くのも「みしみし」である。
天に満ち地に満ち花の息づかひ み
こういう場面で名句は現れる。短詩系用音韻解析ツール「おんいんくん」も以下のように絶賛する。
「にみち」「にみち」とたたみかけるリフレイン、母音による頭韻「い」「い」、子音による脚韻「ch」「ch」、母音による脚韻「い」「い」「い」があい まって、じつに美しい調べが感じられる。また、全体として極めて母音「い」が多いことによりどこか硬い印象があるといえよう。
「おんいんくん」の気づかないところでは「天に満ち」(5音)「地に満ち」(4音)「花の」(3音)と一拍ずつ短くなって緊張を高めるリズムが最後に 「息づかひ」(5音)で解放されるさまに、まさに「息づかひ」の機微を感じる。前句「ハウリング」の制御不能に対し、このような細やかさをもって花の座と するところがまさに付け合いの醍醐味ではないだろうか。
ちなみに母音iの発音において顔面の筋肉は確かに緊張するが、だからといって「全体として極めて母音「い」が多いことによりどこか硬い印象があるといえよう」と言えるのか。はなはだ疑問である。
霞開けば故郷の山河 恵
前句「花の息づかひ」を霞と捉えて、それが開けたところに「故郷の山河」を見出だしている。このようにして発句の「旅支度」から「故郷」にたどり着いた万感の挙句である。
2015年8月10日月曜日
七吟歌仙・旅支度の巻
掲示板で巻いていた連句が満尾。
旅支度終へて真黒きバナナかな 恵
しづかにうなる金魚の水槽 ゆかり
町角にポストも煙草屋もなくて 媚庵
暑さの残る射的場跡 七
望月の翳の起伏に尾根裾野 銀河
指にじませて秋茱萸を食む なむ
ウ 修行僧弥勒菩薩に見つめられ ぐみ
微熱繰り出す薄きくちびる 恵
歌姫に芸の肥やしのふたつみつ り
独楽が刀の刃を渡り行く 庵
蜘蛛の囲の掛けられてゐる朝帰り 七
水栓漏るるおふくろの家 河
冥王に五つ月あり凍ててをり む
面壁九年因縁解脱 み
淡雪を舌に受くるも直ぐに飽き 恵
卒業式なき卒業アルバム り
坊ちやんとマドンナと見る花盛り 庵
島々渡る風は緑に 七
ナオ ステーキの皿をふちどる油虫 河
まざあ・ぐうすに紛れ込む歌 む
ドローンに運ばれみどり児は生まれ み
忍者屋敷を包む陽光 恵
巻物を広げ訪ねる高低差 り
壮年ランボー駱駝に乗って 庵
洪水のあとに始まる物語 七
こは恐竜の顎の骨かと 河
マリちゃんを挟んでパフをハモります む
五番街にて空似追ひたり み
メロンパンひとつ置かれし月の膳 恵
またも引つ越す吾は鯖雲 り
ナウ テレビには菊人形の大写し 庵
もつてのほかを酒の肴に 七
カラオケのマイクを磨く役どころ 河
蟇も穴出る大ハウリング む
天に満ち地に満ち花の息づかひ み
霞開けば故郷の山河 恵
起首:2015年 6月27日(土)
満尾:2015年 8月10日(月)
捌き:ゆかり
旅支度終へて真黒きバナナかな 恵
しづかにうなる金魚の水槽 ゆかり
町角にポストも煙草屋もなくて 媚庵
暑さの残る射的場跡 七
望月の翳の起伏に尾根裾野 銀河
指にじませて秋茱萸を食む なむ
ウ 修行僧弥勒菩薩に見つめられ ぐみ
微熱繰り出す薄きくちびる 恵
歌姫に芸の肥やしのふたつみつ り
独楽が刀の刃を渡り行く 庵
蜘蛛の囲の掛けられてゐる朝帰り 七
水栓漏るるおふくろの家 河
冥王に五つ月あり凍ててをり む
面壁九年因縁解脱 み
淡雪を舌に受くるも直ぐに飽き 恵
卒業式なき卒業アルバム り
坊ちやんとマドンナと見る花盛り 庵
島々渡る風は緑に 七
ナオ ステーキの皿をふちどる油虫 河
まざあ・ぐうすに紛れ込む歌 む
ドローンに運ばれみどり児は生まれ み
忍者屋敷を包む陽光 恵
巻物を広げ訪ねる高低差 り
壮年ランボー駱駝に乗って 庵
洪水のあとに始まる物語 七
こは恐竜の顎の骨かと 河
マリちゃんを挟んでパフをハモります む
五番街にて空似追ひたり み
メロンパンひとつ置かれし月の膳 恵
またも引つ越す吾は鯖雲 り
ナウ テレビには菊人形の大写し 庵
もつてのほかを酒の肴に 七
カラオケのマイクを磨く役どころ 河
蟇も穴出る大ハウリング む
天に満ち地に満ち花の息づかひ み
霞開けば故郷の山河 恵
起首:2015年 6月27日(土)
満尾:2015年 8月10日(月)
捌き:ゆかり
2015年6月27日土曜日
緑陰の巻評釈
評釈というか、捌き人脳内ビジョンです。
緑陰にピアノのやうな男かな 苑を
「ピアノのやうな」とは「ピアノの調べのような」なのか「ピアノという楽器のような」なのか。どちらで付けても残りの可能性を封じ込め、発句の味わいを 半分損なうことになる。こういう句は独立した「俳句」として鑑賞すべきなのだが、発句として出された以上、脇を付けねばならない。おおいに悩ましい。
ところでピアノといえば、ピアニストが演奏旅行中に出会う初対面の人がじつはすべて昔から知っている人で人間関係がどんどん複雑になってゆくカズオ・イ シグロの不条理小説の題はなんであったか。あの不条理は、あえて打越を捨て去らない縛りを課した連句のようでもある(そんなものが存在するのならば、であ るが…)。
祝辞さらへばどつと出る汗 ゆかり
悩んだ結果、「ピアノという楽器のような」として脇を付けた。黒白の礼服に身を包んだ男が緑陰にいる。ここは結婚式場の庭園で、緊張しきって汗まみれになっては祝辞の練習をしている。披露宴まで時間が迫っている。
匿名の葉書は風に飛ばされて 恵
第三は発句と脇の世界とは別の、連句にとって展開の始まりである。人生の門出とは無関係な空間で、名乗るに名乗れぬ感情が吹き飛ばされて行く。
角の垣根の朝顔の紺 媚庵
飛ばされた葉書を追えば角の垣根の朝顔の紺が目に入る。
十六夜のあけゆく橋を入谷まで なむ
遊び帰りに十六夜のあけゆく橋を渡れば、朝顔市で名高い入谷である。
明治節だと言ふ指物師 を
そんな入谷には、文化の日のことを意地でも「明治節」と言う年老いた指物師が似合う。
暴れどころに突入する。
ウ 倶利伽羅を見せあふ仲と囁かれ り
頑固一徹な指物師であるが、若い頃には入れ墨を見せ合う相手がいた。
琵琶の音色の届く灯台 恵
しかし関係は長続きせず、片割れは楽士として灯台のある辺境に流れていった。
昼の雪傘さしてゆく三姉妹 庵
昼の雪が降る中、三姉妹が傘をさして行く。華やいだ雰囲気に転じている。
茶々・初・江と銘す絵屏風 む
三姉妹といえば、浅井三姉妹である。激動の時代にそれぞれ豊臣秀吉・京極高次・徳川秀忠の妻(正室・側室)となった。その名を冠した三点ものの絵屏風なのだろうか。なんとも豪奢である。
運命が扉を叩く音のする を
私にも転機が訪れたのだろうか、運命が扉を叩く音のする。
猫のことばも次第に馴れて り
扉を叩いたのは猫だった。いっしょに暮らすようになり、このごろ猫がなにを言っているのか分かるようになってきた。
小判型UFOに乗りお買物 恵
猫といえば「猫に小判」だし「猫型ロボット」である。両方ぶち込んでしまうのもどうかと思わなくもないが、往年の西武のCMのようでもある「お買物」という言い回しが妙に可笑しい。
光り物見る藤原定家 庵
UFOといえば定家『明月記』である。「光り物」という言い回しがいかにも未確認飛行物体である。
百人の首並べれば土匂ふ む
定家といえば百人一首であるが、ここでは殉死だろうか生き埋めにしてしまった。しれっと付けた春の季語「土匂ふ」がなんともブラックである。
ひと夜ふた夜と鳴るかざぐるま を
そしてひと夜ふた夜と時間が経過する。かざぐるまが鳴るさまは無常である。前句の百を受けているのであるが、すでに「十六夜」「三姉妹」があるので、連句の進行上その後、行くところまで行くことになる。
干満に委ねあしたの花筏 り
花の座であるが、前句が夜なので朝としている。海が近いこのあたりではゆうべの花筏が汐の満ち干で戻ってくる。
空へ突き刺す舵の竹竿 恵
船頭が操る竹竿は、見ようによっては空へ突き刺すようである。
名残表である。さらに暴れまくる。
ナオ 鉄柱にヒール・レスラー雄々しけれ 庵
前句からイメージを借りて、リング上で華々しく散る悪役レスラーの雄渾さを詠んでいる。
やがて消え去る霊と思へず む
発句のところでちょっと触れたカズオ・イシグロの不条理長編小説の題は『充たされざる者』なのだった。別に打越にかかるわけではないのだが、無常観とも死生観ともいうべきものが、今回の巻では絶ちがたく現れる。
とことはにウヰイルキンソン炭酸水 を
そのあたりの機微を捉えてのことだろうか、「とことはに」が妙にはまっている。
角瓶を割る年増の女 り
炭酸といえばハイボールであるが、サントリー角瓶の広告は、小雪→菅野美穂→井川遥と続いているのだったか。前任者と比較するわけでもないのだが、なんとも年増女の妖気を感じる。
池袋駅の地下街彷徨ひて 恵
年増→豊島区という駄洒落で池袋駅が導かれているわけであるが、池袋はそんな妖艶な女が彷徨っていそうである。
捕物帰りの半七に逅ふ 庵
なぜここで半七なのかはじつは分かりませんでした。分からないけど、時空を超えた彷徨感が心地よいじゃありませんか。
筋になき十手を要す詰将棋 む
捕物といえば十手がつきものだが、ここではひねって将棋の手数としている。またしても数字の連鎖が絶ちがたく現れる。
寝ても覚めても考へてゐる を
手筋を大長考しているのである。
地下鉄の車庫の近くを秋の風 り
春日三球・照代の「地下鉄の電車はどこから入れたの? それを考えてると一晩中寝られないの。」を踏まえている。四句前に「池袋駅の地下街」があるのだが、またしても絶ちがたく現れる。
山河を越えて迫る虫の音 恵
地下鉄の車両基地がある中野富士見町あたりの土地の起伏を思う。が、句は現実を離れ「虫の音」が迫る。
見あげればアポロの頃と同じ月 庵
月の座である。地形的に見上げるしかないのだが、そこに人類の進歩と調和が信じられていた頃と同じ月が見える。ふと安倍仲麿の歌を思い出す。「天の原ふ りさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」は遣唐使の仲麿が唐の地で故郷と同じ月を詠むという、空間を超えた「同じ月」であるのに対し、こちらは時間 を超えた「同じ月」である。そんなことを思い出すのは、初折裏八句目の「光り物見る藤原定家」のせいだろう。またしても絶ちがたく現れる。
ジュール・ヴェルヌも太鼓判押す む
ヴェルヌの『月世界旅行』は読んだかも知れないが、忘れてしまった。ある種のハードSFはのちにそのまま現実になる。「太鼓判押す」が絶妙である。
名残裏である。しらふにかえり大団円に向かう。
ナウ 棚隅に表紙の取れた和佛辞書 を
えっ、子どもの頃読んだという話ではなく、原書なの、という意外な展開。
四つ五つは口語自由詩 り
まだ出ていない数字をこの際全部使おう、という方針を名残裏にして打ち出す。ひどい捌き人である。人は誰でもヴェルレーヌだランボーだと口走り四つ五つは口語自由詩を詠んだ黒歴史がある。
杉桶の八ツ目うなぎを掴めずに 恵
口語自由詩? そんなもん、うなぎに聞いてくれ。
由来不明の涅槃図を吊る 庵
得体の知れぬ涅槃図にはちゃんとうなぎもいる。
対岸にけふ九重の花莚 む
対岸というのは、涅槃図の外の現実世界ということだろうか。折りたたんだ筵を平らにのばして花見が始まる。このようにしてまたしても百人一首が絶ちがたく現れる。数字のノルマは達成。
小径をゆけば囀りの中 を
そして、小径をゆけば囀りの中である。脇は発句を「ピアノという楽器のような」と読んで発句の味わいを半分捨てたわけだが、挙句は捨てた方の「ピアノの調べのような」に向かって円環をなす。さすがである。
緑陰にピアノのやうな男かな 苑を
「ピアノのやうな」とは「ピアノの調べのような」なのか「ピアノという楽器のような」なのか。どちらで付けても残りの可能性を封じ込め、発句の味わいを 半分損なうことになる。こういう句は独立した「俳句」として鑑賞すべきなのだが、発句として出された以上、脇を付けねばならない。おおいに悩ましい。
ところでピアノといえば、ピアニストが演奏旅行中に出会う初対面の人がじつはすべて昔から知っている人で人間関係がどんどん複雑になってゆくカズオ・イ シグロの不条理小説の題はなんであったか。あの不条理は、あえて打越を捨て去らない縛りを課した連句のようでもある(そんなものが存在するのならば、であ るが…)。
祝辞さらへばどつと出る汗 ゆかり
悩んだ結果、「ピアノという楽器のような」として脇を付けた。黒白の礼服に身を包んだ男が緑陰にいる。ここは結婚式場の庭園で、緊張しきって汗まみれになっては祝辞の練習をしている。披露宴まで時間が迫っている。
匿名の葉書は風に飛ばされて 恵
第三は発句と脇の世界とは別の、連句にとって展開の始まりである。人生の門出とは無関係な空間で、名乗るに名乗れぬ感情が吹き飛ばされて行く。
角の垣根の朝顔の紺 媚庵
飛ばされた葉書を追えば角の垣根の朝顔の紺が目に入る。
十六夜のあけゆく橋を入谷まで なむ
遊び帰りに十六夜のあけゆく橋を渡れば、朝顔市で名高い入谷である。
明治節だと言ふ指物師 を
そんな入谷には、文化の日のことを意地でも「明治節」と言う年老いた指物師が似合う。
暴れどころに突入する。
ウ 倶利伽羅を見せあふ仲と囁かれ り
頑固一徹な指物師であるが、若い頃には入れ墨を見せ合う相手がいた。
琵琶の音色の届く灯台 恵
しかし関係は長続きせず、片割れは楽士として灯台のある辺境に流れていった。
昼の雪傘さしてゆく三姉妹 庵
昼の雪が降る中、三姉妹が傘をさして行く。華やいだ雰囲気に転じている。
茶々・初・江と銘す絵屏風 む
三姉妹といえば、浅井三姉妹である。激動の時代にそれぞれ豊臣秀吉・京極高次・徳川秀忠の妻(正室・側室)となった。その名を冠した三点ものの絵屏風なのだろうか。なんとも豪奢である。
運命が扉を叩く音のする を
私にも転機が訪れたのだろうか、運命が扉を叩く音のする。
猫のことばも次第に馴れて り
扉を叩いたのは猫だった。いっしょに暮らすようになり、このごろ猫がなにを言っているのか分かるようになってきた。
小判型UFOに乗りお買物 恵
猫といえば「猫に小判」だし「猫型ロボット」である。両方ぶち込んでしまうのもどうかと思わなくもないが、往年の西武のCMのようでもある「お買物」という言い回しが妙に可笑しい。
光り物見る藤原定家 庵
UFOといえば定家『明月記』である。「光り物」という言い回しがいかにも未確認飛行物体である。
百人の首並べれば土匂ふ む
定家といえば百人一首であるが、ここでは殉死だろうか生き埋めにしてしまった。しれっと付けた春の季語「土匂ふ」がなんともブラックである。
ひと夜ふた夜と鳴るかざぐるま を
そしてひと夜ふた夜と時間が経過する。かざぐるまが鳴るさまは無常である。前句の百を受けているのであるが、すでに「十六夜」「三姉妹」があるので、連句の進行上その後、行くところまで行くことになる。
干満に委ねあしたの花筏 り
花の座であるが、前句が夜なので朝としている。海が近いこのあたりではゆうべの花筏が汐の満ち干で戻ってくる。
空へ突き刺す舵の竹竿 恵
船頭が操る竹竿は、見ようによっては空へ突き刺すようである。
名残表である。さらに暴れまくる。
ナオ 鉄柱にヒール・レスラー雄々しけれ 庵
前句からイメージを借りて、リング上で華々しく散る悪役レスラーの雄渾さを詠んでいる。
やがて消え去る霊と思へず む
発句のところでちょっと触れたカズオ・イシグロの不条理長編小説の題は『充たされざる者』なのだった。別に打越にかかるわけではないのだが、無常観とも死生観ともいうべきものが、今回の巻では絶ちがたく現れる。
とことはにウヰイルキンソン炭酸水 を
そのあたりの機微を捉えてのことだろうか、「とことはに」が妙にはまっている。
角瓶を割る年増の女 り
炭酸といえばハイボールであるが、サントリー角瓶の広告は、小雪→菅野美穂→井川遥と続いているのだったか。前任者と比較するわけでもないのだが、なんとも年増女の妖気を感じる。
池袋駅の地下街彷徨ひて 恵
年増→豊島区という駄洒落で池袋駅が導かれているわけであるが、池袋はそんな妖艶な女が彷徨っていそうである。
捕物帰りの半七に逅ふ 庵
なぜここで半七なのかはじつは分かりませんでした。分からないけど、時空を超えた彷徨感が心地よいじゃありませんか。
筋になき十手を要す詰将棋 む
捕物といえば十手がつきものだが、ここではひねって将棋の手数としている。またしても数字の連鎖が絶ちがたく現れる。
寝ても覚めても考へてゐる を
手筋を大長考しているのである。
地下鉄の車庫の近くを秋の風 り
春日三球・照代の「地下鉄の電車はどこから入れたの? それを考えてると一晩中寝られないの。」を踏まえている。四句前に「池袋駅の地下街」があるのだが、またしても絶ちがたく現れる。
山河を越えて迫る虫の音 恵
地下鉄の車両基地がある中野富士見町あたりの土地の起伏を思う。が、句は現実を離れ「虫の音」が迫る。
見あげればアポロの頃と同じ月 庵
月の座である。地形的に見上げるしかないのだが、そこに人類の進歩と調和が信じられていた頃と同じ月が見える。ふと安倍仲麿の歌を思い出す。「天の原ふ りさけ見れば春日なる三笠の山に出でし月かも」は遣唐使の仲麿が唐の地で故郷と同じ月を詠むという、空間を超えた「同じ月」であるのに対し、こちらは時間 を超えた「同じ月」である。そんなことを思い出すのは、初折裏八句目の「光り物見る藤原定家」のせいだろう。またしても絶ちがたく現れる。
ジュール・ヴェルヌも太鼓判押す む
ヴェルヌの『月世界旅行』は読んだかも知れないが、忘れてしまった。ある種のハードSFはのちにそのまま現実になる。「太鼓判押す」が絶妙である。
名残裏である。しらふにかえり大団円に向かう。
ナウ 棚隅に表紙の取れた和佛辞書 を
えっ、子どもの頃読んだという話ではなく、原書なの、という意外な展開。
四つ五つは口語自由詩 り
まだ出ていない数字をこの際全部使おう、という方針を名残裏にして打ち出す。ひどい捌き人である。人は誰でもヴェルレーヌだランボーだと口走り四つ五つは口語自由詩を詠んだ黒歴史がある。
杉桶の八ツ目うなぎを掴めずに 恵
口語自由詩? そんなもん、うなぎに聞いてくれ。
由来不明の涅槃図を吊る 庵
得体の知れぬ涅槃図にはちゃんとうなぎもいる。
対岸にけふ九重の花莚 む
対岸というのは、涅槃図の外の現実世界ということだろうか。折りたたんだ筵を平らにのばして花見が始まる。このようにしてまたしても百人一首が絶ちがたく現れる。数字のノルマは達成。
小径をゆけば囀りの中 を
そして、小径をゆけば囀りの中である。脇は発句を「ピアノという楽器のような」と読んで発句の味わいを半分捨てたわけだが、挙句は捨てた方の「ピアノの調べのような」に向かって円環をなす。さすがである。
2015年6月23日火曜日
五吟歌仙・緑陰の巻
掲示板で巻いていた連句が満尾。
緑陰にピアノのやうな男かな 苑を
祝辞さらへばどつと出る汗 ゆかり
匿名の葉書は風に飛ばされて 恵
角の垣根の朝顔の紺 媚庵
十六夜のあけゆく橋を入谷まで なむ
明治節だと言ふ指物師 を
ウ 倶利伽羅を見せあふ仲と囁かれ り
琵琶の音色の届く灯台 恵
昼の雪傘さしてゆく三姉妹 庵
茶々・初・江と銘す絵屏風 む
運命が扉を叩く音のする を
猫のことばも次第に馴れて り
小判型UFOに乗りお買物 恵
光り物見る藤原定家 庵
百人の首並べれば土匂ふ む
ひと夜ふた夜と鳴るかざぐるま を
干満に委ねあしたの花筏 り
空へ突き刺す舵の竹竿 恵
ナオ 鉄柱にヒール・レスラー雄々しけれ 庵
やがて消え去る霊と思へず む
とことはにウヰイルキンソン炭酸水 を
角瓶を割る年増の女 り
池袋駅の地下街彷徨ひて 恵
捕物帰りの半七に逅ふ 庵
筋になき十手を要す詰将棋 む
寝ても覚めても考へてゐる を
地下鉄の車庫の近くを秋の風 り
山河を越えて迫る虫の音 恵
見あげればアポロの頃と同じ月 庵
ジュール・ヴェルヌも太鼓判押す む
ナウ 棚隅に表紙の取れた和佛辞書 を
四つ五つは口語自由詩 り
杉桶の八ツ目うなぎを掴めずに 恵
由来不明の涅槃図を吊る 庵
対岸にけふ九重の花莚 む
小径をゆけば囀りの中 を
起首:2015年 5月31日(日)
満尾:2015年 6月23日(火)
捌き:ゆかり
緑陰にピアノのやうな男かな 苑を
祝辞さらへばどつと出る汗 ゆかり
匿名の葉書は風に飛ばされて 恵
角の垣根の朝顔の紺 媚庵
十六夜のあけゆく橋を入谷まで なむ
明治節だと言ふ指物師 を
ウ 倶利伽羅を見せあふ仲と囁かれ り
琵琶の音色の届く灯台 恵
昼の雪傘さしてゆく三姉妹 庵
茶々・初・江と銘す絵屏風 む
運命が扉を叩く音のする を
猫のことばも次第に馴れて り
小判型UFOに乗りお買物 恵
光り物見る藤原定家 庵
百人の首並べれば土匂ふ む
ひと夜ふた夜と鳴るかざぐるま を
干満に委ねあしたの花筏 り
空へ突き刺す舵の竹竿 恵
ナオ 鉄柱にヒール・レスラー雄々しけれ 庵
やがて消え去る霊と思へず む
とことはにウヰイルキンソン炭酸水 を
角瓶を割る年増の女 り
池袋駅の地下街彷徨ひて 恵
捕物帰りの半七に逅ふ 庵
筋になき十手を要す詰将棋 む
寝ても覚めても考へてゐる を
地下鉄の車庫の近くを秋の風 り
山河を越えて迫る虫の音 恵
見あげればアポロの頃と同じ月 庵
ジュール・ヴェルヌも太鼓判押す む
ナウ 棚隅に表紙の取れた和佛辞書 を
四つ五つは口語自由詩 り
杉桶の八ツ目うなぎを掴めずに 恵
由来不明の涅槃図を吊る 庵
対岸にけふ九重の花莚 む
小径をゆけば囀りの中 を
起首:2015年 5月31日(日)
満尾:2015年 6月23日(火)
捌き:ゆかり
2015年5月23日土曜日
お台場の巻・評釈
お台場に汐の香つのる柳かな 媚庵
媚庵さんの歌仙における作風からはほぼ一貫した郷愁が感じられるが、今回の発句はお台場。ペリー来襲で急造された海上の砲台跡地に一般市民が普通に訪れ るようになったのは、フジテレビの社屋が移転した頃からだろうか。とにかく作中主体はいまお台場に立ち、ゆれる柳とともに晩春の汐の香を浴びている。旧跡 を偲ぶ万感の発句である。
観覧車から霞む半島 ゆかり
脇は発句への挨拶として、同季、同じ場所で詠む。まさに現代の景として観覧車から遠景を一望しているわけであるが、お台場は歌枕としてはかつて鉄道唱歌 に歌われている。「窓より近く品川の 台場も見えて波白く/海のあなたにうすがすむ 山は上総か房州か」(大和田建樹作詞、鉄道唱歌の三番)。
かつて品川の車窓からお台場とともに見ることができた景も今では観覧車の上からですね、媚庵さん。
老いかねしうぐひすの音の絶えずして 銀河
第三からが連句としての展開の真の始まりである。発句と脇で完結した挨拶から離れ、違う世界へ誘う。同季の中では時系列で付ける必要があるが、なにしろ 晩春が発句なので春といってもあとがない。ここでは機転を利かせ、夏の季語「老鶯」に対し「老いかねしうぐひす」とすることにより難題をかわしている。ま た、発句の嗅覚、脇の視覚に対し、第三で聴覚を詠んでいるところも、流石である。
画布の小径に入れる紫 令
鶯が鳴くあたりにイーゼルを立てて黙々と絵を描いている。「入れる」がなんとも心憎い措辞である。
睡蓮の夢みる頃を照らす月 苑を
月の座である。前句「紫」から睡蓮を導くとともに、媚庵さんの歌集『夢見る頃を過ぎても』を詠み込み挨拶句としている。なお、睡蓮は夏の季語であるが、睡蓮の夢だから季語にはあたらないという逃れ方をしている。
竹伐る人と詩を書く人と 庵
何かしら期限がある「夢みる頃」に対し、同時に存在する実務者と芸術家を並置している。それが同一人物なのか別人物なのかはあえて言及していない。「竹伐る人」は月→竹取物語から導かれたものかも知れない。
初折裏である。ここからは暴れどころとして、ときに格調も品位もなく進行する。実際の歌仙では表六句が終わると酒が回ってくるとも聞く。
ウ あひみてののちのこころの秋茜 り
前句「竹伐る人と詩を書く人と」に対し、これをやり過ごすとしばらく恋の座に持ち込めない懸念があり、前句を恋人同士と見立て、百人一首から権中納言敦忠の歌を引用した。ただし悲恋である。詩人は本質的に仲間っぱずれなのだ。
砂漠の百里四方友無く 河
ここで訃報が入る。津田清子さんが亡くなったのである。「砂漠の木百里四方に友は無し 津田清子」を踏まえた悲痛な挽歌であるが、どういう偶然に導かれたものか前句の孤愁と滑らかにつながっている。
幻の泛かぶひねもすよもすがら 令
悲報を受けてそのまま付けている。打越の「あひみての」に対し「よもすがら」で「また歌留多?」ということもよぎったが、ここは駄目出しする場面ではない。
高層ビルの非常階段 を
ここで立て直す。いかにも幻が現れそうな遣句である。
土鍋もち屋台へおでん買ひに出る 庵
飄逸な句である。二十一世紀というのは実際そういう世界で、高層ビルと旧来の文化が共存する。
練物ばかり選ぶ人妻 り
居合わせた人妻は偏食なのかずいぶん変な買い物をしている。
飛魚の波切つてゆき滑るやう 河
人事が続いたので、意表をついて加工される前の魚に転じている。
北回帰線こゆる唐船 令
海洋進出する中国という世相のようでもありながら古風に「唐船」として、物語を次句にゆだねる作り方となっている。
積み上がる発禁本に春寒し を
前句から国情不安を読み取ったものか、発禁本という不穏なものがどさりと積み上がる。
カストリ煽る四月馬鹿の日 庵
前句、わざわざ「春寒し」というところを見ると春本だったのか。安酒を煽りつつ生業とする。
中年のしのび泣く夜の脳に花 り
四月馬鹿の日は三鬼忌。「中年や遠くみのれる夜の桃」「算術の少年しのび泣けり夏」などを踏まえつつ、カストリで脳に花が咲いている。凄惨な花の座である。
極限で似るものの家にて 河
三鬼の『神戸』『続神戸』の登場人物たちはみな極限で似ている。字面を追えばそういう読みが自然であるが、銀河さんによれば「極限で似るものの家」は岐 阜県養老の滝付近のテーマパーク「養老天命反転地」の惹句とのことである。しかも前句「脳」から養老孟司を経ての連想だという。そんなこと言わなければい いのに。
名残表は、引き続き暴れどころである。
ナオ 荷が着いて天地無用の大きな字 令
前句「極限で似るものの家にて」が「養老天命反転地」の惹句であることが作者自身から明かされ、その由来の方から導かれた句ではあるが、句そのものを並べたときに「極限」に対し「天地無用」と字面が妙に可笑しい。
走るときには走るペリカン を
前句を宅配便と捉え、ペリカン便から発想している。宅配便は黒猫、カンガルー、このペリカンなど動物や鳥のイメージキャラクターが多く、腕の見せどころであるが、ここではなんと走らせている。ペリカンがあわてふためいて不器用に走るさまを想像するとじつに可笑しい。
アジトより黒の歌姫あらはれて 庵
時代は学生運動のさなかにワープする。騒然としたなか、アジトから悠然と黒ずくめの歌姫が現れる。浅川マキのイメージか。
眼窩のうづく黄色い太陽 り
行為に耽ったあと太陽が黄色く見えると言われていたのも、そんな時代であったか。いったいアジトにこもって何をやっていたのだろう。黒に対して黄色で付けている。
近づくに日本国旗のあざやかな 河
寝不足で朦朧とした頭のまま近づくと鮮やかな日本国旗が見える。
長い隊列麦畑ゆく 令
それは長い隊列をなし麦畑を進軍している。
梅雨冷に喇叭マークの薬瓶 を
かと思いきや軍国的なイメージを無効化しおなかをこわしている。じつに飄逸な付けぶりである。
元モガなれどいま二児の母 庵
かつてモガだったのもいつのことか、生活に追われ今もまさに下痢の子どもの世話をしている。
立秋をローアングルのカメラ這ふ り
その昔は颯爽と銀幕に映ったこともあったというのに。
燕去る日の風に色なく 河
ローアングルでヒロインを追う視線のような軌跡で燕が去って行く。ちなみに秋風のことを色なき風と言ったり、金風、素風などと言ったりするのは陰陽五行説に由来していて、詳しくは歳時記を当たられたい。
枝折戸の鈴を鳴らして月の客 令
そんな秋の日にひょいと枝折戸の鈴を鳴らして月見の客がやってきた。
ブーケ・ガルニの香る厨房 を
もてなしはなんのスープであろうか、厨房ではブーケ・ガルニが香っている。
暴れどころの悪ふざけも静まり、名残裏である。
ナウ 万巻の書のしづけさに雪明り 庵
ここ「みしみし」では「雪の座」とでも言うべきものを設けていて、名残裏に入るまでに一句も雪の句が出ていないと、捌き人が所望する。古来「雪月花」と いうことばもあるのに、標準的な連句の式目ではどうして月の座と花の座しかないのだろう。さて、折しも調理がクライマックスに達して芳香を放つ頃、灯を落 とした書庫には万巻の書が眠り読めるともなく雪明りに照らされている。
燐寸を擦ればつかのまの暖 り
書の文字を確かめたかったのであろうか。燐寸を擦れば、束の間暖かい。
かつて街であつたあたりを撮りなほす 河
以前街だった頃によく撮影したこの街は今は廃墟となっていて、寒さが身にこたえる。現在の姿をもう一度記録するのだ。
軌道の跡に薄氷を踏み 令
廃線の跡はでこぼこに水が溜まって薄い氷が張っている。春はまだ浅い。
須呵摩提へといちめんの花筏 を
須呵摩提(しゅかまだい)はサンスクリット語「スカーヴァティー」で、「幸福のあるところ」の意。水を流れるいちめんの落花はあたかも極楽へと続く軌道のようである。この美しくもどこか不吉さを内包する花の座のあとで、一体どういう挙句があり得るというのだろう。
お江戸の春の美しき夕映え 庵
そして挙句である。発句「お台場」を思えば、終焉を迎える江戸という町、時代の最期の黄昏の美しさなのだろうか。挙句から発句へと円環をなし、これにて満尾である。
媚庵さんの歌仙における作風からはほぼ一貫した郷愁が感じられるが、今回の発句はお台場。ペリー来襲で急造された海上の砲台跡地に一般市民が普通に訪れ るようになったのは、フジテレビの社屋が移転した頃からだろうか。とにかく作中主体はいまお台場に立ち、ゆれる柳とともに晩春の汐の香を浴びている。旧跡 を偲ぶ万感の発句である。
観覧車から霞む半島 ゆかり
脇は発句への挨拶として、同季、同じ場所で詠む。まさに現代の景として観覧車から遠景を一望しているわけであるが、お台場は歌枕としてはかつて鉄道唱歌 に歌われている。「窓より近く品川の 台場も見えて波白く/海のあなたにうすがすむ 山は上総か房州か」(大和田建樹作詞、鉄道唱歌の三番)。
かつて品川の車窓からお台場とともに見ることができた景も今では観覧車の上からですね、媚庵さん。
老いかねしうぐひすの音の絶えずして 銀河
第三からが連句としての展開の真の始まりである。発句と脇で完結した挨拶から離れ、違う世界へ誘う。同季の中では時系列で付ける必要があるが、なにしろ 晩春が発句なので春といってもあとがない。ここでは機転を利かせ、夏の季語「老鶯」に対し「老いかねしうぐひす」とすることにより難題をかわしている。ま た、発句の嗅覚、脇の視覚に対し、第三で聴覚を詠んでいるところも、流石である。
画布の小径に入れる紫 令
鶯が鳴くあたりにイーゼルを立てて黙々と絵を描いている。「入れる」がなんとも心憎い措辞である。
睡蓮の夢みる頃を照らす月 苑を
月の座である。前句「紫」から睡蓮を導くとともに、媚庵さんの歌集『夢見る頃を過ぎても』を詠み込み挨拶句としている。なお、睡蓮は夏の季語であるが、睡蓮の夢だから季語にはあたらないという逃れ方をしている。
竹伐る人と詩を書く人と 庵
何かしら期限がある「夢みる頃」に対し、同時に存在する実務者と芸術家を並置している。それが同一人物なのか別人物なのかはあえて言及していない。「竹伐る人」は月→竹取物語から導かれたものかも知れない。
初折裏である。ここからは暴れどころとして、ときに格調も品位もなく進行する。実際の歌仙では表六句が終わると酒が回ってくるとも聞く。
ウ あひみてののちのこころの秋茜 り
前句「竹伐る人と詩を書く人と」に対し、これをやり過ごすとしばらく恋の座に持ち込めない懸念があり、前句を恋人同士と見立て、百人一首から権中納言敦忠の歌を引用した。ただし悲恋である。詩人は本質的に仲間っぱずれなのだ。
砂漠の百里四方友無く 河
ここで訃報が入る。津田清子さんが亡くなったのである。「砂漠の木百里四方に友は無し 津田清子」を踏まえた悲痛な挽歌であるが、どういう偶然に導かれたものか前句の孤愁と滑らかにつながっている。
幻の泛かぶひねもすよもすがら 令
悲報を受けてそのまま付けている。打越の「あひみての」に対し「よもすがら」で「また歌留多?」ということもよぎったが、ここは駄目出しする場面ではない。
高層ビルの非常階段 を
ここで立て直す。いかにも幻が現れそうな遣句である。
土鍋もち屋台へおでん買ひに出る 庵
飄逸な句である。二十一世紀というのは実際そういう世界で、高層ビルと旧来の文化が共存する。
練物ばかり選ぶ人妻 り
居合わせた人妻は偏食なのかずいぶん変な買い物をしている。
飛魚の波切つてゆき滑るやう 河
人事が続いたので、意表をついて加工される前の魚に転じている。
北回帰線こゆる唐船 令
海洋進出する中国という世相のようでもありながら古風に「唐船」として、物語を次句にゆだねる作り方となっている。
積み上がる発禁本に春寒し を
前句から国情不安を読み取ったものか、発禁本という不穏なものがどさりと積み上がる。
カストリ煽る四月馬鹿の日 庵
前句、わざわざ「春寒し」というところを見ると春本だったのか。安酒を煽りつつ生業とする。
中年のしのび泣く夜の脳に花 り
四月馬鹿の日は三鬼忌。「中年や遠くみのれる夜の桃」「算術の少年しのび泣けり夏」などを踏まえつつ、カストリで脳に花が咲いている。凄惨な花の座である。
極限で似るものの家にて 河
三鬼の『神戸』『続神戸』の登場人物たちはみな極限で似ている。字面を追えばそういう読みが自然であるが、銀河さんによれば「極限で似るものの家」は岐 阜県養老の滝付近のテーマパーク「養老天命反転地」の惹句とのことである。しかも前句「脳」から養老孟司を経ての連想だという。そんなこと言わなければい いのに。
名残表は、引き続き暴れどころである。
ナオ 荷が着いて天地無用の大きな字 令
前句「極限で似るものの家にて」が「養老天命反転地」の惹句であることが作者自身から明かされ、その由来の方から導かれた句ではあるが、句そのものを並べたときに「極限」に対し「天地無用」と字面が妙に可笑しい。
走るときには走るペリカン を
前句を宅配便と捉え、ペリカン便から発想している。宅配便は黒猫、カンガルー、このペリカンなど動物や鳥のイメージキャラクターが多く、腕の見せどころであるが、ここではなんと走らせている。ペリカンがあわてふためいて不器用に走るさまを想像するとじつに可笑しい。
アジトより黒の歌姫あらはれて 庵
時代は学生運動のさなかにワープする。騒然としたなか、アジトから悠然と黒ずくめの歌姫が現れる。浅川マキのイメージか。
眼窩のうづく黄色い太陽 り
行為に耽ったあと太陽が黄色く見えると言われていたのも、そんな時代であったか。いったいアジトにこもって何をやっていたのだろう。黒に対して黄色で付けている。
近づくに日本国旗のあざやかな 河
寝不足で朦朧とした頭のまま近づくと鮮やかな日本国旗が見える。
長い隊列麦畑ゆく 令
それは長い隊列をなし麦畑を進軍している。
梅雨冷に喇叭マークの薬瓶 を
かと思いきや軍国的なイメージを無効化しおなかをこわしている。じつに飄逸な付けぶりである。
元モガなれどいま二児の母 庵
かつてモガだったのもいつのことか、生活に追われ今もまさに下痢の子どもの世話をしている。
立秋をローアングルのカメラ這ふ り
その昔は颯爽と銀幕に映ったこともあったというのに。
燕去る日の風に色なく 河
ローアングルでヒロインを追う視線のような軌跡で燕が去って行く。ちなみに秋風のことを色なき風と言ったり、金風、素風などと言ったりするのは陰陽五行説に由来していて、詳しくは歳時記を当たられたい。
枝折戸の鈴を鳴らして月の客 令
そんな秋の日にひょいと枝折戸の鈴を鳴らして月見の客がやってきた。
ブーケ・ガルニの香る厨房 を
もてなしはなんのスープであろうか、厨房ではブーケ・ガルニが香っている。
暴れどころの悪ふざけも静まり、名残裏である。
ナウ 万巻の書のしづけさに雪明り 庵
ここ「みしみし」では「雪の座」とでも言うべきものを設けていて、名残裏に入るまでに一句も雪の句が出ていないと、捌き人が所望する。古来「雪月花」と いうことばもあるのに、標準的な連句の式目ではどうして月の座と花の座しかないのだろう。さて、折しも調理がクライマックスに達して芳香を放つ頃、灯を落 とした書庫には万巻の書が眠り読めるともなく雪明りに照らされている。
燐寸を擦ればつかのまの暖 り
書の文字を確かめたかったのであろうか。燐寸を擦れば、束の間暖かい。
かつて街であつたあたりを撮りなほす 河
以前街だった頃によく撮影したこの街は今は廃墟となっていて、寒さが身にこたえる。現在の姿をもう一度記録するのだ。
軌道の跡に薄氷を踏み 令
廃線の跡はでこぼこに水が溜まって薄い氷が張っている。春はまだ浅い。
須呵摩提へといちめんの花筏 を
須呵摩提(しゅかまだい)はサンスクリット語「スカーヴァティー」で、「幸福のあるところ」の意。水を流れるいちめんの落花はあたかも極楽へと続く軌道のようである。この美しくもどこか不吉さを内包する花の座のあとで、一体どういう挙句があり得るというのだろう。
お江戸の春の美しき夕映え 庵
そして挙句である。発句「お台場」を思えば、終焉を迎える江戸という町、時代の最期の黄昏の美しさなのだろうか。挙句から発句へと円環をなし、これにて満尾である。
2015年5月18日月曜日
五吟歌仙 お台場の巻
掲示板で巻いていた連句が満尾。
お台場に汐の香つのる柳かな 媚庵
観覧車から霞む半島 ゆかり
老いかねしうぐひすの音の絶えずして 銀河
画布の小径に入れる紫 令
睡蓮の夢みる頃を照らす月 苑を
竹伐る人と詩を書く人と 庵
ウ あひみてののちのこころの秋茜 り
砂漠の百里四方友無く 河
幻の泛かぶひねもすよもすがら 令
高層ビルの非常階段 を
土鍋もち屋台へおでん買ひに出る 庵
練物ばかり選ぶ人妻 り
飛魚の波切つてゆき滑るやう 河
北回帰線こゆる唐船 令
積み上がる発禁本に春寒し を
カストリ煽る四月馬鹿の日 庵
中年のしのび泣く夜の脳に花 り
極限で似るものの家にて 河
ナオ 荷が着いて天地無用の大きな字 令
走るときには走るペリカン を
アジトより黒の歌姫あらはれて 庵
眼窩のうづく黄色い太陽 り
近づくに日本国旗のあざやかな 河
長い隊列麦畑ゆく 令
梅雨冷に喇叭マークの薬瓶 を
元モガなれどいま二児の母 庵
立秋をローアングルのカメラ這ふ り
燕去る日の風に色なく 河
枝折戸の鈴を鳴らして月の客 令
ブーケ・ガルニの香る厨房 を
ナウ 万巻の書のしづけさに雪明り 庵
燐寸を擦ればつかのまの暖 り
かつて街であつたあたりを撮りなほす 河
軌道の跡に薄氷を踏み 令
須呵摩提へといちめんの花筏 を
お江戸の春の美しき夕映え 庵
起首:2015年 4月30日
満尾:2015年 5月18日
捌き:ゆかり
註
初折裏12句目「極限で似るものの家」は岐阜県養老の滝付近のテーマパーク「養老天命反転地」の惹句。
お台場に汐の香つのる柳かな 媚庵
観覧車から霞む半島 ゆかり
老いかねしうぐひすの音の絶えずして 銀河
画布の小径に入れる紫 令
睡蓮の夢みる頃を照らす月 苑を
竹伐る人と詩を書く人と 庵
ウ あひみてののちのこころの秋茜 り
砂漠の百里四方友無く 河
幻の泛かぶひねもすよもすがら 令
高層ビルの非常階段 を
土鍋もち屋台へおでん買ひに出る 庵
練物ばかり選ぶ人妻 り
飛魚の波切つてゆき滑るやう 河
北回帰線こゆる唐船 令
積み上がる発禁本に春寒し を
カストリ煽る四月馬鹿の日 庵
中年のしのび泣く夜の脳に花 り
極限で似るものの家にて 河
ナオ 荷が着いて天地無用の大きな字 令
走るときには走るペリカン を
アジトより黒の歌姫あらはれて 庵
眼窩のうづく黄色い太陽 り
近づくに日本国旗のあざやかな 河
長い隊列麦畑ゆく 令
梅雨冷に喇叭マークの薬瓶 を
元モガなれどいま二児の母 庵
立秋をローアングルのカメラ這ふ り
燕去る日の風に色なく 河
枝折戸の鈴を鳴らして月の客 令
ブーケ・ガルニの香る厨房 を
ナウ 万巻の書のしづけさに雪明り 庵
燐寸を擦ればつかのまの暖 り
かつて街であつたあたりを撮りなほす 河
軌道の跡に薄氷を踏み 令
須呵摩提へといちめんの花筏 を
お江戸の春の美しき夕映え 庵
起首:2015年 4月30日
満尾:2015年 5月18日
捌き:ゆかり
註
初折裏12句目「極限で似るものの家」は岐阜県養老の滝付近のテーマパーク「養老天命反転地」の惹句。
2015年3月23日月曜日
脇起し九吟歌仙 ひとときのの巻
掲示板で巻いていた連句が満尾。
ひとときの太古の焔お水取り 和田悟朗
余寒おほきくうつろへる影 ゆかり
かざぐるま風を愉しみ音立てて 銀河
どこからか来るなつかしき声 七
昼月のぼやけ両国橋の上 苑を
電車から見て町は爽やか 令
ウ 紅葉へと女子大生の集まれる 由季
楽屋口には菓子と手紙と 媚庵
ささやきは拍手の波をくぐりきて 裕
鎖骨に触れる罪の舌先 なむ
蒟蒻を用ゐ閻魔を手なづける り
天動説に沿ふも夏月 河
レコ-ドの傷撫でてゐる宵涼し 七
先端恐怖症の眼科医 を
学会へマジックインキで書く図表 令
乾けばすぐに羽織る春服 季
夜の花の向かふ側から汽笛鳴る 庵
鮊子釘煮水分子形 裕
ナオ 抜け忍の家系で草を煎じ飲む む
貨物列車のやうなリビドー り
速読で知つたつもりのこと多く 河
蕩蕩として忘却の川 七
この冬に流行るてふ縞馬模様 を
氷湖の上でスピン楽しき 令
五年後の五輪に備へ竹植うる 季
洗ひ飯食ふ宮本武蔵 庵
帰りゆく燕の彼方眺めつつ 裕
物の音の澄む神宮球場 む
たれかれを招くでもなく月招く 七
猫は伸びたりまるくなつたり を
ナウ 二上の雪の時空に律あらむ 令
揺れをさまりて曇る白息 河
眼球を動かしてゐる画学生 庵
庭を旅して逃げ水を追ふ 裕
永劫のまほろばに置く花の昼 む
この世に誘ふ一頭の蝶 季
起首:2015年 3月 7日(土)
満尾:2015年 3月23日(月)
捌き:ゆかり
企画:銀河
2015年2月23日に永眠された和田悟朗氏を悼んでの脇起し。
ひとときの太古の焔お水取り 和田悟朗
余寒おほきくうつろへる影 ゆかり
かざぐるま風を愉しみ音立てて 銀河
どこからか来るなつかしき声 七
昼月のぼやけ両国橋の上 苑を
電車から見て町は爽やか 令
ウ 紅葉へと女子大生の集まれる 由季
楽屋口には菓子と手紙と 媚庵
ささやきは拍手の波をくぐりきて 裕
鎖骨に触れる罪の舌先 なむ
蒟蒻を用ゐ閻魔を手なづける り
天動説に沿ふも夏月 河
レコ-ドの傷撫でてゐる宵涼し 七
先端恐怖症の眼科医 を
学会へマジックインキで書く図表 令
乾けばすぐに羽織る春服 季
夜の花の向かふ側から汽笛鳴る 庵
鮊子釘煮水分子形 裕
ナオ 抜け忍の家系で草を煎じ飲む む
貨物列車のやうなリビドー り
速読で知つたつもりのこと多く 河
蕩蕩として忘却の川 七
この冬に流行るてふ縞馬模様 を
氷湖の上でスピン楽しき 令
五年後の五輪に備へ竹植うる 季
洗ひ飯食ふ宮本武蔵 庵
帰りゆく燕の彼方眺めつつ 裕
物の音の澄む神宮球場 む
たれかれを招くでもなく月招く 七
猫は伸びたりまるくなつたり を
ナウ 二上の雪の時空に律あらむ 令
揺れをさまりて曇る白息 河
眼球を動かしてゐる画学生 庵
庭を旅して逃げ水を追ふ 裕
永劫のまほろばに置く花の昼 む
この世に誘ふ一頭の蝶 季
起首:2015年 3月 7日(土)
満尾:2015年 3月23日(月)
捌き:ゆかり
企画:銀河
2015年2月23日に永眠された和田悟朗氏を悼んでの脇起し。
2015年2月23日月曜日
七吟歌仙・枯蔦の巻
掲示板で巻いていた連句が満尾。
枯蔦の這ふや精魂すさぶ壁 月犬
入り組んでゐる坂は寒晴 ゆかり
見下ろせば海に帆を張る舟ありて まにょん
蕩児ひそかに秋風を聞く 七
月光に濡れて街の灯ことごとく なむ
まぶたの裏に浮かぶ酸漿 篠
ウ くちびるを尖らせてゐるふくれ面 令
筆の先から想ひこぼれて 犬
たいせつなものをうしなひ犬となる り
砂漠に膝を折つて祈れど ん
闇照らし上総堀りにて掘りつづく 七
けふも聞こえるあの子守唄 む
女装家の凛と立ちゐて夏の月 篠
岩のあひだを黒蜥蜴出づ 令
草臥れた鞄が父の遺品とか 犬
蝿生まれれば角川文庫 り
花守は花に埋もれて手をすりぬ ん
予約席にて囀りを聴く 七
ナオ 大仏の耳たぶ太き男ぶり む
世界遺産に制服の群れ 篠
中国語露西亜語そして越南語 令
基地を飛び立つ重爆撃機 犬
名にし負ふ水着の赤のあざやかに り
もう日は暮れて残る砂山 ん
煮凝りの探れば尖る骨ひとつ 七
芯に凍み入る官能の味 む
閨房の妻は娼婦の顔をして 篠
鈴虫のこゑふりいでたるを 令
月の下果てなく続く加持祈祷 犬
魑魅魍魎も餓鬼も踊らん り
ナウ なみなみと甕に満ちたる今年酒 ん
水源地まで兎追ひかけ 七
こころざし果たして帰る里もなし む
銅像の手に積もる春雪 篠
本を読みながら待ちゐる花だより 令
靴新しき入学の子ら 犬
起首:2015年 2月 1日(日)
満尾:2015年 2月23日(月)
捌き:ゆかり
枯蔦の這ふや精魂すさぶ壁 月犬
入り組んでゐる坂は寒晴 ゆかり
見下ろせば海に帆を張る舟ありて まにょん
蕩児ひそかに秋風を聞く 七
月光に濡れて街の灯ことごとく なむ
まぶたの裏に浮かぶ酸漿 篠
ウ くちびるを尖らせてゐるふくれ面 令
筆の先から想ひこぼれて 犬
たいせつなものをうしなひ犬となる り
砂漠に膝を折つて祈れど ん
闇照らし上総堀りにて掘りつづく 七
けふも聞こえるあの子守唄 む
女装家の凛と立ちゐて夏の月 篠
岩のあひだを黒蜥蜴出づ 令
草臥れた鞄が父の遺品とか 犬
蝿生まれれば角川文庫 り
花守は花に埋もれて手をすりぬ ん
予約席にて囀りを聴く 七
ナオ 大仏の耳たぶ太き男ぶり む
世界遺産に制服の群れ 篠
中国語露西亜語そして越南語 令
基地を飛び立つ重爆撃機 犬
名にし負ふ水着の赤のあざやかに り
もう日は暮れて残る砂山 ん
煮凝りの探れば尖る骨ひとつ 七
芯に凍み入る官能の味 む
閨房の妻は娼婦の顔をして 篠
鈴虫のこゑふりいでたるを 令
月の下果てなく続く加持祈祷 犬
魑魅魍魎も餓鬼も踊らん り
ナウ なみなみと甕に満ちたる今年酒 ん
水源地まで兎追ひかけ 七
こころざし果たして帰る里もなし む
銅像の手に積もる春雪 篠
本を読みながら待ちゐる花だより 令
靴新しき入学の子ら 犬
起首:2015年 2月 1日(日)
満尾:2015年 2月23日(月)
捌き:ゆかり
2015年1月26日月曜日
七吟歌仙・狼の巻
掲示板で巻いていた連句が満尾。
狼のお腹のなかの羊かな まにょん
闇にきらめき春を待つ水 ゆかり
人品は名のある酒のごとくにて 銀河
笠を目深に都の大路 月犬
月青くもつれる足を如何にせむ のかぜ
虫籠揺るるダンス教室 篠
ウ 靴箱を開けてあふるる鰯雲 七
告ぐべき想ひ風に託せば ん
ゆふぐれに声する穴を重ね合ふ り
都市伝説のひとつ生まれて 河
片腕は鬼となりたる母と棲む 犬
ゆつくりと編む鉄色の髪 ぜ
鉱山へ線路が延びて夏の月 篠
熊に誘はれ川渡る朝 七
トーストに蜂蜜たつぷり塗り付けて ん
出会ひがしらの激突を待つ り
沒年のぽつと泛かびて花篝 河
啄木忌ならピストルを手に 犬
ナオ 彼方此方と陽炎追つて大童 ぜ
引つ越すたびに家具を買ひ替へ 篠
警備用介護用ロボ共に連れ 七
頭のなかに錆びた撥条 ん
赤い玉出てからこそが楽しみと り
大晦を歌ひおさめる 河
いつせいに響く汽笛と歓声と 犬
平方根に恋する鴎 ぜ
指で窓つくり無限を見てゐたる 篠
頭の中をゴム消しで消す 七
今宵また月光浴びて徘徊し ん
あれは特訓中の踊り子 り
ナウ 地芝居のテントほころびすきま風 河
鳩首協議をそつと覗けば 犬
しんしんと温泉宿に白卍 ぜ
目刺二串みやげに貰ひ 篠
メ-ルには画面びつしり花筵 七
仔猫いだいて古き友来る ん
起首:2015年 1月 5日(月)
満尾:2015年 1月26日(月)
捌き:ゆかり
狼のお腹のなかの羊かな まにょん
闇にきらめき春を待つ水 ゆかり
人品は名のある酒のごとくにて 銀河
笠を目深に都の大路 月犬
月青くもつれる足を如何にせむ のかぜ
虫籠揺るるダンス教室 篠
ウ 靴箱を開けてあふるる鰯雲 七
告ぐべき想ひ風に託せば ん
ゆふぐれに声する穴を重ね合ふ り
都市伝説のひとつ生まれて 河
片腕は鬼となりたる母と棲む 犬
ゆつくりと編む鉄色の髪 ぜ
鉱山へ線路が延びて夏の月 篠
熊に誘はれ川渡る朝 七
トーストに蜂蜜たつぷり塗り付けて ん
出会ひがしらの激突を待つ り
沒年のぽつと泛かびて花篝 河
啄木忌ならピストルを手に 犬
ナオ 彼方此方と陽炎追つて大童 ぜ
引つ越すたびに家具を買ひ替へ 篠
警備用介護用ロボ共に連れ 七
頭のなかに錆びた撥条 ん
赤い玉出てからこそが楽しみと り
大晦を歌ひおさめる 河
いつせいに響く汽笛と歓声と 犬
平方根に恋する鴎 ぜ
指で窓つくり無限を見てゐたる 篠
頭の中をゴム消しで消す 七
今宵また月光浴びて徘徊し ん
あれは特訓中の踊り子 り
ナウ 地芝居のテントほころびすきま風 河
鳩首協議をそつと覗けば 犬
しんしんと温泉宿に白卍 ぜ
目刺二串みやげに貰ひ 篠
メ-ルには画面びつしり花筵 七
仔猫いだいて古き友来る ん
起首:2015年 1月 5日(月)
満尾:2015年 1月26日(月)
捌き:ゆかり
登録:
投稿 (Atom)