2018年12月28日金曜日

七吟歌仙 立冬の巻 評釈

   立冬を祝つて雨の夜明かな        なな

 発句である。たまたま立冬でたまたま雨でたまたま夜明けだったのかも知れないが、立冬を祝うあたりですでに尋常ではない。

   立冬を祝つて雨の夜明かな        なな
    落葉のゆゑと揺るる足どり      ゆかり

 脇は発句に寄り添って同季、同場所で詠み挨拶とする。朝帰りの酔っ払いの一員として詠む。

    落葉のゆゑと揺るる足どり      ゆかり
   砂粒は砂の尻尾をこぼれゐて       銀河

 第三は発句と脇の挨拶から離れ、この巻の真の離陸の役割となる。「砂の尻尾」がほんものの動物の尻尾なのか、砂遊びで作った砂の動物なのか、どちらにもとれる謎めいた句となっている。

   砂粒は砂の尻尾をこぼれゐて       銀河
    箪笥の鐶の錆の鈍色          媚庵

 前句の謎には応えることなく、粒子的な質感だけを受けて、レトロな味わいの付けとしている。濁音を重ねたサビのニビイロが心地よい。

    箪笥の鐶の錆の鈍色          媚庵
   月を待つ少年棋士は十五歳        正博

 月の座である。前句の古色蒼然とした箪笥に対し、空間的にそれが似合いつつ対立的なものとして少年棋士が登場する。弱っちいのか「月を待つ」が掛詞としても効いている。ついでながら、弱っちくないかの藤井聡太七段はこれを巻いている時点では十六歳となっている。なお、小池正博さんはご多忙につき今回一句のみの参加。いずれまたお手合わせ願いたい。

   月を待つ少年棋士は十五歳        正博
    もみぢにかける指のひとすぢ       な

 駒を持つ少年のしなやかな長い指のイメージのみが別の場面へ移動する。表六句にしては官能的な折端である。


    もみぢにかける指のひとすぢ       な
ウ  ジッパーを下ろせば溢れ出す夜長      り

 初折裏折立である。前句の表六句にしては官能的な折端を受け、そのまま恋に突入する。ワンピースの背中あたりをイメージしている。

ウ  ジッパーを下ろせば溢れ出す夜長      り
    海女とからんだ子蛸大蛸         河

 前句の「溢れ出す」から導かれ、浮世絵的とも妖怪的とも言える大変な展開となっている。

    海女とからんだ子蛸大蛸         河
   自由律俳句を壁に書き散らし        庵

 魔除けだろうか。どこか『耳なし芳一』の全身に書いた経文のようでもある。爆笑である。

   自由律俳句を壁に書き散らし        庵
    爆撃のごとヘヴィーメタルは     ぽぽな

 「書き散らし」のエネルギーを音楽に転じている。なお、月野ぽぽなさんもご多忙につき今回一句のみの参加。いずれまたお手合わせ願いたい。

    爆撃のごとヘヴィーメタルは     ぽぽな
   皮すべて剥いてしまつた人参に       な

 音楽に合わせて調子に乗りすぎたのだろうか。料理の素材が大変なことになっている。

   皮すべて剥いてしまつた人参に       な
    喉元過ぎて合はす帳尻          り

 平野レミの「いいのいいの、おなかに入れば同じ」というのを、もっともらしく短句に仕立てている。

    喉元過ぎて合はす帳尻          り
   燦然と向日葵のある昼の月         河

 何事もなかったかのように夏の昼の月を詠み、みごとな転じぶりである。

   燦然と向日葵のある昼の月         河
    展覧会に並び疲れて           庵

 前句「向日葵」をゴッホの作品と捉え直している。

    展覧会に並び疲れて           庵
   灸すゆるのは三里より踝か         令

 並び疲れて帰り、灸をすえている。三里には手三里と足三里があり、足三里はひざのお皿のすぐ下、外側のくぼみに人さし指をおき、指幅4本そろえて小指があたっているところで、病気予防、体力増強以外にも足のつかれ、むくみ、胃腸の症状、膝の痛みにも万能養生のツボとのこと。くるぶし周辺にもいくつかツボはあるが、並び疲れであれば復溜か。足内側のくるぶしの中央から指3本分上、アキレス腱と骨の間で、足のむくみ、腰の痛みなどに効くらしい。なお、ここからは羽田野令さんに参加頂いた。

   灸すゆるのは三里より踝か         令
    紙風船を膨らましつつ          な

 灸に堪えている感じと膨らましつつある紙風船がぎりぎりのところで響き合う。次が花の座なので春の句としている。

    紙風船を膨らましつつ          な
   意のままに大気操る飛花落花        り

 飛花落花の風情をながめていると、逆に飛花や落花の方が大気を操っているのではないかと感じられることがある。

   意のままに大気操る飛花落花        り
    海市にゐると瓶詰めの文         河

 そうこうしているうちに海市に閉じ込められてしまった。救助を求める手紙を瓶に詰めて波に乗せる。

    海市にゐると瓶詰めの文         河
ナオ 遠縁に夢野久作・伴宙太          庵

 名残表折立である。夢野久作は幻想小説、探偵小説、SF小説などの分野で活躍した作家で、その作品『瓶詰の地獄』により前句とつながっている。もう一人の伴宙太は、スポ根漫画として一世を風靡した『巨人の星』の登場人物。実在の人物と虚構の人物を遠縁として並べる滅茶苦茶さがなんとも名残表である。

ナオ 遠縁に夢野久作・伴宙太          庵
    デザートに蜜たつぷりかかる       令

 古い三一書房の夢野久作全集の黒い函の背にあしらわれた滴るような文字をご存じの方なら、この響き具合は分かると思う。

    デザートに蜜たつぷりかかる       令
   送受信できない機械握りしめ        な

 名状しがたい不如意感に襲われている。

   送受信できない機械握りしめ        な
    ピンチとともに来るコマーシャル     り

 テレビなら緊迫の絶頂でCMとなる。

    ピンチとともに来るコマーシャル     り
   オレオレと急かされてゐるちよつと待て   河

 以前観たNHKの「ためしてガッテン」(その頃はまだ「ためして」が付いていたと思う)によれば、オレオレ詐欺にまさに直面している人は、脳の扁桃体が激しく活動しているらしい。扁桃体とは、身に迫る危険をいち早く察知して、心拍数をあげたり汗を出すよう体に命令する部位で、それが活発になることで理性的な判断ができなくなるようである。だから犯行グループの立場からは「ちょっと待て」という余裕を与えてはならない。だとすると、もしテレビドラマでコマーシャルがなかったら我々は際限なく感情移入して取り返しのつかないことになっているのではないだろうか。と思うとスポンサーが恨めしくもある毎度興ざめのCMではあるが、平穏な日常生活のためには大いに役に立っているのである。連句の付句としては、「ちよつと待て」まで言わない方がよかったかも知れない。

   オレオレと急かされてゐるちよつと待て   河
    瘴気ただよふ路地の底冷え        庵

 見事な場面展開である。そこまでクールダウンしましたか…。

    瘴気ただよふ路地の底冷え        庵
   帽子屋と兔とともにお茶を飲み       令

 『不思議の国のアリス』である。紅茶で暖をとっているのだろうか。前句とのつながりでいうと、絶対ディズニー版アニメではなくジョン・テニエルの挿絵だ。

   帽子屋と兔とともにお茶を飲み       令
    名前を未だ覚えてをらず         な

 そういえばあの帽子屋、なんて名前なんだろう。

    名前を未だ覚えてをらず         な
   骰子の目の十倍を支払つて         り

 名前も知らぬ相手に博打で負けている。余談ながらモノポリーというゲームでは、水道会社と電力会社は、そのマスに止まったサイコロの出目の四倍(二枚所持=独占している場合は十倍)のレンタル料を所有者に払う。改正水道法が十二月六日に可決され、日本の水道もアメリカ発祥のゲームの如く企業のぼろ儲けの対象となった。

   骰子の目の十倍を支払つて         り
    身を捨ててこそ浮かぶ遊行忌       河

 遊行忌は一遍上人の忌日で陰暦八月二十三日。銀河さんによれば「捨て果ててこそ」が一遍上人の教えとのこと。

    身を捨ててこそ浮かぶ遊行忌       河
   万博の予定地に差す後の月         庵

 本歌仙を巻いている最中の十一月二十四日に二千二十五年の万博の開催地が大阪に決定した。オリンピックにしても万博にしても高度成長時代の夢を追うだけの時代錯誤に過ぎず経済効果などあるのだろうかと思うと、前句「身を捨ててこそ浮かぶ」がじわじわと効いてくる。なお、前句が陰暦八月二十三日だったので、同季の中では時間軸を戻れないというルールにより「後の月」としている。

   万博の予定地に差す後の月         庵
    搭乗のとき霧の濃くなり         令

 秋の句を続けているが、なんとも先行き不透明である。

    搭乗のとき霧の濃くなり         令
ナウ さつきまで雪に遊びし秋田犬        な

 名残裏である。ここから挙句まではしらふに返った感じで進行する。先ほどまで雪に遊んでいた秋田犬が飛行機に搭乗するのか、それとも霧にまぎれて見えなくなってしまったのか。どちらにもとれる付けとなっている。

ナウ さつきまで雪に遊びし秋田犬        な
    火を焚いてゐる色白の母         り

 秋田美人と言わず「色白の母」として付けている。

    火を焚いてゐる色白の母         り
   遠巻きの輪をほどかずば夜が明ける     河

 安否に関わる何か差し迫った事態だったのだろうか。家族が遠巻きに見守るなか夜が明ける。

   遠巻きの輪をほどかずば夜が明ける     河
    お地蔵さんの赤よだれかけ        庵

 極めて映画的な手法で場面展開する。絶命をほのめかしている。

    お地蔵さんの赤よだれかけ        庵
   杣道をたどりて花の三角点         令

 花の座である。杣道はきこりだけしか通らないような細くけわしい山道。三角点は三角測量における三角網の基準点。この場合、山頂だろうか。折しも桜が咲いている。

   杣道をたどりて花の三角点         令
    釈迦の生まれし日の鰯缶         な

 仏生会は新暦では四月八日。寺の行事としては仏像に甘茶を濯いだりするが、知るかとばかりに鰯缶をあしらっている。生活に根ざした挙句と言えるだろう。

七吟歌仙 立冬の巻


   立冬を祝つて雨の夜明かな        なな
    落葉のゆゑと揺るる足どり      ゆかり
   砂粒は砂の尻尾をこぼれゐて       銀河
    箪笥の鐶の錆の鈍色          媚庵
   月を待つ少年棋士は十五歳        正博
    もみぢにかける指のひとすぢ       な
ウ  ジッパーを下ろせば溢れ出す夜長      り
    海女とからんだ子蛸大蛸         河
   自由律俳句を壁に書き散らし        庵
    爆撃のごとヘヴィーメタルは     ぽぽな
   皮すべて剥いてしまつた人参に       な
    喉元過ぎて合はす帳尻          り
   燦然と向日葵のある昼の月         河
    展覧会に並び疲れて           庵
   灸すゆるのは三里より踝か         令
    紙風船を膨らましつつ          な
   意のままに大気操る飛花落花        り
    海市にゐると瓶詰めの文         河
ナオ 遠縁に夢野久作・伴宙太          庵
    デザートに蜜たつぷりかかる       令
   送受信できない機械握りしめ        な
    ピンチとともに来るコマーシャル     り
   オレオレと急かされてゐるちよつと待て   河
    瘴気ただよふ路地の底冷え        庵
   帽子屋と兔とともにお茶を飲み       令
    名前を未だ覚えてをらず         な
   骰子の目の十倍を支払つて         り
    身を捨ててこそ浮かぶ遊行忌       河
   万博の予定地に差す後の月         庵
    搭乗のとき霧の濃くなり         令
ナウ さつきまで雪に遊びし秋田犬        な
    火を焚いてゐる色白の母         り
   遠巻きの輪をほどかずば夜が明ける     河
    お地蔵さんの赤よだれかけ        庵
   杣道をたどりて花の三角点         令
    釈迦の生まれし日の鰯缶         な

起首:2018年11月07日
満尾:2018年12月23日
捌き:ゆかり

2018年12月1日土曜日

山本掌『月球儀』を読む(最終回)

 次の章は「海馬より」。海馬は大脳辺縁系で古皮質に属する部位。本能的な行動や記憶に関与する。これまでの章と様相を一変し、介護俳句となる。このリアリティのために、フィクションの句は「偽家族日乗」に寄せられていたのだろう。痛切な句が続くが、ここでは章の最初と最後の句を引く。

  痴呆とは海図のない旅さらの花  掌

 地図であれば中七に収まるわけだが、わざわざ「海図」としているのは、自分で移動すればいいというものではないからだろう。老人の体調は海の波のように、穏やかな日もあれば激しく時化る日もあり乱高下する。

  父咲(え)みて米寿の馬の駈けぬけよ

 米寿のその日、つかのま穏やかな笑顔だったのだろうか。そのまま持ってほしいという万感の願望が「米寿の馬の駈けぬけよ」の命令形に込められている。ちなみに章の最初の句に「海」があり、最後の句に「馬」があり、海馬ならぬものに分かれているところが暗示的である。

 次の章は「空蟬忌」。季節はめぐり「荒梅雨や関東平野は水の檻」を導入として、介護俳句がしばらく続いたのち息を引き取る。

  死よ急ぐなのうぜんかずらの首あり

 風船のしぼんだような凌霄花の様子が、痩せ衰えた老人の膚を想起させる。

  ただならぬ蟬の選びし蟬の声

 それがまさに虫の知らせだったのだろう。

 次の章は「寒牡丹」。研ぎ澄まされた句境に至る。

  鎖骨美し月光のはりさけん

 骨格標本である可能性もなきにしもあらずだが、痩身の人体の無防備な首元のうつくしさだと読みたい。月光とぎりぎりの緊張関係にある。

  寒落暉はげしき静の独楽とあり

 高速に回転し均衡を保っている独楽と落日の取り合わせの句である。「寒落暉」と「独楽」は季またがりだが、実際に眼前にあってぎりぎりの緊張関係にあるのだから、つまらぬ指摘はすべきでないだろう。

 次の章は「寒牡丹 ふたたび」。なにがふたたびなのかというと、父上に続き母上も亡くなるのだ。沈痛な句が並ぶが最後の一句を引こう。

  神遊ぶ朱のひとしずく寒牡丹

 表面上は寒牡丹の花弁のありようを詠んだものであろうが、この流れで挙句に置かれた「神遊ぶ」はまさに絶唱であろう。万感の思いが去来する。

 最後の章は「俳句から詩へ」。自作四句と加藤かけいの一句から着想を得て口語自由詩へと展開している。「八日はや棚機津女(たなばたつめ)の解かれて」による一篇など、意外な展開で面白い。

(完)

2018年11月30日金曜日

山本掌『月球儀』を読む(6)

 次の章は「非在の蝶」。「非在」とは、存在するものが今ここにいない不在と異なり、具体物ではない抽象的な概念のことらしい。そしてこの章に蝶の句はない。

  まず地球そしてわたくし青き踏む  掌

 踏青は旧暦三月三日に野辺に出て青々と萌え出た草の上を歩き宴を催した中国の習俗に由来するが、いきなり「まず地球そしてわたくし」と切り出す。なにごとと思うが、大地があってこその草原であり、それを踏むことのできる私なのだろう。天体のスケールで「まず地球」とまで言ったところがこの作者ならではである。

  その日より冬の貌(かんばせ)はずし置く

 冬の最後の日である節分と春の最初の日である立春とでは、実際に見える景色はほぼ変わらない。にもかかわらず、俳人は立春がくれば鬼の面をはずすかのように冬を捨て置き春の句を詠むようになる。その阿呆くささを捉えた機知の句だろう。

 その次の章は「蝶を曳く」で、またしても蝶。こちらは全句が蝶の句。つまり前章は、じらし飢餓感を与えるための非在で、本章で満を持して味わえる構成となっていたわけである。

  D海峡うちかさなりし蝶の骨

 あまねく知られた安西冬衛の一行詩「てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた」を踏まえた句である。しかしそうとうにブラックな解釈で、その一匹以外は渡れず海峡が屍累累となっているというのだ。あえてイニシャルにしたDにはdeathの意も込められていよう。

2018年11月28日水曜日

山本掌『月球儀』を読む(5)

 次の章は「偽家族日乗」。日乗は日記のこと。章題のとおり偽家族による猟奇的な生態が淡々と綴られる。ここまで幽閉にも砒素にも美童にもすっかり慣らされて来たが、「のうぜんかずら綾の鼓はなりませぬ」「曼珠沙華幼(おさな)をたおりにゆくわいな」あたり、能や狂言の素養も要求されているようである。

  狂(た)ぶればのわれは花野の惑星よ 掌

 では接続助詞「ば」+連体助詞「の」の組み合わせは、能や狂言の素養があれば理解できるのだろうか。確信を持てずに書くのだが、これは音楽仲間だけに通じる「行かねばの娘」「買わねばの娘」の擬古典的展開ではないのか。だとすれば出典はアントニオ・カルロス・ジョビンによるボサノバ名曲の邦題「イパネバの娘」である。音楽仲間のあいだでの使われ方としては、例えば絶対欲しいCDを指して「私それ、買わねばの娘です」などという。この句の作者がメゾソプラノ歌手ということであれば、応用として「狂(た)ぶればのわれ」くらい大いに言いそうである。ちなみにこれを書いている時点で、作者山本掌と筆者三島ゆかりは面識がないので、まったくさだかではない。

2018年11月27日火曜日

山本掌『月球儀』を読む(4)

 次の章は「危うきは」。これまでの二章ほど章のタイトルは明示的でない。字足らず、字余り、宗教語、会話体、命令形、擬態語などを技のデパートのように繰り出してくるが、無意味の散乱ではなく、生の孤愁とでもいうべきものの表現に総体的に向かっている。また伝統的な連句とは違うマナーで前後の句を何かしら関連を持たせて配列しているようである。章の最初の四句を見てみよう。

  樹下春光内耳たどれば地中海   掌
  パピルスの文字は眠りぬ青葉騒
  聖五月そっと言の葉屋上に
  繭透けてうすむらさきのさざなみ


 地中海→パピルス→言の葉、と連想のパスが渡され、繭のなかのいまだ発語しない(字足らずな)生命体に及ぶ。
 続いて章の最後の五句を、もう少しつぶさに見てみよう。

  銀漢の星のひとつを旅という

 宇宙全体としては摂理であるが、そのひとつひとつのありようは多様で旅というべきドラマが繰り広げられている。

  銀漢にわれは牛飼う漢(おとこ)かな

 通常の連句なら同語で付けることはしないものだが、連句ではないのでそこは指摘すべき点ではない。ひとつの旅として牽牛織女の故事を持ち出している。沢田研二「危険なふたり」の歌詞、「今日までふたりは恋という名の旅をしていたと言えるあなたは年上の人」(安井かずみ作詞)を思い出したりもする。

  白帝の罪咎われを教唆せよ

 前句とは「われ」で同語反復している。「白帝」は陰陽五行説に基づいた擬人化による秋の異名であるが、擬人化できるものには罪も咎もあるという捉え方が面白い(だって、秋ですよ…)。

  見よここに惑乱のごと秋の火蛾

 形式的には前句の命令形を反復するとともに、いかにも白帝の罪咎であるかのように、無実の蛾がおのれを火に投じる。火蛾の「が」は、名詞でありながら、「見よ、ここに○○が」という倒置の文体を音韻的に補完している。もしくは音韻的に導かれて収まった語が「火蛾」である。

  危うきはたとえば露のおもきこと

 この章の挙句である。露といえば王朝和歌的無常観において消えやすい、はかないものの代表であるが、ではどう消えるのか。前句の火からの連想で干上がることを思えば露の玉が大きいほど干上がらないわけだが、今度は逆に落下して落ちる危険が大きくなる。よかれと思うことは時として逆の結末を招き、それもまた無常である。そしてそれもまた白帝の罪咎なのかも知れない。

2018年11月24日土曜日

山本掌『月球儀』を読む(3)

 次の章は「禽獣図譜」。実在の動物に限らず、鵺、迦陵頻伽、一角獣、火喰獣(サラマンドル)なども登場する。猿嫁、猿王あたりはちょっと分からない。出典があるのかも知れないし、その辺の人間社会のことなのかも知れない。また「青き馬」「群青の馬」「青き鷹」「青麦」「青水無月」「青海亀」と、青への固執もしくは偏愛も感じられる。そんな中、鮎の四句がただならぬ飛躍を見せる。

  若鮎の骨美しき宇宙塵     掌
  寵童を殺めし信長鮎を食う
  鮎食べて天球の半径を測る
  月球儀鮎の動悸のおくれけり


 なんと四句のうち三句は天体との取り合わせとなっている。年魚の異名が示す通り鮎は一年で一生を終えるので、そういう意味では惑星の周期に思いを馳せる引き金となっているのかも知れない。句集のタイトルの由来であろう月球儀の句、「動悸」が「同期」の同音異義語であることに注目しておこう。俳句の世界では同音異義語など注目に値しないことかも知れないが、この作者は朔太郎の写真とコラボするような人なので、油断ならないのだ。

2018年11月21日水曜日

山本掌『月球儀』を読む(2)

 次の章は「双の掌」。「掌」は作者自身の名前でもある。手や指を中心とした連作であるがどの句にも必ず手が出てくる訳ではない。そのあたり作者の美意識によってゆるやかに連結されているようである。「掌」から「磔刑」「ゴルゴダのイエス」などが導かれたりもするが、連作は意外な結末に向かう。最後の三句をみよう。

  寂静や人体直立歩行より   掌

 寂静は仏教用語で「煩悩(ぼんのう)を離れ苦しみを絶った解脱(げだつ)の境地。涅槃(ねはん)。」とのこと。ついでながら前章「さくら異聞」中の瞋恚も仏教語であった。特定の宗教の立場ではなく、作者の詩情のほとばしりによってあるときは磔刑となり、あるときは寂静となるのだろう。

  われ眠る月の柩に仰臥せり

 「月の柩」という措辞が世俗を離れ比類なくうつくしい。そして柩のなかにあって死とは言っていない。「われ眠る」なのだ。前句「寂静」から導かれたイメージの広がりなのだろう。連作ならでは味わいである。

  月光の贄なるわれの生死かな

 前句のパラフレーズであるが、生け贄とか鳥葬とかが頭をよぎりつつ「月光の贄」の静謐さを思う。そんな今際の時もよいかも知れない。





 参考までに柩に寝るというだけなら先行句として例えば以下がある。

  寝棺より眺む風花かと思ひ 清水径子
  棺に寝て朝顔へ人走らする    同

 清水径子も独特の死生観を詠んだ俳人だが、後者は息を引き取ったばかりのあわただしさを故人に転嫁したユーモラスにして万感の追悼句だろう。

2018年11月20日火曜日

山本掌『月球儀』を読む(1)

しばらく山本掌『月球儀』(DiPS.A)について書く。
(著者にご恵送頂きました。ありがとうございます。)
 最初の章は「朔太郎・ノスタルヂア」と題され、萩原朔太郎が撮影した写真六枚と山本掌の句のコラボとなっている。朔太郎の写真は初めて見たが、ここで使われている多くは茫洋とした不思議なものである。わりとくっきりしたものでは「大森駅前の坂道」という一枚があるが、ひと気のない白昼の坂道と石垣を遠近法の構図で捉えたもので、それはそれで夢のようである。右側の高台は光の関係でほぼ影となっている。例えばその一枚に添えられた句は以下。

  影なくす唇(くち)に秋蝶触れてより 掌

 このように写真を説明する訳でもなく、付けられている。秋といえばものの影がくっきりとする季節であるが、幻想の入口であるかのように、倒置で「影なくす」と切り出している。

 次の章は「さくら異聞」。三部に分かれ、さくらにまつわる四十句が収められている。「日月流離糸をたぐればさくらかな」で始まり「白馬(あおうま)のまなぶたをうつさくらかな」で終わるが、四十句全体がひとつの世界でそこから一句を切り出して鑑賞したりするものではないのだろう。憎悪、瞋恚、妬心、殺意などの激しい感情が妖艶に移ろい、美童が打擲され臓器がゆらぐ。
 
(続く)

2018年11月4日日曜日

愛着と執着の「を」

 そうこうしているうちに大野晋、丸谷才一『日本語で一番大事なもの』(中公文庫)にたどりついた。「天ざかる鄙の長道を恋ひ来れば明石の門より家のあたり見ゆ」を検索したら、個人でこの本の索引を作っているサイトにヒットしたのだった。87年に出版され90年に文庫化された本で、その時分には私はまだ俳句をやっていなかった。いや、仮にやっていたとしても、題名を見ただけで「けっ」と言って近づかなかったに違いない。「てにをは」を中心に日本語の助詞について徹底的に解剖するじつにディープな対談で、丸谷が聞き手に回り大野が解説するスタイルとなっている。
 「を」については<愛着と執着の「を」>という刺激的な章題となっていて、見出しを拾うと<目的格の「を」><経由の場所、時間を示す「を」><接続助詞の「を」><『新古今』的な「を」><「ものを」の意味><「ものゆゑ」「ものから」のむずかしさ>と続く。

丸谷 強調とか詠嘆とかの「を」ですね。
大野 いろいろな意味が入っているわけです。論理的な目的格であるという機能だけでなくて、それ以外に、それに対する愛着であるとか、執着であるとか、承認であるとかが「を」にはあるんです。原則として「を」には、それがあることを認めておくと、助詞の「を」を理解するときに、非常にわかりやすいと思います。

という原則があって、さまざまな「を」について語り尽くしている。おそろしい。

 「を」についてはさておき、<「……のごと」から「……のごとし」へ>というくだりもある。「こと降らば袖さへぬれて通るべく降りなむ雪の空に消(け)につつ」を引き合いに、「同じ降るのだったら」という歌の解説の後、以下のように続く。

大野 (前略)ですから、「こと」というのは、「同じ」という意味です。それで「夢のごと」「今のごと」は、この「こと」の頭が濁ったもので、「今のごと」は、現代語では、「今と同じ」ということになります。(中略)「ごとし」という形容詞は、この「ごと」に形容詞語尾「し」をつけたものです。

 ひえ~、なんということ。私は俳句しか知らないので、俳句の中で見かける「ごと」について、定型の要請で「如し」を勝手に縮めたものだと思っていたので、認識を新たにした。逆だったんだ。いろいろ目からうろこが落ちる本である。


2018年11月3日土曜日

人麻呂は「を」とは書いていない

 ふたつ前の記事で「を」について書いた。岩波古語辞典で「移動や持続を表す動詞の、動作全体にわたる経由の場所・時間を示す」用法の用例としてあげられていたのは以下の二首。
「天ざかる鄙の長道恋ひ来れば明石の門より家のあたり見ゆ」<万三六〇八>
「長き夜独りや寝むと君が言へばすぎにしひとの思ほゆらくに」<万四六三>

 後者は 直前に家持が妾の死を悼んだ歌があり、それに対する弟書持(ふみもち)が応えた歌とのこと。

  今よりは秋風寒く吹きなむをいかにか独り長き夜を宿(ね)む 家持 <万四六二>

 家持の歌では「を」が二回出てくるが、 「吹きなむを」のほうは順態の接続助詞とのこと。書持がオウム返しすることになる「長き夜を宿む」がくだんの用法。

 一方、前者のほうはいささか事情がややこしい。人麻呂に先行歌がある。

  天ざかる夷(ひな)の長道(ながぢ)ゆ恋ひくれば明石の門(と)より大和島見ゆ 人麻呂<万二五五>

 <万三六〇八>のほうは新羅使等が船上で吟誦した古歌で、茂吉『万葉秀歌』によれば「此は人麿の歌が伝わったので、人麿の歌を分かり好く変化せしめている」とのこと。つまりオリジナルは「を」ではなく「ゆ」なのだ。この「ゆ」について久松潜一 『万葉秀歌』には次のようにある。

 赤人の「田子の浦ゆ」も同様であるが、田子の浦のばあいは田子の浦からどこへということもないので、しだいに田子の浦にの意味になってきたが、この歌のばあいは進行を表わす「ゆ」であることがはっきりしている。しかし巻十五の歌(ゆかり註、<万三六〇八>のことでは「長道を」となっているが、これは語感からいうと人麻呂のすぐれた語感が失われている。

 なお、人麻呂の歌は『新古今集』にもえらばれているが、久松によれば「恋ひ」が「漕ぎ」に変わり、以下となっている。

  あまざかるひなのながぢをこぎくれば明石のとより大和しまみゆ

 ここでも「ゆ」ではなく「を」であり、どうやらそのようにして 「移動や持続を表す動詞の、動作全体にわたる経由の場所・時間を示す」用法の「を」が定着していったのではないかと思われる。

2018年10月27日土曜日

三田ミチコ顛末

 山田露結さんから2017年6月頃、悪のお誘い。当時私ははいだんくんという俳句自動生成ロボットを成長させながら、月刊誌『俳壇』(本阿弥書店)に連載記事を書いていた。そのロボットの語彙と句型をすべて露結さんのものに純化してどこかの賞に応募したいというのだ。
 きっかけは忘れたが、2009年に私が最初に俳句自動生成ロボットを作ったときにも、露結さんにソースを渡して露結さんが独自に語彙と句型を登録し、「一色悪水」「裏悪水」という二体のロボットができた。その「裏悪水」による作品が、露結さんの第一句集『ホーム・スウィート・ホーム』のつけたり「悲しき大蛇」となった。
 それから8年も経つので、プログラムは複雑怪奇になっている。また、私は私で2017年当時の連載のための思いつきでプログラムをころころ変えるので、語彙と句型の登録とはいえ、露結さんもそうとう苦労されたことと思う。
 ある程度めどが立った段階で、まさに私が当時連載していた『俳壇』誌の「俳壇賞」に匿名で応募しようという悪だくみが進み、三島ゆかりの「三」、山田露結の「田」で姓は「三田」、名前は櫂未知子にあやかったのであったか「ミチコ」とした。もちろんそんなことは「俳壇賞」関係者は誰も知らない。露結さんと私だけの秘密だ。その応募に使用した俳句自動生成ロボットが三田ミチコである。

 応募した作品そのものとその後の経緯は山田露結さんのブログに詳しい。

2018年10月23日火曜日

岡田一実『記憶における沼とその他の在処』を読む(5)

 最終章は「水の音」。特に章頭の句「海を浮く破墨の島や梅実る」と句集全体の最後を飾る「白藤や此の世を続く水の音」に見られる「を」について注目したい。これらの「を」は岡田一実にとって万感の「を」であり畢生の「を」であるはずだが、現代日本語としてはいささか尋常ではないようだ。
 『岩波古語辞典』の巻末の基本助詞解説によれば、格助詞の「を」は本来、感動詞だったものがやがて間投助詞として強調の意を表すようになったらしい。そこからさらに目的格となるくだりを少し長くなるが引用する。
 
 こうした用法(ゆかり註。間投助詞として「楽しくをあらな」のように使われていたことを指す)から、動作の対象の下において、それを意識するためにこの語が投入された。そこからいわゆる目的格の用法が生じたものと思われる。しかし、本来の日本語は目的格には助詞を要しなかったので、「を」が目的格の助詞として定着するにあたっては、漢文訓読における目的格表示に「を」が必ず用いられたという事情が与っていると思われる。
 対象を確認する用法から、「を」は場合によっては助詞「に」と同じような箇所に使われる。たとえば、「別る」「離る」「問ふ」などの助詞の上について、その動作の対象を示すのにも用いる。また、移動や持続を表す動詞の、動作全体にわたる経由の場所・時間を示すことがある。


 後者の例として以下が挙げられている。「天ざかる鄙の長道恋ひ来れば明石の門より家のあたり見ゆ」<万三六〇八>「長き夜独りや寝むと君が言へばすぎにしひとの思ほゆらくに」<万四六三>

 違和感ゆえに詩語として絶妙に意識させられる岡田一実の「を」は万葉集由来のものだということらしい。「移動や持続を表す動詞の、動作全体にわたる経由の場所・時間を示す」という用法を頭に叩き込んでおこう。

  海を浮く破墨の島や梅実る

 破墨は水墨画の技法だから、一幅の作品に対峙していると見るのが順当だろう。描かれたときから作品の中でそうあり続けている海と島の玄妙な関係に思いを馳せる。そんな時の流れを想起させもする「梅実る」がよい。モノクロームの世界に取り合わせられるふくよかな緑。

  白藤や此の世を続く水の音

 過去から未来までの長大なスケールの中での自分が今生きているこの一瞬。水がある限り白藤を愛でることができる生命体が長らえる。句集の最後を飾る、そんな万感の「を」だと思う。

2018年10月22日月曜日

岡田一実『記憶における沼とその他の在処』を読む(4)

 第3章は「空洞」。何句かごとに鳥が飛び、ひとところに留まらない。

  麺麭が吸ふハムの湿りや休暇果つ

 岡田一実の食べ物の句は必ずしも美味しそうでない。つきまとうノイズのようなものを正確に捉えている。朝作ってもらったお弁当のパンを昼食べるときの情けないようなだらしないような感じ。その通りなんだけど、それ、詠みますか。

  口中のちりめんじやこに目が沢山

 すでに口のなかに入っているのにちりめんじやこの目の気持ち悪さに言及してやまない、この感じ。「栄養なんだから食べなさい」と叱られる子どもの恨みのようである。

  かたつむり焼けば水焼く音すなり

 これは食べ物の句なのか。エスカルゴとは書いていない。あえてかたつむりと書きたかったのではないかという気もする。食べ物の句だとしたら、いかにも不味そうである。ちなみに俳句にとってはどうでもいいことだが、ネットによれば、自分で採ってきたカタツムリを食べるには、二三日絶食させるか清浄な餌を食べさせ続ける必要があるらしい。

  火を点けて小雨や夜店築くとき

 「水焼く」といえば、こんな句もある。また最終章には「雨脚を球に灯せる門火かな」というあまりにもうつくしい句がある。なにかしら煩悩のように、気がつくとまたしても水がある感じ。それが記憶の沼につながって行くのかも知れない。

  煩悩や地平を月の暮れまどひ

 「くれまどう」は通常「暗惑う」「眩惑う」と書き、悲しみなどのために心がまどう、どうしたらよいか、わからなくなる、といった意味だが、ここでは敢えて「暮れまどひ」と書き、月が暮れることができないというシュールな情景を重ねている。

  室外機月見の酒を置きにけり

 かと思うとこんな句も。こんなふうに風流に詠まれた室外機を私は知らない。

  ちりぢりにありしが不意に鴨の陣

 ここまで挙げたような日常些事から心象まで多岐にわたる対象世界を、いちいちご破算にするかのように数句ごとにさまざまな鳥が飛ぶ。掲句以外にも「常闇を巨きな鳥の渡りけり」「飛ぶ鴨に首あり空を平らかに」「歩きつつ声あざやかに初鴉」など。句集におけるこういう鳥の使われ方は、見たことがなかったような気がする。

  揚花火しばらく空の匂ひかな

 この章の最後を飾る句である。「火薬の匂ひ」ではない。「空に匂ひ」でもない。書かれた通り「しばらく」、「空の匂ひ」と置かれた六音を書かれた通り玩味する。そして記憶の中をさまよう。幼年期の記憶は理路整然と分析できない渾然一体の「空の匂ひ」としか言いようのないものだ。そして詠嘆する。

2018年10月21日日曜日

岡田一実『記憶における沼とその他の在処』を読む(3)

 第2章は「三千世界」。現代国語例解辞典(小学館)から引く。①「三千大千世界」の略。仏教の想像上の世界。須弥山を中心とする一小世界の千倍を小千世界、その千倍を中千世界といい、更にそれを千倍した大きな世界をいう。大千世界。②世界。世間。「三千世界に頼る者なし」
 ①の説明によれば、三千というより、千の三乗、ギガワールドである。章中「三千世界にレタスサラダの盛り上がる」という句がある。外食業界で一時期、大盛りの極端なのを「メガ盛り」とか「ギガ盛り」とか言っていたような気もするが、それはさておき「三千世界」、どんなバラエティの世界なのか見て行こう。

  夢に見る雨も卯の花腐しかな

 甘美である。夢と現実とが「卯の花腐し」という古い季語によって融けあっている。「夢に見る雨も」に現れるm音の連鎖と「夢」「卯の花」「腐し」で頭韻的に現れる母音u音によって、やわらかな雨のなかにとろけてゆくようである。

  早苗饗や匙に逆さの山河見ゆ

 こちらは徹底的に頭韻にsa音を置いて調べを作っている。早苗饗は田植えが終わった祝い。ほんとうに匙に逆さの山河が見えたのかはどうでもいいことだろう。音韻的な美意識によって句集に彩りを添えている。

  あぢさゐの頭があぢさゐの濃きを忌む

 リフレインの句である。「あぢさゐの頭」は植物としてのアジサイの意思なのか、七変化する作者の意識のことをそう呼んでいるのか。もはや区別する必要もないのが、作者にとっての「三千世界」なのではないか。

  夕立の水面を打ちて湖となる

 湖に降る夕立は、ただちにそのまま湖水となる。明らかなことがらをあえて俳句に仕立てているわけだが、このように書かれると、夕立と湖が一体となる不思議を思う。ここでも「夕立」「打ちて」「湖」と母音u音を畳みかけて調べを作っている。

  母と海もしくは梅を夜毎見る

 三好達治「郷愁」の一節に「――海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。/そして母よ、仏蘭西人(フランス)の言葉では、あなたの中に海がある。」があるせいで、後から来た私たちは類想を封じられてしまった感もあるのだが、岡田一実はさらにこれでもかと「梅」「毎」を重ね、あっさりとハードルを越えてしまった。

 どうだろう。なにかしら言い止めるべき現実があって俳句をものしていると思っていると、岡田一実の表現しようとしていることは捉えられないのではないか。岡田一実の「三千世界」は俳句としての調べや表記の純度を追求した、架空の世界のような気がする。

2018年10月8日月曜日

岡田一実『記憶における沼とその他の在処』を読む(2)

 以下、章ごとに見て行きたい。第1章は「暗渠」。暗渠とはいうまでもなく、川を治水、衛生、交通などの観点から上にふたをして見えなくしたもの。川としてなくなった訳ではなく、暗いところで脈々と流れているところが眼目である。普段気にかけることはないが確実に存在するものへのまなざしは、岡田一実にとってもテーマであろう。

  暗渠より開渠へ落葉浮き届く 岡田一実

 治水行政が進んでしまったので、暗渠から開渠に転じる場面はそうあるわけではないが、あるところにはある。流れ出た落葉を見て、暗渠区間の様子に思いを馳せている。「浮き」「届く」と動詞を畳みかけることにより、着地を決めている。とりわけ「届く」が絶妙である。

  喉に沿ひ食道に沿ひ水澄めり

 水を飲んだときの快感を詠んでいるが、詠みようは暗渠の句と同じで、体内の見えない器官に思いを馳せている。「水澄む」は伝統的には地理の季語であるが、もはやなんでもありである。ちなみに章に六十句ほどあるうち、二十句近くはリフレインや対句を使用している。いかにその技法にかけているかが偲ばれる。

  馬の鼻闇動くごと動く冷ゆ

 馬にぎりぎりまで迫って詠んでいる。馬に慣れ親しんだ人ならこうは詠まないだろう「闇動くごと動く」の違和感、下五に押し込めた「冷ゆ」が喚起する鼻息の温度差、湿度差がよい。下五の残り二音で切れを入れて来る、この危ういバランス感覚はリフレインへの信頼があるからできることなのかも知れない。「闇動くごと動く」に律動的に現れるgo音がなんとも不気味である。

2018年10月6日土曜日

岡田一実『記憶における沼とその他の在処』を読む(1)

 しばらく岡田一実『記憶における沼とその他の在処』(青磁社、2018年)を読む。

  火蛾は火に裸婦は素描に影となる 岡田一実

 巻頭の句である。「火蛾は火に」で切れるという読みもあり得るが、「火蛾は火に」と「裸婦は素描に」とが助詞を揃えた対句で、両方が下五の「影となる」にかかると見るのが順当だろう。しかしながら「火蛾は火に/影となる」と「裸婦は素描に/影となる」は「影となる」のありようが全然違う。前者は単に火という光源に対し火蛾が光源を遮ることを言っているのに対し、後者は光源を遮るという意味ではあり得ない。芸術作品の完成度に関わる内面的な描写のことを言っている。次元の異なるものをあえて対句とすることにより、この句自体が曰く言い難い影をまとっている。そして句集を読み進めるにつれ、その曰く言い難い影と、もうひとつ、ある種の水分がまさに句集のタイトル通り「記憶における沼」のように繰り返し現れるのに読者は直面することになる。巻頭の句にふさわしい一句であろう。

  眠い沼を汽車とほりたる扇風機

 二句目で「記憶における沼」の核たる「沼」が出現する。「眠い沼」とは現実界の沼に対する措辞なのか、それとも心象なのか。そのあたりはっきりしない茫洋とした感じこそがこの句の味なのだろう。ノスタルジックに汽車が通り、人がいるのかいないのかも定かでない世界で扇風機が回っている。

  蟻の上をのぼりて蟻や百合の中

 全句鑑賞になってしまいそうな勢いで恐縮だが、三句目も押さえておこう。この句では句集全体を通じて見られる外形的な特徴がはっきり見てとれる。ひとつはリフレインである。以前『ロボットが俳句を詠む』の連載で後藤比奈夫について書いたことがあったが、そこで触れたリフレイン技法のすべてを岡田一実はマスターしている。巻頭の「火蛾は火に」など、むしろリフレインの新たな領域を開拓している感もある。もうひとつの特徴を言えば、十七音の調べの中で岡田一実のいくつかは、短い単位をこれでもかと詰め込んだ感がある。とりわけ下五への詰め込み効果については別の句を例にあらためて触れたい。

2018年9月4日火曜日

五吟歌仙 夏至の陽の巻

   夏至の陽に光りてスカイツリーかな   媚庵
    十間橋を浴衣の少女        ゆかり
   おもむろに極彩色のボール立て     りゑ
    絶好調でも不調でもなく       銀河
   雲去りて繊月の空静まりぬ        霞
    夜学に詰まる音読のこゑ        庵
ウ  銃痕のことにはふれず秋灯        り
    ためつすがめつ減らない煙草      ゑ
   裘着せかけらるる波止場街        河
    化けて出るのもこの日が最後      霞
   シネコンで「万引き家族」二回観る    庵
    四百円を割るデカンター        り
   蛸壺をうをにとられて梅雨の月      ゑ
    明石大橋わたるまでよと        河
   スクロールしてゐる人の死について    霞
    絵踏の日時高札にあり         庵
   目にものを云はせ花筏の遡上       り
    イチゴミルクを奢ろぢやないか     ゑ
ナオ 台風のコース気づかふ始発駅       河
    地図は燃やして秋遍路ゆく       霞
   小結と自称し兄の草相撲         庵
    骨折見舞のハムに巻紐         り
   年忘れ数へるごとに人の増え       ゑ
    ケーブルカーを揺らすやまかぜ     河
   私しか見ぬ両足の爪を塗り        霞
    タンゴ奏でるジュークボックス     庵
   猫の目の合はせ鏡をワープして      り
    涼も新たな茶を酌み交はす       ゑ
   月下敲門渋 舌下推飴甘         河
    彼岸花踏み虚しく往きて        霞
ナウ 驟雨過ぎ雨の匂ひの村となる       庵
    注意を払ふ葉書投函          り
   鼻歌のあるじは庫裏の大和尚       ゑ
    降りねばならぬ石段の数        河
   見上げれば花の蕾もゆつくりと      霞
    色はうつりて百千鳥鳴く        庵


起首:2018年06月21日
満尾:2018年09月04日
捌き:ゆかり

2018年8月12日日曜日

『こゑふたつ』の「て」

 今さらながら鴇田智哉『こゑふたつ』(木の山文庫、2005年)を読む。
 常日頃、俳句自動生成ロボット「ゆかりり」なんかで遊んでいるせいか、ちょっとした作句上の文体が大いに気になったりするわけだが、例えば以下の句群などどうだろう。

①  干潟とは今を忘れてゆく模様    鴇田智哉(P91,92)
②  影ばかりうまれて春のをはりけり
③  蟻に気をとられてをれば夜になりぬ
④  夏いつか鰭のうすれてゆく魚

⑤  甘くしてこぼるる蜜や盆の家    (P105,106)
⑥  虫の夜はひとみをあけて帰りけり
⑦  送火の炎のきえてゆくはやさ

⑧  空の絵を描いてをれば末枯るる   (P110,111)
⑨  露の手に厚みのありてうごかしぬ
⑩  棕櫚の木の掘られて寒き冬に入る

 たまたま目についた「て」を含み連続する句群である。すべて「て」ではあるが、大きく分ければ接続助詞としての「て」と、動詞に連なる「て」があり機能は異なる。

◆接続助詞としての「て」
 ふたつ以上の文を接続して、順次成立、並列、原因・理由、方法・手段などを表すものである。②⑤⑥⑨⑩が該当する。/で強調してみる。

②  影ばかりうまれて/春のをはりけり
⑤  甘くして/こぼるる蜜や盆の家
⑥  虫の夜はひとみをあけて/帰りけり
⑨  露の手に厚みのありて/うごかしぬ
⑩  棕櫚の木の掘られて/寒き冬に入る

 こうして並べてみると、接続助詞としての機能はほとんど感じられず、仮に韻律を無視していいのなら「て」などなくてもそのまま成立するだろう。逆に言うと、これらの「て」は調べを整えるためだけに存在する。「上善如水」という日本酒があるが、鴇田智哉の句の希薄な質感は、このような調べを整えるだけの措辞によっても、水の如き効果がもたらされているのではないか。
 
 
◆動詞に連なる「て」
 動詞「ゆく」「をる」などに連なるものである。①③④⑦⑧が該当する。「」で強調してみる。
 
①  干潟とは今を「忘れてゆく」模様 
③  蟻に「気をとられてをれば」夜になりぬ
④  夏いつか鰭の「うすれてゆく」魚
⑦  送火の炎の「きえてゆく」はやさ 
⑧  空の絵を「描いてをれば」末枯るる 
 
 客観写生系だと写真のように瞬間を切り取ることを最大の美とする向きもあるが、鴇田智哉はそうではない。「~てゆく」による未来への継続、「~てをる」による現時点での存続などの時間の流れが、句に陰影を与えている。また、③⑧はともに「…てをれば」のかたちで順接の接続助詞「ば」に連なり、結局のところ接続助詞としての「て」に近い用法となっている。それにしても「忘れて」「気をとられて」「うすれて」「きえて」と、なんと儚い動詞の選択だろう。「描いて」は一見そうでもないが、「末枯るる」に着地する。総じて、意外にもセンチメンタルな語の運びである。

2018年5月19日土曜日

五吟歌仙 垢のなきの巻 評釈

   垢のなき耳で見にゆくさくら哉    なな

 当世「垢」といえばツイッターなどのアカウントのことであるかも知れない。目ではなく「耳で見にゆく」と言っているのだから、ますますSNSで過剰に発信される情報が思われる。そんな一切から自由になりたくてその手の共同体から退会したのではないか。一切の情報を無視して自分が捉える桜はこういうものだったのだ。という可能性をまずは認識しておこう。

   垢のなき耳で見にゆくさくら哉    なな
    乳母車押す囀のなか       ゆかり

 そのようなネットスラングの存在は認識しつつ、脇は「垢のなき耳」を掃除の行き届いた乳児の耳と捉え直した。自信に満ちた母親像を音声情報の中に描いている。ネット連句の常で、発句と脇は必ずしも同じものを見ているわけではないところで挨拶を交わす。

    乳母車押す囀のなか       ゆかり
   遅き日の遅きバス待ちくたびれて   媚庵

 第三から展開が始まる。春の句を三句続けるところから「遅き日」という季語を選択し、時刻表通りに来ないバスについて、「遅き日の遅きバス」と畳みかけ、さらに句またがりで「待ちくたびれて」とすることにより、いかにも遅い感じを出している。

   遅き日の遅きバス待ちくたびれて   媚庵
    山はこちらに海はそちらに      霞

 ここまで叙景句があまりなかったのでそういう趣としているが、バスガイドの「右に見えますのは」式の口上をも思い起こさせるリズミカルなものとなっている。

    山はこちらに海はそちらに      霞
   月ひとつ砂に埋めれば魚の啼く    七節

 前句の後半から導かれたものだろうが、月の座で月を砂に埋める人はあまりいない。このあたり七節ならではの句境である。

   月ひとつ砂に埋めれば魚の啼く    七節
    野分のなかを駆けぬける影      な

 なにしろ月を埋めてしまったのだから、表六句らしからぬ不穏な様相を呈している。なんだか分からないものが駆け抜ける。ついでに「大いなるものが過ぎ行く野分かな 虚子」を頭の隅に思い出しておこう。

    野分のなかを駆けぬける影      な
ウ  跳躍し神に近づく夜の鹿        り

 前句のなんだか分からない影が姿を現した瞬間を捉えた。

   跳躍し神に近づく夜の鹿        り
    ワインセラーに口紅忘れ       庵

 この付けはすごい。前句を高精細なテレビの映像と捉え、チャンネルを切り替えるように成熟した女性像に転じている。

    ワインセラーに口紅忘れ       庵
   東京で私の未来だつた人        霞

 恋は一瞬にして過去のものとなった。トレンディドラマのひとこまのような前句を「東京」と断定し、「私の未来だつた人」という措辞が切ない。

   東京で私の未来だつた人        霞
    ノイズは濡れるラジオのやうに    節

 そして思い出にノイズが混入する。「濡れるラジオ」と言えば、真空管からトランジスタの時代になったとき、電池でも鳴る可搬のラジオをそれこそ風呂場にも持ち込んで聴いたものだった。場所を変えれば電波状況も変わる、そんないろいろが混信するノイズなのではないか…。

    ノイズは濡れるラジオのやうに    節
   ペン入れを螢光ペンの飛び出して    な

 人生でラジオが必要だった受験期の記憶で、机上のリアリティを描いている。

   ペン入れを螢光ペンの飛び出して    な
    半日でとる原付免許         り

 蛍光ペンと言えば丸暗記だろうが、毛色の違うもので付けてみた。

    半日でとる原付免許         り
   湾岸に熱風吹きて月のぼる       庵

 とりたての免許でぶっ飛ばす湾岸。折しも夏の月がのぼる。

   湾岸に熱風吹きて月のぼる       庵
    あさぼらけるけかつぱはねるね    霞

 驚いたことに河童語が登場する。河童は寝るね、と言っているのか、河童跳ねるね、と言っているのか、人間の捌き人には分かりかねる。

    あさぼらけるけかつぱはねるね    霞
   鍵穴に宇宙卵が挿してある       節

 宇宙卵は河童が残したものだろうか。このあたりまことに人智を超えたコミュニケーションである。

   鍵穴に宇宙卵が挿してある       節
    アンドロメダ忌まで飲み明かす    な

 宇宙の創世に関わる宇宙卵に対し、「アンドロメダ忌」で付けている。捌き人は架空の忌日だと思っていたが、埴谷雄高の命日で二月十九日らしい。であれば春の季語である。「まで」って、前日から飲み明かすのだろうか。

    アンドロメダ忌まで飲み明かす    な
   花冷えの記憶の漬かるホルマリン    り

 その忌日が「アンドロメダ忌」と呼ばれるような人物であれば当然脳が保存されているだろうと断定し、花の座の句に仕立てている。

   花冷えの記憶の漬かるホルマリン    り
    万愚節とて行く女坂         庵

 保存された脳にはあの世まで持って行きたかった嘘もいっぱい残されているのだろうか。万愚節、女坂という語の運びがなんとも火宅っぽい。

    万愚節とて行く女坂         庵
ナオ 淡雪に母校の灯りは消えたまま     霞

 雪でも降ろうものなら転倒しないようにゆっくり登った女坂の途中の母校であるが、今はまだ春休みなのだろうか、灯りが消えている。名残の雪が感傷を誘っている。

   淡雪に母校の灯りは消えたまま     霞
    色紙に溢る言葉優しき        節

 かつての学友の寄せ書きはどれも言葉が優しい。

    色紙に溢る言葉優しき        節
   伊東屋のサンプルとして置かれたる   な

 伊東屋というのはかの文具店だろう。ほんとかよとも思うが、記入された色紙が見本として置かれてあるのだと詠んでいる。

   伊東屋のサンプルとして置かれたる   な
    アニマル柄の還暦祝ひ        り

 であれば、ほんとかよという付句で返そう。伊東屋にアニマル柄なんてあるのだか。

    アニマル柄の還暦祝ひ        り
   漕ぎながら枯野の果ての補陀落へ    庵

 アニマル柄から秘境探検的なものが導かれているが、行き先がただごとではない。補陀落(ふだらく)は仏教語で、インドの南海岸にあり、観音が住むといわれる山。

   漕ぎながら枯野の果ての補陀落へ    庵
    真綿でくるむ貴方の右手       霞

 前句を成仏したものと捉えている。右手だけが遺ったのだろうか。枯野も真綿も冬の季語だが、季節感とは関係ない世界で展開している。

    真綿でくるむ貴方の右手       霞
   燃えてゐる麒麟の舌は夜を這ふ     節

 前句を情愛的なものに読み替えて付けている。

   燃えてゐる麒麟の舌は夜を這ふ     節
    新潮文庫の天アンカット       な

 これは初折裏二句目の媚庵句に似た展開となっている。フィクションの外側の現実で付けるこの手法に名前はあるのだろうか。天アンカットは製本上の用語で、小口のうち上方である「天」のみを断裁せずに残す手法だが、新潮文庫のように栞ひもがある文庫ではそもそも工程上、天を断裁できないという。

    新潮文庫の天アンカット       な
   海底のやうに時間が降り積もり     り

 天アンカットには埃がたまりやすいのを捉え、もっともらしく付句としている。

   海底のやうに時間が降り積もり     り
    先祖代々槍の家柄          庵

 時間の推移をそのまま先祖代々で受けている。「槍の家柄」というのは、まっすぐな気性で喧嘩っ早いという意味だろうか。

    先祖代々槍の家柄          庵
   望の夜に神と仏と盃を         霞

 月の座である。なにか現代なりに決戦のときなのだろうか。頼みになりそうなものを列挙している。

   望の夜に神と仏と盃を         霞
    波間ただよひ尾花蛸行く       節

 飄々とした付けである。尾花蛸は晩秋、尾花が散る頃の蛸で、産卵後なので味が落ちるとされる。悲壮な決意とともに尾花蛸が漂っていると思うとなんだか楽しい。よくこんな変な季語を拾ってきたものだ。

    波間ただよひ尾花蛸行く       節
ナウ 雁瘡の幼子ふたり寝かしつけ      な

 そう来たかと変な季語で返す。雁瘡(がんがさ)は皮膚病の一種で湿疹、痒疹などをいい、俗に、雁が渡ってくるころにでき、去るころになおるところからいうとのこと。尾花蛸の孤独感とは異質な哀愁で付けている。

   雁瘡の幼子ふたり寝かしつけ      な
    メビウスの帯クラインの壺      り

 子を寝かしつけ何をしているのかというと、位相空間に思いを馳せている。メビウスの帯は、帯を一回ひねって貼り合わせたもので裏表がない。クラインの壺は同じように管を一回ひねって貼り合わせたもので、三次元上では実現できない抽象概念であるが、これもまた表裏がない。

    メビウスの帯クラインの壺      り
   見あげればエデンの方へ雲流れ     庵

 そんな数学的思考から我に帰ると、それはそれで宗教的な思考の中にいて、創世記の彼方を思っている。

   見あげればエデンの方へ雲流れ     庵
    伊予柑むいたままの手のひら     霞

 エデンの園と言えば知恵の樹であるが、それが林檎なのかバナナなのかイチジクなのかは諸説あるらしい。そこは俳諧、なんと伊予柑で付けている。しかもまだ食べてない。人類はどうなるのか。

    伊予柑むいたままの手のひら     霞
   言の葉を拾いつつ行く花のなか     節

 花の座である。連句の三句の渡りでは自動的に打越は捨てられるので、すでに創世記とは離れて読む必要がある。前句の「手のひら」から「拾いつつ」が導かれているのだろう。パズルのピースのような断片が次第に集まって意味が伝わる期待とともに花のなかにある。
 
   言の葉を拾いつつ行く花のなか     節
    じやんけんぽんで出づるてふてふ   な

 挙句はもはや魔法である。前句の途上感をリズムに乗せて一気に解決させている。呪術的な楽天性というか、根拠のないおめでたさがすばらしい。

五吟歌仙 垢のなきの巻

   垢のなき耳で見にゆくさくら哉    なな
    乳母車押す囀のなか       ゆかり
   遅き日の遅きバス待ちくたびれて   媚庵
    山はこちらに海はそちらに      霞
   月ひとつ砂に埋めれば魚の啼く    七節
    野分のなかを駆けぬける影      な
ウ  跳躍し神に近づく夜の鹿        り
    ワインセラーに口紅忘れ       庵
   東京で私の未来だつた人        霞
    ノイズは濡れるラジオのやうに    節
   ペン入れを螢光ペンの飛び出して    な
    半日でとる原付免許         り
   湾岸に熱風吹きて月のぼる       庵
    あさぼらけるけかつぱはねるね    霞
   鍵穴に宇宙卵が挿してある       節
    アンドロメダ忌まで飲み明かす    な
   花冷えの記憶の漬かるホルマリン    り
    万愚節とて行く女坂         庵
ナオ 淡雪に母校の灯りは消えたまま     霞
    色紙に溢る言葉優しき        節
   伊東屋のサンプルとして置かれたる   な
    アニマル柄の還暦祝ひ        り
   漕ぎながら枯野の果ての補陀落へ    庵
    真綿でくるむ貴方の右手       霞
   燃えてゐる麒麟の舌は夜を這ふ     節
    新潮文庫の天アンカット       な
   海底のやうに時間が降り積もり     り
    先祖代々槍の家柄          庵
   望の夜に神と仏と盃を         霞
    波間ただよひ尾花蛸行く       節
ナウ 雁瘡の幼子ふたり寝かしつけ      な
    メビウスの帯クラインの壺      り
   見あげればエデンの方へ雲流れ     庵
    伊予柑むいたままの手のひら     霞
   言の葉を拾いつつ行く花のなか     節
    じやんけんぽんで出づるてふてふ   な


起首:2018年03月27日
満尾:2018年05月14日
捌き:ゆかり

2018年4月28日土曜日

清水径子『哀湖』(1)

『SASKIA』10号の清水径子二百五十句(三枝桂子抄出)から第二句集『哀湖』(昭和五十六年 俳句研究新社)について。

 本筋ではなさそうなところから入ってみる。食べ物の句がなんだか多い。

  まんぢゆうを食べ夏の夜のうす汚れ
  雨音のしみてしらじら寒の餅
  草餅の一つも翔たず老いませり
  餅食うべ体内に芽のやうなもの


 この時期の作者の健康状態など知る由もないのだが、最初の三句は食べる快楽とはあまり縁がなさそうである。それに比べると、いきなり関東・東北方言を上五に持ってきて自身に言い聞かせる感のある最後の句は、生への意志を感じさせる。腹が減ったというよりも、もっと芯のある「芽のやうなもの」。

2018年4月15日日曜日

乱反射するベスト・ヒット・アルバム

 川合大祐『スロー・リバー』の最後。第Ⅲ章は「幼年期の終わり」。これまで見てきたふたつの章と異なり、たぶん章としてのテーマ性はない。最終章として、方向性を限定せずベスト・ヒット・アルバム的に句が集められたものだろう。

  眠るものまさに時間のかたちして
 時間という抽象的な概念を用い「まさに時間のかたちして」という。虚を突かれ、ついし信用してしまいそうになる。

  目の裏を見るように見る月の裏
 目の裏を見ることはできない。そして月は自転の速さだかの関係で、つねに地球に同じ面を向けていて、月の裏を見ることはできない。できないこと同士が力業で「ように」で連結され、読者をだましにかかる。そのもっともらしさは、短詩系ならではのものだ。

  牧場に両親だけが残される
 幼い兄弟が残されるなら、そんな童話がありそうである。ここでは逆転して両親が残される。どんなブラックでノンセンスな結末が訪れるのだろう。

  もう靴は脱がなくていい世紀末
 選択肢のひとつとして人類の滅亡があたまをよぎる。そりゃあ、もう靴は脱がなくていいよね。

  燃える町過去はいつまで過去なのか
 「もはや戦後ではない」と発言したのは誰だったか。過去はいつまでも過去である。

  石鹸をきたないものとしてながす
 確かに。しかし使用前と使用後で区別する呼び名を私たちは持たない。

  一日は十七時間よりながい
 俳句では当たり前の事実に季語などをくっつける「日にいちど入る日は沈み信天翁 三橋敏雄」みたいな作り方があるが、当たり前の事実だけで五七五を使い果たしているのがなんともすごい。
 
  電線の先に聖なる人がいる
 OSI参照モデルみたいなものを思い浮かべるまでもなく、電線を介して私たちの思考はネット上を駆けめぐる。ときとして宗教も恋愛も電線の先の像に過ぎない。

  東京に全員着いたことがない
 本来着くべき一団が着かないのならそれはそれで怖いし、地球人全員とかを思い浮かべればそれはそれで真理である。

  構造化されているので北酒場
 どう考えても「構造化」と結びつかない「北酒場」の、なんというか階層のずれ具合が可笑しい。

 というわけで、硬直した俳句脳にはじつに刺激的な句集なのだった。お求めはあざみエージェントさんまで。

永遠にシニフィエになり得ないシニフィアン

 川合大祐『スロー・リバー』の続き。第Ⅱ章は「まだ人間じゃない」。章のタイトルを見て最初に思い出したのは『妖怪人間ベム』の主題歌中の台詞「早く人間になりたい」だが、どうもそういうことではないらしい。
 
  二億年後の夕焼けに立つのび太
 この句を筆頭に作中人物や作家を題材とした句が果てしなく続き、「ロボットに神は死んだか問うのび太」で章が終わる。章の最後まで読み終えてもう一度、章のタイトルを見たとき、はたと気づく。シニフィアン(記号表現)が永遠にシニフィエ(記号内容)になり得ないように、作中人物ののび太は、たとえ二億年経ってもほんものの人間そのものではない。章全体がそう問いかけている。

  体言であろうタモリという男
 指し示す表現は、ここでも指し示される内容そのものではなく、絶妙なずれが可笑しい。

  そうこれはムーミンですね下顎骨
 物語の世界から逸脱し、化石として解剖学的に扱われるムーミン。

  鳥がいて隠れる犬の吹き出しに
 絵の一部に描かれるのに、通常はそれが絵の一部を隠していることを暗黙的に問われない、漫画の吹き出し。その問うてはいけない約束を問うとこんなことになる。

  翻訳の町にブラック・レイン降る
 井伏鱒二である。「黒い雨」だろうが「ブラック・レイン」だろうが、記号表現が指し示す記号内容は同じはずである。しかしそれが同じではないこと、また記号表現そのものが翻訳不能な価値であることを、私たちは知っている。

(続く)

表記の快楽

 いつの頃からかツイッターでフォローさせて頂いている柳人で川合大祐さんという方がいらして、つねづね句を拝見しては「おお、そうきたか」と感じ入っていたのだが、川柳句集『スロー・リバー』(あざみエージェント。2016年)を上梓されていて、しかも版を重ねているということを最近知り、遅ればせながら拝読した。この句集が川柳界でどのように評価されているのかはまったく存じ上げないし、そもそも私に川柳のことが語れるのかも分からないのだが、感想文をしばらく書きたい。このブログの他の例に漏れず、伝記的な事実はほとんど無視し、章ごとにあたまに映るよしなしごとを綴る。
 
1.表記の快楽
 第Ⅰ章は「猫のゆりかご」。そういえば人に勧められてカート・ヴォネガット・Jrの同題の小説をKindleでダウンロードしたまま、それっきりになっている。読んでいれば見えるものががらっと変わるのかも知れないが、委細構わず進む。

  ぐびゃら岳じゅじゅべき壁にびゅびゅ挑む
 冒頭の一句がいきなりこれだ。「ぐびゃら岳」も「じゅじゅべき壁」も「びゅびゅ」も、経験的になぜか固有名詞であることは分かる。そして実在しないであろうことも。「猫のゆりかご」をやり過ごしたように、もう知らない固有名詞はやり過ごそう。そう、大したことじゃない。

  兄弟よわたしは한が読めません
 読めないと言っているのに、五七五の中に読まれることを想定して収まっている。困ったものだ。ちなみに私も読めないので、その字をブログに転記するのに、ハングルを要素ごとに組み合わせるサイトを使用した。ところで句集の字をよく見ると左上はなべぶたではなく、二になっている。活字上区別があるのかも知らないが、もしかすると本当にだれも読めないのかも知れない。

 この二句のあと、…、()、/、▽、ルビ、空白などを駆使した句群が続く。俳句ではあまりやらないやり方だが、ポストモダン的な素養があればさらに楽しいのだろう。三句ほど紹介しておこう。こんな感じである。

  この紙は白色しかし     空白だ
  あ、の字形崩れるような叫びして
  」あるものだ過去の手前に未来とは「

 句自体が作品として向こう側にあるのではなく、現在進行形で読者にしかけてくるトリックというのも、俳句ではやらないことかも知れない。

  郎読をしてほしいから誤字にする
  振り向いてごらん次の字読まないで

(続く)

2018年3月12日月曜日

脇起こし五吟歌仙・夕陽暫くの巻 評釈


   夕陽暫く塔を捉へる寒さかな      卓
 媚庵さんから頂いた発句は眉村卓句集『霧を行く』より。眉村卓はSF作家として知られるが、じつは赤尾兜子門で、学生時代は俳句雑誌への投稿少年だった由。連衆以外の句を発句とし、脇から連衆が巻く進め方を脇起こしという。

   夕陽暫く塔を捉へる寒さかな      卓
    飛行機雲の凍る静寂       ゆかり
 脇は発句と同季、同じ場所にて挨拶として発句に返す。地球の丸さを感じる寒々とした発句に対し、さらに上空の、今しも音もなく進んでは凍る飛行機雲で付けている。

    飛行機雲の凍る静寂       ゆかり
   中学の裏の近道駆け抜けて      媚庵
 第三は場面転換である。地上に目を移し、近道を駆け抜けている。

   中学の裏の近道駆け抜けて      媚庵
    お札はすべて後ろポケット     なな
 前句だけだと主語がないので読者は句を詠んだ主体が主語だと自動的に思うわけだが、そこを敢えて札入れなど持ったこともない中学生らしき人物像に換えている。

    お札はすべて後ろポケット     なな
   ちりぢりと川波立つを望の月     銀河
 月の座である。すると前句は家出だったのだろうか。月下に川面を眺めている。

   ちりぢりと川波立つを望の月     銀河
    人工芝に蜩の鳴く         りゑ
 まだ早い時刻なのだろうか。河川敷には人工芝が広がり、蜩が鳴いている。

    人工芝に蜩の鳴く         りゑ
ウ  長き夜を二階の父のパター落つ     り
 初折裏折立である。実際の句座であればここからは酒が振る舞われ、羽目をはずす。前句を受け、自宅にしつらえたパター練習用の人工芝を階下から音の情報として詠んでいる。「蜩」「長き夜」という時間の交錯は疵といえば疵だろう。

   長き夜を二階の父のパター落つ     り
    点滅やまぬ着信表示         庵
 二階の気配を感じつつ、階下では音を押し殺した事態となっている。着信はミュートしたまま放置され、息子または娘の濃厚な情事がほのめかされている。

    点滅やまぬ着信表示         庵
   耳たぶを噛む酒の香を漏らしつつ    な
 前句に応えるように濃厚な情事を展開している。恋の座である。

   耳たぶを噛む酒の香を漏らしつつ    な
    愛しきタマに戒名の欲し       河
 前句を猫の甘噛みと捉え、恋離れとしている。

    愛しきタマに戒名の欲し       河
   あやとりの橋もあやしくひるがへり   ゑ
 三途の川が下敷きにあるのだろうか。なんともビジュアルな転じである。

   あやとりの橋もあやしくひるがへり   ゑ
    潮もかなひぬ銀の少女よ       り
 橋といえばサイモンとガーファンクルの「明日に架ける橋」である。「Sail on silver girl/Sail on by/Your time has come to shine」の部分を額田王の「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」と組み合わせ、前句のあやしさを受けている。

    潮もかなひぬ銀の少女よ       り
   馬車が行き犬が馬車追ふ夏の月     庵
 字面だけを追えば、前句は時期が来たと言っているだけで必ずしも出帆ではない。だから馬車で付けている。馬車を追う犬は少女の飼い犬だったのだろうか。折しも夏の月が出ている。

   馬車が行き犬が馬車追ふ夏の月     庵
    胎児のころの夢を見てゐる      な
 寝てしまったのだろうか。夢を見ている。大胆な転じである。

    胎児のころの夢を見てゐる      な
   沫雪の溶けてかすかに音がして     河
 夢の中のことなのか現実のことなのかを曖昧にして玄妙に付けている。ここから花の座に向けて春の句が続く。

   沫雪の溶けてかすかに音がして     河
    試験あがりのダージリンティー    ゑ
 試験がはね、喫茶店でダージリンティーを飲んでいる。前句がそのまま砂糖のイメージとなっている。
 
    試験あがりのダージリンティー    ゑ
   技師長の退官の日の花万朶       り
 学業の試験ではなく、生産する製品の試験に読み替えている。課長、部長、事業部長というマネージメントを含めた出世コースとは別に純粋に技術を究めた人に与えられるポストとして技師長があるが、その退官の日、折しも満開の桜が咲いている。

   技師長の退官の日の花万朶       り
    海鳴り遠き駅に汽車待つ       庵
 余生のはじめを旅に出るのだろうか。遠く海鳴りが聞こえる。

    海鳴り遠き駅に汽車待つ       庵
ナオ ひとりだけギターケースがナイロンで  な
 名残表を通して、捌き人からドシャメシャな句を所望した。「ドシャメシャ」はたぶん山下洋輔語。初折裏よりも一層羽目を外してもらいたく、そういう言葉でお願いした。楽旅だろうか合宿だろうか、駅で汽車を待つのは初老の男ではなく、楽器を持った集団だった。ハードケースが多いなか、ひとりだけナイロン製のセミハードケースを背負っている。

   ひとりだけギターケースがナイロンで  な
    小石蹴とばしゆくハイヒール     河
 そのナイロンのケースの人物は女性で、小石を蹴飛ばして行くのだった。

    小石蹴とばしゆくハイヒール     河
   油揚げふくろにひらくももんがあ    ゑ
 夕食の支度だろうか、油揚げをふくろにひらくとももんがあのようなのであった。

   油揚げふくろにひらくももんがあ    ゑ
    ハットリくんのお面で迫る      り
 ももんがあと言えば、藤子不二雄Aの『忍者ハットリくん』にムササビの術というのがあって、両手両足で風呂敷の四隅を持ち滑空するのだった。ハットリくん自体が無表情を売りにしているキャラクターであるが、ここではさらに「お面」とした。縁日で並ぶセルロイドのイメージ。

    ハットリくんのお面で迫る      り
   化け損ね甲賀の里の樹氷林       庵
 伊賀忍者のハットリくんのライバルは甲賀忍者のケムマキケムゾウであるが、はて、甲賀の里とはどこであったかと検索してみると、滋賀県甲賀市。そんなところに樹氷林ができるのかとも思うのだが、化け損ねなのだからなんでもありである。

   化け損ね甲賀の里の樹氷林       庵
    次来るときは餌を一屯        な
 樹氷林に化けたとはいえ、元は生身の忍者なのだから腹も減る。しかし林にまでなってしまったので、食料の補給も半端ではない。

    次来るときは餌を一屯        な
   浮世絵はコピーアートのさきがけと   河
 コピーアートとは、デジタル大辞泉によると「コピー機を利用した現代美術の一つ。たくさんのコピーを組み合わせて、新しいイメージを作り上げる。コピー機とコンピューターを連動させ、さまざまなイメージのコピーと画像を融合させることもできる。」とある。もしかすると、打越から分身の術を連想したのかもかも知れない(余談ながら、銀河さんは白土三平のかなりの読者である)。が、打越と結びつけて読むのは正しくないので考え直すと、寝食を忘れて制作に没頭する浮世絵作家の様子が見えてくる。

   浮世絵はコピーアートのさきがけと   河
    記念硬貨でお釣りを貰ふ       ゑ
 硬貨というのも、まあ版画のようなものかも知れない。プレミアがつかないほど大量に発行された、ありがたみのない記念硬貨なのか。あるいはそういうことにまったく関心がない人物像なのか。

    記念硬貨でお釣りを貰ふ       ゑ
   段違ひ平行棒に小鳥来る        り
 オリンピックのイメージで「段違ひ平行棒」としたが、ときどき普通の公園の遊具として段違い平行棒を見かけることがある。そんなもの、一般市民が使うのだろうか。月の座へ向かいここから秋の句が続く。

   段違ひ平行棒に小鳥来る        り
    軍服を着た斜めの案山子       庵
 急激に政局が展開しているのでどうなるか分からないが、媚庵さんがこの句を付けた時点では、二〇二〇年の東京オリンピックは、中止になった一九四〇年の幻の東京オリンピックとかなりイメージが重なるものと多くの人が予感していた。暗い不吉な案山子である。

    軍服を着た斜めの案山子       庵
   こめかみに栗名月の貼り付いて     な
 月の座である。同季の中では時間軸を戻れないので、旧暦九月十三日である後の月の異名である栗名月としている。こめかみに貼るといえば膏薬であるが、意表をついて栗名月を貼り付けている。頭が痛いのだ。

   こめかみに栗名月の貼り付いて     な
    憂世なんめり小夜の中山       河
 銀河さんの自解によれば「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山 西行」に基づいていて、小夜の中山は旧東海道の掛川市にある急峻な坂道とのこと。まことに頭が痛い。「なんめり」は断定の助動詞「なり」の連体形+推定の助動詞「めり」からなる「なるめり」の撥(はつ)音便で、…であるようだ。…であるように見える。

    憂世なんめり小夜の中山       河
ナウ 煎餅の袋にくわりんたうを詰め     ゑ
 名残裏からは挙句に向かいしらふに返った感じで進行する。「煎餅の袋」で検索すると業者向けのサイトに飛び、酸素バリア性に優れ、とか、突刺強度に強く、とか、私のボキャブラリーにない言葉が並ぶ。便利すぎる世の中も考えものである。それはさておき、かりんとうを小分けにしてまだ食べない分がしっけないようにしているのだろう。憂世であるが、かりんとうは食べる。

   煎餅の袋にくわりんたうを詰め     ゑ
    螺髪の如き鉄瓶の肌         り
 折しも湯が沸いている。鉄瓶の表面の突起は大仏の螺髪のようである。

    螺髪の如き鉄瓶の肌         り
   自転車で帰れば空にオリオン座     庵
 自転車での帰り道、見上げるとオリオン座が見えるのであった。どうでもいい話だが、角川の合本俳句歳時記では「冬の星」の傍題として「寒オリオン」とある。「オリオン座」では季語とみなさないつもりらしい。

   自転車で帰れば空にオリオン座     庵
    楽屋見舞のタヲルやはらか      な
 楽屋見舞の品がタオルということは、そんなに売れている人ではないのだろう。アルバイトで生計を立てながら自転車で芝居小屋まで行く劇団員を思い浮かべる。なお、名残裏四句目であるが、春の句を特に要求しなかったのは、春の短句が往々にして挙句のような雰囲気を帯びてしまうからである。

    楽屋見舞のタヲルやはらか      な
   湯煙に見え隠れして花万朶       河
 花の座である。タヲルからの連想で湯煙が導かれている。露天風呂から桜が見える。

   湯煙に見え隠れして花万朶       河
    うまし大和に風船の旅        ゑ
 挙句である。かつて風船おじさんという人が消息不明となり話題となったが、「風船の旅」は人間が風船で飛行するという危険を冒すものではなく、漂う風船を旅と見立てたものだろう。あるいは、熱気球のことを詩的に「風船」と詠んでいる可能性もないわけではない。「うまし大和」は万葉集の「うまし国ぞ秋津島大和の国は」に基づいている。発句と同じく見上げたアングルでありながら、構造物を配した発句に対し、挙句では広々とした景を古語を取り入れながら詠んで、対比させつつ余情のあるものとしている。

2018年3月11日日曜日

脇起こし五吟歌仙・夕陽暫くの巻


   夕陽暫く塔を捉へる寒さかな    眉村卓
    飛行機雲の凍る静寂       ゆかり
   中学の裏の近道駆け抜けて      媚庵
    お札はすべて後ろポケット     なな
   ちりぢりと川波立つを望の月     銀河
    人工芝に蜩の鳴く         りゑ
ウ  長き夜を二階の父のパター落つ     り
    点滅やまぬ着信表示         庵
   耳たぶを噛む酒の香を漏らしつつ    な
    愛しきタマに戒名の欲し       河
   あやとりの橋もあやしくひるがへり   ゑ
    潮もかなひぬ銀の少女よ       り
   馬車が行き犬が馬車追ふ夏の月     庵
    胎児のころの夢を見てゐる      な
   沫雪の溶けてかすかに音がして     河
    試験あがりのダージリンティー    ゑ
   技師長の退官の日の花万朶       り
    海鳴り遠き駅に汽車待つ       庵
ナオ ひとりだけギターケースがナイロンで  な
    小石蹴とばしゆくハイヒール     河
   油揚げふくろにひらくももんがあ    ゑ
    ハットリくんのお面で迫る      り
   化け損ね甲賀の里の樹氷林       庵
    次来るときは餌を一屯        な
   浮世絵はコピーアートのさきがけと   河
    記念硬貨でお釣りを貰ふ       ゑ
   段違ひ平行棒に小鳥来る        り
    軍服を着た斜めの案山子       庵
   こめかみに栗名月の貼り付いて     な
    憂世なんめり小夜の中山       河
ナウ 煎餅の袋にくわりんたうを詰め     ゑ
    螺髪の如き鉄瓶の肌         り
   自転車で帰れば空にオリオン座     庵
    楽屋見舞のタヲルやはらか      な
   湯煙に見え隠れして花万朶       河
    うまし大和に風船の旅        ゑ


発句:眉村卓句集『霧を行く』より
起首: 2018年01月10日
満尾: 2018年02月26日

2018年1月7日日曜日

清水径子『鶸』(2)

『SASKIA』10号の清水径子二百五十句(三枝桂子抄出)から第一句集『鶸』の続き。

   咲きとほす白梅のほか夜に沈む 清水径子
   昼の月白鷺の死所照らすため
   乳房もつ白鷺か森に隠れたり
 抄出では三句並んでいる。清水径子にとって白は特別な色のようだ。『鶸』(の抄出)には他に「霜白し死の国にもし橋あらば」「短き世ひたすらに白さるすべり」「弟に白梅わたす夢の中」「しばらくは白い時間の玉霰」があり、多くは冥界に通じるモノトーンの味わいを句集全体に添えている。
 白鷺が出たところで鳥はというと、句集のタイトルである鶸は抄出中にはない。他には「恋雀雪中に身を灯しあふ」「口中に鶫の一肢ひびくなり」「夏鶯焚きて火となるもの探す」「寒凪やはるかな鳥のやうにひとり」「影の樹に影の小鳥が冬の花」「一生のしばらくが冴え夏鶯」がある。多くは単なる取り合わせではなく、刹那的な哀感がある。ちなみに鶫が禁猟になったのは昭和四十五年のことで、それまでは普通に食用だったらしい。
 
   生と死とやはらかき苜蓿に座し
 例えば逢引で男女がやわらかい苜蓿に座すのなら話は分かる。だが、清水径子はそのようにして「生と死と」が苜蓿に座しているのだと詠む。しかも五五七のリズムによる異質感に乗せて。死が生の世界に恋人同士のように普通に入り込み隣り合っている死生観こそは、清水径子ならではの句境だろう。

   一滴の春星山に加はれり
 死という不在を強く意識するとき、「ない」の反対は「ひとつある」だろう。先の記事で引用した数のほとんどは一である。一への固執は、生きていることを詠むことに通ずる。掲句では、星を一滴と数えることにより、景に不思議な生命感を与えている。


   寒の暮千年のちも火の色は
 現れる数字でいちばん大きいものは千である。他に「夏の蝶仏千体水欲っし」という句もある。掲句、肯定的にも否定的にもバイアスを加えていない「火の色」は、おそらく人類の文明ということだろう。「も」による希求は下五の終わりで唐突にぶち切られている。「仏千体」の方は、悟りを開いた仏ではなく、死者だろう。夏の蝶の生命感がはかない。

 清水径子の俳句は、見えたものを見えた通りに表現する類いのものとはぜんぜん異なる。第一句集から、独特の死生観をいかに句に定着させるかの格闘が始まっている。

(続く。次回は第二句集『哀湖』)
 

2018年1月6日土曜日

清水径子『鶸』(1)

 まずは『SASKIA』10号の清水径子二百五十句(三枝桂子抄出)から第一句集『鶸』(昭和四十八年 牧羊社)六十一句。抄出者の感性にもよるのかもしれないが、かなりの量の数字に驚く。一丁、一つ、ひとり、二月、一本松、千年、一本、千体、一粒、一肢、八月、一日、二十数年前、一滴、二月、一生。これが重大な意味を帯びてくるのかは保留ながら事実としてまずとどめておこう。

   風ときて寒柝消ゆる鏡かな 清水径子
 抄出はこの句から始まる(実際に句集の中で巻頭なのかは分からない)。子音kで頭韻を揃え緊張感を湛えた幻想的な句である。この語順で書かれると、寒柝の音は鏡のなかへ消えて行ったように読める。

   目のみえぬ魚がみひらきゐる晩春
   地虫鳴く目の中くらくあたたかし
 抄出では二句並んでいるが、いずれも目という視覚の器官を素材に、目にみえないものを把握しようとしている感がある。

   元日のきこゆるものをひとり聞く
   亡弟に赤き花挿す二月かな
   誰か来よ一本松の雪雫
 抄出では三句並んでいる。ここまで来ると、清水径子にとって聴覚が特別の位置を占めているようにも思われてくる。二句目は生前の思い出を語っているのではなかろう。第一句集にして、死者が自在に立ち現れる清水径子ワールドが始まっているのだ。そして、亡弟を手がかりとすれば、前句の「ひとり」、次句の「一本松」がなんとも意味を帯び始める。
 
(続く)

2018年1月5日金曜日

清水径子ふたたび

 昨年の二月にこのブログで清水径子のことをいろいろ書いたところ、三枝桂子さんから『SASKIA』という個人誌を頂いた。
(頂いたのは昨年の六月のことで、まったく申し訳ない限りである。)






 『SASKIA』10号は全編清水径子の特集で、大きな記事としては以下がある。

◆特集 清水径子の世界
 清水径子二百五十句
◆特別寄稿
 評論 まろびてつかむ抒情の水脈 皆川 燈
◆評論 輝けるこの世の俳句    三枝桂子

 たかがブログの記事に目をとめて、このような本格的な個人誌をお送り頂き、感謝に堪えない。私はたまたま第四句集『雨の樹』を手に取り、読んだままブログに書いた。『雨の樹』以外を読んだこともなければ、清水径子の生涯についてもほとんど知らなかった。だから、この個人誌は大いにありがたい。

 また、しばらく清水径子について書くことにしたい。

2018年1月4日木曜日

山田露結『永遠集』(最終回)

 なにしろ豆本で四十一句しか収録されていないのだから、もう語りすぎだろう。最終回とする。

   しあはせをおぼへてゐたり蛇出づる 露結
 ひとつ前の書き込みで『ホームスウィートホーム』とそのつけたり俳句自動生成ロボット・裏悪水による「悲しき大蛇」について触れた。思えば「悲しき大蛇」は露骨なエログロで、山田露結の感性の一部をロボットに押しつけて代わりに詠ませ、「ロボットのやっていることですから」としてしまった感がある。その分『ホームスウィートホーム』本体は清純であったが、今後将来にわたって山田露結が負い続けなければいけないのは、「悲しき大蛇」性の取り込みだろう。『永遠集』に蛇は二匹潜んでいる。掲句ともう一匹は「穴よりも大きな蛇が穴に入る」である。どちらの句も古典的な隠喩により性愛を詠んでいる。また蛇こそ出ないが「男根におもてうらある梅雨湿り」「きつねのかみそりよく燃えさうな老女ゐて」「襟巻を外さぬ首と愛し合ふ」といった句群は、まさに「悲しき大蛇」性というべきものだろう。

   死んだことのない僕たちに夏きざす
 『永遠集』には死も潜んでいる。掲句以外には「祝福のやうな死ががあり花氷」「死ぬ夢の中にも冬菜抱く場面」がある。

 『永遠集』に「永遠」という言葉を詠み込んだ句はない。これまで見てきた妻や過度の詠嘆やエログロや死の、そのすべてが永遠だということだろう。「悲しき大蛇」にまたがり山田露結はどこに向かうのか。今後がますます楽しみである。

(了) 

山田露結『永遠集』(3)

   さびしいぞさびしいぞ鶯餅食らふ 露結
 山田露結といえばリフレインの使い手としても知られるが、『永遠集』においても四十一句中リフレインの句はなんと十句に及ぶ。しかも掲句のように主観的な形容詞を繰り返したものとして他に「花菜漬やさしい人がやさしすぎる」「木犀や悲しい歌がまだ悲しい」がある。
 通常の俳句の表現としては直情的に過ぎるが、このあたり「淋しいぞ一人五本のゆびを開いて見る 放哉」「まつすぐな道でさみしい 山頭火」あたりのより自在な表現から得たものがあるのではないか。第一句集『ホームスウィートホーム』のつけたり「悲しき大蛇」が、俳句自動生成ロボット・裏悪水による自由律俳句だったことを思い出しておこう。 

2018年1月3日水曜日

山田露結『永遠集』(2)

   もう春が来てゐるガラス越しに妻 露結
 総じて山田露結の句に妻を題材としたものは多い。かつて下五がすべて「夢の妻」の連作もあった。『永遠集』にも妻の句は三句収められている。俳句という作品に昇華されたものなので現実の家庭に立ち入るわけではないが、作品に現れる妻はどこか遠い。掲句、作者と妻はガラス越しで、姿が見えるのに仕切られている。どちらかは庭先の肌寒さの中にいて、どちらかは暖房の効いた室内にいる。妻が外にいて作者は室内からその様子を見て春を感じているのか、作者が外にいて春を感じつつ、室内の妻を見ているのか。

   薔薇園に行く妻と行く必ず行く
 約束をすっぽかしたことがあったのだろう。それでこういうただならぬリフレインになっているのだろう。


   妻の声で低く囁く毛布かな
 妻は人格も外観もなく、ただの毛布となっている。くらやみに、季語から喚起されるぬくもり。官能的な句のようでいて、根源的な問いかけを持ったおそろしい句だとも言えよう。

2018年1月2日火曜日

山田露結『永遠集』(1)

 しばらく山田露結『永遠集』について書く。まずは写真をご覧頂きたい。





大きさの比較のためにホチキスの針の箱を並べたが、いわゆる豆本である。豆本に四十一句とあとがきが収められている。発行所は文藝豆本ぽっぺん堂、発行者は先日別の豆本で国際的な賞をとった佐藤りえさん。りえさんは最近NHKの朝の情報番組にも出演されていた。私が知らないだけで、豆本は流行っているらしい。
 『永遠集』はこんな句から始まる。

   右利きのギキキは春を待つ調べ 露結
 山田露結は知る人ぞ知るブルース・ギターの名手でもある。それを念頭におけば、右利きのミは四拍目の裏に置かれ、粘っこい三連のリズムのうねりとともに強拍で耳に飛び込んでくるのはギキキなのだ。ブルースが春を待っている。

(続く)

2018年1月1日月曜日

今年の目標

 なんかこう、だらだらっとブログを続けたいのです。切れっ端のようなものを毎日、少しずつ。毎年、望みが高すぎて冬休みが終わると続かない…。
 読みかけの本のこととか、練習中の曲のこととか、中身の入った缶詰の捨て方とか、そんなことを今年は少しずつ書いて行きたいです。

 さしあたり、今年の目標は「ひとりのときはお酒を飲まない」です。