2017年9月22日金曜日

『星恋 表鷹見句集』(4)

  死にたくも泳ぎの手足動くなり   表鷹見
 これは身に覚えがあるが、人間の意思は生命体としての本能には無念ながら勝てない。表鷹見の句はしばしば生のやるせなさを身にまとう。

  凍死体海に気泡がぎつしりと
 「水死体」でも「溺死体」でもないので、凍死体と海の位置関係に迷うが、海に浸かっているものとして読む。人間に限らず、海はありとあらゆる死体を糧として生命を循環させる系をなす。不浄極まりない「海に気泡がぎつしりと」というディテールの描写が生々しく迫る。

  海の中に島あり霏々と雪積る
 海にも島にも分け隔てなく雪が降っているのだが、海に降るものは解け、島だけに雪が積もりゆく。叙景の句であるが、言い知れぬ寂寥感がある。

  母といふ愛(かな)しき人に月が照る

 先に「父の葬列父の青田の中通る」を見たが、残された母の心中はいかばかりなものか。それは踏まえた上で、なお「母といふ愛(かな)しき人」という措辞が伝記的事実を越えて胸を打つ。

  胸までの麦生にて縛られしごと
 「縛られしごと」は言うまでもなく麦の生育のさまを詠んだものではなく心象だろう。またしてもやるせない。

  雪永く積もりて嶽は世と隔つ
 『天狼』第七巻第三号には誓子門下ならではの連作が四句続く。「外界より見るや即ち雪の嶽」「嶽の中安らかに雪降り積もる」「雪の嶽聖なる域と異ならず」と続いた最後が掲句である。外側から概観し、内側の状態を捉え、空間的な連続性を詠んだ最後に、その永遠性において「世と隔つ」のだと謳っている。

  降る雪やかすかな髪のにほひして
 表鷹見には嗅覚の句がいくつかある。「強烈な枯野のにほひ農婦来る」「冬夜サーカス百姓達の臭ひ満つ」「二代のマント体臭親子とて違ふ」「酒臭き身にて焚火をはじめたり」…。文字通り強烈な句が多い中で掲句は「蛍籠女のにほひかもしれぬ」とともに繊細な雰囲気が漂う。雪が降れば外界の音が断たれる。かすかな髪のにほひと同じ空間にいる、息づかいや心臓の鼓動まで聞こえてきそうではないか。

  稲妻が犬の白さに驚けり
 もちろん稲妻が驚いたのではないだろう。「稲妻に照らし出された犬の白さ」をぐっと詰めて「稲妻が犬の白さ」と詠み韻律に乗せている。そんな「が」が見事である。

  性病院に目鼻つけたる雪だるま
 面白いものを見つけたものだ。性病院の先生にももちろん家族がいて、雪が降れば子どもが雪だるまをこしらえもしよう。それが結果としてはとんでもなく意表を突いた取り合わせとなる。そこをすかさず詠んでいる。



 なお、巻末の八田木枯による「紅絲 多佳子と行方不明の表鷹見に」の初出は、とある会社の社内報に寄せられたものだというが、文献として第一級の貴重なものである。西東三鬼、平畑静塔、橋本多佳子らが日吉館で徹夜の句会をやっていた時期に表鷹見、八田木枯らが山口誓子にお伺いを立て句誌『星恋』を立ち上げる経緯や、二十五歳ほど歳の違う橋本多佳子との交流などが、橋本多佳子の句集『紅絲』の評論と渾然一体となって綴られていて、じつに興味深い。


 余談となるが、八田木枯晩年のとある句会のあとで、あるとき若いめいめいが木枯さんにねだって句をコースターに書いてもらったことがあった。私が書いて頂いたのは「多佳子恋ふその頃われも罌粟まみれ 木枯」(『あらくれし日月の鈔』所収)だった。言うまでもなく「罌粟ひらく髪の先まで寂しきとき 多佳子」を踏まえたものだ。今回発掘された「紅絲 多佳子と行方不明の表鷹見に」は、その「罌粟まみれ」の具合や多佳子の「寂しきとき」の様子を伝えるものなのだった。


(了)

2017年9月21日木曜日

『星恋 表鷹見句集』(3)

 三島ゆかりの拙い感想文は一休みして、『星恋 表鷹見句集』を手に取ってご覧になりたい方へのご案内です。



●お問い合わせ先
(玻璃舎) gmail.comの前にelendil9909418とアットマーク

〒065-0010
札幌市東区北10条東14丁目4-3-103
玻璃舎

●定価
1000円


 また、八田木枯の「紅絲 多佳子と行方不明の表鷹見に」の初出は、『天狼』の俳人の兄上が会長であった、とある会社の社内報だったとのことです。

七吟歌仙 秋立つとの巻

掲示板で巻いていた連句が満尾。
 

   秋立つと空気濃くなる家郷かな    媚庵
    きらめいてゐる鰡の水紋     ゆかり
   月へ行く我らが地球あをざめて    伸太
    緑一色で決める役満         七
   銅像の似てゐるか似てをらぬかや   一実
    かかるライカで撮られてしまへ   りゑ
ウ  スリツパを飛ばして天気占ひぬ   れいこ
    いつも裸足の伯爵夫人        庵
   寄宿舎を夜ごとくぐもるすすり泣き   り
    口紅直す恋の十字路         太
   卵産む妻は毎日卵割る         七
    水面かがよふ冬の月かも       実
   ぴかぴかのオープンカーのボンネット  ゑ
    象が乗つてもこはれないから     こ
   女学校出の祖母にしてわらび餅     庵
    南浦和を過ぎる霾風         り
   飛入りの猫に花の宴たけなは      太
    義足に似合ふピンヒ-ル買ふ     七
ナオ 悪役のよく皺うごく広額        実
    押しても引いてもこんこんちきよ   ゑ
   ダマスクに篠田の森を織り込んで    こ
    獣医学部は開学未定         庵
   アフリカの音楽果てしなく続く     り
    ボトルの中に小さき帆船       太
   茫洋と日がな一日樹下の夢       七
    新宿二丁目こゑかけやすく      実
   昼顔は嘘ついてゐる方へ向く      ゑ
    姉かと思ふ母かと思ふ        こ
   アール・デコ的な駅舎に月明り     庵
    しとど濡れをる夜露の幻肢      り
ナウ 再会も会話に困る暮の秋        太
    唇なりし化石あるらむ        七
   雪積めば雪の墓群として立つて     実
    きよらな指が鳴らすハモニカ     ゑ
   夢のごと落花にまみれ乳母車      こ
    蜃気楼たつふるさとの海       庵

起首:2017年 8月 9日(水)
満尾:2017年 9月21日(木)
捌き:ゆかり

2017年9月20日水曜日

『星恋 表鷹見句集』(2)

  みごもりて蛇を提げくる人に会ふ   表鷹見
 作中主体がみごもっているのか、蛇を提げくる人がみごもっているかであるが、表鷹見は男性であり、作中主体の移動は他の句には見られないので後者だろう。隠喩的な一句である。
 
  父の葬列父の青田の中通る
 生命感のみなぎる青田を葬列が通る。故人となった父がついこのあいだ苗を植えた青田。万感のリフレインである。

  石炭を雪ごと焚きて汽車疾し
 蒸気機関車の運転台の後ろには、水と石炭を格納する炭水車が連結されている。炭水車の石炭には覆いがないので、雪が降れば当然石炭を雪ごと焚くことになる。先に掲げた「氷塊を木屑つきたるまゝ挽けり」にも通じ、委細構わぬ機関士の仕事ぶりが目に浮かぶ。西東三鬼にも「雪ちらほら古電柱は抜かず切る」という句があるが、委細構わぬ仕事ぶりの句は探せばいろいろあるのだろう。ちなみに誓子は「雪ごと焚きて汽車疾し」を因果と捉え「選後独断」でこんなことを書いている。

 この句は何故にこんなに面白いのであらうか。先づ石炭を雪ごと焚いたことが面白い。石炭と雪とは、氷炭相容れずの氷と炭である。相容れざる石炭と雪とを突如として連絡し、それ等を共に焚くことによつて、両者の矛盾を一挙に解決したのである。
これは謂ふところのウィットであつて、快感はそこから起るのである。
次に雪まじりの石炭が汽車を疾く走らしたことが面白い。雪は汽車を走らす力とはなり得ない。しかしそれが石炭と共に焚かれることによって火力となり、汽車を疾く走らしたと云ふのだ。そこが面白いのである。
この句にはそれ等二つの面白さがうち重つてゐるのである。

 
 誓子にみえるものが私にはまったく見えていないようである。

(続く)

2017年9月18日月曜日

『星恋 表鷹見句集』(1)

 『星恋 表鷹見句集』(玻璃舎 2017年)をお送り頂く。いろいろな人に広く表鷹見のことを知ってほしいので、読み終わったら誰かに回すようにとのこと。

 表鷹見(1928-2004)は俳誌『天狼』などで活躍した俳人。本句集は『天狼』遠星集から七十句ほど、同じく『天狼』から「残夢抄」と題された十八句、その他俳誌『ウキグサ』『星恋』からの句も含め全体でおよそ百句ほどが収録されている(途中、八田木枯選三句、鷹見自選三句があり、『星恋』には「遠星集」に発表した句も資料としてそのまま重複して収録されている)。また、遠星集入集分のうち十句については山口誓子による「選後独断」と題された評文があり、当時の評価ぶりが偲ばれる。さらに巻末には「紅絲 多佳子と行方不明の表鷹見に」という平成13年に書かれた八田木枯の二段組16ページに及ぶ文章も収録されている(出典の記載はなく未完。(その一)から(その四)まで分かれているので、『晩紅』あたりに連載されたものか)。こちらは俳誌『星恋』をともに世に出した八田木枯が、行方不明の表鷹見に対し「君」として宛てて、橋本多佳子などをめぐり当時の俳句情勢を回顧したものである。

 以下、三島ゆかりなりに何句か読んでみたい。いくつかは誓子が「選後独断」で取り上げた句と重なるが、他意はない。

  雪原へ出れば犬とも獣とも   表鷹見
 道路も田畑も埋め尽くした一面の雪原を犬がまっしぐらに突っ走る。人間と暮らす我を忘れて動物の本性をさらけ出すさまを、「犬とも獣とも」と詠んでいる。

  氷塊を木屑つきたるまゝ挽けり
 『天狼』初年の頃は家庭用電気冷蔵庫も発泡スチロールも普及していなかっただろう。ちょっと検索してみると、かつて最善な断熱材とされたのはノコギリくずだったという。掲句、委細構わぬ氷屋の仕事ぶりが見えるようだ。

  凧よりも少年濡れてかへるなり
 八月三十一日に放送された「プレバト」(TBS系)で、たまたま「ずぶ濡れのシャツより甲虫取り出す 中田喜子(夏井いつき添削)」という句があった。そのすぐあとで掲句に出会ったので、雨が降ってきたから着物の中になんとか凧を濡れないように隠して帰宅したのだと、なんの抵抗もなく思う。一方、誓子は「選後独断」でこんなことを書いている。
 
 雨は、少年と凧とひとしく濡らしたにちがひない。合理的鑑賞家は「凧よりも少年濡れて」を理性に合せずとするだろう。そして理性に合はしむる為め、少年が凧をかばつたとするだらう。それで理性の虫はをさまるかも知れぬ。しかし私にはこの「凧よりも少年濡れて」の非合理性が却て私の感情に合するのである。
「理性に合せざるも感情に合するもの」---自意識派はこれを解するの明を養ふべきである。


 どうも私は自意識派と分類されるらしい。


(続く)

2017年9月14日木曜日

(22)節という概念を導入する

 またまた「はいだんくん」を大改造した。これまでその日使える季語をまずひとつ決定して、その音数の季語を使う句型を選択していたのだが、逆にした。単純に句型をひとつ決定してから、その音数のその日使える季語を選択するようにした。従来季語から決めるようにしていたのは、「勤労感謝の日」とか「建国記念の日」とか変な長さの季語をフィーチャーしようとしたら、季語から決めた方がいいだろうという考え方だったのだが、このままだと季語とその他との互換性の点で決定的に発展性がないだろうと考えを改めた。その上で芭蕉に立ち返ろう。

  古池や蛙飛びこむ水の音 芭蕉

 この句は主語+述語という普通の文章のかたちではない。俳句独特のかたちである。上五に名詞節、下五に名詞節、そして中七に下五にかかる連体修飾節がある。大ざっぱにふたつの名詞節で構成されているので、先に現れる方を首名詞節、最後に現れる方を尾名詞節と仮称することにする。また「や」は切れ字ではあるがほぼ首名詞に従属して現れることから首名詞節に含むものとする。また切れ字に限らず「の」「は」「が」などの格助詞とも互換だろう。
 同様にこの句には現れないものの「かな」はほぼ尾名詞に従属して現れることから、尾名詞節に含むものとする。中七はこの句では「三音の季語+動詞連体形」となっているが、全体として連体修飾節でありさえすればその中は、「六音の季語+の」とか「三音の季語+のごとき」とかいろいろ代替は可能である。さらに句全体でどこか一箇所に季語が現れることが制御できるのであれば、すべての名詞と季語は互換である。同じように切れ字も句型ではなくロジックの側の制御により、句全体でどこか一箇所に切れ字が現れることにすればよい。
 こんなふうにして先に季語を決めることをやめたことにより、季語を節の中に置いて名詞と互換に扱うことが可能になり、〈古池や蛙飛びこむ水の音〉という単一の句型からロボットは以下のようなバリエーションを生み出すに至った。

  放課後や桃に遅れるお下げ髪    はいだんくん
  色鳥のいつもあふるるふたりかな
  少年の蜩らしき耳の穴
  稲妻の一浪といふ泣きぼくろ
  空気椅子秋の灯しのお下げ髪
  蟋蟀の行き過ぎてゐる重みかな



(『俳壇』2017年10月号(本阿弥書店)初出) 

2017年9月1日金曜日

「鏡」二十四号を読む

  春陰や山のかたちに伊豆の石    大上朝美
 これはひょっとして清澄庭園ではないか。清澄庭園は庭の石のいちいちに産地が明示されていて、吟行時に大いに興味をそそられる。「山のかたちに」という措辞により、それなりの大きさを持った火山由来の巨岩を思い浮かべることができる。

  一つ岩亀と分けあひ鴨帰る
 季語である「鴨帰る」が面白い味わいを出している。こう詠まれると、単に眼前の光景に留まらず、その鴨が日本にいる冬の間ずっと一つ岩を亀と分けあっていたような気がしてくる。

  判子屋に苗字の増える四月かな
 就職や人事異動の時期である四月は判子屋にとって、まさに書き入れ時であろう。それ以外の時期は買いに来る客がいるわけでもないので、ある苗字が売り切れても特に補充したりしない。その現金さがユーモラスでさえある。

  川幅に橋おさまらず枯葎      越智友亮
 ある程度の大きな川であれば、水害に備え両岸の堤にはさまれて河川敷が広がる。川によっては流れている川幅と同じくらいの河川敷が両岸にあったりもする。電車に乗っていると、流れている川を渡ったのにまだまだ続く鉄橋になんとも言いようのない感じを味わうことになるのだが、「枯葎」がそのあたりを適切に言い表している。

  人体に落ち着く腸や水温む
 海鼠腸のようなものでもソーセージのようなものでもいいのだが、口外から摂取する腸類が自身の腸に収まり栄養として消化吸収されてゆく。詠みようによってはグロテスクになりかねない素材であるが、うまくまとめている。生命感を感じさせる「水温む」も妥当だろう。
 
  うららかに床屋は床を掃きにけり
 同じ漢字を自然に「とこ」と読んだり「ゆか」と読んだりする不思議を興じているようにも感じられる。

  春浅し春の終りを思ふとき     佐川盟子
 単に気分のずれなのか、それとも北国などの地理的事情があって「暦に従って春の終わりを詠嘆したいものだが、この土地の現実の季節はまだまだ早春だ」という文意なのか。いずれにせよ、リフレインを生かし現実と気分でずれた季節を詠んでいる。

  毛を除けて仔犬に目あり夜の雪
 犬の種類はぜんぜん疎いのだが、村山富市元首相の眉毛のような犬のことだろう。「夜の雪」という季語の選択が絶妙である。

  木に鳥をあつめて散らす雪解光
 木に集まった鳥を散らしたのはどさりと落ちた残雪であろうが、残雪そのものを詠むのではなく「雪解光」としたところが手柄で、動から静へ戻った間合いの取り方がすばらしい。鳥が一斉に飛び去った後の静寂がきらめいている。

  昼酒のゆつくりまはる花の雨
 ほんとうは筵の上で飲むために用意した酒なのだろうか。「ゆつくりまはる」に予期せず訪れた時間の流れを感じる。

  蝶の翅まで竜巻を巻き戻す
 βだのVHSだの言っていたものが普及したのはもう三十年以上前のことで、それから方式はデジタルに変わり、しかし「巻き戻す」というテープ時代の用語は今に受け継がれた。そして時間軸を逆に進むという感性もその頃に獲得され、ものの見方のひとつとして、これもまた今に受け継がれた。「蝶の翅が竜巻を起こした」ではなく、リモコンの左向き三角ボタンを押す感覚の「巻き戻す」が、じつによい。

  豆撒の豆を迷ひに迷ひ買ふ    笹木くろえ
 伝統を大切にしたい気持ちと、でも撒いたら掃除しないといけないし、という気持ちで誰もが迷うわけであるが、マ音をこれでもかと四回「豆撒の」「豆を」「迷ひに」「迷ひ」と頭韻でたたみ掛け一句に仕立てるあたりの力業はさすがというべきであろう。

  観梅といふは青空愛づること
 これが桜であれば大気が水分を含んでもやもやっとなるところ、梅の開花時期にはまだ寒気も残りじつに青空がくっきりとして紅梅にせよ白梅にせよ絶妙のコントラストとなる。掲句、身も蓋もないというか、それを言ったらおしめえよなのであるが、まあ、そういう句があってもいいだろう。

  税務署の桜からまづ満開に
 桜にも税務署にも罪はないのだが、つい「そりゃ私たちの血税で育ててるんだから真っ先に満開にもなるでしょうよ」などと理不尽ないやみのひとつくらい言いたくなる(いや、ならないか…)。「税務署」がじつにいい味を出している。

  残雪をなめてながるる雲の影
 作者は飛行機にでも乗っているのだろうか。「なめて」が地表の起伏を感じさせるのだが、残雪だけにアイスクリームのイメージもあるのかも知れない。

  春眠と臍の緒で繋がつてゐる
 奇想である。臍の緒で繋がつてゐるって、母は春眠の方なのか、作者の方なのか。仮に前者とするが、春眠の胎内で春眠から栄養を送られながら健やかに眠っているイメージ。春になると眠いのは、胎内回帰願望だったのだ。後者だとどうなるのか…。春眠の母であればもとより眠いことはあきらかであろう。

  曲水や呼ばれて助詞の違ふ声    佐藤文香
 珍しいものを詠んだものだ。曲水はかつて宮中や貴族の邸宅で行われた遊びで、上流から流される盃が自分の前を通り過ぎるまでに歌を作り、盃の酒を飲むのだという。一連の所作の中で名を呼ばれるのかは知らぬが、やんごとなき方々の、違う言葉遣いによる素っ頓狂な声が聞こえてきそうである。

  上から見る自動車学校夕桜
 限りある敷地内に教習の目的を果たすために設置された直線道路、曲線道路、段差、横断歩道、踏切などが、高いところから一望できるのだろう。それだけでもかなり面白いものであろうが、夕桜の頃ともなれば、自動車学校内の模擬信号機の点灯する青黄赤が遠目にひときわはっきり見えることだろう。

  立春大吉馴染みがたきは己が歳   谷 雅子
 ある年齢を過ぎると還暦とか古希とかは数えで祝う向きもあるので、ますます正月に年齢を思うことも多くなるだろう。それにつけても、まこと馴染みがたきは己が歳であることよ。

  交通会館地下にポンカン晩白柚
 物産展でもあったのだろうか。ポンカンは分かるが晩白柚はまったく馴染みがなく調べた。ザボンの一品種で、晩生(晩)、果肉が白っぽいこと(白)、中国語で丸い柑橘を意味する柚に由来する由。「館」「ポン」「カン」「晩」と撥音でたたみ掛け、かごに一杯柑橘類を並べた売場の勢いが感じられる。

  料峭や使はぬ部屋に使はぬ椅子   羽田野令
 使わぬ部屋には二種類あって、単に収納空間としてがらくたというがらくたを詰め込む場合と、なんらかの事情で部屋の主が不在だが、主が戻って来さえすればいつでも使えるように現況をまったく変更しない場合がある。この句はもちろん後者だろう。「料峭」によって主が不在の部屋の空気感が表現されている。

  草生から肺腑へ低く波がしら
 「草生」は草の生えているところ。「草生から肺腑へ」と脚韻を踏みつつ恐ろしくローアングルで視点を移動するが、この肺腑は一体人間の肺腑なのか。この一句前は「水木しげるの水を浮かんでくる蝌蚪よ」。であれば泥水すすり草を噛んだ水木しげるの戦争体験を下敷きとしての句なのかも知れない。

  佐保姫の真顔や万華鏡覗く     八田夕刈
 佐保姫は春の女神であるが、意外と春を発生させるメカニズムは知られていない。八田夕刈博士の最近の研究によれば、佐保姫は偶然性の要素を取り込み、万華鏡から霊感を得ていたという。また「佐保姫」「真顔」「万華鏡」と頭韻を揃えることも、春の発生にとってきわめて重要とされる。
 
  口中は狭しうぐひす餅ふふむ
 うぐいす餅はなかなか微妙な菓子である。なにしろうぐいすの外観をなぞらえているのだから、皿の上で切開することははばかられる。いや、そもそも餅菓子なので上手に切ることは困難だろう。かくして一気に頬張ることになり掲句なのだが、「うぐいす餅がでかい」ではない。「口中は狭し」である。なんとも言えぬ、品が感じられるではないか。また、「うぐひす」「ふふむ」という平仮名表記からは、うぐいす粉をまぶしたくすぐったい食感までも感じられる。

  春愁や傘の柄に顎乗せてをり
 駅のベンチとか病院の待合室とかだろうか。中七下五から伺い知れるのは、出先であること、長い傘を持って出るほどの雲行きであること、あまり人目を気にしなくていい空間であること、である。それだけの条件を整え、満を持して上五に置いたのが「春愁や」である。

  ときどきは本名で呼ぶ春の雨    村井康司
 俳人ならば本名のほかに俳号があり、大抵の場合、俳号で呼び合う。だが掲句を俳人固有のならわしに矮小化して読む必要はないだろう。いつもは本名ではない呼び名(あだ名、おい、…)で呼ぶ相手を、ときどきは本名で呼ぶTPOの使い分け。そのときに頭をよぎる、本名ではない呼び名やそれにまつわる歴史へのちょっとした含羞。春の雨がそんなものをやさしく包んでいる。

  霧しづくスーツケースが動いて来る 寺澤一雄
 立っているだけでびしょびしょになるような深い霧なのだろう。がらがらと車輪が音を立ててスーツケースが近づいてくるが、かろうじて目に見えるのはスーツケースばかりで、それを押す人の姿は霧によって遮られている。

  冬キャベツ古き地球の表面に
 キャベツには春キャベツと冬キャベツがあるらしい。検索してみると冬キャベツは、楕円形が多い、葉の隙間が少なく詰まっている、葉が分厚い、二月頃が一番甘く美味しい、という特徴があるという。掲句、「冬キャベツ」から頭韻で導かれた「古き地球」がじつによい。春キャベツと冬キャベツの差異など、長い地球の歴史にとってはまったく表面上の些末なことに過ぎない。些末なことに過ぎないが、そのようにして私たちは生きている。