週刊俳句の佐山哲郎『月姿態連絡乞ふ』に対する拙感想文『月真下』から派生した連句の一巻目。
上弦の月だよお尻が右だもの 佐山哲郎
写る水面も西を向く秋 ゆかり
朝霧の満つるカリブを帆で分けて 痾窮
着信音はボブ・マ-リーにする 七
自販機にぐわんばつてねと励まされ らくだ
帝都をめぐる鉄管ビール ぐみ
ウ 議事堂のはつきり見える秘密基地 楚良
覗かれてゐる気がして燃える 苑を
ああ誰ぢや姫が枕の電動具 なむ
途切れがちなる根岸の霊波 ゆ
遊泳ヲ禁ズの文字に赤き錆 あとり
跣足にからむ鉄鎖を越えて 窮
モ-リヤック開けば蝮巣を作り 七
あつといふ間に玉子売り切れ だ
ミネソタはみえないさうだ夜の飛行 み
墓だけ残る村にさへづり 良
御社の裏にまはれば花ふぶき を
双子姉妹が吹くしやぼん玉 む
ナオ ゆつくりと堀部安兵衛立ち上がり ゆ
猫が窓辺のガンプラまたぐ あ
国境の橋を落して逃延びよ 窮
四番車両に忘れた眼鏡 七
針に糸通すばかりがままならず だ
帰りはこはい天神様へ み
手のひらの人をのみ込むおまじなひ 良
ノーベル賞に着る燕尾服 を
シャガールの青の発光してゐたる ゆ
窓に空泣くごとき一滴 む
駐車券をお取り下さい月天子 あ
地下の売場に松茸を買ふ 窮
ナウ 虫愛づる姫を捜して六本木 七
大使は何も見ざる聞かざる だ
まぼろしの湖くれなゐにかゞやきて を
燃えゆくものに蝶のしかばね 良
云ふなれば一会の花の娑婆陀婆陀 み
帽子を空へ投げる卒業 あ
起首:2011年10月10日(月)
満尾:2011年11月19日(土)
捌き:ゆかり
2011年11月6日日曜日
「し」について
助動詞「き」の連体形「し」について、俳句での誤用云々が取り沙汰されて久しいが、岩波古語辞典の基本助動詞解説の大胆な記載について、触れておく。
き・けりは、回想の助動詞である。多くの文法書では、これを過去の助動詞という。それはヨーロッパ語の文法の呼称に倣ったものと思われるが、現代のヨーロッパ人と古代の日本人との間には、時の把握の仕方に大きな相違がある。ヨーロッパ人は、時を客観的な存在、延長のある連続と考え、それを分割できるものと見て、そこに過去・現在・未来の区分の基礎を置く。しかし、古代の日本人にとって、時は客観的な延長のある連続ではなかった。むしろ、極めて主観的に、未来とは、話し手の漠とした予想・推測そのものであり、過去とは、話し手の記憶の有無、あるいは記憶の喚起そのものであった。それ故、ここに「き」「けり」について過去の語を用いず、回想という。むしろ、進んでこれは記憶、あるいは気づきの助動詞というべきであると思われる。日本人は、動詞の表わす動作・作用・状態について、それが完了しているか存続しているか、確認されるかどうかを「つ」「ぬ」「り」「たり」で言い、ついで、それらに関する記憶の様態を「き」「けり」で加えた。それが、日本人の時に関する表現法であって、ヨーロッパ語で示される時の把握の仕方とは根本的に相違がある。
以上を力説した上で、「き」と「けり」について、解説がある。かいつまんで紹介する。
き 意味は「き」の承ける事柄が、確実に記憶にあるということである。記憶に確実なことは、自己の体験であるから、「き」は「だった」と自己の体験の記憶を表明することが多い。しかし、自己の体験し得ない、または目撃していない事柄についても用いる。例えば、みずから目撃していない伝聞でも、自己の記憶にしっかりと刻み込まれているような場合には「き」を用いて「…だったそうだ」の意を表現した。
けり 「けり」は、「そういう事態なんだと気がついた」という意味である。気づいていないこと、記憶にないことが目前に現れたり、あるいは耳に入ったときに感じる、一種の驚きをこめて表現する場合が少なくない。それ故「けり」が詠嘆の助動詞だといわれることもある。しかし「けり」は、見逃していた事実を発見した場合や、事柄からうける印象を新たにしたときに用いるもので、真偽は問わず、知らなかった話、伝説・伝承を、伝聞として表現する時にも用いる。
大野晋氏の説が通説なのか研究者ではない私には知るところではないが、時制ではないと言い切ったことによって、大きく開けるものがあるような気がする。俳句実作者としての私は、♪「これでいいのだ~」と思うばかりである。「けり」など、まさにこれは切れ字そのものではないか。
【追記】大野晋氏の学説が学界でどのような位置をしめているかについては、週刊俳句の大野秋田さんの記事で紹介されている井島正博氏による『古典語過去助動詞の研究史概観』をご覧下さい。文内のムード機能説として位置づけられています。
き・けりは、回想の助動詞である。多くの文法書では、これを過去の助動詞という。それはヨーロッパ語の文法の呼称に倣ったものと思われるが、現代のヨーロッパ人と古代の日本人との間には、時の把握の仕方に大きな相違がある。ヨーロッパ人は、時を客観的な存在、延長のある連続と考え、それを分割できるものと見て、そこに過去・現在・未来の区分の基礎を置く。しかし、古代の日本人にとって、時は客観的な延長のある連続ではなかった。むしろ、極めて主観的に、未来とは、話し手の漠とした予想・推測そのものであり、過去とは、話し手の記憶の有無、あるいは記憶の喚起そのものであった。それ故、ここに「き」「けり」について過去の語を用いず、回想という。むしろ、進んでこれは記憶、あるいは気づきの助動詞というべきであると思われる。日本人は、動詞の表わす動作・作用・状態について、それが完了しているか存続しているか、確認されるかどうかを「つ」「ぬ」「り」「たり」で言い、ついで、それらに関する記憶の様態を「き」「けり」で加えた。それが、日本人の時に関する表現法であって、ヨーロッパ語で示される時の把握の仕方とは根本的に相違がある。
以上を力説した上で、「き」と「けり」について、解説がある。かいつまんで紹介する。
き 意味は「き」の承ける事柄が、確実に記憶にあるということである。記憶に確実なことは、自己の体験であるから、「き」は「だった」と自己の体験の記憶を表明することが多い。しかし、自己の体験し得ない、または目撃していない事柄についても用いる。例えば、みずから目撃していない伝聞でも、自己の記憶にしっかりと刻み込まれているような場合には「き」を用いて「…だったそうだ」の意を表現した。
けり 「けり」は、「そういう事態なんだと気がついた」という意味である。気づいていないこと、記憶にないことが目前に現れたり、あるいは耳に入ったときに感じる、一種の驚きをこめて表現する場合が少なくない。それ故「けり」が詠嘆の助動詞だといわれることもある。しかし「けり」は、見逃していた事実を発見した場合や、事柄からうける印象を新たにしたときに用いるもので、真偽は問わず、知らなかった話、伝説・伝承を、伝聞として表現する時にも用いる。
大野晋氏の説が通説なのか研究者ではない私には知るところではないが、時制ではないと言い切ったことによって、大きく開けるものがあるような気がする。俳句実作者としての私は、♪「これでいいのだ~」と思うばかりである。「けり」など、まさにこれは切れ字そのものではないか。
【追記】大野晋氏の学説が学界でどのような位置をしめているかについては、週刊俳句の大野秋田さんの記事で紹介されている井島正博氏による『古典語過去助動詞の研究史概観』をご覧下さい。文内のムード機能説として位置づけられています。
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