2016年7月9日土曜日

作者自身が楽しんだであろうリシャッフル

 歳時記構成の第一部の話の続き。
 結局のところ、独立した一句一句として読ませるための構成というよりは、作りためた句作について作者の意図を超えてリシャッフルする効果を作者自身が楽しんだということなのかも知れない。本という体裁で最初から読む以上、ひとつひとつの句は隣り合う句から逃れることはできない。たまたま同じ時に詠んだ句が並ぶこともあれば、ぜんぜん違うときに詠んだ句が同じ季節の生活なら生活というだけで隣り合うこともあるし、同じ時に詠んだ句がばらばらに点在してしまうこともある。そうなったらそうなったで、それはスパイラル方式とも言える効果を上げるのではないか。そもそも同じ作者が詠んだ句なので、同じ時に詠んだものでなくても、同じような捉え方(入力系)や同じような詠みぶり(出力系)となることもある。句の配列については、そのくらいのおおらかさで向き合った方がよさそうである。

●たまたま同じ時に詠んだ句が並んだであろう例
悲しみに添へぬかなしみ梨を剝く 百花
有りの実よ死に水のかく甘からん


 俳句というのは不思議なもので、意図せぬところに調べが生まれたりもする。どなたかの死に直面したであろう掲句であるが、「悲しみ」という言葉にはナシという音が含まれていて、「悲しみ」「かなしみ」とリフレインした後に置いた季語によってナシという音を三回繰り返す調べが生まれている。梨は多く果汁を含み「豊水」「幸水」などの品種がある。「死に水のかく甘からん」には万感の思いが感じられる。

眠るなよ春は名のみの津波の夜
停電や春を手探り足さぐり


 東日本大震災を詠んだ句だろう。この二句は時候の句として並んでいて、離れたところに地理の句として「人々を呑むとき黒し春の波」がある。また同じ年ではないのだろうが、行事の句として「被災者へおことば春季皇霊祭」「津波忌や海より生れて星うるむ」がある。最初に読んだときにはこんなに分散しては逆効果だろうと感じたが、なぜ歳時記構成なのだろうと思いながら繰り返し読むうちに、これはこれでいいような気がしてきた。歳時記は必ずしも完璧なものではないが、私たちは古来歳時記とともに俳句で世界を記録してきたのだ。歳時記的な世界のモデルとして、ありなのではないか。

右腕のしびれてきたる涅槃かな
添寝するごとくに涅槃し給へり


 寝釈迦である。母として、また祖母として添寝してきた感慨を重ねている。

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