2018年12月1日土曜日

山本掌『月球儀』を読む(最終回)

 次の章は「海馬より」。海馬は大脳辺縁系で古皮質に属する部位。本能的な行動や記憶に関与する。これまでの章と様相を一変し、介護俳句となる。このリアリティのために、フィクションの句は「偽家族日乗」に寄せられていたのだろう。痛切な句が続くが、ここでは章の最初と最後の句を引く。

  痴呆とは海図のない旅さらの花  掌

 地図であれば中七に収まるわけだが、わざわざ「海図」としているのは、自分で移動すればいいというものではないからだろう。老人の体調は海の波のように、穏やかな日もあれば激しく時化る日もあり乱高下する。

  父咲(え)みて米寿の馬の駈けぬけよ

 米寿のその日、つかのま穏やかな笑顔だったのだろうか。そのまま持ってほしいという万感の願望が「米寿の馬の駈けぬけよ」の命令形に込められている。ちなみに章の最初の句に「海」があり、最後の句に「馬」があり、海馬ならぬものに分かれているところが暗示的である。

 次の章は「空蟬忌」。季節はめぐり「荒梅雨や関東平野は水の檻」を導入として、介護俳句がしばらく続いたのち息を引き取る。

  死よ急ぐなのうぜんかずらの首あり

 風船のしぼんだような凌霄花の様子が、痩せ衰えた老人の膚を想起させる。

  ただならぬ蟬の選びし蟬の声

 それがまさに虫の知らせだったのだろう。

 次の章は「寒牡丹」。研ぎ澄まされた句境に至る。

  鎖骨美し月光のはりさけん

 骨格標本である可能性もなきにしもあらずだが、痩身の人体の無防備な首元のうつくしさだと読みたい。月光とぎりぎりの緊張関係にある。

  寒落暉はげしき静の独楽とあり

 高速に回転し均衡を保っている独楽と落日の取り合わせの句である。「寒落暉」と「独楽」は季またがりだが、実際に眼前にあってぎりぎりの緊張関係にあるのだから、つまらぬ指摘はすべきでないだろう。

 次の章は「寒牡丹 ふたたび」。なにがふたたびなのかというと、父上に続き母上も亡くなるのだ。沈痛な句が並ぶが最後の一句を引こう。

  神遊ぶ朱のひとしずく寒牡丹

 表面上は寒牡丹の花弁のありようを詠んだものであろうが、この流れで挙句に置かれた「神遊ぶ」はまさに絶唱であろう。万感の思いが去来する。

 最後の章は「俳句から詩へ」。自作四句と加藤かけいの一句から着想を得て口語自由詩へと展開している。「八日はや棚機津女(たなばたつめ)の解かれて」による一篇など、意外な展開で面白い。

(完)

2018年11月30日金曜日

山本掌『月球儀』を読む(6)

 次の章は「非在の蝶」。「非在」とは、存在するものが今ここにいない不在と異なり、具体物ではない抽象的な概念のことらしい。そしてこの章に蝶の句はない。

  まず地球そしてわたくし青き踏む  掌

 踏青は旧暦三月三日に野辺に出て青々と萌え出た草の上を歩き宴を催した中国の習俗に由来するが、いきなり「まず地球そしてわたくし」と切り出す。なにごとと思うが、大地があってこその草原であり、それを踏むことのできる私なのだろう。天体のスケールで「まず地球」とまで言ったところがこの作者ならではである。

  その日より冬の貌(かんばせ)はずし置く

 冬の最後の日である節分と春の最初の日である立春とでは、実際に見える景色はほぼ変わらない。にもかかわらず、俳人は立春がくれば鬼の面をはずすかのように冬を捨て置き春の句を詠むようになる。その阿呆くささを捉えた機知の句だろう。

 その次の章は「蝶を曳く」で、またしても蝶。こちらは全句が蝶の句。つまり前章は、じらし飢餓感を与えるための非在で、本章で満を持して味わえる構成となっていたわけである。

  D海峡うちかさなりし蝶の骨

 あまねく知られた安西冬衛の一行詩「てふてふが一匹韃靼海峡を渡つて行つた」を踏まえた句である。しかしそうとうにブラックな解釈で、その一匹以外は渡れず海峡が屍累累となっているというのだ。あえてイニシャルにしたDにはdeathの意も込められていよう。

2018年11月28日水曜日

山本掌『月球儀』を読む(5)

 次の章は「偽家族日乗」。日乗は日記のこと。章題のとおり偽家族による猟奇的な生態が淡々と綴られる。ここまで幽閉にも砒素にも美童にもすっかり慣らされて来たが、「のうぜんかずら綾の鼓はなりませぬ」「曼珠沙華幼(おさな)をたおりにゆくわいな」あたり、能や狂言の素養も要求されているようである。

  狂(た)ぶればのわれは花野の惑星よ 掌

 では接続助詞「ば」+連体助詞「の」の組み合わせは、能や狂言の素養があれば理解できるのだろうか。確信を持てずに書くのだが、これは音楽仲間だけに通じる「行かねばの娘」「買わねばの娘」の擬古典的展開ではないのか。だとすれば出典はアントニオ・カルロス・ジョビンによるボサノバ名曲の邦題「イパネバの娘」である。音楽仲間のあいだでの使われ方としては、例えば絶対欲しいCDを指して「私それ、買わねばの娘です」などという。この句の作者がメゾソプラノ歌手ということであれば、応用として「狂(た)ぶればのわれ」くらい大いに言いそうである。ちなみにこれを書いている時点で、作者山本掌と筆者三島ゆかりは面識がないので、まったくさだかではない。

2018年11月27日火曜日

山本掌『月球儀』を読む(4)

 次の章は「危うきは」。これまでの二章ほど章のタイトルは明示的でない。字足らず、字余り、宗教語、会話体、命令形、擬態語などを技のデパートのように繰り出してくるが、無意味の散乱ではなく、生の孤愁とでもいうべきものの表現に総体的に向かっている。また伝統的な連句とは違うマナーで前後の句を何かしら関連を持たせて配列しているようである。章の最初の四句を見てみよう。

  樹下春光内耳たどれば地中海   掌
  パピルスの文字は眠りぬ青葉騒
  聖五月そっと言の葉屋上に
  繭透けてうすむらさきのさざなみ


 地中海→パピルス→言の葉、と連想のパスが渡され、繭のなかのいまだ発語しない(字足らずな)生命体に及ぶ。
 続いて章の最後の五句を、もう少しつぶさに見てみよう。

  銀漢の星のひとつを旅という

 宇宙全体としては摂理であるが、そのひとつひとつのありようは多様で旅というべきドラマが繰り広げられている。

  銀漢にわれは牛飼う漢(おとこ)かな

 通常の連句なら同語で付けることはしないものだが、連句ではないのでそこは指摘すべき点ではない。ひとつの旅として牽牛織女の故事を持ち出している。沢田研二「危険なふたり」の歌詞、「今日までふたりは恋という名の旅をしていたと言えるあなたは年上の人」(安井かずみ作詞)を思い出したりもする。

  白帝の罪咎われを教唆せよ

 前句とは「われ」で同語反復している。「白帝」は陰陽五行説に基づいた擬人化による秋の異名であるが、擬人化できるものには罪も咎もあるという捉え方が面白い(だって、秋ですよ…)。

  見よここに惑乱のごと秋の火蛾

 形式的には前句の命令形を反復するとともに、いかにも白帝の罪咎であるかのように、無実の蛾がおのれを火に投じる。火蛾の「が」は、名詞でありながら、「見よ、ここに○○が」という倒置の文体を音韻的に補完している。もしくは音韻的に導かれて収まった語が「火蛾」である。

  危うきはたとえば露のおもきこと

 この章の挙句である。露といえば王朝和歌的無常観において消えやすい、はかないものの代表であるが、ではどう消えるのか。前句の火からの連想で干上がることを思えば露の玉が大きいほど干上がらないわけだが、今度は逆に落下して落ちる危険が大きくなる。よかれと思うことは時として逆の結末を招き、それもまた無常である。そしてそれもまた白帝の罪咎なのかも知れない。

2018年11月24日土曜日

山本掌『月球儀』を読む(3)

 次の章は「禽獣図譜」。実在の動物に限らず、鵺、迦陵頻伽、一角獣、火喰獣(サラマンドル)なども登場する。猿嫁、猿王あたりはちょっと分からない。出典があるのかも知れないし、その辺の人間社会のことなのかも知れない。また「青き馬」「群青の馬」「青き鷹」「青麦」「青水無月」「青海亀」と、青への固執もしくは偏愛も感じられる。そんな中、鮎の四句がただならぬ飛躍を見せる。

  若鮎の骨美しき宇宙塵     掌
  寵童を殺めし信長鮎を食う
  鮎食べて天球の半径を測る
  月球儀鮎の動悸のおくれけり


 なんと四句のうち三句は天体との取り合わせとなっている。年魚の異名が示す通り鮎は一年で一生を終えるので、そういう意味では惑星の周期に思いを馳せる引き金となっているのかも知れない。句集のタイトルの由来であろう月球儀の句、「動悸」が「同期」の同音異義語であることに注目しておこう。俳句の世界では同音異義語など注目に値しないことかも知れないが、この作者は朔太郎の写真とコラボするような人なので、油断ならないのだ。

2018年11月21日水曜日

山本掌『月球儀』を読む(2)

 次の章は「双の掌」。「掌」は作者自身の名前でもある。手や指を中心とした連作であるがどの句にも必ず手が出てくる訳ではない。そのあたり作者の美意識によってゆるやかに連結されているようである。「掌」から「磔刑」「ゴルゴダのイエス」などが導かれたりもするが、連作は意外な結末に向かう。最後の三句をみよう。

  寂静や人体直立歩行より   掌

 寂静は仏教用語で「煩悩(ぼんのう)を離れ苦しみを絶った解脱(げだつ)の境地。涅槃(ねはん)。」とのこと。ついでながら前章「さくら異聞」中の瞋恚も仏教語であった。特定の宗教の立場ではなく、作者の詩情のほとばしりによってあるときは磔刑となり、あるときは寂静となるのだろう。

  われ眠る月の柩に仰臥せり

 「月の柩」という措辞が世俗を離れ比類なくうつくしい。そして柩のなかにあって死とは言っていない。「われ眠る」なのだ。前句「寂静」から導かれたイメージの広がりなのだろう。連作ならでは味わいである。

  月光の贄なるわれの生死かな

 前句のパラフレーズであるが、生け贄とか鳥葬とかが頭をよぎりつつ「月光の贄」の静謐さを思う。そんな今際の時もよいかも知れない。





 参考までに柩に寝るというだけなら先行句として例えば以下がある。

  寝棺より眺む風花かと思ひ 清水径子
  棺に寝て朝顔へ人走らする    同

 清水径子も独特の死生観を詠んだ俳人だが、後者は息を引き取ったばかりのあわただしさを故人に転嫁したユーモラスにして万感の追悼句だろう。

2018年11月20日火曜日

山本掌『月球儀』を読む(1)

しばらく山本掌『月球儀』(DiPS.A)について書く。
(著者にご恵送頂きました。ありがとうございます。)
 最初の章は「朔太郎・ノスタルヂア」と題され、萩原朔太郎が撮影した写真六枚と山本掌の句のコラボとなっている。朔太郎の写真は初めて見たが、ここで使われている多くは茫洋とした不思議なものである。わりとくっきりしたものでは「大森駅前の坂道」という一枚があるが、ひと気のない白昼の坂道と石垣を遠近法の構図で捉えたもので、それはそれで夢のようである。右側の高台は光の関係でほぼ影となっている。例えばその一枚に添えられた句は以下。

  影なくす唇(くち)に秋蝶触れてより 掌

 このように写真を説明する訳でもなく、付けられている。秋といえばものの影がくっきりとする季節であるが、幻想の入口であるかのように、倒置で「影なくす」と切り出している。

 次の章は「さくら異聞」。三部に分かれ、さくらにまつわる四十句が収められている。「日月流離糸をたぐればさくらかな」で始まり「白馬(あおうま)のまなぶたをうつさくらかな」で終わるが、四十句全体がひとつの世界でそこから一句を切り出して鑑賞したりするものではないのだろう。憎悪、瞋恚、妬心、殺意などの激しい感情が妖艶に移ろい、美童が打擲され臓器がゆらぐ。
 
(続く)

2018年11月4日日曜日

愛着と執着の「を」

 そうこうしているうちに大野晋、丸谷才一『日本語で一番大事なもの』(中公文庫)にたどりついた。「天ざかる鄙の長道を恋ひ来れば明石の門より家のあたり見ゆ」を検索したら、個人でこの本の索引を作っているサイトにヒットしたのだった。87年に出版され90年に文庫化された本で、その時分には私はまだ俳句をやっていなかった。いや、仮にやっていたとしても、題名を見ただけで「けっ」と言って近づかなかったに違いない。「てにをは」を中心に日本語の助詞について徹底的に解剖するじつにディープな対談で、丸谷が聞き手に回り大野が解説するスタイルとなっている。
 「を」については<愛着と執着の「を」>という刺激的な章題となっていて、見出しを拾うと<目的格の「を」><経由の場所、時間を示す「を」><接続助詞の「を」><『新古今』的な「を」><「ものを」の意味><「ものゆゑ」「ものから」のむずかしさ>と続く。

丸谷 強調とか詠嘆とかの「を」ですね。
大野 いろいろな意味が入っているわけです。論理的な目的格であるという機能だけでなくて、それ以外に、それに対する愛着であるとか、執着であるとか、承認であるとかが「を」にはあるんです。原則として「を」には、それがあることを認めておくと、助詞の「を」を理解するときに、非常にわかりやすいと思います。

という原則があって、さまざまな「を」について語り尽くしている。おそろしい。

 「を」についてはさておき、<「……のごと」から「……のごとし」へ>というくだりもある。「こと降らば袖さへぬれて通るべく降りなむ雪の空に消(け)につつ」を引き合いに、「同じ降るのだったら」という歌の解説の後、以下のように続く。

大野 (前略)ですから、「こと」というのは、「同じ」という意味です。それで「夢のごと」「今のごと」は、この「こと」の頭が濁ったもので、「今のごと」は、現代語では、「今と同じ」ということになります。(中略)「ごとし」という形容詞は、この「ごと」に形容詞語尾「し」をつけたものです。

 ひえ~、なんということ。私は俳句しか知らないので、俳句の中で見かける「ごと」について、定型の要請で「如し」を勝手に縮めたものだと思っていたので、認識を新たにした。逆だったんだ。いろいろ目からうろこが落ちる本である。


2018年11月3日土曜日

人麻呂は「を」とは書いていない

 ふたつ前の記事で「を」について書いた。岩波古語辞典で「移動や持続を表す動詞の、動作全体にわたる経由の場所・時間を示す」用法の用例としてあげられていたのは以下の二首。
「天ざかる鄙の長道恋ひ来れば明石の門より家のあたり見ゆ」<万三六〇八>
「長き夜独りや寝むと君が言へばすぎにしひとの思ほゆらくに」<万四六三>

 後者は 直前に家持が妾の死を悼んだ歌があり、それに対する弟書持(ふみもち)が応えた歌とのこと。

  今よりは秋風寒く吹きなむをいかにか独り長き夜を宿(ね)む 家持 <万四六二>

 家持の歌では「を」が二回出てくるが、 「吹きなむを」のほうは順態の接続助詞とのこと。書持がオウム返しすることになる「長き夜を宿む」がくだんの用法。

 一方、前者のほうはいささか事情がややこしい。人麻呂に先行歌がある。

  天ざかる夷(ひな)の長道(ながぢ)ゆ恋ひくれば明石の門(と)より大和島見ゆ 人麻呂<万二五五>

 <万三六〇八>のほうは新羅使等が船上で吟誦した古歌で、茂吉『万葉秀歌』によれば「此は人麿の歌が伝わったので、人麿の歌を分かり好く変化せしめている」とのこと。つまりオリジナルは「を」ではなく「ゆ」なのだ。この「ゆ」について久松潜一 『万葉秀歌』には次のようにある。

 赤人の「田子の浦ゆ」も同様であるが、田子の浦のばあいは田子の浦からどこへということもないので、しだいに田子の浦にの意味になってきたが、この歌のばあいは進行を表わす「ゆ」であることがはっきりしている。しかし巻十五の歌(ゆかり註、<万三六〇八>のことでは「長道を」となっているが、これは語感からいうと人麻呂のすぐれた語感が失われている。

 なお、人麻呂の歌は『新古今集』にもえらばれているが、久松によれば「恋ひ」が「漕ぎ」に変わり、以下となっている。

  あまざかるひなのながぢをこぎくれば明石のとより大和しまみゆ

 ここでも「ゆ」ではなく「を」であり、どうやらそのようにして 「移動や持続を表す動詞の、動作全体にわたる経由の場所・時間を示す」用法の「を」が定着していったのではないかと思われる。

2018年10月27日土曜日

三田ミチコ顛末

 山田露結さんから2017年6月頃、悪のお誘い。当時私ははいだんくんという俳句自動生成ロボットを成長させながら、月刊誌『俳壇』(本阿弥書店)に連載記事を書いていた。そのロボットの語彙と句型をすべて露結さんのものに純化してどこかの賞に応募したいというのだ。
 きっかけは忘れたが、2009年に私が最初に俳句自動生成ロボットを作ったときにも、露結さんにソースを渡して露結さんが独自に語彙と句型を登録し、「一色悪水」「裏悪水」という二体のロボットができた。その「裏悪水」による作品が、露結さんの第一句集『ホーム・スウィート・ホーム』のつけたり「悲しき大蛇」となった。
 それから8年も経つので、プログラムは複雑怪奇になっている。また、私は私で2017年当時の連載のための思いつきでプログラムをころころ変えるので、語彙と句型の登録とはいえ、露結さんもそうとう苦労されたことと思う。
 ある程度めどが立った段階で、まさに私が当時連載していた『俳壇』誌の「俳壇賞」に匿名で応募しようという悪だくみが進み、三島ゆかりの「三」、山田露結の「田」で姓は「三田」、名前は櫂未知子にあやかったのであったか「ミチコ」とした。もちろんそんなことは「俳壇賞」関係者は誰も知らない。露結さんと私だけの秘密だ。その応募に使用した俳句自動生成ロボットが三田ミチコである。

 応募した作品そのものとその後の経緯は山田露結さんのブログに詳しい。

2018年10月23日火曜日

岡田一実『記憶における沼とその他の在処』を読む(5)

 最終章は「水の音」。特に章頭の句「海を浮く破墨の島や梅実る」と句集全体の最後を飾る「白藤や此の世を続く水の音」に見られる「を」について注目したい。これらの「を」は岡田一実にとって万感の「を」であり畢生の「を」であるはずだが、現代日本語としてはいささか尋常ではないようだ。
 『岩波古語辞典』の巻末の基本助詞解説によれば、格助詞の「を」は本来、感動詞だったものがやがて間投助詞として強調の意を表すようになったらしい。そこからさらに目的格となるくだりを少し長くなるが引用する。
 
 こうした用法(ゆかり註。間投助詞として「楽しくをあらな」のように使われていたことを指す)から、動作の対象の下において、それを意識するためにこの語が投入された。そこからいわゆる目的格の用法が生じたものと思われる。しかし、本来の日本語は目的格には助詞を要しなかったので、「を」が目的格の助詞として定着するにあたっては、漢文訓読における目的格表示に「を」が必ず用いられたという事情が与っていると思われる。
 対象を確認する用法から、「を」は場合によっては助詞「に」と同じような箇所に使われる。たとえば、「別る」「離る」「問ふ」などの助詞の上について、その動作の対象を示すのにも用いる。また、移動や持続を表す動詞の、動作全体にわたる経由の場所・時間を示すことがある。


 後者の例として以下が挙げられている。「天ざかる鄙の長道恋ひ来れば明石の門より家のあたり見ゆ」<万三六〇八>「長き夜独りや寝むと君が言へばすぎにしひとの思ほゆらくに」<万四六三>

 違和感ゆえに詩語として絶妙に意識させられる岡田一実の「を」は万葉集由来のものだということらしい。「移動や持続を表す動詞の、動作全体にわたる経由の場所・時間を示す」という用法を頭に叩き込んでおこう。

  海を浮く破墨の島や梅実る

 破墨は水墨画の技法だから、一幅の作品に対峙していると見るのが順当だろう。描かれたときから作品の中でそうあり続けている海と島の玄妙な関係に思いを馳せる。そんな時の流れを想起させもする「梅実る」がよい。モノクロームの世界に取り合わせられるふくよかな緑。

  白藤や此の世を続く水の音

 過去から未来までの長大なスケールの中での自分が今生きているこの一瞬。水がある限り白藤を愛でることができる生命体が長らえる。句集の最後を飾る、そんな万感の「を」だと思う。

2018年10月22日月曜日

岡田一実『記憶における沼とその他の在処』を読む(4)

 第3章は「空洞」。何句かごとに鳥が飛び、ひとところに留まらない。

  麺麭が吸ふハムの湿りや休暇果つ

 岡田一実の食べ物の句は必ずしも美味しそうでない。つきまとうノイズのようなものを正確に捉えている。朝作ってもらったお弁当のパンを昼食べるときの情けないようなだらしないような感じ。その通りなんだけど、それ、詠みますか。

  口中のちりめんじやこに目が沢山

 すでに口のなかに入っているのにちりめんじやこの目の気持ち悪さに言及してやまない、この感じ。「栄養なんだから食べなさい」と叱られる子どもの恨みのようである。

  かたつむり焼けば水焼く音すなり

 これは食べ物の句なのか。エスカルゴとは書いていない。あえてかたつむりと書きたかったのではないかという気もする。食べ物の句だとしたら、いかにも不味そうである。ちなみに俳句にとってはどうでもいいことだが、ネットによれば、自分で採ってきたカタツムリを食べるには、二三日絶食させるか清浄な餌を食べさせ続ける必要があるらしい。

  火を点けて小雨や夜店築くとき

 「水焼く」といえば、こんな句もある。また最終章には「雨脚を球に灯せる門火かな」というあまりにもうつくしい句がある。なにかしら煩悩のように、気がつくとまたしても水がある感じ。それが記憶の沼につながって行くのかも知れない。

  煩悩や地平を月の暮れまどひ

 「くれまどう」は通常「暗惑う」「眩惑う」と書き、悲しみなどのために心がまどう、どうしたらよいか、わからなくなる、といった意味だが、ここでは敢えて「暮れまどひ」と書き、月が暮れることができないというシュールな情景を重ねている。

  室外機月見の酒を置きにけり

 かと思うとこんな句も。こんなふうに風流に詠まれた室外機を私は知らない。

  ちりぢりにありしが不意に鴨の陣

 ここまで挙げたような日常些事から心象まで多岐にわたる対象世界を、いちいちご破算にするかのように数句ごとにさまざまな鳥が飛ぶ。掲句以外にも「常闇を巨きな鳥の渡りけり」「飛ぶ鴨に首あり空を平らかに」「歩きつつ声あざやかに初鴉」など。句集におけるこういう鳥の使われ方は、見たことがなかったような気がする。

  揚花火しばらく空の匂ひかな

 この章の最後を飾る句である。「火薬の匂ひ」ではない。「空に匂ひ」でもない。書かれた通り「しばらく」、「空の匂ひ」と置かれた六音を書かれた通り玩味する。そして記憶の中をさまよう。幼年期の記憶は理路整然と分析できない渾然一体の「空の匂ひ」としか言いようのないものだ。そして詠嘆する。

2018年10月21日日曜日

岡田一実『記憶における沼とその他の在処』を読む(3)

 第2章は「三千世界」。現代国語例解辞典(小学館)から引く。①「三千大千世界」の略。仏教の想像上の世界。須弥山を中心とする一小世界の千倍を小千世界、その千倍を中千世界といい、更にそれを千倍した大きな世界をいう。大千世界。②世界。世間。「三千世界に頼る者なし」
 ①の説明によれば、三千というより、千の三乗、ギガワールドである。章中「三千世界にレタスサラダの盛り上がる」という句がある。外食業界で一時期、大盛りの極端なのを「メガ盛り」とか「ギガ盛り」とか言っていたような気もするが、それはさておき「三千世界」、どんなバラエティの世界なのか見て行こう。

  夢に見る雨も卯の花腐しかな

 甘美である。夢と現実とが「卯の花腐し」という古い季語によって融けあっている。「夢に見る雨も」に現れるm音の連鎖と「夢」「卯の花」「腐し」で頭韻的に現れる母音u音によって、やわらかな雨のなかにとろけてゆくようである。

  早苗饗や匙に逆さの山河見ゆ

 こちらは徹底的に頭韻にsa音を置いて調べを作っている。早苗饗は田植えが終わった祝い。ほんとうに匙に逆さの山河が見えたのかはどうでもいいことだろう。音韻的な美意識によって句集に彩りを添えている。

  あぢさゐの頭があぢさゐの濃きを忌む

 リフレインの句である。「あぢさゐの頭」は植物としてのアジサイの意思なのか、七変化する作者の意識のことをそう呼んでいるのか。もはや区別する必要もないのが、作者にとっての「三千世界」なのではないか。

  夕立の水面を打ちて湖となる

 湖に降る夕立は、ただちにそのまま湖水となる。明らかなことがらをあえて俳句に仕立てているわけだが、このように書かれると、夕立と湖が一体となる不思議を思う。ここでも「夕立」「打ちて」「湖」と母音u音を畳みかけて調べを作っている。

  母と海もしくは梅を夜毎見る

 三好達治「郷愁」の一節に「――海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。/そして母よ、仏蘭西人(フランス)の言葉では、あなたの中に海がある。」があるせいで、後から来た私たちは類想を封じられてしまった感もあるのだが、岡田一実はさらにこれでもかと「梅」「毎」を重ね、あっさりとハードルを越えてしまった。

 どうだろう。なにかしら言い止めるべき現実があって俳句をものしていると思っていると、岡田一実の表現しようとしていることは捉えられないのではないか。岡田一実の「三千世界」は俳句としての調べや表記の純度を追求した、架空の世界のような気がする。

2018年10月8日月曜日

岡田一実『記憶における沼とその他の在処』を読む(2)

 以下、章ごとに見て行きたい。第1章は「暗渠」。暗渠とはいうまでもなく、川を治水、衛生、交通などの観点から上にふたをして見えなくしたもの。川としてなくなった訳ではなく、暗いところで脈々と流れているところが眼目である。普段気にかけることはないが確実に存在するものへのまなざしは、岡田一実にとってもテーマであろう。

  暗渠より開渠へ落葉浮き届く 岡田一実

 治水行政が進んでしまったので、暗渠から開渠に転じる場面はそうあるわけではないが、あるところにはある。流れ出た落葉を見て、暗渠区間の様子に思いを馳せている。「浮き」「届く」と動詞を畳みかけることにより、着地を決めている。とりわけ「届く」が絶妙である。

  喉に沿ひ食道に沿ひ水澄めり

 水を飲んだときの快感を詠んでいるが、詠みようは暗渠の句と同じで、体内の見えない器官に思いを馳せている。「水澄む」は伝統的には地理の季語であるが、もはやなんでもありである。ちなみに章に六十句ほどあるうち、二十句近くはリフレインや対句を使用している。いかにその技法にかけているかが偲ばれる。

  馬の鼻闇動くごと動く冷ゆ

 馬にぎりぎりまで迫って詠んでいる。馬に慣れ親しんだ人ならこうは詠まないだろう「闇動くごと動く」の違和感、下五に押し込めた「冷ゆ」が喚起する鼻息の温度差、湿度差がよい。下五の残り二音で切れを入れて来る、この危ういバランス感覚はリフレインへの信頼があるからできることなのかも知れない。「闇動くごと動く」に律動的に現れるgo音がなんとも不気味である。

2018年10月6日土曜日

岡田一実『記憶における沼とその他の在処』を読む(1)

 しばらく岡田一実『記憶における沼とその他の在処』(青磁社、2018年)を読む。

  火蛾は火に裸婦は素描に影となる 岡田一実

 巻頭の句である。「火蛾は火に」で切れるという読みもあり得るが、「火蛾は火に」と「裸婦は素描に」とが助詞を揃えた対句で、両方が下五の「影となる」にかかると見るのが順当だろう。しかしながら「火蛾は火に/影となる」と「裸婦は素描に/影となる」は「影となる」のありようが全然違う。前者は単に火という光源に対し火蛾が光源を遮ることを言っているのに対し、後者は光源を遮るという意味ではあり得ない。芸術作品の完成度に関わる内面的な描写のことを言っている。次元の異なるものをあえて対句とすることにより、この句自体が曰く言い難い影をまとっている。そして句集を読み進めるにつれ、その曰く言い難い影と、もうひとつ、ある種の水分がまさに句集のタイトル通り「記憶における沼」のように繰り返し現れるのに読者は直面することになる。巻頭の句にふさわしい一句であろう。

  眠い沼を汽車とほりたる扇風機

 二句目で「記憶における沼」の核たる「沼」が出現する。「眠い沼」とは現実界の沼に対する措辞なのか、それとも心象なのか。そのあたりはっきりしない茫洋とした感じこそがこの句の味なのだろう。ノスタルジックに汽車が通り、人がいるのかいないのかも定かでない世界で扇風機が回っている。

  蟻の上をのぼりて蟻や百合の中

 全句鑑賞になってしまいそうな勢いで恐縮だが、三句目も押さえておこう。この句では句集全体を通じて見られる外形的な特徴がはっきり見てとれる。ひとつはリフレインである。以前『ロボットが俳句を詠む』の連載で後藤比奈夫について書いたことがあったが、そこで触れたリフレイン技法のすべてを岡田一実はマスターしている。巻頭の「火蛾は火に」など、むしろリフレインの新たな領域を開拓している感もある。もうひとつの特徴を言えば、十七音の調べの中で岡田一実のいくつかは、短い単位をこれでもかと詰め込んだ感がある。とりわけ下五への詰め込み効果については別の句を例にあらためて触れたい。