2016年12月21日水曜日

四吟歌仙夜汽車の巻評釈

   夜汽車いま枯野をはしる汽笛かな  媚庵

 蒸気機関車の時代を感じさせる発句である。夜景を枯野と断じているが、その時代の枯野であれば灯りひとつないから、じつは枯野なのか冬田なのかも分からないのではないか。はたして詠み手はどこにいるのか。

    窓の結露にポマードの跡    ゆかり

 脇は発句と時間・空間を共有して交わす挨拶であるが、ネット連句の常で実際に発句の詠み手と同じ場所にいる訳ではない。ひとつの読みとしてうたた寝の夢の中と断じた。夢は枯野をかけめぐる。汽笛で我に返ってみれば、窓にべったりとおのれの整髪料がついている。

   銀幕の男は銜へ煙草して      苑を

 そんな情けない序章から場面は変わり、銀幕の男は煙草を咥えている。

    パチンコ台に秋の涼しさ     ぐみ

 さらにカメラが引くと咥え煙草の男はパチンコをしている。銀幕の銀からパチンコ玉が導かれ、秋の涼しさにふさわしい硬質な雰囲気が感じられる。

   工場の石塀つづく月明り       庵

 夜が更けて、延々と続く工場の石塀を月明かりが照らしている。パチンコの喧噪から転じている。

    休む間もなく匂ふ木犀       り

 「工場」から「休む間もなく」が導かれているが、残業する労働者が出てきそうなところを裏切って「匂ふ木犀」としている。



ウ  走つても走つてもまた同じ場所    を

 「休む間もなく」から「走つても走つても」が導かれ、なにやら混迷を極めている様相である。

    はつかねずみを少女目で追ひ    み

 人間ならば混迷を極めている様相であるが、回し車に読み替えてさらに、それを見ているかたちで少女を登場させた。恋の呼び込みであったか。

   桟橋のヨット真っ赤に塗りかへて   庵

 恋の呼び込みに答えて若大将的青春性を描いたものか。

    還暦といふこそばゆきもの     り

 ところが恋を先送りにして、「真っ赤」から還暦とした。

   膝枕して耳掻きを待つてをり     を

 「こそばゆきもの」から「耳掻き」が導かれ、ここでめでたく恋の座となる。

    焦らされて知る山の頂       み

 「山の頂」は性的絶頂の喩だろう。「耳掻き」と「焦らされて」のつながり具合のむずむず感がなんとも言えない。

   普羅の句を九十九句暗唱す      庵

 山岳俳句の雄・前田普羅を持ち出し恋の座を離れている。なぜ九十九句なのかは、七音に収まるからという理由だけでなく意味ありげである。

    残りひとつに急かされもして    り

 俳句の世界で前句を受け止めようとするとどうしても楽屋落ちとなるのを避けられないため、意味ありげな「九十九」をもとに次句に委ねる遣句としている。

   靴脱げばひだり縞柄みぎは無地    を

 ちんばな靴下の柄によほど急かされた感がある。

    草間彌生の水玉に飽き       み

 「縞」「無地」の続きで「水玉」の「草間彌生」を出している。次が花の座の場面で、「草間彌生」という人名が効いている。

   駅前にサラ金ならぶ花の雲      庵

 日頃気にしていなかったものが、急に気になることがある。駅前に並ぶサラ金の店舗もそんなもののひとつである。前句の「飽き」とじつに微妙なところでつながっているような気がする。なんだか妙に覚醒された花の座である。

    春風に乗り逃げるのは今      り

 サラ金に手を出し、日常から逃げよう。そんな気分の春風だ。


ナオ 迷ひたる偽遍路かと鈴の音      み

 日常からの脱出にはいろいろあるが、春の季語で遍路を持ってきた。春の句は三句続けるルールだが、「草間彌生」は彌生ではあるが春なのか。始まりが悩ましいので、終わりもどちらにもとれるよう「偽遍路」としている。「偽」だし「迷ひたる」だし、作中主体はぜんぜん脱出できていなくてなかなか不憫である。

    生きものもゐる遺失物棚      を

 前句では錫杖だった「鈴の音」を猫と捉えたものか。遺失物棚に動く暖かいものがいる意外性が楽しい。

   傘といふ傘神宮の宙を舞へ      り

 釣った蛸みたいな別の生き物を出そうかとも思ったが、転じることにした。遺失物と言えば傘。傘といえばヤクルトスワローズの応援。東京中の遺失物の傘が神宮球場を埋め尽くし舞う。

    青嵐吹く午後の城跡        庵

 ヤクルトスワローズ的色彩を受けつぎ地続きに江戸城址を詠んでいる。

   カステラの名前の由来短夜に     み

 カステラはポルトガル伝来なので、殿様も食したものだろう。寝物語に名の由来など語ったものか。

    3時のあなたを知つてますか    を

 文明堂の有名なCMをもとにしつつ往年のワイドショー番組と組み合わせ、さらに口語体で意表をついている。

   逢ひみての後もころころしてゐたる  り

 思春期の記憶として、男子が「知る」には性的関係を結んだという意味もあるんだと力説していたのを、甘酸っぱさとともに思い出す。権中納言敦忠を本歌取りしている。

    母の形見の歌留多の絵札      庵

 前句から「母」が出てくるのが、なんだかすごい。現実は現実だ。

   漱石の髭のみ財布より抜かれ     み

 ある意味、母の財布ほど現実的なものはない訳だが、紙幣の肖像から髭のみ抜くという、俳諧的としかいいようがない付け句になっている。

    鏡磨くに袖を使ひて        を

 『吾輩は猫である』の登場人物の水島寒月や、実在の鏡子夫人が頭をよぎる。

   満月はまつたきままに剥落す     り

 月の座の前に水島寒月的なものを出され、いささか困った。袖を使って磨いたらそのまま剥落した、という景を思い浮かべた。

    アポロ計画はるかなる秋      庵

 地球に帰還後のぼろぼろになった船体は、まさに「剥落」だろう。
 


ナウ 東西の神話ひもとく文化の日     み

 アポロ計画の時代はまさに冷戦の時代だった。「東西」の付き具合がじつによい。

    はしばみ色に翳る山々       を

 はしばみ色は瞳の色。西洋の神の瞳の色に山々が翳りゆく。

   腹這ひの台車から撮る脚線美     り

 荘厳な山の風景から、活動写真の現場に転じる。

    五番街まで燭台はこぶ       庵

 この五番街はどこの五番街だろう。チャイナドレスが似合う妖しげな中華街かも知れない。

   外つ国の人のほどけて花吹雪     み

 燭台の灯に照らし出され、異国の人がほどけるさまが花吹雪と同一化する。

    かひやぐらとは見果てぬ夢か    を

 そんなさまはまるで見果てぬ夢さながらの蜃気楼のようではないか。
 

2016年12月15日木曜日

四吟歌仙 夜汽車の巻

掲示板で巻いていた連句が満尾。

   夜汽車いま枯野をはしる汽笛かな  媚庵
    窓の結露にポマードの跡    ゆかり
   銀幕の男は銜へ煙草して      苑を
    パチンコ台に秋の涼しさ     ぐみ
   工場の石塀つづく月明り       庵
    休む間もなく匂ふ木犀       り
ウ  走つても走つてもまた同じ場所    を
    はつかねずみを少女目で追ひ    み
   桟橋のヨット真っ赤に塗りかへて   庵
    還暦といふこそばゆきもの     り
   膝枕して耳掻きを待つてをり     を
    焦らされて知る山の頂       み
   普羅の句を九十九句暗唱す      庵
    残りひとつに急かされもして    り
   靴脱げばひだり縞柄みぎは無地    を
    草間彌生の水玉に飽き       み
   駅前にサラ金ならぶ花の雲      庵
    春風に乗り逃げるのは今      り
ナオ 迷ひたる偽遍路かと鈴の音      み
    生きものもゐる遺失物棚      を
   傘といふ傘神宮の宙を舞へ      り
    青嵐吹く午後の城跡        庵
   カステラの名前の由来短夜に     み
    3時のあなたを知つてますか    を
   逢ひみての後もころころしてゐたる  り
    母の形見の歌留多の絵札      庵
   漱石の髭のみ財布より抜かれ     み
    鏡磨くに袖を使ひて        を
   満月はまつたきままに剥落す     り
    アポロ計画はるかなる秋      庵
ナウ 東西の神話ひもとく文化の日     み
    はしばみ色に翳る山々       を
   腹這ひの台車から撮る脚線美     り
    五番街まで燭台はこぶ       庵
   外つ国の人のほどけて花吹雪     み
    かひやぐらとは見果てぬ夢か    を


起首:2016年11月21日(月)
満尾:2016年12月15日(木)
捌き:ゆかり

2016年12月14日水曜日

(13) 打率を上げる

 今回はいい句を作るのではなく駄目な句を排除することを、ロボットなりに考えたい。

 今のところ、季語だろうがただの名詞だろうが意味判断せずに対等に現れる衝突の可笑しさを狙っている訳だが、いくらなんでもこれは駄目だろうという句ができることがある。

  初雪の雨の鏡を見つめけり   はいだんくん
  しづかなる小春の夜に遅れをり


 どちらもだいたい同じ理由で駄目なのだが、「初雪の雨」も「小春の夜」も衝突を面白がる以前にあり得ない。天気に違う天気をぶつけてはいけないし、明らかに昼を詠んだ「小春」に「夜」をぶつけてはいけないのだ。

 どうしたものか。大抵の歳時記には時候、天文、地理、生活、行事、動物、植物といったカテゴリーがあるが、大ざっぱすぎて役に立たない。「小春」は時候だが、時候だというだけでは「小春の夜」を排除できない。「冬の星」は天文だが、明らかに夜だ。雨の日に「山眠る」とは詠まないだろう。季語に限らずある種の語は、裏情報として天気や時間帯を明確に特定しているのだ。であれば、timeとかweatherとかの属性を季語や名詞に持たせて、その特定のものに対しては「昼」とか「雨」とかあらかじめ設定するしかないだろう。

 連句では自他場という考え方がある。前句が自分を詠んだものなら付句は他人を詠む。前句が他人を詠んだものなら付句は場所を詠む。このようにずらして付けることにより衝突を避けるという知恵だが、それをここでも応用しよう。天気を特定する語が出たら、もう天気の語は出さない。時間帯を特定する語が出たらもう時間帯を特定する語を出さない。季語と名詞間だけでなく、名詞間でもそれができれば、極端な話、「昼の夜」みたいなものは出現しなくなり、ぐんと打率は向上するはずだ。

 また、そのような属性を保持していれば、発展型として時刻や天気を外部から取得することにより、まさに今の時刻や天気に対して即吟することができるのではないか。なんだか無駄にすごい。

(『俳壇』2017年1月号(本阿弥書店)初出)

2016年11月14日月曜日

(12) あなたとは違うんです

 前号では旧作のロボット群のロボット群のうち、単機能で実験的なものについて紹介した。うち「忌日くん」に関しては、二〇一二年に週刊俳句で西原天気さんと私にて対談を行った(二物衝撃と俳句ロボット「忌日くん」の爆発力)。対談の最後で私は、以下のように発言した(部分的な引用で文意が通じない部分のみ多少改稿)。

 どこかの大学あたりでは真剣に俳句自動生成を研究されている方が多分いらして、そういう分野では日本語形態素解析技術やテキストマイニング技術を駆使して自己学習機能や共起表現機能を有するものがあるのではないかと想像します。今回はそのような先端技術に無縁なおもちゃにすぎない私のロボットを取り上げていただき、ありがとうございました。私のおもちゃではなく、先端技術の風を感じるような真の俳句自動生成ロボットの記事をいつの日か「週刊俳句」で拝見したいものです。

 それから四年経つのだが、いまだに「私、大学で真剣に俳句自動生成を研究しています」という方には出会っていない。たぶん産業への応用の可能性が少なく、費用対効果に見合わないのだろう。自己学習機能については、俳句は囲碁や将棋と異なり勝ち負けがはっきりしないので、なにを成功体験として蓄積するのかが悩ましい。テレビ番組の評判解析なら、放送後ネット上を片っ端からその番組を示すキーワードでサーチして、それとともに用いられる特徴的な語彙を解析し、好評/不評を判断できようが、個々の俳句作品に対して、そのようなフィードバック解析を試みることは現実的には難しいだろう。

 金に糸目をつけないなら、この際、大脳生理学分野での研究にも期待したい。人間が俳句を読んだとき、脳内でなにが起きるのか。被験者をふたつのグループに分け同じ俳句を読ませたときに、片方のグループでは脳内麻薬物質が大量に分泌され、もう片方はそうではなかった、なんて事実が科学的に説明できるなら、同じ傾向の人が同じ結社や同人に集まることが説明できるのかも知れない。そうなると科学のお墨付きで互いに、あなたとは違うんです、とか言うのだろう。でも、そんなことは解明されない方が、平和に暮らせるんだろうなあ…。

(『俳壇』2016年12月号(本阿弥書店)初出)

【追記】
 2018年2月26日にNHKの番組でAI俳句が紹介された。北海道大学を中心とした「札幌AIラボ」で研究が進められているとのことである。

2016年11月5日土曜日

『鏡』二十一号を読む

  夕涼し男女の坂は交わらず     越智友亮
 しばしば登山道や参道の勾配で急坂を男坂、ゆるい坂を女坂と呼ぶが、その両方をまとめて「男女の坂」としたのが手柄だろう。男坂と女坂は交差しないという当たり前のことを敢えて句にした面白みに留まらず、恋愛をテーマにした句群の中においては「男女の坂は交わらず」が曰く言い難く効いている。

   肝臓の仕事思えば金亀子     越智友亮
 摂生のことか何かを考えていたのをひっくり返す下五の脈絡のなさがいい。昨今はどの家にもエアコンが当たり前になってしまったが、昔はカーテンの裏の窓の隙間から金亀子は思いがけず飛び込んでくるものだった。そんな時分を懐かしく思い出させる下五である。

  手のひらは甲に逢わざる晩夏かな  越智友亮

 手のひらと甲は表裏の関係なので、掃いて捨てるほどある「当たり前の事実+季語」のパターンではあるが、これも前々句同様恋愛をテーマにした句群の中においてはなんとも切ない。

  パンタグラフ開いて通す青葉風   佐川盟子
 開いてなくてもその上を風は通っているはずだが、菱形に開くことによって、目には見えない風をそこに見てとる人の不思議がある。青葉風が心地よい。ところで昨今はシングルアーム型とか翼型のパンタグラフもあって、それはそれで催す感興が異なるだろう。どんな新しい句が生まれるものやら。

  午後五時を告げる音楽あすは夏至  佐川盟子
 ゴゴゴジ、ゲ、ガと濁音をたたみ掛け、季語も濁音の連鎖が呼び込んだものだろう。現実界の郷愁を誘う「家路」とか「夕焼小焼け」の調べとはまったく感触のことなる、異界ともいうべき句に仕上がっている。

  夏館配電盤に木の扉        佐川盟子
 ニス塗りの木の扉を開けると陶製の安全器が数個ビス止めされているのだろう。ひょっとすると廊下辺り、見えるところにむき出しで碍子や経年変化した電線が走っていたりもするのかも知れない。レトロ俳句である。

   中心をろくろに探る夏の雨    佐川盟子
 「中心をろくろに探る」の助詞「を」「に」がなんとも適切である。ひとことも言わずに濡れた粘土を感じさせる「夏の雨」もまた絶妙である。

  トランペット吹く梅雨空を歪ませて 笹木くろえ
 「梅雨空を歪ませて」になんとも初心者の鬱屈した心情が感じられる。小音量では練習にならず、大音量が出せる場所は河原などに限られ、楽器のコントロールもままならない恥ずかしい大音量が世界を歪ませている。もし仮にトランペットは吹くのが当たり前だから「吹く」はいらないなどと添削してしまったら、作中主体の鬱屈した心情は消滅し、マイルス・デイビスの沈痛なサウンドのような世界に一変してしまうだろう。

  これからといふとき胡瓜ねぢまがる 笹木くろえ
 胡瓜は株が老化して根の活性が落ちると、先細りや曲がり果が増える。そうならないよう、株が小さいうちはわき芽・花芽を摘み、根茎を充分に発達させておく必要がある。

  夏桑や地図から消えし村の空    笹木くろえ
 ダム建設による水没などで土地そのものが消滅したのか、市区町村の統廃合で自治体としての村が消滅したのか。前者なら夏桑は記憶の中のものであろうし、後者なら実景だろうが、いずれにせよ空は変わらずそこにある。

  桜の実薬買ふ人ここで待つ     佐藤文香
 季語から想像されるのは屋外なので、車で乗りつける密売人を待っている非合法薬物取引現場なのだろうかと妄想はあらぬ方へ向かう。しかも次の句は「兄弟の腕冷えてゐるジギタリス」である。仁義を交わした男たちが互いの腕に注射を打ち合うのだろうか。

  石を摑み木へとあをすぢあげはかな 佐藤文香
 蝶が花でも葉でもなく石に止まることがある。揚羽ともなれば羽は石より大きいので、浮揚する刹那、ついそのまま石を摑んで行くような妄想が広がる。

   友情や水着のごとく花カンナ   佐藤文香
 友情なんて言葉が出てくるときは、まず破ったり破られたりする事態に直面しているのだろう。「水着のごとく花カンナ」が激情的かつ官能的である。

  鼻撫でし手のひらやさし夏の馬   谷 雅子
 「夏の馬」の前で切れているので、<私の鼻を撫でたあなたの手のひらがやさしい。眼前の夏の馬のように私の心が駆けている>という読みが順当だろうか。でもどこか、馬が人間に対して詠んだ句のようでもある。季語が動物だと、ときどきそんな可能性が出てくる。

  遅き日の過去の映画の予告編    羽田野 令
 「遅き日」という俳句ならではの言い回しの季語を用い、「過去」「予告」と時間軸で揺さぶりをかけて興じている。

  山滴る流れはずいと湖心曳き    羽田野 令
 不勉強にして「山滴る」は初めて見た季語である。「滴り」とは異なり、「夏の山の青々とした様子をいう」のだそうだ。そんな中、川の流れがずいと湖心を曳くという漫画のような着想が楽しい。

  葛ざくら水のゆらぎを皿の上    八田夕刈
 葛ざくらのぷるぷるした質感や透過性を「水のゆらぎ」と的確に捉えて過不足ない。見事な写生句である。

  プールの底一直線に歪みをり    八田夕刈
 「歪んだら直線ではないではないか」というあたりを敢えてそのように詠んだところに可笑しみがあるとともに、じつにその通りだと思う。

  クロールの素顔真顔と入れかはる  八田夕刈
 一定のテンポで顔を水中に向けたり横に向けて息継ぎしたりするさまを詠んでいるわけだが、「素顔」「真顔」というもともとの言葉が、おそらく一緒に並べることなどあまりないものなので、なんとも言えず可笑しい。水中が素顔で、息継ぎが真顔なのだろうか。言葉の意味をあらためて読者に問いかける仕上がりとなっている。

  食べこぼす朝は八時の冷奴     村井康司
 かつて俳誌『恒信風』の連載記事「真神を読む」で三橋敏雄の上五の複合動詞たたみ掛けについて「カール・ゴッチのジャーマン・スープレックス・ホールドのごとき破壊力を持つ必殺技」と形容した村井康司が、十五年後に同じ技法を用いてこのような脱力句を書いていると思うと、その落差がなんだかひどく楽しい。

  虫干の色紙に毒気消え去らず    大上朝美
 なんの色紙だろう。いずれにせよ、書いた人との往時の交流がまざまざと思い起こされるような記載内容と筆致なのだろう。

  借景のおほかた隠す夏の庭     大上朝美
 草蓬々となってしまったのか、年月をかけて樹木が成長し生い茂ってしまったのか。それもまた風情ではあろう。

  危険物貯蔵所に人春の昼      寺澤一雄
 本来の管理業者なのかも知れないが、滅多に立ち入らぬ場所に人がいるとぎょっとする。そんな雰囲気をすくい取っている。

2016年10月16日日曜日

七吟歌仙 踊り場の巻

掲示板で巻いていた連句が満尾。

   踊り場に声の響きし九月かな   あんこ
    鶫の目もて走る少年      ゆかり
   島めざし月夜の海へ漕ぎ出でて   ぐみ
    ゴーギャンの絵の濃ゆき肌色   媚庵
   薄耳の小さいひとが炉を開く     七
    雪吊りの松あちらこちらに    銀河
ウ  一手打つたびごと増えてゆく酒量  なな
    怒りし顔で告白される       こ
   くすくすと笑んで袋を取り出しぬ   り
    弥生吉日署名待つ紙        み
   月おぼろ蝶ネクタイの朔太郎     庵
    苗代どきの異形細胞        七
   石英が水晶となるすずしさも     河
    ガムくちやくちやと噛む音の中   な
   予告編途中に座る映画館       こ
    字幕書体は星の彼方へ       り
   波こえて三日おくれの花便り     み
    春日傘さす公爵夫人        庵
ナオ ドラム式洗濯機買ふ修司の忌      七
        なんてことないことなのですが      河
   腹痛に頭痛に歯痛筋肉痛       な
    LINEはすぐに既読となりて     こ
   妄想をあつめて灯す大都会      り
    豪栄道に暑さいや増し       み
   怖すぎる話の多き避病院       庵
    この世のような夢を見る昼     七
   笠雲のかかりて富士のしづかなる   河
    澄むみづうみに浸ける指先     な
   月光へバンドネオンの爆ぜてをり   こ
    秋の今宵を悪魔のシャッセ     り
ナウ 懐かしき初雪のごと肩に触れ     み
    眠りをやぶりラッセル車来る    庵
   やはらかな時計の掛かる地下のバル  七
    楤の芽を添え和風ステーキ     河
   ゆふぐれは花の白よりゆつくりと   な
    佐保姫とまた誓ふ再会       こ


起首:2016年 9月 9日(金)
満尾:2016年10月16日(日)
捌き:ゆかり

2016年10月14日金曜日

(11) 俳壇賞をめざす(うそです)

 前号では旧作のロボット群のうち、特定の俳人を模倣したものを紹介した。今回は、残った単機能で実験的なものについて紹介する。

 この原稿を書いている時点で第三十一回俳壇賞の締切は数日後に迫っている訳だが、三十句なりのまとまった数の俳句を揃える場合、人はしばしば連作とかテーマ詠の方向に走る。一句一句ばらばらにできたものよりも、その方が統一性があって訴求力がありそうだと考えるからである。であればロボットでも、句型をあらかじめ五十くらい用意して、傾向の極端に偏った語彙を流し込み、ざっと見て箸にも棒にもかからぬ句を捨てれば、一丁上がりでポンと応募できるのではないか。じつに横着で舐めきった発想であるが、私はそういう人間なのである。前号と同じ「俳句自動生成ロボット型録」のうち、「綱吉」と「諸般」はそのようにして作られた。「綱吉」は犬にまつわる語彙、「諸般」はショパンにまつわる語彙を元にしている。誌面の都合で諸般の句のみ紹介する。

 雨だれに父のにほひのして花野 諸般
 蟷螂を洗ふバラード第一番
 秋の田をゆるす軍隊ポロネーズ
 革命のかたちに月はかへりけり


 さて〈雨だれに父のにほひのして花野〉であれば、ショパンにまつわる語彙は「雨だれ」だけで、同じ名詞でも「父」「にほひ」はショパンには関係ない。「綱吉」も「諸般」も、名詞群に属性を持たせ、句型の中でテーマの名詞群は一回だけ現れるものとし、
名詞が二度以上現れる句型では他を普通の名詞群としている。このように句型を作っておくと、テーマ詠に限らず、個性を注入しやすいのだ。以後に作成したロボットは「はいだんくん」も含め、属性により名詞群を二分している。

 もうひとつ「忌日くん」というロボットを紹介しよう。ご存じのように歳時記には季語として忌日が多く収められている。「忌日くん」はそれらには目もくれず、新作の忌日を刻々生み出す。

 鎖骨忌のひとつの朝の電気かな 忌日くん
 おほぞらの体毛紅きおほぞら忌
 遺伝子の抽斗送りパジャマの忌


 忌日は不思議である。人名に限らず名詞に「忌」とか「の忌」を付けるだけで、あらあら不思議、季語となるのだった。

(『俳壇』2016年11月号(本阿弥書店)初出)

2016年9月24日土曜日

(10) ロボットがどんどん増える秋の暮

 前号では、俳人にとって個性とは時としてアルゴリズム化された自己模倣ではないのかという話の中で、山口誓子の最晩年の句をいくつか引用した。

 ではその句型をロボットに組み込んだら誓子ふうの句を詠むのか。この稿は「はいだんくん」というロボットをネット上に置いて進行していた訳だが、「はいだんくん」に誓子ふうの動詞未然形への執着句型を組み込んだところで、全体として誓子ふうにはならない。「はいだんくん」にはすでに八十個ほどの句型が仕込んであって、すでにある句型がぜんぜん誓子的でないからである。また、語彙の選択も、切れ字に対する考え方も誓子は独特である。それらを徹底的にやれば、ロボットであっても個性的な何かができるかも知れない。そもそも俳句なのだから、ニュートラルなことをやっても誰にも見向きもされないのだ。

 ということを推し進めると、「はいだんくん」というただひとつのロボットを改良するのではなく、単目的なロボットを数多く作った方が、より俳句的だという考えに至る。旧作で恐縮だが、私のホームページ上の「俳句自動生成ロボット型録」には、数年来の試作が置いてある。今でも公開しているのは十二個だが、特定の俳人を模倣した六個と、単機能で実験的な六個に大別される。いくつか見よう。

 「ひていくん」は山口誓子の「流氷や宗谷の門波(となみ)荒れやまず」「海に出て木枯帰るところなし」のような否定表現の要素のみをフィーチャーしたロボット。

 秋の午後沖の降る日のはみ出さず  ひていくん
 乗つてゐる小鳥の目には鉄鎖なし
 海は舞はざれど残暑は浸食す
 夢に桃変身直前かも知れず


 ううむ、こちらはどうか。「俳諧天狗」は、三橋敏雄をして「天狗俳諧」と言わしめた摂津幸彦の句型と、レトロで官能的な語彙をシャッフルしたもの。

 三越にやはらかき眉垂れてをり    俳諧天狗
 夜汽車よりあゝ彼方より南浦和
 みごもりをあふれて紐が来てゐたり
 からだとは指美しく折る花野
 

 収まる場所を変えてはつぎつぎと立ち現れる摂津語彙を眺めていると、くらくらしてくる。このふたつのロボットを合体させることはできない。

(『俳壇』2016年10月号(本阿弥書店)初出)

2016年9月5日月曜日

六吟大股歩き歌仙 あれこれの巻

掲示板で巻いていた連句が満尾。

   戦争の記憶あれこれ残暑かな            媚庵
    新聞紙にて包む枝豆              ゆかり
   もうひとつ月の出てゐる国にゐて           り
    ゴールドラッシュの夢を見しまま         銀河
   鉄橋を越えトンネルの次が駅             河
    味噌汁付の大盛カレー              苑を
ウ  昼どきのATMの長蛇に尾              を
    絵文字で誘ふ今宵の逢瀬           まにょん
   わ印の変はつた体位ためしたり            ん
    デザート代りに茶臼差し出す           なむ
   たけなはの二階見上げる聖家族            む
    天の穴から雪がこぼれる              庵
   おでん煮る鍋につみれを追加して           庵
    頬に傷ある漢文教師                り
   うららかに喇叭の音は風に乗り            り
    一反もめんのなびく春虹              河
   信号の青たしかめる花の辻              河
    爆裂音と高き火柱                 を
ナオ また鍋を焦がし凸凹でこぼこす            を
    金釘流の父の詫び状                ん
   棟梁は元ヤンキーでラップ好き            ん
    ニッカボッカーウッドペッカー           む
   虚と実のカルテを重ね迷ふらむ            む
    古き映画の田宮二郎よ               庵
   県庁の前の噴水工事終え               庵
    何度も色が変はるゆふぐれ             り
   口切りの酒逆鱗にふさはしき             り
    龍潜むてふ淵に水の輪               を
   きつと来るバイクに乗つて月の使者          を
    拳銃二丁秋野に埋める               ん
ナウ 錆ついた翅ふるはせて鳴く虫も            ん
    値踏みできないがらくたの山            河
   流木にいまはゆだねる身の行方            河
    けふ点々と畦火遠野火               む
   西行の花も世阿弥の花も散り             む
    帰去来兮吹東風(かへりなむいざこちにふかれて)  庵

起首:2016年 8月15日(月)
満尾:2016年 9月 5日(月)
捌き:ゆかり

2016年8月24日水曜日

(9) ロボットは何を目指すのか

 前号では「ロボットは俳句を学べるのか」を書いた訳だが、ロボットが仮に俳句を学べたとして、ではロボットは何を目指すのか。個性とは何か。このあたり、人間の実作者にとっても悩ましい。

 ふつう人がロボットに抱くイメージは、正確、高速、休まない、サボらない、気分によるムラがない…などだろう。で、工業用ロボットが生産した製品の仕上がりについては、安定的に高品質、個性がない、…といったイメージではないかと思う。

 さて、身近にこんな俳人はいらっしゃらないか。目に映るものを片っ端から客観写生すべく日頃から凄まじい努力をし、「多作多捨」とか「俳句スポーツ説」とかを信奉し精進している…。頭が下がることではあるが、これってロボットに抱いていたイメージの「正確、高速、休まない、サボらない、気分によるムラがない、…」を人力でやろうとしているだけで、目標が俳句そのものからすり替わり、単に「私はロボットになりたい」と言っているだけではないのだろうか。そのような努力とともに生産される句がもし「安定的に高品質、個性がない、…」だったとしたら空しい。克己的な作句態度と、できた句が面白いかはまったく別のことだ。「多作多捨」も「俳句スポーツ説」も波多野爽波が唱えたことだが、爽波自身の句は飄逸にして今も輝いている。

 作句態度としてのロボットの話は金輪際捨て置くとして、やはり俳句なのだから、ロボットだって個性的な俳句を作りたい。では人間にとって個性とはなにか。ある作風が人から個性だと認められたとき、それを伸ばそうとすることは自己模倣ではないのか。自己模倣とは自己の作句アルゴリズムをパターン化して再生可能とすることではないのか。それは、まさに自分をロボット化することではないのか。

 山口誓子最晩年の句集『大洋』から何句か引く。

  大雪原人の住む灯の見当らず   誓子
  揺れてゐる壁爐の火には形無し
  まだ水田美濃は水田を憚らず
  獅子舞の鬼紅舌を隠さざる
  船は見えざれど烏賊火は前進す
  新蕎麦を刻む人間業ならず
  鯉幟身をくねらせて進まざる

 いかがだろう。この動詞未然形への執着、不在への執着。最晩年の山口誓子は、もはやロボットのようにして個性を繰り出していたのではないか。

(『俳壇』2016年9月号(本阿弥書店)初出)

2016年8月12日金曜日

感覚が冴えわたる暴れどころのできちゃった俳句

 嵯峨根鈴子『ラストシーン』(邑書林)、第三章は「触れで汚れて」。句集全体の中での暴れどころなのか、感覚にまかせてできちゃったような句が目を引く。

  冬眠のベッドも椅子も大きくて
 人間とて冬場は活動力が低下し変温動物のように冬眠したくなる訳だが、それを、からだが小さくなるようだという感覚で捉えることは、あまりないのではないか。
  
  死んでやる口中あまき根深葱
 私に句集をお送り下さったくらいだから、まだ生きているのだろう。すると根深葱にいのちを救われたのか。上五の「死んでやる」という啖呵が楽しい。
 
  ふたりして煮凝揺するノンフィクション
 煮凝の凝固のぐあいを確かめるために、夫婦とか母娘とかでほんとうに揺すったのだろう。で、まるでなにかの小説の登場人物みたいな感じに襲われたその感じまでを句にしようとしたら、下五がこんなになっちゃったに違いない。
 
  御降の眼にやはらかく放尿す
 思い出すのは「さを姫の春立ちながら尿(しと)をして 宗鑑」である。掲句の場合「放尿す」の前に切れがあるように読むのが順当ではあろうが、御降と放尿を同一視したくもなるのは、宗鑑の句があるからだろう。ちなみに宗鑑の句は「霞の衣すそはぬれけり」への前句付けである。

  指先に触れで汚れて春の雪
 触れなくても汚れてしまうというのがいかにも春の雪である。打ち消しの接続助詞「で」でしかも「触れ」なので「柔肌の熱き血潮に触れもみで寂しからずや道を説く君 与謝野晶子」をも呼び込み、どこか妄想性愛の趣もある。

  ふしあはせの馬刀貝だけを突くらしい
 馬刀貝というのは、穴に塩を入れて出てきたところを採るらしい。塩分濃度に敏感であり、急激な変化があると巣穴から飛び出す性質を利用した漁法なのだそうだ。掲句、それ自体では意味不明ながら、馬刀貝のそんな習性や特異な外見を知ると「ふしあはせ」とか「突く」という措辞がすごく効いているような気がしてくる。という読解のプロセスのために周到に用意されているのが、句尾の「らしい」なのである。

  ばくげきのぱふすりーぶがぱとひらく
 「ぱふすりーぶ」は『赤毛のアン』では「提灯袖」と訳された、肩のふくらみ。爆撃機が爆弾投下する際に、胴体下部を機体の曲面のままに開くあの感じと、パフスリーブは確かに妄想の彼方で通い合う。それは意味の世界で通い合っているわけではないので、こうなったらもう、全体をひらがな表記するしかないのだ。

  産道に水掻たたむ虹のあと
 哺乳類は受胎から出産までの間に動物の進化の歴史を繰り返すと言われる。哺乳類に進化する前は両生類で水掻があるのだろう。雨上がりの虹のあとあたりで、乾いて哺乳類になるのだろうか。「虹のあと」の「あと」に、絶妙な感覚の冴えを感じる。

  クローンの父いろなき風をひた走る
  どの蓋も合はなくて母だと名告る
 先に「螺子釘やはじめヒト科のちちとはは」について触れたが、父と母はここでも誰のでもある父と母として絶妙にやらかす。父は家庭的な実態としての感触を消して仕事に奔走し、母は間抜けながら強烈な実態を主張する。いかにも父であり、母である。

 

2016年8月11日木曜日

『鏡』二十号を読む

  化身かもしれぬ沓音おち椿     八田夕刈
 東大寺二月堂修二会の連作である。「沓音」という表記であれば、掲句は「水とりや氷の僧の沓の音 芭蕉」(「こもりの僧」とする異稿もある)を踏まえているのだろう。伝統行事ではあるが、まさに芭蕉が心を動かされたであろう沓の音を耳にして「化身かもしれぬ」と捉えたに違いない。「おち椿」は化身が実在した痕跡として機能している。

  内陣券あり〼路地に春疾風     八田夕刈
 連作の中で対象世界だけを切り取って描くのではなく、あえて対象世界を外側から捉えた句を混ぜて、冷笑的な一面も連作に取り込んだのは山口誓子であった。誓子は「天守眺望」という妙なる連作に「桐咲けり天守に靴の音あゆむ」を混ぜ込んだり、「枯園」という妙なる連作に「部屋の鍵ズボンに匿れ枯園に」を混ぜ込んだりした。八田夕刈の掲句も宗教的な荒々しい伝統行事の世界から距離を置いた句を混ぜ込むことにより、連作全体に重層的な味わいを付け加えている。

  縞馬の縞は横縞夏近し       大上朝美
 楽しい句である。地面を基準とすれば縦縞であるが、人間の着衣と同様に背骨を基準に考えれば、縦に見えていても横縞以外の何ものでもない。そんな他愛もないことを考える気分が、いかにも「夏近し」である。

  呪文かなウワナベコナベホシハジロ 羽田野 令
 タイトルは『黒髪山残夢』。地図で見ると関西本線を挟んで東に黒髪山があり、西にウワナベ古墳、コナベ古墳がある。それぞれ池に囲まれてカモ目カモ科ハジロ属の水鳥ホシハジロが羽を休めているのだろう。これらの名前をつなげると確かに呪文みたいで妙に可笑しい。

  花房や肺を出てゆくきれいな血   佐藤文香
 「花房」とあるが、実際にこの句で詠まれているのは心臓のイメージだろう。全身から戻ってきた静脈血は、上下大静脈から右心房に流れ込み、右心房の血液は右心室から肺動脈を通って肺で酸素を取り込んだ後、左右の肺から各2 本ずつの肺静脈を経て左心房に入り、僧帽弁を通過して左心室に送られ、左心室の強い収縮力を受けて大動脈から全身に送り出される。心房→花房というちょっとした字句の入れ替えにより、俳句としての生命を獲得している。

  きさらぎのせせらぎのある光かな  越智友亮
 「きさらぎ」という言葉は「き」と「ら」があるだけにキラキラ感があって、音韻的な配慮を強いて人をある方向に向かわせる。

  はるのくれ鳥を言の葉として木は  越智友亮
 ひとつの木がびっしりと百千鳥状態になって、文字通り木が鳴いている感じになることがある。それは生態系の中で木にとっても悦びの謳歌であるに違いない。述部を割愛しているので、人語を超越した木の思いがあるのだろう。

  車窓よりあふれ出したるしやぼん玉 東 直子
 前句「春潮や朝一番の列車過ぐ」を手がかりにすれば「車窓」は列車の窓ということになるが、昨今子どもにそんな非常識なふるまいを許す親がいるのだろうか、などとつい余計なことを考えてしまう。そしてだからこそこの句の世界はよいのだ。

  とのぐもり無音の魚の運ばるる   東 直子
 「とのぐもり」は空一面に雲がたなびいてくもること。「無音の魚」がいささか不吉であるが、鰯雲でも鯖雲でもなくなった雲の状態だろうか。もちろん、上五で切れるという読みもあり得る。例えば魚料理。誰かが言った。魚料理とは魚の死体を食べることだと…。

  魚へんに何をつけても生きのびる  東 直子
 ところで魚料理はあまり漢字で書かないような気がする。マグロとかカツオとか…。これを鮪とか鰹とか書くとてきめんに泳ぎ出すのだ。

  桜島火を噴く饂飩茹であがる    佐川盟子
 シンクロニシティ俳句である。「レジスター開きて遠き雪崩かな 山田露結」とかこのジャンルは探せばいろいろあるような気がするが、そもそも二物衝撃とはシンクロニシティのことではなかったか。

  ほたるいか海の底へと地はつづき  佐川盟子
 「ブラタモリ」などのせいで地形への感心がにわかに高まっているのだが、この句、「ほたるいか」が地球のなりたちとかの話に出てくる古代生物の末裔のようで、じつにいい味を出している。

  産み月の靴すり減らす春日傘    佐川盟子
 臨月ともなれば安全のためにぺったんこな靴を履くのだろうが、それをさらにすり減らす妊婦の重量感がなんともよい。「春日傘」に、息を切らした感じが表れている。

  肉色のくれよんであゝ馬のかほ   村井康司
 一読「あゝ」の恍惚感がすばらしい。「肉色」の字面が語義を超えて官能的である。

  雪間より影を剥がして鴉発つ    笹木くろえ
 一点の黒いかたまりだったものが飛ぶ鴉とその影に分離するさまを詠んでいる。まるでカメラのCMのようで、現実以上の高細密度を感じる。

  如月の銀のドレスに走る皺     笹木くろえ
 越智友亮の句のところできさらぎのキラキラ感について触れたが、本句の濁音のたたみ掛け方にも味がある。ドレスに走る皺の下の肉のたるみまで見えるようである。

  振り向くなはだれ野が背に付いてくる 笹木くろえ
 なにかの神話のような「振り向くな」であるが、それによって引き起こされる災厄が「はだれ野が背に付いてくる」とは、べとべとでぐじょぐじょで妙に可笑しい。

  これが朴と指されし老樹芽吹きをり 谷 雅子
 葉が茂ってみれば一目瞭然の朴ではあるが、落葉樹なので芽吹きの頃には元々知ってなければ分からない。指さしてくれた人には「ほお」と答えたのだろうか。

  草に沖海に沖あり鷹渡る      寺澤一雄
 思い出すのは「恋人よ草の沖には草の鮫 小林恭二」だ。かれこれ三十年くらい前の句だろうか。青春まっただ中のような恭二句への時を超えた返句なのかも知れない一雄句からは、年齢相応の達観が感じられる。

  生者死者喪中はがきに名を書かれ  寺澤一雄
 言われてみればその通りである。この身も蓋もなさが一雄節である。

  寒垢離の人照明に当たりけり    寺澤一雄
 観光客向けにライトアップされているのだろうか。そうでないとしても、現代文明の中での宗教行事は時として妙なことになるのだろう。

2016年8月6日土曜日

じわじわと可笑しい機知

 嵯峨根鈴子『ラストシーン』(邑書林)、第二章は「話がある」。章ごとのキャラクターについては触れないことにする。たぶんない。機知に富んだ無季俳句がじわじわと可笑しい。
 
  むかひあふもやうのちがふ双子かな
 いうまでもなく「秋風や模様のちがふ皿二つ 原石鼎」を踏まえて「双子かあ…」とにやにやして下さいという句である。ほとんど旧仮名フェチのような「むかひあふもやうのちがふ」のひらがな表記が心地よい。無季俳句である。
 
  省略の著しきに雪は降る
 「白魚のさかなたること略しけり 中原道夫」とか「下半身省略されて案山子佇つ 大石雄鬼」とかいろいろ先行句は思い浮かぶが、掲句はなにを略したのかさえ略してしまったのが手柄だろう。きちんとしたものをもいい加減なものをも降る雪が覆ってゆく。

  螺子釘やはじめヒト科のちちとはは
 螺子釘なので下穴を小さく空けて螺子を切りながら固定するわけだが、掲句は性行為の途中で姿を変えられてしまったような可笑しさがある。学名「ヒト科」の片仮名表記に「ちちとはは」とひらがなをぶつけたところが、なんとも人を食っている。無季俳句である。

  みな帰りたる噴水に話がある
 章のタイトルナンバーである。話があるというよりは、「ちょ、ちょっと待ってよ」というか何かしら一心不乱の噴水の水の集団行動に意義を申し立てたい気持ちにかられたのだろう。噴水を眺めているうちにゲシュタルト崩壊を起こしてしまった趣がある。 
 
  残像を先にたたせて御器嚙
 これは以前、週刊俳句の落選展で触れた。「残像を先にたたせて」はもちろん科学的ではないのだが、かの昆虫に対して祖先から遺伝子で受けつがれてきたであろうおぞましさをみごとに捉えている。

2016年8月1日月曜日

七吟歌仙・梅雨の灯の巻

掲示板で巻いていた連句が満尾。

   梅雨の灯を点しさみしき遊びかな  月犬
    きれいななみだ色にでで虫   ゆかり
   板塀の節目いくつも連なりて    銀河
    朝顔ひらく煙草屋のまへ     媚庵
   三日月の湿りはバスの中にまで    恵
    幼き手よりころり団栗      ぐみ
ウ  地球儀に日本を見つけられずゐる  なな
    赤道越える光晴三千代       犬
   スコールがふたりの肌を隠しをり   り
    将来といふばなな齧らん      河
   放蕩をかさねてのちの啖呵売     庵
    寒月までの簡単な橋        恵
   着ぶくれて猫の名前は未だ決めず   み
    ぐるんと回す結婚指輪       な
   雛段に女雛のをらぬ奥座敷      犬
    冴返る夜を湯の沸いてをり     り
   花道をたどる血の池地獄まで     河
    等身大の張りぼての豚       庵
ナオ 穿き込んだ勝負パンツに棲む神よ   恵
    ラスベガスには昼も夜もなく    み
   粉塵を撒き散らしつつたどり着く   な
    西日に黒き廃坑のヤマ       犬
   方丈を蚊遣の煙のまつすぐに     り
    十手先読むロボットの知恵     河
   携帯の地震警報かしましく      庵
    指で辿りし地図の海岸       恵
   上下するのどぼとけにも涼新た    み
    虫らの声に呼応してゐる      な
   煌煌と月の光は鳥籠に        犬
    ワイヤフレームモデルの便器    り
ナウ ひた進む除雪車布を裁つごとく    河
    窓閉ざしたる赤煉瓦館       庵
   埠頭へと荷揚げされたるウヰスキー  恵
    涅槃西風背によろけずに立つ    み
   見上げれば額に触るる枝の花     な
    春のおほきな虹消えるまで     犬


起首:2016年 7月 5日(火)
満尾:2016年 8月 1日(月)
捌き:ゆかり
 

2016年7月30日土曜日

罠にかかって連れてこられた世界

 嵯峨根鈴子『ラストシーン』(邑書林)は「らん」同人の著者による第三句集。(以前に週刊俳句で「2013落選展を読む」という記事を書かせて頂いた縁で、著者よりご恵送頂きました。ありがとうございます。)例によって、全体の整合性は無視して章ごとに感想を述べて行きたい。
 第一章は「ハタナカ工務店」。章中「さくら蘂降るやハタナカ工務店」があるにはあるが、それに由来して章全体のトーナリティが決定づけられている訳でもなく、意味ありげに置いたかりそめのものだろう。読み始めた早い段階で、「うっ、これは俳句として読もうとすると失敗する」ということに気がつく。何しろ、切れ字とか季語の斡旋とか二物衝撃とかの、およそ俳句として読もうとする手がかりをあっさり無視しているのだ。たった三ページ、わずか六句のうちの三句で「全員のたどりつきたる春の罠」「もう人にもどれぬ春の葱畑」「姿見へ真つ直ぐ入る春の猫」と無造作に「春の…」と置いている。普通ならそんな季語の使い方はしない。罠にかかったとあきらめてまっすぐに鈴子ワールドに入って行こう。もう戻ってこれないかも知れない。

  龍天に上る背中のファスナーを
 「龍は春分にして天に登り、秋分にして淵に潜む」という想像上の季語を用い句に仕立てている。ファスナーであれば下ろす句の方が多そうなものだが、本句では着衣を完成し凜と香気を放つさまを、中国由来の季語で決めている。面白い。
 
  梅雨入まで間のあるカーブミラーの歪み
 「さくら蘂降るやハタナカ工務店」の次に意味ありげに置かれている。最後を「カーブミラーかな」とでもすれば定型に収まるのに、そうしないことに気概を感じる。もっともらしい定型で「俳句」を詠みたいわけでもなければ、ましてや詠嘆したい訳でもない。あの初夏の時間と空間の夥しい浪費の中で放置されそこに存在する、あのカーブミラーの歪みが詠みたいのだ、いや、そのようなものが修理されずに存在することが「ハタナカ工務店」という章の世界観なのだ。

  油照どこで切らうが腥し
 「ハタナカ工務店」はお化け屋敷も手がけるのだろうか。突然「夕立のはじまりさうなお菊井戸」以下「我こそは源頼光氷水」まで四ページにわたり化けもの由来の句が並ぶ。掲句は「汗だくの一心不乱のロクロックビ」と頼光句のあいだに置かれている。ロクロックビを切るにしても土蜘蛛退治をするにしても、いかにも腥そうである。
 
  雁よりもはるかに箸を置かむとす
 だまし絵のようでもあり、遠近感の狂いが心地よい。この辺りまで来ると、完全に罠にかかって連れてこられた鈴子ワールドにはまっている。
 

2016年7月16日土曜日

八個の応募作品として

 山﨑百花『五彩』の第二部は結社内の賞応募作品三十句の八年分。第一部が一ページに二句だったのに対し、第二部は二段組で一段に十句を配し、見開きでタイトルと三十句が見渡せるようになっている。であれば、こちらも八年分をあたかも八個の応募作品として一気に取り扱ってみよう。

●『明日へ』二〇〇七年度
 冒頭の句は「ほとばしるかたちに春の来てゐたり」。「ほとばしる」と言っている傍から「かたちに」と言ってダイナミックな動きをフリーズドライ化するような不思議な持ち味がある。同じような句として黒部ダムの観光放水あたりを詠んだものか「放水の一瞬雲へ夏来る」もある。タイトルは最終句「明日へと汲む若水の豊かさよ」による。ここまでで水の句が二句出てきたが、他に「ほうたるや水の記憶のひとしづく」「水ひそと水の如きとなる寒夜」、さらに「ひとすぢの女滝を守る木の鳥居」「北上川(きたかみ)へ繋がる光天の川」「河豚透ける皿いつぱいの海の青」がある。とはいえ全体が水をテーマにしているようにも感じられず、どこか半端な印象は否めない。「吾も息を吐きつつ畳む鯉幟」のようなさりげない句にこそ実感がある。

●『過客』二〇〇八年度
 タイトルは「過客」。単語としてその言葉を含む句はないが、全体として芭蕉の「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」を踏まえているのだろう。どなたかの死に立ち会った個人的な体験を詠んだ「父子草命終の息吸ひ給ひ」「死に顔へおやすみといふ母子草」に留まらず、生命や輪廻や悠久の時を感じさせる句が並ぶ。すなわち「山笑ふ分子時計の刻む過去」「三界のここより知らず揚雲雀」「黴の花四億年を語り出す」「鞭毛に自立のこころ雲の峰」「花野風琥珀が虫を秘めしとき」などである。ちょっと冒険した感じの「息白しミトコンドリア即イヴの裔」「複製の親娘でありぬ雪女郎」もテーマの中で飄逸な味わいを出している。最終句「水仙や胎内仏の濃き睡り」も胎内仏という珍しい素材ながら、はまるところにはまった感がある。本作品も水の句が非常に多いのだが、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」を思い出すせいか、違和感がない。しかし冒頭の句「ゆらぐてふことを初めに春の水」はこれでいいのだろうか。声に出して読んだときに「チョー」という強い響きがすべてをぶちこわしにしているような気がする。

●『てふてふ』二〇〇九年度
 これは魅力的な句群だ。冒頭の「少年でありし少女期風光る」が一気に読者の関心を掴む。句の配列は異例で、春二句のあと夏秋冬と続いて春五句に戻る。タイトル「てふてふ」を扱った句としては「舞殿に蝶がひとひら義経忌」「コスモスや影の中へと蝶の舌」「凍蝶に五百羅漢の膝ひとつ」「てふてふの妻を争ふ高さかな」があり、かそけさだけではなく多様な蝶の様相を捉えている。また、結句「夕星や春野の歩測止むところ」、中間に現れる「遠き日をとらへて疎なる捕虫網」などは、起句の少年性と呼応したものだろう。三十句の中に「舞殿に蝶がひとひら義経忌」「唖蟬の声は心へ源信忌」「文覚忌女身のごとき和らふそく」と忌日俳句を三句も含めるあたりは趣味の分かれるところであるが、作者には思い入れがあるのだろう。ちなみに源信は平安時代中期の天台宗の僧、文覚は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・真言宗の僧とのことであるが、不勉強な私は忌日以前に人物さえ知らなかった。

●『遠野物語』二〇一〇年度
 これは「遠野物語」を読んだことがあって現地に足を運んだことのある人にしか味わうことはできないだろう。私にはまったく歯が立たなかったが、そういう方面の素養がある方ばかりが想定読者でよいのか、ともやや思う。全体の配列は新年、春夏秋冬の順で、馬が重要な役割を担っている。即ち「てのひらの塩を舐めさせ馬日かな」「仔馬立つことのめでたさ湯を沸かす」「不動尊の守る沢水馬冷す」「こんもりと馬の卵場や秋の暮」「冬北斗曲屋に馬ねむらせて」などであるが、馬そのものではない「天駆ける白馬早池峰薄雪草」「括り桑馬と呼ばれし男はも」も意図的に置かれたものだろう。「胸の上にひらく霊華や夢始」が「三人の女神のはなし」に由来するのであれば、「早池峰へあら玉の日矢あつまれり」「天駆ける白馬早池峰薄雪草」「六角牛山(ろっこうし)なだらかに浮き良夜かな」があるのに、もう一人の姉の女神がもらったという石神山は詠み込まなくていいのか、などとも思うのだが、それはただの門外漢の感想に過ぎない。

●『あめつちの』二〇一一年度
 独吟連句のような趣で何かしら前句と関連を持たせながら句を配列しているようである。冒頭の三句で言えば、「淡雪や光り流れて燃え尽きし」の「光」から導かれ「木の芽山しんと月光菩薩かな」となり、さらに「しんと」から「春の森聞き耳頭巾拾ひたし」という感じである。とはいえ、厳密に連句マナーではないので、「鶏鳴や四囲の山見る外寝人」「身の錆の水に溶けざる涼しさよ」と続いた後で「人体に皮一枚や桃したたる」とまた「人」に戻ったり、さらに五句後に「星飛ぶや人に地上の願ひごと」とまた「人」が出たりする。連句なら避けるべきことであり、そのあたり、連句ではないと承知しつつも、やるなら徹底的にやればいいのにと思わなくもない。表題作の「あめつちのまたあふにある龍の玉」はなにかの掛詞なのかも知れないが、残念ながら私には意味が汲み取れなかった。

●『五彩』二〇一二年度
 三十句中「けり」で終わるもの四句(うち一句は切れ字ではないが…)、「かな」で終わるもの二句、体言止めで終わる句十五句と、ストロングスタイルで勝負に出た感がある。「猫柳銀の光をかへしけり」「五月雨や法然院の白砂壇」「北に虹立ちて北向地蔵尊」「睦まじく秋茜また黄金の穂」「空といふ深淵の色夕月夜」「呼びかける笑顔へ応へ赤い羽根」「新米の色白どかと積まれけり」「白鳥は光を拒む色持てり」など色を題材とした句が散りばめられるが、とりわけタイトル『五彩』を詠み込んだ、最終句「一灯へ集まる雪の五彩かな」は圧巻であろう(これは本句集のタイトルでもある。むべなるかな)。色を題材とした句でないものも「心音の遠のくごとし雛納」「春の雪しづりて水輪重ねあふ」「身支度も技も簡素に鮎を打つ」など、味わい深い佳句が並ぶ。

●『光』二〇一四年度
 「枯蘆を出てより水尾の光りけり」「荒星や夢にも光分かちあひ」「ねぢれ花ひかり捩れてとどきけり」「青嵐や葉裏のひかり明滅し」「草引くや光のなかへ団子虫」「木下闇仰げば光ありにけり」「滴りの光の音となりにけり」「猫じやらし星の光が梳る」「水の面へ律(りち)の調(しらべ)の曳く光」とタイトル通り直接に光を詠み込んだ句が並ぶ。また「明恵忌や阿留辺幾夜宇和(あるべきやうわ)と合掌し」「大空の胎内仏や新芽立つ」「鵙猛る涅槃は寂静也とのみ」「仏眼や澄む水に日矢立ちてをり」など仏教を題材とした句も光との調和の中で目を引く。しかし全体としてどこか散漫な印象も感じられる。

●『水の夢』二〇一五年度
 雫、露、氷、陽炎、雨、…、あるいは水辺の植物である「蘆の角」、水鳥である「鴨」など、ほぼ全句なんらかの形で水の変転と水に縁のある生物を詠み込んでいる。「水の夢」という言葉そのものを詠み込んだ句は見当たらないが、このような変転こそがまさに「水の夢」なのだろう。とはいえ、一句一句が淡白に過ぎるような気がする。

2016年7月14日木曜日

(8) ロボットは俳句を学べるのか

 前号では「ロボットは俳句を読めるのか」を書いた訳だが、ロボットが仮に俳句を読めたとして、ではロボットが実作者として次の自作に役立つ要素を読んだ句から学べるのだろうか。それ以前にそもそも、人間の実作者はどういうプロセスで俳句を学習しているのだろう。

 あるジャズ・ミュージシャンがどこかでジャズについて「いかにフリーだからといって、音階をドレミファソラシドと弾くわけには行かない。ジャズを弾くということは、ジャズのように弾くことなのだ」という意味のことを書いていた記憶がある。俳句だってたぶんそうなのだろう。俳句を詠むということは、俳句のように詠むことなのだ。では俳句のようだ、とは何なのか。じつに悩ましい。

 悩ましいといえば、「はいだんくん」は今のところ人力で語彙と句型を増やし、語彙を句型にランダムに流し込んでいる訳だが、そもそも人間は俳句を学ぶときにそんなやり方を行っているのだろうか。半年前にこのコラムを始めたときに「はいだんくん」に仕込んだ句型には以下の3つが含まれていた。

 ①ララララをリリリと思ふルルルかな
 ②ララララがなくてリリリのルルルかな
 ③ララララのリリララララのルルルルル

これらはそれぞれ「露地裏を夜汽車と思ふ金魚かな 摂津幸彦」「階段が無くて海鼠の日暮かな 橋閒石」「一月の川一月の谷の中 飯田龍太」が元になっている。幸彦句と閒石句は、私にとってかなり近いものだ。露地裏/夜汽車/金魚、階段/海鼠/日暮といった語の運びの意味的な脈絡のなさが、伝統的な「かな」止めの揺るぎない句型に乗って、言い知れぬ詠嘆を感じさせる。分けても、幸彦句の郷愁を帯びた語彙の「と思ふ」による強制的な合体の威力、閒石句の「無くて」がもたらす不在感、不安定さは格別のものだ。一方で、平明な語彙をリフレインで結合した龍太句の永遠性と姿かたちのうつくしさはどうだろう。

 実作者としての私は、これら三句から句型としてのオールマイティな俳句らしさを感じたから、その句型をロボットに取り込んだのだが、一般論として人はそんなふうに句型を学習対象とするのだろうか。また、それはロボットが代替して学習することができるのだろうか。悩みは深まるばかりである。

(『俳壇』2016年8月号(本阿弥書店)初出) 

2016年7月11日月曜日

天体の運行も生命のひとつ

 その他、第一部で一句として惹かれた句を挙げようとすると二十四句ほどあるのだが、ネットにそんなに書いたら句集を手にする楽しみが損なわれるので、あと少しだけ。

昼よりも星にあかるき大花野   百花
七夕や女体に宮といふ宇宙
帰るべき星より光初昔
春の星遙かに水尾を交はし合ふ


 星とか宇宙とかを詠み込んだものを掲げた。二句目、占星術では十二宮という概念があって、乙女座なら処女宮とか、いて座なら人馬宮とか、太陽が通過する時期によって十二分割している。一方で女体には子宮があるので、それを宇宙だと捉えている。生命をミクロ的に捉えたり逆にマクロ的に捉えたりするとき、天体の運行もまた生命のひとつだという思いにとらわれることがある。するとにわかに星が身近に感じられたりするものだが、これらの句からはそんな生命の循環の気分が感じられる。

 ついでながら、あと一句。
 
素十忌の穭は寸を揃へけり    百花

 素十忌は十月四日。なんだかとても素十の雰囲気が感じられるので、素十の穭の句を調べてみたら七句ある。

穭穂に一つ二つの花らしき    素十
穭田は人通らねば泣きに来し
穭田に二本のレール小浜線
吹きなびく御田の穭の青々と
鉱害の穭田水輪夥し
穭田のはしのところに籬して
たゞ刻を惜しむ穭田ひろ/゛\と

しかしどの句も百花句には似ていない。にも関わらずなんだかとても素十の雰囲気が感じられるのは、秋桜子が激しく批判したという「甘草の芽のとびとびのひとならび 素十」あたりの印象によるものか。

2016年7月10日日曜日

見え隠れするあはれ

●スパイラル方式の例
立秋やひと刷けの雲風に透き    百花 秋 時候
朝の月雲の白さとなりて透く       秋 天文
すきとほる雲を仰ぎぬ花水木       春 植物


 先に「色なき風」に言及したわけだが、陰陽五行説云々はどうもあまり関係ないようだ。ごく薄い雲がほどけて青空に溶けて行くイメージが繰り返し詠むべきテーマとしてあって、挑戦し続けているというのが真相なのでは。二句目は月を詠んでいるわけだが、「雲の白さとなりて透く」と言っている以上、雲のヴァリエーションだろう。

春惜しむ身の透く魚はかさなりて     春 時候
白魚の水に尾鰭のあるあはれ       春 動物

 雲と魚のちがいこそあれ、かたちあるもの、いのちあるものが透けて見え隠れすることについて、作者は二句目にあるように「あはれ」を感じずにはいられないのだろう。そこにこそ、「立秋やひと刷けの雲風に透き」を句集全体の巻頭に置いたこと、それも第一部の歳時記構成を春ではなく、わざわざ秋から始めることによってそうしたことの理由があるのではないか。

2016年7月9日土曜日

生命感みなぎるノンセンス

●別の時に詠んだ句が並んだであろう例
おそろしやおそろしや秋のスズメバチ 百花
集団的自衛権あり秋の蜂


 「秋の蜂」というのは角川の合本歳時記だと「秋が深まっても生き残っている蜂。蜜蜂のように成虫のまま越冬する蜂もいる。一般には秋が深まると大方は死んでしまうが、雌の中には生き残って冬を越すものもある」という説明なので弱々しそうな気もするが、百花句においては生存をかけて凶暴化している印象を受ける。ちゃんと調べた訳ではないが、ハチやアリは集団で行動するので、純粋に種の保存をかけて集団的自衛権を行使するのだろう。邪悪で欺瞞に満ちた人間界のそれとは様子が異なるはずだ。

寒卵単細胞は昔から
ミトコンドリアにイブの血の濃さ寒卵


 こちらは遊び心に満ちている。卵といえば何かしら生物学的な言葉を並べたくもなるものだが、「単細胞は昔から」とは身も蓋もない自虐ぶりである。「ミトコンドリア」は高校の生物の授業で習ったはずだが忘れた。「生物のほとんどすべての細胞質中に存在する糸状に並んだ顆粒状構造の細胞小器官」だそうである。それに『創世記』のアダムの肋骨から作られた女イブを配し、しかも季語が「寒卵」だという、生命感がみなぎるものの実際のところ意味の汲み取りようのないノンセンスぶりがじつに可笑しい。

作者自身が楽しんだであろうリシャッフル

 歳時記構成の第一部の話の続き。
 結局のところ、独立した一句一句として読ませるための構成というよりは、作りためた句作について作者の意図を超えてリシャッフルする効果を作者自身が楽しんだということなのかも知れない。本という体裁で最初から読む以上、ひとつひとつの句は隣り合う句から逃れることはできない。たまたま同じ時に詠んだ句が並ぶこともあれば、ぜんぜん違うときに詠んだ句が同じ季節の生活なら生活というだけで隣り合うこともあるし、同じ時に詠んだ句がばらばらに点在してしまうこともある。そうなったらそうなったで、それはスパイラル方式とも言える効果を上げるのではないか。そもそも同じ作者が詠んだ句なので、同じ時に詠んだものでなくても、同じような捉え方(入力系)や同じような詠みぶり(出力系)となることもある。句の配列については、そのくらいのおおらかさで向き合った方がよさそうである。

●たまたま同じ時に詠んだ句が並んだであろう例
悲しみに添へぬかなしみ梨を剝く 百花
有りの実よ死に水のかく甘からん


 俳句というのは不思議なもので、意図せぬところに調べが生まれたりもする。どなたかの死に直面したであろう掲句であるが、「悲しみ」という言葉にはナシという音が含まれていて、「悲しみ」「かなしみ」とリフレインした後に置いた季語によってナシという音を三回繰り返す調べが生まれている。梨は多く果汁を含み「豊水」「幸水」などの品種がある。「死に水のかく甘からん」には万感の思いが感じられる。

眠るなよ春は名のみの津波の夜
停電や春を手探り足さぐり


 東日本大震災を詠んだ句だろう。この二句は時候の句として並んでいて、離れたところに地理の句として「人々を呑むとき黒し春の波」がある。また同じ年ではないのだろうが、行事の句として「被災者へおことば春季皇霊祭」「津波忌や海より生れて星うるむ」がある。最初に読んだときにはこんなに分散しては逆効果だろうと感じたが、なぜ歳時記構成なのだろうと思いながら繰り返し読むうちに、これはこれでいいような気がしてきた。歳時記は必ずしも完璧なものではないが、私たちは古来歳時記とともに俳句で世界を記録してきたのだ。歳時記的な世界のモデルとして、ありなのではないか。

右腕のしびれてきたる涅槃かな
添寝するごとくに涅槃し給へり


 寝釈迦である。母として、また祖母として添寝してきた感慨を重ねている。

歳時記構成のねらい

山﨑百花『五彩』の第一部は歳時記構成。季語レベルで項が立っているわけではないが、季を時候、天文、地理、生活、行事、動物、植物に分け、そのくくりで句を配置している。第二部が三十句✕八年分であることを思えば、第一部は独立した一句一句として読ませるための構成なのかと思ったりもするが、必ずしもそうでもないらしい。例えば冬の時候ではこんな句が並ぶ。

常磐木の小枝にリボン十二月 百花
数へ日の遊び納めがもう一つ
一月や女体は布に芯となり
貝釦七つなないろ春隣


 ここでは明らかに数字を詠み込んだ句を意図的に並べている。であれば、時候、天文、地理、生活、行事、動物、植物に分け、そのくくりで句を配置するねらいは何なのか。そんなことを頭の片隅に読み進める。

2016年7月5日火曜日

完結性、発句性への挑戦

 しばらくブログを思考のパレットとして、描く前の色のかたまりを並べるような使い方をしていなかった。再開してみようかと思う。そんな使い方だから、書き進むうちに結論が変わることも当然あろう。

 手始めは山﨑百花『五彩』(現代俳句協会)(著者よりご恵送頂きました。ありがとうございます)。全体は大きく二部構成に分かれ、第一部は歳時記構成、第二部は結社内の賞応募作品三十句の八年分からなる。
 一読、句尾が「かな」でも「けり」でも名詞でもない句の多さに驚く。定量的に表現すると以下。
 
●第一部 「秋」で
八十五句中
切れ字「かな」で終わる句   七
切れ字「けり」で終わる句   四
その他の用言で終わる句  二十三
副詞で終わる句        〇
助詞で終わる句        九
名詞で終わる句      四十二

●第二部 もっとも新しい二〇一五年作品「水の夢」で
三十句中
切れ字「かな」で終わる句   四
切れ字「けり」で終わる句   一
その他の用言で終わる句   十一
副詞で終わる句        一
名詞で終わる句       十三

 話を極端に単純化すると、句尾が「かな」でも「けり」でも名詞でもないということは、一句の完結性、発句性への挑戦である。例えば第一部「秋」は次の二句で始まる。

  立秋やひと刷けの雲風に透き 百花
  秋立つや曙杉のこずゑより


 連句などやっていると、上五を「や」で切るとつい下五に名詞を置いた完結性の高いものを期待してしまうが、そもそも連句の発句ではないのだから、まったく自在に句尾を解放し屈託を残さない。ちなみに陰陽五行説にもとづき秋に白を配することから秋風を「色なき風」などというが、「ひと刷けの雲風に透き」はそのような伝統も踏まえたものなのだろう。
 
 しばらく、どのように開かれた句が続くのか、見て行こうと思う。

2016年7月2日土曜日

脇起しソネット俳諧・奇麗な風の巻評釈

 例によって評釈というより捌き人の脳内ビジョンです。

●第一連

六月を奇麗な風の吹くことよ       子規

 発句は銀河さんが見つけてきた子規の句。なんともからりとした梅雨晴間のような気持ちのよい句であるが、切れ字もなければひねりもない、オーソドックスな連句の発句にするにはいささか困ったものでもある。これを発句とするのであれば、オーソドックスな連句ではなくもっと風通しのいい形式を選択した方がよいだろう。ということでソネット俳諧とする。ソネット俳諧は十四句を四/四/三/三に分けて四連構成とし、それぞれの連に季節をひとつ割り当て、また連ごとに際立ったカラーを与える。花と月は必ずしも春、秋にこだわらず四連のどこかに入れる。三十六句からなるオーソドックスな連句に比べると半分以下の長さであり、連ごとに際立ったカラーを与えることとも相俟って、ちょっとした措辞が全体に及ぼす影響が大きくシビアな面もある。

 青野の果てはあをき海原       ゆかり

 脇は発句の風が吹き抜ける空間を描いて付ける。夏の季語「青野」からリフレインにより野と海のグラデーションを試みる。

天地を透明体のなにか行く         七

 第三はオーソドックスな連句ではしばしば「て止め」を用い連句としての展開を誘うところであるが、ソネット俳諧では却って煩わしい作法であろう。脇の「青野」「海原」に対し、さらに大きく捉えて「天地」と置き、「青」「あを」のリフレインに対し「透明体」という硬質な言葉で受けている。発句「六月を」に対し「天地を」と助詞を揃えたところが、ソネット的な気分を盛り上げる。

 ショパンの曲のやうにやさしき     銀河

 捌き人から注文を出し、脇「青野の果て」に対し「ショパンの曲」と対句の気分を続けてもらった。前句の「透明体」を雨と捉えたものか(それは語源的に天でもある)、ショパンが導かれている。全体として第一連はきわめて叙景的なイントロダクションとなっている。

●第二連

にはとりを抱ける男と住み始め      桃子

 第二連は第一連とは対照的に極めて人事的な内容で始まる。前句の「やさしき」を受けたものか「にはとりを抱ける男」が登場する。「抱ける」はこの場合「抱くことができる」という可能の意味だろう。「にはとりを抱ける男」が人間にもやさしいかはさだかではないが、とにかくこれは恋の句に違いない。

 芸能記者に気をつける日々       媚庵

 ところがその恋は人に知られてはいけないものだった。ここまで第二連としての季は明示されていない。

情報のやうに名残の雪降りて        り

 ここで「名残の雪」が示され、第二連は春と確定する。ぼたぼたと大きめの春の雪は、あまねく知れわたる破局のように不吉である。

 行方の知れぬ春の野の旅         七

 まだ寒い春の野を当てもなく旅する。全体として第二連は甘く切ない人間界を感じさせる。

●第三連

水分(みくまり)をまもる川面の弓張は   河

 「みくまり」は「水配り」の意。山や滝から流れ出た水が種々の方向に分かれる所。水の分岐点。古事記には天之水分神と国之水分神が登場する。本句ではその水の分岐点の水面を三日月が守っているという。文字通り武器に由来する「弓張」という古語を選んできたあたり、なんとも緊張感を湛える。このようにして第二連の雰囲気から一変する。季としては月なので秋であるが、発句が「六月」なので、ここでは「月」の字を避ける配慮を見せている。

 鏡がはりに立てかけし斧         子

 前句の緊張感を「斧」で引き受け、第三連の雰囲気が決定的になる。「鏡がはり」とはどれほど鋭利に磨き込まれているのだろう。

二股を右へすすめば犬神家         庵

 第三連の雰囲気と「斧」から犬神家が導かれる。「よき、こと、きく」は和の模様のひとつであるが、横溝正史『犬神家の一族』ではそれぞれ斧、琴、菊に見立てた殺人事件が起こる。


●第四連

 三角巾を開くみみづく          子

 前句「二股」から数字つながりで「三角巾」が導かれたのだろうか。第三連の緊張感から一転して人智を超えた癒やしの世界に向かう。季は「みみづく」なので冬。

螺子ゆるみ前頭葉に帰り花         七

 惚けてしまうくらいの癒やしである。まだ花が出ていなかったので、冬の花である「帰り花」としている。

 機械仕掛の神にまかせむ         庵

 前句「螺子」から「機械仕掛」が導かれたものだろう。「機械仕掛の神」といえば、コンピューターに支配された社会を思ったりもする。手塚治虫の『火の鳥』では、二大国のコンピューターが直接対決して核戦争にいたり地球が絶滅の危機に瀕するわけだが、私たちのソネット俳諧は「む」で未来に希望を託して終わる。来年の六月も「奇麗な風」が吹くのだろうか。

2016年6月28日火曜日

脇起しソネット俳諧・奇麗な風の巻

掲示板で巻いていた連句が満尾。

六月を奇麗な風の吹くことよ       子規
 青野の果てはあをき海原       ゆかり
天地を透明体のなにか行く         七
 ショパンの曲のやうにやさしき     銀河

にはとりを抱ける男と住み始め      桃子
 芸能記者に気をつける日々       媚庵
情報のやうに名残の雪降りて        り
 行方の知れぬ春の野の旅         七

水分(みくまり)をまもる川面の弓張は   河
 鏡がはりに立てかけし斧         子
二股を右へすすめば犬神家         庵

 三角巾を開くみみづく          子
螺子ゆるみ前頭葉に帰り花         七
 機械仕掛の神にまかせむ         庵


起首:2016年 6月13日(月)
満尾:2016年 6月28日(火)
捌き:ゆかり

2016年6月14日火曜日

(7) ロボットは俳句を読めるのか

 半年にわたって「ロボットが俳句を詠む」を連載してきたわけだが、俳句自動生成ロボット「はいだんくん」は今のところ人工知能ではない。単に、あらかじめ人間が仕込んだ句型に対し、あらかじめ人間が仕込んだ語彙を音数だけを合わせてランダムに流し込んでいるだけである。そのランダムであることが味噌で、ときに人間の常識に縛られない語の衝突が生まれる。それが楽しみでやっているだけなのだが、こういうことをやっていると、いろいろ言う人が現れる。「でもそれって『俳壇』に載せる句は最終的に人間が選んでるんでしょ?」「ロボットが自己学習して、句型や語彙を増殖してるわけじゃないんでしょ?」「そもそもロボット、俳句は作れても俳句を読むのは無理なんじゃないかしら?」「お気の毒にね」…。

 いちいちごもっともである。でも、そんなことを言われると、人間はどうやって俳句を読んでいるのだろう。これはなかなか難しい。

  初夏の夜やふるさとの落し蓋 はいだんくん

 今、はいだんくんが適当に作り出した文字列である。これを俳句だと識別し鑑賞しようとするとき意識的にせよ無意識的にせよ人間は何を行っているのか。ちょっと箇条書きしてみよう。

① 既知の語や助詞を頼りに、文字列を構成要素に分解し意味を汲み取ろうとする。人間以外がやるには形態素解析という技術が必要となる。
 →初夏/の/夜/や/ふるさと/の/落し蓋

② 五七五の定型に当てはめようとして、漢字で書かれた音数を補正する。初夏をショカと読むかハツナツと読むか、夜をヨと読むかヨルと読むかとか、などは、定型に当てはめてみないと多くの場合分からない。
 →ハツナツの/ヨやふるさとの/落し蓋

③ 俳句に特有な季語、切れ字、比喩、句またがり、破調、音の調べ、ひらがな/漢字の表記選択などの技法の使われ方を汲み取ろうとする。

④ 過去に同じような句がすでに存在しないかを確認する(何をもって「同じような」というのかも悩ましい問題だ)。

⑤ 以上をほとんど瞬間的に行い、いいか悪いか判断する(しかも判断基準は所属する共同体によって劇的に異なっているのだ)。

 人間ってすごいですね、としかいいようがない。


(『俳壇』2016年7月号(本阿弥書店)初出)

2016年5月14日土曜日

(6) 俳句特有の言い回し

 前号から句型について着目している。今回は俳句特有の言い回しについていくつか拾ってみよう。具体例はすべて俳句自動生成ロボットによる。

 その一 直喩。比喩を行うときに「AはBのようだ」と直接に修辞する方法である。俳句なので「やうな」「やうに」「ごとし」あるいは「ごと」などを句型としては仕込む。「ごと」は「ごとし」の語幹だが、俳句以外でも多用されるのだろうか。変わったところでは、「○○を××と思ふ」というのも、俳句特有の直喩なのではあるまいか。

  たましひを裂け目と思ふ立夏かな      はいだんくん

 その二。隠喩。たとえを引くとき、「ようだ」「ごとし」などの語を用いない修辞法である。俳句ではしばしば五七五のうちの十二音だけをフレーズを整え、残りの五音に季語など関係なさそうなことを取り合わせる二物衝撃の技法が行われるが、このときの十二音と五音の関係は、隠喩となっていることがある。

  こひびとの光り始める金魚かな       はいだんくん

 その三。比較。「○○は××より△△だ」という文型において普通の散文では○○と××は比較可能な類似の概念であるが、この際、そんな垣根は飛び越えてしまうのもよいかも知れない。

  前髪は恋よりあはし夕薄暑         はいだんくん

 その四。極端。「すべての」「あまねく」「いつせいに」「ばかり」などの極端な表現による言い切りは、俳句では心地よいものである。

  黒南風のやうな片恋ばかりなり       はいだんくん

 その五。否定。不在を詠むことによって、逆にそれがあったときを読者に想起させるやり方である。反対概念の完全否定による強調という手法もある。

  サイダーがなくて鏡の乳房かな       はいだんくん
 
 その六。段階。それが「はじまり」なのか「途中」なのか「跡」なのかに触れると、そこに鋭敏な感覚があるような思わせぶりな句ができることがある。

  階段は朝の始まり鉄線花          はいだんくん

 それにしても、これだけの長さの記事のためにどれほど「次の一句」をクリックしたことか。馬鹿である。

(『俳壇』2016年6月号(本阿弥書店)初出)
 

2016年5月5日木曜日

非懐紙七吟連句「ゆく春の」

掲示板で巻いていた連句が満尾。

ゆく春のみちみち拾ふ記憶かな     七
 遅刻の坂の蒲公英の絮      ゆかり
再起動するたび軋む音がして     媚庵
 アンドロイドのうなだれる店     霞
君はまだ夢を見るかと囁かれ     苑を
 やや色褪せたゲバラTシャツ    なむ
月光のあまねくあらあらしく断層   銀河
 パイ生地捏ねるさはやかな午後    七
路地曲がる姉妹のこゑの聞こえきて   り
 電柱に貼るサーカスのビラ      庵
花盛まねきねこねここねこのて     霞
 壬生念仏に炮烙の舞ふ        を
幽谷にけふも人焼くうすけむり     む
 ロングコートの皺のばしゐる     河
エイジングケア化粧品爆買ひす     七
 自撮りしながら渡る信号       り
次の間に御毒見役のしかめ面      庵
 ここの暮らしはもう飽きたのよ    霞
ある朝の見知らぬ窓に初音ミク     を
 順に倒壊させる雪像         む
飛ぶ鳥の飛鳥は真神領となむ      河
 大口を開け呷る清濁         七

起首:2016年 4月14日
満尾:2016年 5月 5日
捌き:ゆかり

揮発もしくは音楽、色、そして家族  柏柳明子『揮発』句集評

 私が世話人をしている「みしみし第二」というネット句会がある。四字熟語をばらばらにした漢字詠み込みと当季雑詠の計五題で互選というのを、飽きもせず淡々と毎週繰り返しているのだが、柏柳明子は俳号「あんこ」としてずっと参加していて、くやしいことに毎回高点をさらって行く。同じ句会にご主人も俳号「けんじ」として初心者のときから参加していて、めきめき上達している。そんな縁でこのたびは私が句集評という大任を仰せつかったのであった。

   緋のダリアジャズシンガーの揮発する

 まずは句集『揮発』のタイトル・ナンバーから見てゆこう。句集の装丁の印象も相まってか、燃え上がるような情念を感じさせるではないか。カラフルなイメージを上五で提示し、ダ、ジャ、ズ、ガと濁音の続く片仮名により、音と字面の両面からその音楽がまとう異文化性を示し、最後は動詞で結ぶ。「揮発」という語の選び方がじつにすばらしい。かの音楽が持つ洗練された表層の華やかさの内から土着の情念が匂い立つようである。
 さて、掲句は句集のタイトル・ナンバーというだけではなく、句集というかたちでまとめられた柏柳明子の作風の傾向を端的に示してもいる。まず『揮発』に収められた句は、音楽ないし音をモチーフとした句が圧倒的に多い。三百余句のうち、音楽ないし音を扱った句はじつに五十句を数える。また、色を詠み込んだ句は、音の句と重複もあるが二十五句を数える。その次に多いのは家族を詠み込んだ句だろう。そんな順で全体を見てゆこう。

一 音楽もしくは音
 句集『揮発』には音楽もしくは音を扱った句がとにかく多い。多いだけでなく、クラシック、ジャズ、邦楽など幅広いジャンルにまたがっている。俳句界一般で音楽を詠むことがどのくらい普通に行われているのか寡聞にして知らないが、柏柳明子の所属する結社「炎環」には浦川聡子というその道のスペシャリストがいる。その影響もあったのだろうか。
 
   捕鯨船無線に混じるビートルズ

 ファンなら分かると思うが、どんなにざわざわした中でかすかに聞こえたとしてもビートルズだと識別できるあの感じ、というのがある。多くはジョンの声質に含まれる独特のやかましさのせいじゃないかと私は思っているのだが、そこは人によっても違うだろう。捕鯨船に乗り合わせることも、そこで無線が聞こえることも、さらには音楽が混信することも、状況としてはかなり特殊だと思うが、それがビートルズだと識別できてしまうことについては、これはもう、デジャヴのように分かる。
 
   緑の夜インド音楽伸縮す

 「伸縮す」が簡潔にして見事だ。それだけで、持続音のなか微妙な音程で上下するシタールの音響が聞こえてくるようである。また「緑の夜」が無造作なようでいて、そこだけ異世界のような感じを巧みに捉えている。

   昼の月二の糸下げて唄ひだす
 師匠は今でも夜はお座敷に上がるのだろうか。「昼の月」と上五に置いただけで、木賊かなにかをあしらった古い民家の三味線教室の情景が見えてくる。「二の糸下げて」という専門用語が何を指すのか私は門外漢なのでまったく分からないが、それによってなんともそんな用語が飛び交う教室めいている。

   機械音混じつてゐたり蜃気楼

 不思議な句である。実際には機械音はごく近くで発しているのかも知れないが、こう俳句に書かれると、遠景の蜃気楼がぶうんぶうんと音を発しているようで、ただでさえ不思議な光学現象が音を帯びてまったくこの世のものではないように思われる。

   極月や集音マイク吊るされて

 音そのものを詠んだ句ではないが、コンサートホールの天井によくあるあれのことだろう。見えるか見えないかの細いワイヤーでマイク本体がぴんと吊られ、そのワイヤーより太いマイクケーブルが接触不良にならないように、ゆるやかに弧を描いてどこかへ続いている。音楽が始まる前の観客席からあれを見ると、観客席の我々によい音が届くように設計されているはずのホールで、あんな高いところなのにちゃんと録れるのだろうかなどと、余計なことを考えてしまう。とはいえ、あれは単なる録音設備であって、いわば脇役であり主役は音楽そのものである。忙しい極月の束の間、その空間ではどんな演奏が繰り広げられるのだろう。そんな余情を「て」に託している。

   十月やガラスの声の案内人

 この句が句会に出されたときに、どなたかが展覧会の音声ガイドだという読みをしていたような気がする(記憶違いかもしれないが…)。姿のないガイドを「ガラスの声の案内人」と捉える読みは十分に魅力的だが、実在する案内人の声について「ガラスの声」とはどんなに麗しい声なのだろうとも思う。そしてあらためて句をよく読むと、状況については「十月や」としか提示されていないことに気がつく。芸術の秋だともたそがれの国だとも言っていない。なんの案内人かすら、読者にゆだねている。ひろがりをもった魅力的な句だ。

二 色
 句集の装丁の情熱的な色彩感からは意外であるが、色を詠み込んだ句の中では、季語も含め圧倒的に青が多い。ちょっとちょっと、と言いたくなるくらい青だ。

   鳥帰るかたまりかけし青絵の具

 青を詠んでいるようでいて、じつは青の不在を詠んでいる。「鳥帰る」と言われて思い浮かべるのは、鳥曇の白であって青空ではない。青絵の具は使われず、チューブの中でかたまりかかっている。二句ずつ配列されたページの中のもう一句は「石鹸玉吹く社会人三年目」。吐く息が石鹸玉に閉じ込められてゆらゆらしているようなつかみどころのない閉塞感が、「青絵の具」の句にも通じているようでもある。

   帰りたき場所のひとつよ冬青空
 こちらはストレートな感情の吐露として青が詠まれている。ここでは「帰りたき場所のひとつよ」と詠まれているわけだが、では青は陽性の色なのかというと、他句と併せ読むとどうもそうでもないらしい。英語圏では青はかなしい色で、ブルースというのもブルーな唄なのであるが、本句の場合も「帰りたき」=「居たくない」であって、作者にとって青とはなにかしらブルース・フィーリングを伴った色なのではないか。だとすると、前掲の句はやはり青の不在を詠んでいるようでいて、裏の裏をかいて青を詠んでいたのだ。「診療所の青きスリッパ秋立てり」「青蜥蜴夢より逃げてきたりけり」に感じられる不安、「青林檎カッターナイフほどのNO」の未熟な殺意、「大年の教室あをくありにけり」「約束のあをく書かれし九月かな」の寂寥感など、さまざまな微妙な思いを青というただひとつの色が請け負っている。そんなことが成り立つのは、もしかすると俳句という不思議のなせるわざかもしれない。
 
三 家族
 父母、弟妹を詠んだ句、ご主人を詠んだ句など、身近な人が面白い題材になっている。

   退職の日の父の靴桃の花

 晴れの日の靴の色はやはり黒だろう。どこにもそんなことは書いていないが、「桃の花」との取り合わせがそう感じさせる。定年まで勤め上げ家族を支えてきたお父上への万感の思いが感じられる。

   一族の豊かなからだ冬座敷

 柏柳明子とご主人は、なんだかすごく似ている。顔つきも体つきも物腰も似ていて、同郷とか遠い親戚なのですかと訊ねたくなるほどである(ぶしつけに本当に訊ねたら、そうではないですとのお答えだったが…)。だから、本句はめちゃくちゃ可笑しい。新郎新婦ご両家が一堂に会したとき、それぞれの一族のひとりひとりが、互いにパラレルワールドの存在を確信するに至ったに違いない。

   寝転べば金管楽器となる寒夜
 それもチューバとかホルンとかの類いだろう。「初晴の道にふくらむ家族かな」という句もある。このあたりじつに自虐的にして諧謔的である。

   八十八夜全権は妻にあり

 夫婦間の力関係を詠んだ句がいくつかあり、なんとも豪快である。「小春日や夫の提案微修正」「煮凝へ大きく入る妻の箸」などの句を見るにつけ、それを全面的に包み込むご主人の包容力や愛の力を感じる。

   夜濯の夫よ三番から歌ふ

 おおらかでものごとにこだわらないご主人の姿が伺える。なんだかじつにユーモラスである。冒頭私は、同じ句会にご主人も俳号「けんじ」として初心者のときから参加していて、めきめき上達している、と書いた。こうなると俄然楽しみなのは、けんじさんがいつの日か句集を出版されることである。けんじさんの目に、俳句の題材としてのあんこちゃんがどのように映っているのやら。

四 揮発する俳句
 いささか脱線した。ここまで定量的な側面から句集『揮発』のある傾向を紹介してきたわけであるが、俳句の本領というのは、やはりそういうものではないだろう。決して十把一絡げに語ることはできない、ただ一句でも、さりげないできたての香気を放つ句。そんな仲間っぱづれの句たちを最後に見てみよう。

   春の雪縄文人の話かな

 シンプルな二物衝撃の句であるが「春の雪」が巧い。今からは想像もできないような過酷な生活環境にあった縄文人は、春の雪になにを思っていたのだろう。

   神様のかんたんな顔新樹風

 高度な美術様式とともに伝来した仏教やキリスト教ではない、土俗的な神様なのだろう。それは現代の私たちの身のうちにも、ちょっとした感情の起伏とともに想起されるに違いない。「新樹風」という季語が、そんな古くて新しい感情に似つかわしい。

   未来より雪の循環してきたり
 一転して、今度は未来であるが「循環」が絶妙に巧い。結局のところ、未来とは過去であり、過去とは未来であり、それを切り出した、できたての香気を放つ句とは、一見客観写生とは異なる作風ながら花鳥諷詠の理念そのものなのである。このようにして、柏柳明子の句は、刻々と揮発している。


『豆の木』No.20(2016年5月)初出

2016年4月14日木曜日

(5) 句の姿かたち

 俳句自動生成ロボット「はいだんくん」は、ごく大ざっぱにいうと、かちっとした句型に対しランダムに語彙を流し込んでいる。前号までで季語、名詞、動詞、修飾語と、ランダムに変化する語彙の種類を増やしつつ、特に説明することもなくおのずと句型も増えていたのだが、今度は句型について着目してみよう。俳句入門書みたいな進行となり、改めて人間として作句のありように思いを馳せることになるかも知れない。

 その一。切れ字。「はいだんくん」では「や」「かな」「けり」を使用している。切れ字によって何が何から切れているのかというのは諸説あるところであるが、俳句の前身である俳諧(連句)の発句が、脇(二句目)以降から切れて、一句として独立した世界を提示しているとする説に一票投じたい。切れ字のある句は切れ字によって独立するとともに、詠嘆し余韻を残す。ロボット自身は感情を持たないが、ロボットが切れ字とともに詠んだ句には詠嘆が感じられる。これは切れ字がまとった伝統とか文化とかによるものであり、読み手がその文化圏にいることを前提として成り立っている。これは人間が詠んだ句を観賞する場合でも同様である。作者の感情がどれほどの量で詠嘆していようと、句としてそれなりの形ができあがっていないと読者には伝わらない。多くの入門書が切れ字にページを割いているのは、手っ取り早くそれなりの形をマスターして先人と同じ文化圏に立ちましょうということなのだ。

 その二。季語。「はいだんくん」は厳格な有季定型を貫いている。一句にひとつ季語を含み、季重なり、季またがりなど初心者にはタブーとされることはしない。一般的な入門書で季語を詠み込むにあたりもっとも注意されることは、「季語を説明しない」ということだが、その点ロボットはじつに気が楽である。季語もそれ以外もまったくランダムとしているので、大抵の場合、適度に意味が通らないのだ。もっとも偶然にまかせているので、意味が通り過ぎる駄目駄目な句ができてしまうこともあるが、そんなときは「次の一句」を押そう。

 蒲公英の影を漏らしてしまひけり  はいだんくん

(『俳壇』2016年5月号(本阿弥書店)初出)

2016年4月9日土曜日

ソネット俳諧 あざらしあまざらしの巻

掲示板で巻いていた連句が満尾。

 ソネット俳諧 あざらしあまざらしの巻

春嵐あたたかしあざらしあまざらし    霞
 草萌ゆ夢のみづ燃えて       ゆかり
ランプ点せば揺れる花と人影    まにょん
 自販機限定のBOSSごとり     なな

ポップコーンふはとほほばり浴衣会   銀河
 インコは語る「カレハヤメトケ」    霞
妹のかたちが変はる慣性力        り
 薬研坂下タモリブラつく        ん

巻き戻し再生巻き戻し再生        な
 平均寿命伸びてさはやか        河
Googleで経路検索 目的地:月      霞

 冬の蝿から銀奪ひつつ         な
水洟の棋士ジパングに将棋盤       河
 障子にたまるひるのしづかさ      ん

起首:2016年 3月29日
満尾:2016年 4月 9日
捌き:ゆかり
指導:霞

2016年3月12日土曜日

(4) 修飾語をあしらう

 前号までで季語、名詞、動詞をランダムに変化させるようになり、だいぶ俳句らしい目鼻立ちが整ってきた。さらに細やかな表現を獲得するために、今度は修飾語について考えてみよう。ただしロボットにやらせたいのは、意味が通ることではない。うわべだけもっともらしく、そのじつ、何言ってんだかさっぱり分からないもの、それでいて俳句以外のものではなさそうなもの、そんな句が求めるところだ。


 さて、修飾を機能的に考えると、活用しない体言(名詞、代名詞)を修飾する連体修飾と、活用する用言(動詞、形容詞、形容動詞)を修飾する連用修飾があるわけだが、その区分よりは品詞ごとに見て行った方が分かりやすいだろう。


 その一。形容詞。形容詞は事物の性状または事物に対する感情を表す。活用としてはク活用もしくはシク活用がある。赤し→赤く、など活用時にシが落ちるものがク活用で、うれし→うれしくなどシが落ちないものがシク活用であるが、動詞ほど複雑な活用ではない。

 その二。形容動詞。「きれいだ」「すてきだ」の類いで、「だ」をとると名詞となる。異論はあるかも知れないが、ロボットとしては、名詞のひとつの特殊な属性として形容動詞を管理するものとし、活用語尾である「なり」とか「たり」は句型の一部として管理することにする。 形容詞や形容動詞は活用形により連体修飾となったり、連用修飾となったりする。ここまで来れば、修飾語として残る主なものはひとつだ。

 その三。副詞。副詞は自立語で活用がなく主語にならない語で、主として連用修飾語として用いられる。状態副詞、程度副詞、叙述副詞などの分類があるにはあるが、俳句自動生成ロボットにとってそんな区別はあまり意味がないだろう。字数だけ気をつけて「いつせいに」とか「たちまち」とか「一寸」とか「やや」とか、俳句の表現として手垢にまみれた陳腐な語を登録しておこう。修飾語とは大体そういうものである。そこに本質はない、たぶん。

  人体は空よりうれし花の昼  はいだんくん

(『俳壇』2016年4月号(本阿弥書店)初出)

2016年2月13日土曜日

(3) 動詞て?

 前号まではランダムに変化するのは名詞だけだった。今回はロボットで動詞を扱おうという観点から考える。日本語がネイティブな人なら普通にできることが、ロボットに取り込もうとするとあらためて難しい。

 その一。動詞は活用する。活用の種類として文語文法なら四段とか下一段とかカ行変格とかあって、それぞれが未然形、連用形、終止形、連体形、已然形、命令形に変化する。口語文法ならさらに五段とか仮定形とかになる。「はいだんくん」は語彙を句型に流し込んでいる訳だが、あらかじめ語彙を登録するときに四段とか下一段とかの種類を併せて登録し、句型の側で未然形とか連用形とかを指定し、流し込むその場でロジックにより活用させている。ところで動詞は語幹と活用語尾に分かれる訳だが、二音の動詞の一部では語幹が活用語尾になっている(例えば「見る」の未然形、連用形)。単純に終止形から活用語尾をとって、未然形とかの活用語尾を足せばできあがりという訳ではない。日本語はじつに難しいのだ。

 その二。動詞によってその前に使える助詞は決まっている。「水を飲む」というが「水に飲む」とは言わない。「朱に染まる」というが「朱を染まる」とは言わない。助詞「を」「に」は、動詞によって使えたり使えなかったりする。対策として語彙を登録する際に助詞と動詞を組み合わせ「を飲む」「に染まる」という単位で語彙登録する考え方もある。が、助詞を省略して切り詰めた表現をすることもある俳句でそれをやることは面白くない。かくして語彙を登録するときに動詞の属性として「を」「に」が使えるかを併せて登録することにする。

 その三。動詞の語尾は音便して「ん」や「つ」になり、動詞の次に来る「て」はときどき濁音となる。「見て」「聞いて」「言つて」「楽しんで」…。 このあたり、ネイティブな日本人はなまじ自然にできてしまうので、法則として理解を超えている。ロボットを開発するために、外国人相手の日本語学校に通おうかと思ったりもする今日この頃である。

 ふるさとに辛夷の少女満ちてきし はいだんくん

(『俳壇』2016年3月号(本阿弥書店)初出)

七吟歌仙 ひとすぢのの巻

掲示板で巻いていた連句が満尾。

   ひとすぢの飛行機雲や筆始     ぐみ
    海と接するまろき初空     ゆかり
   酒満たす壺に小さき耳ありて    月犬
    秋の蝶来て何か囁く        七
   月光のあまねき川の流れたる   てふこ
    しめぢを採りに上る山道     苑を
ウ  洋館に近寄らぬやう釘をさし   らくだ
    いとしさ余つて藁の人形      み
   心なきブリキの身となのたまひそ   り
    保護責任者遺棄の疑ひ       犬
   ともだちのゾンビと遊ぶ夢の島    七
    あそこに見える千葉県の影     こ
   ひたすらに夕陽に向かひ知事走る   を
    胴着干されて月の涼しき      だ
   頭のうへをナポリに紐はめぐらされ  み
    電子レンジで加熱四分       り
   通勤の車窓に濠の花あふる      犬
    朧夜を売る恍惚の人        七
ナオ どこかしらきしみ続けて風車     こ
    土産物屋の座布団に猫       を
   高座から野次が下手だと怒られて   だ
    はや夏いろの喜多美術館      み
   我々に恋の幟の翻る         り
    縺れた糸をほぐす交はり      犬
   婦人誌の付録に入れる懸想文     七
    目力も無く女子力も無く      こ
   ウナギ目ウミヘビ科ヒレアナゴ属   を
    海底火山噴火を予知す       だ
   満月にやかんの蓋は踊り出し     み
    夜長を吠える銀の目の犬      り
ナウ 人知れず割れて真つ赤な柘榴かも   犬
    四辻曲がれば黄泉比良坂      七
   ちよび髭の貌の大抵三鬼めく     こ
    老婆寄り合ひ捏ねる草餅      を
   待ちわびし文殊の寺の花便り     だ
    生まれし仔馬塔を仰ぎぬ      み


起首:2016年 1月17日(日)
満尾:2016年 2月13日(土)
捌き:ゆかり

2016年1月14日木曜日

(2) 二月は春の季語なのか

 ロボットで季語を扱おうという観点から歳時記を眺めていると、あらためて品詞のこととか暦のこととか人間なら気にしないようなことに気づく。

 ロボットなので「ララララや」とか「リリリかな」のララララやリリリに字数の合った季語をランダムに流し込むことを考えるわけだが、まずそこで行き詰まる。歳時記に載っている季語はざっと八割方くらいは名詞だと思うが、そこに断りもなく「春浅し」のような形容詞や「冴返る」のような動詞が混在している。「や」や「かな」はその前が動詞でもさまになるが、「ルルルルの」のルルルルにはさすがに動詞は入れられない。「春立つの」にはできないのだ。そんな訳で名詞、動詞、形容詞などを分類し出すと、日常生活ではまず出会わないような「霾(つちふる)」とか「雪しまく」とか品詞すらよく分からないものに出くわしては途方に暮れる。

 また、現在日付から本日使える季語を取得しようなんてことを考えると、暦の問題に直面する。歳時記の中では二十四節気と新暦、旧暦が混在する。大抵の歳時記で【春】を引くと、立春から立夏の前日まで、みたいな説明がある。この立春とか立夏とかは、二十四節気に由来する。二十四節気は純粋な太陽暦なので、うるう年のある新暦とは、四年に一日程度の誤差がある。だから立春を引くと(二月四日ごろ)というふうに「ごろ」という表記がある。これに対し旧暦はややこしい。月の運行をベースにすると一年が太陽暦にくらべ約十一日短くなってしまうことから、二十四節気との折り合いにおいてずれが拡大すると閏月を置いて補正した。そんな補正量の大きさなので陰暦の睦月とか如月とかは、新暦の何月何日ごろから何月何日ごろまでという記載がない。

 さて、ロボットの話なのであった。では立春から立夏の前日までを「春」として、二十四節気ベースで二月四日から五月五日までの期間、歳時記にある春の季語を使えるとしようとすると、あれ? 春の季語には「二月」がある。では二月一日から二月三日までは「二月」を春の季語として詠んではいけないのか。ロボットはここで悩んで自爆したくなるのだった。

 立春の鏡は夢となりにけり はいだんくん

(『俳壇』2016年2月号(本阿弥書店)初出)