2018年4月28日土曜日

清水径子『哀湖』(1)

『SASKIA』10号の清水径子二百五十句(三枝桂子抄出)から第二句集『哀湖』(昭和五十六年 俳句研究新社)について。

 本筋ではなさそうなところから入ってみる。食べ物の句がなんだか多い。

  まんぢゆうを食べ夏の夜のうす汚れ
  雨音のしみてしらじら寒の餅
  草餅の一つも翔たず老いませり
  餅食うべ体内に芽のやうなもの


 この時期の作者の健康状態など知る由もないのだが、最初の三句は食べる快楽とはあまり縁がなさそうである。それに比べると、いきなり関東・東北方言を上五に持ってきて自身に言い聞かせる感のある最後の句は、生への意志を感じさせる。腹が減ったというよりも、もっと芯のある「芽のやうなもの」。

2018年4月15日日曜日

乱反射するベスト・ヒット・アルバム

 川合大祐『スロー・リバー』の最後。第Ⅲ章は「幼年期の終わり」。これまで見てきたふたつの章と異なり、たぶん章としてのテーマ性はない。最終章として、方向性を限定せずベスト・ヒット・アルバム的に句が集められたものだろう。

  眠るものまさに時間のかたちして
 時間という抽象的な概念を用い「まさに時間のかたちして」という。虚を突かれ、ついし信用してしまいそうになる。

  目の裏を見るように見る月の裏
 目の裏を見ることはできない。そして月は自転の速さだかの関係で、つねに地球に同じ面を向けていて、月の裏を見ることはできない。できないこと同士が力業で「ように」で連結され、読者をだましにかかる。そのもっともらしさは、短詩系ならではのものだ。

  牧場に両親だけが残される
 幼い兄弟が残されるなら、そんな童話がありそうである。ここでは逆転して両親が残される。どんなブラックでノンセンスな結末が訪れるのだろう。

  もう靴は脱がなくていい世紀末
 選択肢のひとつとして人類の滅亡があたまをよぎる。そりゃあ、もう靴は脱がなくていいよね。

  燃える町過去はいつまで過去なのか
 「もはや戦後ではない」と発言したのは誰だったか。過去はいつまでも過去である。

  石鹸をきたないものとしてながす
 確かに。しかし使用前と使用後で区別する呼び名を私たちは持たない。

  一日は十七時間よりながい
 俳句では当たり前の事実に季語などをくっつける「日にいちど入る日は沈み信天翁 三橋敏雄」みたいな作り方があるが、当たり前の事実だけで五七五を使い果たしているのがなんともすごい。
 
  電線の先に聖なる人がいる
 OSI参照モデルみたいなものを思い浮かべるまでもなく、電線を介して私たちの思考はネット上を駆けめぐる。ときとして宗教も恋愛も電線の先の像に過ぎない。

  東京に全員着いたことがない
 本来着くべき一団が着かないのならそれはそれで怖いし、地球人全員とかを思い浮かべればそれはそれで真理である。

  構造化されているので北酒場
 どう考えても「構造化」と結びつかない「北酒場」の、なんというか階層のずれ具合が可笑しい。

 というわけで、硬直した俳句脳にはじつに刺激的な句集なのだった。お求めはあざみエージェントさんまで。

永遠にシニフィエになり得ないシニフィアン

 川合大祐『スロー・リバー』の続き。第Ⅱ章は「まだ人間じゃない」。章のタイトルを見て最初に思い出したのは『妖怪人間ベム』の主題歌中の台詞「早く人間になりたい」だが、どうもそういうことではないらしい。
 
  二億年後の夕焼けに立つのび太
 この句を筆頭に作中人物や作家を題材とした句が果てしなく続き、「ロボットに神は死んだか問うのび太」で章が終わる。章の最後まで読み終えてもう一度、章のタイトルを見たとき、はたと気づく。シニフィアン(記号表現)が永遠にシニフィエ(記号内容)になり得ないように、作中人物ののび太は、たとえ二億年経ってもほんものの人間そのものではない。章全体がそう問いかけている。

  体言であろうタモリという男
 指し示す表現は、ここでも指し示される内容そのものではなく、絶妙なずれが可笑しい。

  そうこれはムーミンですね下顎骨
 物語の世界から逸脱し、化石として解剖学的に扱われるムーミン。

  鳥がいて隠れる犬の吹き出しに
 絵の一部に描かれるのに、通常はそれが絵の一部を隠していることを暗黙的に問われない、漫画の吹き出し。その問うてはいけない約束を問うとこんなことになる。

  翻訳の町にブラック・レイン降る
 井伏鱒二である。「黒い雨」だろうが「ブラック・レイン」だろうが、記号表現が指し示す記号内容は同じはずである。しかしそれが同じではないこと、また記号表現そのものが翻訳不能な価値であることを、私たちは知っている。

(続く)

表記の快楽

 いつの頃からかツイッターでフォローさせて頂いている柳人で川合大祐さんという方がいらして、つねづね句を拝見しては「おお、そうきたか」と感じ入っていたのだが、川柳句集『スロー・リバー』(あざみエージェント。2016年)を上梓されていて、しかも版を重ねているということを最近知り、遅ればせながら拝読した。この句集が川柳界でどのように評価されているのかはまったく存じ上げないし、そもそも私に川柳のことが語れるのかも分からないのだが、感想文をしばらく書きたい。このブログの他の例に漏れず、伝記的な事実はほとんど無視し、章ごとにあたまに映るよしなしごとを綴る。
 
1.表記の快楽
 第Ⅰ章は「猫のゆりかご」。そういえば人に勧められてカート・ヴォネガット・Jrの同題の小説をKindleでダウンロードしたまま、それっきりになっている。読んでいれば見えるものががらっと変わるのかも知れないが、委細構わず進む。

  ぐびゃら岳じゅじゅべき壁にびゅびゅ挑む
 冒頭の一句がいきなりこれだ。「ぐびゃら岳」も「じゅじゅべき壁」も「びゅびゅ」も、経験的になぜか固有名詞であることは分かる。そして実在しないであろうことも。「猫のゆりかご」をやり過ごしたように、もう知らない固有名詞はやり過ごそう。そう、大したことじゃない。

  兄弟よわたしは한が読めません
 読めないと言っているのに、五七五の中に読まれることを想定して収まっている。困ったものだ。ちなみに私も読めないので、その字をブログに転記するのに、ハングルを要素ごとに組み合わせるサイトを使用した。ところで句集の字をよく見ると左上はなべぶたではなく、二になっている。活字上区別があるのかも知らないが、もしかすると本当にだれも読めないのかも知れない。

 この二句のあと、…、()、/、▽、ルビ、空白などを駆使した句群が続く。俳句ではあまりやらないやり方だが、ポストモダン的な素養があればさらに楽しいのだろう。三句ほど紹介しておこう。こんな感じである。

  この紙は白色しかし     空白だ
  あ、の字形崩れるような叫びして
  」あるものだ過去の手前に未来とは「

 句自体が作品として向こう側にあるのではなく、現在進行形で読者にしかけてくるトリックというのも、俳句ではやらないことかも知れない。

  郎読をしてほしいから誤字にする
  振り向いてごらん次の字読まないで

(続く)