2017年9月1日金曜日

「鏡」二十四号を読む

  春陰や山のかたちに伊豆の石    大上朝美
 これはひょっとして清澄庭園ではないか。清澄庭園は庭の石のいちいちに産地が明示されていて、吟行時に大いに興味をそそられる。「山のかたちに」という措辞により、それなりの大きさを持った火山由来の巨岩を思い浮かべることができる。

  一つ岩亀と分けあひ鴨帰る
 季語である「鴨帰る」が面白い味わいを出している。こう詠まれると、単に眼前の光景に留まらず、その鴨が日本にいる冬の間ずっと一つ岩を亀と分けあっていたような気がしてくる。

  判子屋に苗字の増える四月かな
 就職や人事異動の時期である四月は判子屋にとって、まさに書き入れ時であろう。それ以外の時期は買いに来る客がいるわけでもないので、ある苗字が売り切れても特に補充したりしない。その現金さがユーモラスでさえある。

  川幅に橋おさまらず枯葎      越智友亮
 ある程度の大きな川であれば、水害に備え両岸の堤にはさまれて河川敷が広がる。川によっては流れている川幅と同じくらいの河川敷が両岸にあったりもする。電車に乗っていると、流れている川を渡ったのにまだまだ続く鉄橋になんとも言いようのない感じを味わうことになるのだが、「枯葎」がそのあたりを適切に言い表している。

  人体に落ち着く腸や水温む
 海鼠腸のようなものでもソーセージのようなものでもいいのだが、口外から摂取する腸類が自身の腸に収まり栄養として消化吸収されてゆく。詠みようによってはグロテスクになりかねない素材であるが、うまくまとめている。生命感を感じさせる「水温む」も妥当だろう。
 
  うららかに床屋は床を掃きにけり
 同じ漢字を自然に「とこ」と読んだり「ゆか」と読んだりする不思議を興じているようにも感じられる。

  春浅し春の終りを思ふとき     佐川盟子
 単に気分のずれなのか、それとも北国などの地理的事情があって「暦に従って春の終わりを詠嘆したいものだが、この土地の現実の季節はまだまだ早春だ」という文意なのか。いずれにせよ、リフレインを生かし現実と気分でずれた季節を詠んでいる。

  毛を除けて仔犬に目あり夜の雪
 犬の種類はぜんぜん疎いのだが、村山富市元首相の眉毛のような犬のことだろう。「夜の雪」という季語の選択が絶妙である。

  木に鳥をあつめて散らす雪解光
 木に集まった鳥を散らしたのはどさりと落ちた残雪であろうが、残雪そのものを詠むのではなく「雪解光」としたところが手柄で、動から静へ戻った間合いの取り方がすばらしい。鳥が一斉に飛び去った後の静寂がきらめいている。

  昼酒のゆつくりまはる花の雨
 ほんとうは筵の上で飲むために用意した酒なのだろうか。「ゆつくりまはる」に予期せず訪れた時間の流れを感じる。

  蝶の翅まで竜巻を巻き戻す
 βだのVHSだの言っていたものが普及したのはもう三十年以上前のことで、それから方式はデジタルに変わり、しかし「巻き戻す」というテープ時代の用語は今に受け継がれた。そして時間軸を逆に進むという感性もその頃に獲得され、ものの見方のひとつとして、これもまた今に受け継がれた。「蝶の翅が竜巻を起こした」ではなく、リモコンの左向き三角ボタンを押す感覚の「巻き戻す」が、じつによい。

  豆撒の豆を迷ひに迷ひ買ふ    笹木くろえ
 伝統を大切にしたい気持ちと、でも撒いたら掃除しないといけないし、という気持ちで誰もが迷うわけであるが、マ音をこれでもかと四回「豆撒の」「豆を」「迷ひに」「迷ひ」と頭韻でたたみ掛け一句に仕立てるあたりの力業はさすがというべきであろう。

  観梅といふは青空愛づること
 これが桜であれば大気が水分を含んでもやもやっとなるところ、梅の開花時期にはまだ寒気も残りじつに青空がくっきりとして紅梅にせよ白梅にせよ絶妙のコントラストとなる。掲句、身も蓋もないというか、それを言ったらおしめえよなのであるが、まあ、そういう句があってもいいだろう。

  税務署の桜からまづ満開に
 桜にも税務署にも罪はないのだが、つい「そりゃ私たちの血税で育ててるんだから真っ先に満開にもなるでしょうよ」などと理不尽ないやみのひとつくらい言いたくなる(いや、ならないか…)。「税務署」がじつにいい味を出している。

  残雪をなめてながるる雲の影
 作者は飛行機にでも乗っているのだろうか。「なめて」が地表の起伏を感じさせるのだが、残雪だけにアイスクリームのイメージもあるのかも知れない。

  春眠と臍の緒で繋がつてゐる
 奇想である。臍の緒で繋がつてゐるって、母は春眠の方なのか、作者の方なのか。仮に前者とするが、春眠の胎内で春眠から栄養を送られながら健やかに眠っているイメージ。春になると眠いのは、胎内回帰願望だったのだ。後者だとどうなるのか…。春眠の母であればもとより眠いことはあきらかであろう。

  曲水や呼ばれて助詞の違ふ声    佐藤文香
 珍しいものを詠んだものだ。曲水はかつて宮中や貴族の邸宅で行われた遊びで、上流から流される盃が自分の前を通り過ぎるまでに歌を作り、盃の酒を飲むのだという。一連の所作の中で名を呼ばれるのかは知らぬが、やんごとなき方々の、違う言葉遣いによる素っ頓狂な声が聞こえてきそうである。

  上から見る自動車学校夕桜
 限りある敷地内に教習の目的を果たすために設置された直線道路、曲線道路、段差、横断歩道、踏切などが、高いところから一望できるのだろう。それだけでもかなり面白いものであろうが、夕桜の頃ともなれば、自動車学校内の模擬信号機の点灯する青黄赤が遠目にひときわはっきり見えることだろう。

  立春大吉馴染みがたきは己が歳   谷 雅子
 ある年齢を過ぎると還暦とか古希とかは数えで祝う向きもあるので、ますます正月に年齢を思うことも多くなるだろう。それにつけても、まこと馴染みがたきは己が歳であることよ。

  交通会館地下にポンカン晩白柚
 物産展でもあったのだろうか。ポンカンは分かるが晩白柚はまったく馴染みがなく調べた。ザボンの一品種で、晩生(晩)、果肉が白っぽいこと(白)、中国語で丸い柑橘を意味する柚に由来する由。「館」「ポン」「カン」「晩」と撥音でたたみ掛け、かごに一杯柑橘類を並べた売場の勢いが感じられる。

  料峭や使はぬ部屋に使はぬ椅子   羽田野令
 使わぬ部屋には二種類あって、単に収納空間としてがらくたというがらくたを詰め込む場合と、なんらかの事情で部屋の主が不在だが、主が戻って来さえすればいつでも使えるように現況をまったく変更しない場合がある。この句はもちろん後者だろう。「料峭」によって主が不在の部屋の空気感が表現されている。

  草生から肺腑へ低く波がしら
 「草生」は草の生えているところ。「草生から肺腑へ」と脚韻を踏みつつ恐ろしくローアングルで視点を移動するが、この肺腑は一体人間の肺腑なのか。この一句前は「水木しげるの水を浮かんでくる蝌蚪よ」。であれば泥水すすり草を噛んだ水木しげるの戦争体験を下敷きとしての句なのかも知れない。

  佐保姫の真顔や万華鏡覗く     八田夕刈
 佐保姫は春の女神であるが、意外と春を発生させるメカニズムは知られていない。八田夕刈博士の最近の研究によれば、佐保姫は偶然性の要素を取り込み、万華鏡から霊感を得ていたという。また「佐保姫」「真顔」「万華鏡」と頭韻を揃えることも、春の発生にとってきわめて重要とされる。
 
  口中は狭しうぐひす餅ふふむ
 うぐいす餅はなかなか微妙な菓子である。なにしろうぐいすの外観をなぞらえているのだから、皿の上で切開することははばかられる。いや、そもそも餅菓子なので上手に切ることは困難だろう。かくして一気に頬張ることになり掲句なのだが、「うぐいす餅がでかい」ではない。「口中は狭し」である。なんとも言えぬ、品が感じられるではないか。また、「うぐひす」「ふふむ」という平仮名表記からは、うぐいす粉をまぶしたくすぐったい食感までも感じられる。

  春愁や傘の柄に顎乗せてをり
 駅のベンチとか病院の待合室とかだろうか。中七下五から伺い知れるのは、出先であること、長い傘を持って出るほどの雲行きであること、あまり人目を気にしなくていい空間であること、である。それだけの条件を整え、満を持して上五に置いたのが「春愁や」である。

  ときどきは本名で呼ぶ春の雨    村井康司
 俳人ならば本名のほかに俳号があり、大抵の場合、俳号で呼び合う。だが掲句を俳人固有のならわしに矮小化して読む必要はないだろう。いつもは本名ではない呼び名(あだ名、おい、…)で呼ぶ相手を、ときどきは本名で呼ぶTPOの使い分け。そのときに頭をよぎる、本名ではない呼び名やそれにまつわる歴史へのちょっとした含羞。春の雨がそんなものをやさしく包んでいる。

  霧しづくスーツケースが動いて来る 寺澤一雄
 立っているだけでびしょびしょになるような深い霧なのだろう。がらがらと車輪が音を立ててスーツケースが近づいてくるが、かろうじて目に見えるのはスーツケースばかりで、それを押す人の姿は霧によって遮られている。

  冬キャベツ古き地球の表面に
 キャベツには春キャベツと冬キャベツがあるらしい。検索してみると冬キャベツは、楕円形が多い、葉の隙間が少なく詰まっている、葉が分厚い、二月頃が一番甘く美味しい、という特徴があるという。掲句、「冬キャベツ」から頭韻で導かれた「古き地球」がじつによい。春キャベツと冬キャベツの差異など、長い地球の歴史にとってはまったく表面上の些末なことに過ぎない。些末なことに過ぎないが、そのようにして私たちは生きている。

0 件のコメント:

コメントを投稿