2017年6月14日水曜日

(19)俳句ソフト不正使用問題

 二〇一六年に世を騒がせた将棋ソフト不正使用問題は、疑いをかけられ出場停止処分を受けた棋士に将棋連盟が慰謝料を払うことで双方が合意し和解した、と今年五月二十四日に発表があった。まずはめでたしであるが、技術の進化が第二、第三の同種の問題を引き起こすであろうことは想像に難くない。俳句界とて同様であろう。
 さて、我らが「はいだんくん」を実作支援に使用しようと考えたとき、これはどうにも使い勝手がよくない。ユーザインターフェースが「次の一句」ボタンしかないのがなんとも物足りないのだ。やはり、ユーザが自分で季語や特定の語句を入力でき、それを用いた句を返すようなものでないと、実作支援には使えないだろう。いくつかの改善策を考えてみる。

季語 「はいだんくん」の季語は、現在日付をもとにその日使えるものをランダムに返している。二十四節気や忌日も登録されているので、今日から小暑か、とか今日は重信忌か、とか気づくのには役に立つが、数ヶ月後に発行される原稿の季節には合わない。デフォルトは現在日付で構わないが、日付はユーザが指定できるようにしたいではないか。

語彙 句会で出題される兼題/席題をそのまま指定してロボットに作らせたいではないか。余談ながらスマホの角川合本俳句歳時記アプリでは全文検索という機能があり、季語だけでなく検索ができる。例えば「告ぐ」で検索すると、〈癒え告ぐるごとく北窓開きけり 佐藤博美〉〈鰯雲人に告ぐべきことならず 加藤楸邨〉がヒットする。これは紙の歳時記ではできない便利な機能である。

差し替え ロボットが作った句が、大体いいんだけどここがねえ、という場合、大体いいところは固定して、ここがねえというところを部分的に差し替えたい。

複数案表示 デジカメでブラケット撮影というのがあり、露出とかホワイトバランスとかISOとかを少しずつ変えて、一回のシャッター押下で複数枚の写真を撮ることができる。であれば、「はいだんくん」でも季語を上五、中七、下五に置いた三案を表示すると
か、季語だけ異なる三案を表示するとかあると、ユーザがそうそう、これこれと選べるではないか。

 このくらい便利になれば実作支援に役立つことだろう。ところで、俳句のことをよく知らない人に、俳句には歳時記というものがあって、そこには季語の意味と例句が載っていて、俳人は歳時記を引きながら俳句を作るのだという説明をしたら、「え、それってカンニングじゃないの」と言われた。そこか…。


(『俳壇』2017年7月号(本阿弥書店)初出)

2017年5月13日土曜日

(18)ロボットがつぶやく

 私が制作してネット上に公開している俳句自動生成ロボットのシリーズは、それぞれツイート・ボタンによりツイッターと連携していて、句が気に入ったらそのままツイートすることができる。
 『俳壇』誌向けに制作しているロボットは「はいだんくん」であるが、別に「ゆかりり」というロボットがある。「ゆかりり」は実物の三島ゆかりが作りそうな俳句を自動生成するロボットで、俳句実作上の奇想にとらわれると、それをロボットでやったらどうなるんだろうと、しばしばアイデアを「ゆかりり」に仕込んで試してみる。それでうまく行ったものを「はいだんくん」に移植したり「ロボットが俳句を詠む」の原稿のネタにしたりする。「ゆかりり」と「はいだんくん」はそういう関係で、「ゆかりり」はより先進的で、「はいだんくん」はより枯れている。
 というわけで、開発者の私に関心があるのはむしろ「ゆかりり」の方で、ツイート・ボタンでツイートするのはもっぱら「ゆかりり」の句である。ロボットの作った句をツイートしても二三人が「いいね」を付けてくれるのが関の山だったのだが、ここへ来て「あ
わ・みかわ」さんという面識のない方が「ゆかりり」の句をかなりの頻度でツイートしてくれるようになった。私をなぞらえたロボットの句を他人がツイートするのを私が読むのはかなり奇妙な体験である。つい返信で短評してしまう。以下「ゆかりり」の句はあわ・みかわさんがツイートしたもので、短評は私。

彼女みなギリシャ彫刻春惜しむ ゆかりり
→「みな」によって「彼女」が複数であるところが眼目ですね。同時に複数人の彼女がいるのか、歴代の彼女なのか。「春惜しむ」にそこはかとない徒労感があります。

極楽や首都に遅れる抱卵期 ゆかりり
→「極楽」と「首都」、もしくは「遅れる」と抱卵期の「期」というふたつの対比が組み合わさることによって、微妙な意味の混乱が発生していますね。また「首都に遅れる」からは高度成長時代の残像が感じられます。

ブラウスの略し始める春暑し ゆかりり
→ぎゃ、非名詞の季語について手を抜いていることが露見している。非名詞の5音の季語を下五とする句型を登録するときに、春暑しとか風光るとか山笑ふとか、大抵のものは名詞+用言ではないかと、直前を連体形にして、変なことになってしまったようです。

 この記事の読者の皆さんもせっかくですからツイート・ボタンでつぶやいて下さいね。

(『俳壇』2017年6月号(本阿弥書店)初出)


追記 ツイート・ボタンでつぶやくとハッシュタグがついて、こちらでまとめて読めます。

2017年4月14日金曜日

(17) ロボットに伝記的事実はあるか

  老人と別れてからの真冬かな

 まずは句会のルーティーンに従って、作者匿名で読んでみよう。「真冬かな」というもの言いは季節の推移を感じさせるので、老人と別れたのは少し前のことだろうとは察しがつく。では「老人」と作中主体の関係は? あるいは「別れる」とは「生き別れ」なのか「死に別れ」なのか? 「生き別れ」であるなら、例えば徒弟制度の厳しさがいやになって飛び出したが社会の厳しさに直面し、いかに自分が師である老人から庇護を受けていたかを思い知らされた「真冬」なのか。また「死に別れ」であるなら、故人の人柄を偲ぶにつけその不在が「真冬」なのか。いずれの読みも可能だし、句そのものが具体的事実を消し去り、読者によってどうとでも受け取れるような作りになっている。句にはとにかく「老人と別れてからの真冬かな」としか書いてないのだ。

 そろそろ作者を明かそう。作者は橋閒石。この句は八十九歳で上梓した第十句集『微光』の最後の句で、句集上梓の数ヶ月後に閒石は他界した。全集には『微光』以後の六五句が載っているものの、掲句が周到に用意された辞世の句と言って差し支えないだろう。句集のタイトル『微光』は集中の「体内も枯山水の微光かな」による。函から出した句集本体は、つや消しの黒の紙張表紙に銀の字でタイトルと作者名をあしらっていて、なんとも生命の薄明かりを感じさせる。また、同じ句集の中には「人も物云う蛋白質に過ぎずと云える春の人」「銀河系のとある酒場のヒヤシンス」といった巨視的な句も見受けられる。

 それらを踏まえて掲句をもう一度見てみよう。すると作中主体は作者の魂で、「老人」とはまもなく捨てることになる人間の肉体なのではないか、という可能性に気づく。そんな間近に迫る魂の「真冬」。いかにも閒石の辞世の句らしいではないか。しかしながら、しつこいようだが、句には「老人と別れてからの真冬かな」としか書いてない。

 「はいだんくん」は連載を進めながら、俳句的思考とともにそのアイデアをロボットに盛り込むという体裁をとっている。「ノート」にバージョンアップの情報を記載しているわけだが、いつしかそのノートが「はいだんくん」の伝記的事実として、それを読むことによりロボットの句の読みが一変してしまう事態に至るのだろうか。

(『俳壇』2017年5月号(本阿弥書店)初出)

2017年3月18日土曜日

不思議としずかな明るさの、幽かなおもむき

 橋閒石『微光』(沖積舎、一九九二年)の最終章Ⅴ。挙句についてだけ書く。
 
  老人と別れてからの真冬かな
 自身が十分老人なのだから、他人のことを「老人」とは呼ばないだろう。ということは、これは自身の肉体が滅びたあとの、さっぱりした魂の存在を仮定して詠んだ句なのではないか。思えば巻頭の句は「春の雪老いたる泥につもりけり」であった。巻頭句において春の雪で消した「老いたる泥」なる肉体と、巻末ではついに別れる。最初から最後まで老いがテーマだったのだ。輪廻する魂は銀河系のとある酒場にもふらりと立ち寄ったりするのだろうか。
 
 あとがきで閒石自身は老いについて以下のように記している。

(前略)さすがに近頃は、忍びよる老いの影の足早なのを意識するようになった。もとよりそれを嘆くいわれはない。むしろしばしば、身も句も共々に、不思議としずかな明るさの、幽かなおもむきを楽しむ折もある。いずれにしても今また一つの、おそらく最後の節目にさしかかってきたことは確かである。

 閒石は本句集を一九九二年八月に刊行後、同年十一月に他界した。その最晩年の「不思議としずかな明るさの、幽かなおもむき」を読者として受け止めたい。

2017年3月17日金曜日

銀河系のとある酒場の…

 橋閒石『微光』(沖積舎、一九九二年)のⅣ。
 
  きさらぎや抛物線また双曲線
 「も」はないが、これも並列たたみ掛けのひとつのバリエーションである。硬い数学用語をふたつ、これもまた硬質な響きを持つ季語と取り合わせて読者に委ねた作りなので、委ねられた読者として読まねばならないのであるが、本格的な春に向かって万物がダイナミックに変化するイメージがこれらの語の取り合わせによって立ち上がらないだろうか。閒石の時代にそんな言葉はなかったかも知れないが、人によっては「板野サーカス」と呼ばれるアニメの演出技法を思い浮かべるかも知れない。

  またひとつ椿が落ちて昏くなる
 「昏くなる」は漢字の用い方により日が暮れて暗くなることだと分かるので、「またひとつ椿が落ちて」と直接的な因果はない。次第に暮れていたのだが、またひとつ椿が落ちてにわかに気がついた、という感じだろうか。「また」が絶妙に効いていて、なんともやるせない老境の時間の流れを感じる。

  銀河系のとある酒場のヒヤシンス
 この句集の中でもっとも知られた句だろう。「とある酒場」はこの地球のものだろうか、それとも銀河系のどこかにパラレルワールドのように存在する生命体のいる惑星に思いを馳せているのだろうか。言い知れぬ寂寥感とともにいま今が過ぎて行く。

  大旱やエンサイクロピディヤブリタニカ
 長い固有名詞と季語だけでできた人を食った句である。ブリタニカ百科事典は1768年創刊で、1994年以降は光ディスクとオンラインでデジタル版が発売され、2010年の第15版を最後に紙媒体での百科事典編纂を取り止めた。この句集が上梓されたのは1992年であるが、すでにデジタル化が話題に上り百科事典の日照りの時代が予見されていたのだろうか。普通エンサイクロペディアと表記するところ、発音に忠実に「エンサイクロピディヤ」としているあたり、思わずにやっとしてしまう。なお、大鑑とか大巻とかの語呂合わせの可能性も捨てきれない。

  夕ずつや揺るるほかなき百合鷗
 語呂合わせといえば、こちらの句ではyuで頭韻を揃えている。「夕ずつ」は宵の明星である金星。ユリカモメは夜間は飛行せず海上を漂うので、事実としてまったく正しいが雅語を駆使して頭韻を揃え、うつくしい句に仕上がっている。
 
  冬空の青き脳死もあるならん
 最近は脳死という言葉が話題になることがあまりないような気がするが、1980年代後半から1990年代にかけては、臓器移植などをめぐる倫理的な観点から関連書籍がいくつも出版され議論がかまびすしかった。そんな中での掲句だろう。生きているのに冬空が青いこともなんにも分からない、それもまた生なのだろうかという感慨だろう。

2017年3月16日木曜日

ラテン語の風格

 橋閒石『微光』(沖積舎、一九九二年)のⅢ。
 
  芹の水言葉となれば濁るなり
 最近俳句界隈で「プレインテキスト」という言葉をよく見かけるのだが、もとより「言葉となれば濁るなり」などと書かれてしまっては二の句が継げないだろう。

  足音がしておのずから草芽ぐむ
 この足音は誰の足音だろう。「おのずから」とあるのだから春をつかさどる存在ないし自然そのものなのではないか。

  さくらさくら少年少女より聰し
 もともとは大学生のサークルなどがやっていた合否確認代行電報の「サクラサク」はすっかり市民権を得て、予備校の広告あたりでも普通に見かける訳だが、この句の場合はどうなんだろう。3/16放送の毎日放送『プレバト』の「車窓には桜つぎこそサクラ咲け 相島一之(夏井いつき添削後)」が頭をよぎる。そういう意味なら、毎年必ず咲くさくらは確かに「少年少女より聰し」だ。
 
  入口も出口もなくて春の昼
 またしても「も」のたたみ掛けであるが、永遠に続くような春昼の気分がよく表れている。

  粽ほどきつつ枕詞のこと
 十七音着地の大破調である。粽寿司のいぐさの紐をほどきながら、ううう、長い、あしひきの山鳥の尾の粽かな…なんてことを思い始めた心の状態を詠んだのだろうか。そう思うと大破調が効いているような気がする。
 
  ラテン語の風格にして夏蜜柑
 これは名句だと思う。木にわんさかなった果実は、まさに南方伝来の風格がある。ところで夏蜜柑の学名はCitrus natsudaidaiといい、後半は日本語そのままである。検索してみると、現在夏蜜柑として知られるものは、江戸時代中期、黒潮に乗って南方から山口県長門市仙崎大日比(青海島)に漂着した文旦系の柑橘の種を地元に住む西本於長が播き育てたのが起源とされ、本来の名称は「夏代々(なつだいだい)」だったが、明治期に上方方面へ出荷する事となった際に、大阪の仲買商人から、名称を「夏蜜柑」に変更するよう言われ、それ以来商品名として命名された「夏みかん」または「夏蜜柑」の名前で広く知れ渡ったらしい。

  水ごころ無くて落葉を掃きいたり
 閒石の句には故事成句のパロディが多い。「魚心あれば水心」は「相手が好意を示せば、こちらも好意を持って対応しようということ」であるが、知るかと落葉を掃いている屈折のし具合が妙に可笑しい。

2017年3月15日水曜日

良夜は月に任せたり

 橋閒石『微光』(沖積舎、一九九二年)のⅡ。今回は順不同で見る。
 
  あかつきの瞳孔や草萌えんとす
 中七の五音目の「や」で切る。しかもその前がなんとも固い語の選択である。視覚器官を「や」で強調し、あかつきに光を知覚するように季節を知覚している。

  蝌蚪の水地球しずかに回るべし
 しずかに回らないと、慣性力で蝌蚪もろとも水がぶっ飛んでしまうのだ…というなんともアホクサな諧謔をしれっと句にまとめている。「べし」が効いている。
  
  郭公の朝の雲形定規かな
 おそらくは「雲形定規」ということばの面白さに導かれてできあがっているのだろう。どんな季語と取り合わせても雲形定規は雲形定規でしかないのだが、郭公の朝の静謐な空気感と、かの製図用具の取り合わせは、これはこれで効いている。
  
  早寝して良夜は月に任せたり
 閒石の晩年の句には独特の老境が感じられるものがいくつもあるが、本句もその類いだろう。「良夜は月に任せたり」の機知がじつによい。
  
  心音もお多福豆も冬うらら
  日輪も氷柱も呼吸始めたり

 
 前章にも「藁しべも円周率も冬至かな」があったが、閒石にとって「も」のたたみ掛けは、まさに自家薬籠中のものだったに違いない。

2017年3月14日火曜日

(16) ロボットが韻を踏む

 すでに前号で予告してしまったようなものだが、音韻の話を書く。

 子音と母音が必ずセットで現れるような日本語において、ましてや俳句において韻など踏んでなんの足しになるのか、という向きもあるかも知れないが、やはり作句においても鑑賞においても、音韻の使われ方に思いを馳せたとき、偶然に導かれることも含め認識を新たにすることはあろう。

  去年今年貫く棒の如きもの       高濱虚子

 この句に含まれる母音oの数は、棒をボオと発音することにすれば、なんと十七音のうちの十一音を占める。この天体の摂理のようなスケールの大きな句の言い知れぬ感じは、もしかすると母音oの多さによってもたらされているのではないか。因果関係を公式化することはできないが、少なくとも無縁ではないのではないか。

  クロイツェル・ソナタ折り鶴凍る夜   浦川聡子

 あるいは「クロイツェル」「折り鶴」「凍る」「夜」と、ru音で脚韻を踏みながら音数が次第に短くなることによってもたらされる(であろう)祈りにも似た切実感。

  海ぞぞぞ水着ひかがみみなみかぜ    田島健一

 あるいは前号にも書いた「水着」「ひかがみ」「みなみかぜ」の頭韻をi音で揃えたmi音の執拗な反復。

 特にここに挙げた浦川句、田島句では音韻先行で思いがけない語の結びつきを達成していると感じられる。いや、注意深く言えば、そのように作者と読者が音韻について価値観を共有する文化圏があるはずだ。

 であれば、そのような文化圏の存在を信じてロボットも韻を踏もうではないか。もっともロボットの場合、もともと思いがけない語の結びつきしかできないのに音韻先行のふりをして、そのような文化圏の読者に句を委ねるわけだけど。

  風花にかざす恋するふたりかな  はいだんくん

(『俳壇』2017年4月号(本阿弥書店)初出)

2017年2月14日火曜日

(15) ロボットが『ただならぬぽ』を読む

 一月に出た田島健一『ただならぬぽ』(ふらんす堂)が面白い。俳句自動生成ロボットはランダムな言葉の衝突が身上だが、そのロボットが嫉妬するくらいランダムだ。ロボットの観点で二句見てみよう。

  翡翠の記録しんじつ詩のながさ   田島健一

 巻頭の一句である。名詞だけを拾うと翡翠・記録・しんじつ・詩・ながさ。これらの名詞にどういう関係があるのだろう。記憶であれば翡翠にもあろうが記憶ではない。記録なのだ。翡翠が記録するのか、それとも人間が翡翠を記録した日記とか写真とかなのか。冒頭から読者を迷宮に引きずり込む謎の語の結合である。そして漢語をひらがな表記しなん
とも人を食った「しんじつ」。これは助詞を省略して「翡翠の記録」の述語になっているのか、あるいは「詩のながさ」に副詞的にかかっているのか。そして「詩のながさ」とは? これらのすべてが読者に委ねられ、田島健一はなにも言っていない。俳句として並べられたランダムな語の連結は自ずと意味を求めて走り出す。これはまさに私が俳句自動生成ロボットでやろうとしていることそのものではないか。あえて散文訳を試みると、翡翠の刹那刹那の輝きに比べると、人間の詩(俳句も含む)のなんと長くてばかばかしいことよ、という感じか。意味ではなくそんな像をうかべる。翡翠といえば霊感に満ちた仙田洋子の句を思い出しておこう。〈父の恋翡翠飛んで母の恋〉

  海ぞぞぞ水着ひかがみみなみかぜ  田島健一

 「ぞぞぞ」に呆然とする。なんということだ。そして「水着」「ひかがみ」「みなみかぜ」と頭韻を母音Iで揃え全体では「み」を五個ぶち込んで調べを作る。助詞は何ひとつない。ただのランダムではなく音韻を手がかりにすること。じつは「はいだんくん」は音を管理していない。「水着」だったら、文字としての漢字二文字の「水着」、それから3音であること、夏の季語であることは管理しているが、「みずぎ」という読みはこれまで管理していなかったのだ。抜本的改修となるが、考えたい。

(『俳壇』2017年3月号(本阿弥書店)初出)

2017年2月13日月曜日

枯山水の微光

 しばらく橋閒石『微光』(沖積舎、一九九二年)を読むことにする。本句集は五章に分かれるが、まずはⅠ。

  春の雪老いたる泥につもりけり

 巻頭の一句である。「春泥」であれば春のぬかるみを指す季語であるが、あえてそうせず「老いたる泥」と詠み、老境の自身を投影させ雪を積もらすことにより消し去った。晩節への思いが感じられる。

  火とならず水ともならず囀れる

 「火とならず水ともならず」は人間のややこしい男女関係を念頭に置いた措辞であろう。

  ほのぼのと芹つむ火宅こそよけれ

 一句置いて、またしても火。「火宅」は仏教で、この世の、汚濁(おじょく)と苦悩に悩まされて安住できないことを、燃えさかる家にたとえた語。現世。娑婆(しゃば)。それを「ほのぼのと芹つむ」と修飾し、係り結びとしている。普通に考えれば形容矛盾であるところに諧謔が感じられる。

  男手がなくて日暮や春の蔵

 いかに老人とはいえ、男性がこのように詠んでいるところがじつに飄逸である。

  ものの影猫となりたる朧かな

 なんだか分からない影にぎくっとすると、ひと呼吸おいて猫の影だと分かる、その間合いを詠んでいる。朧だけに、なんだか分からない妖気が偲ばれる。ちなみにこれを発句として澁谷道、秋山正明と巻いた十八句からなる非懐紙連句『ものの影』が、橋閒石非懐紙連句集『鷺草』(私家版)に収められている。第三までを紹介しておこう。

     ものの影猫となりたる朧かな    閒石
      乾の蔵に匂う沈丁         道
     ならべたる猪口は伊万里の赤絵にて 正明

  人も物云う蛋白質に過ぎずと云える春の人

 ものすごい字余りであるが、中七下五がきちんと定型に収まり着地を決めている。「人」の繰り返し、「云う」「云える」の繰り返しが無限ループ的で、人も物云う蛋白質に過ぎずと云える春の人も物云う蛋白質に過ぎずと云える春の人も物云う蛋白質に過ぎずと云える春の人も物云う蛋白質に過ぎずと云える春の人も物云う蛋白質に過ぎずと云える春の人…と永遠に続きそうな可笑しさがある。

  掻き氷水にもどりし役者かな

 閒石の句にはしばしば慣用句のパロディがある。役者といえば「水もしたたる」だろう。そのパロディだとすれば「掻き氷水にもどりし」は大爆笑ものである。

  噴水にはらわたの無き明るさよ
  
 そりゃあ、ない。

  藁しべも円周率も冬至かな

 無意味だが非の打ちどころがないくらい真実である。だが、無関係なものを並べているようでいて、藁しべの断面も円だし、冬至から地球の公転軌道を思い浮かべ他の二つが導かれたような気もする。

  体内も枯山水の微光かな

 枯山水は、水を用いずに石や白砂で山水を表現した日本式庭園。そのような抽象的な把握は、当然眼前の風物以外にも及ぶだろう。そんな直感がもたらした一句に違いない。ちなみに句集のタイトルは『微光』で、函から出した本体は、つや消しの黒の紙張表紙に銀の字でタイトルと作者名をあしらっている。

  雪山に頬ずりもして老いんかな

 章末の句は、巻頭の句と呼応し雪と老いの取り合わせとなっている。雪に頬ずりをするのではない。雪山である。俳句的なずれ具合と「も」による強意が妄執めいていて、老いの表現としてすさまじい。

2017年2月4日土曜日

野川の春をそそのかす

 清水径子『雨の樹』(角川書店、二〇〇一年)の続きで、IV。

  雪は止んで一月真昼それから

 章の最初の句は6+7+4=17音の破調。四音で打ち切られた「それから」の後に余情がある。

  裏口に帰つてゐたり夏の月
  月のぼるよと二階より声まぼろし
  文学は真実である夏の月
  春の月やさしき人と居る心地
  二階にてもてなす春の月まんまる
  月に濡れ森閑と樹の倒れをる
  寝ころんでしばらく春の月と居る


 「月」を詠んだ句がこの章には多々ある。全体として月にも人格があって、帰っていたりもてなしたりしばらく一緒にいたりする関係のようである。

  白露(はくろ)けふ淋しきものに昼ご飯

 「白露(はくろ)」は二十四節気のひとつで九月七日ごろ。そして「けふ」。暦が進んだだけで「昼ご飯」が痛切に淋しい。ただならぬ吐露である。

  わたくしの電池を替へてみても秋
  もう少し歩き秋風たのしまむ
  どこからか姉来て坐る秋の風


 一句目は飄逸な詠みっぷりであるが、この「秋」はまたしても痛切に淋しい。二句目はそういう秋の風に浸ろうと言っているようである。そして故人である姉がふとどこからか現れる。

  手を入れて野川の春をそそのかす

 「そそのかす」が抜群にすばらしい。この世に生きていて何かをすれば世界が作用する。

  比較的あきらめのよき落椿

 およそ詩のことばとは思えない「比較的」がじつに効いている。

  病みて幾日吹雪くとは胸の中

 章の最後の句は7+5+5=17音。「雪は止んで」に始まり「吹雪く」で終わる。この句は「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る 芭蕉」の裏返しとなっていて、内面が外界をかけ廻るのではなく、内面は内面のまま吹雪いている。人生の最後の句集としてまとめたであろう『雨の樹』は、本句を挙句として終わる。

 

2017年2月3日金曜日

指揮棒によき濃りんどう

 清水径子『雨の樹』(角川書店、二〇〇一年)の続きで、III。
 
  いまものを言へばみぞれが雪になる

 章の最初の句。なんともファンタスティックな心象のものいいである。
 
  かの世から秋の夜長へ参加せり
  お彼岸のをみならはみな蝶であれ
  南風(みなみ)吹きはかなくなれり姉は草
  転生の直後水色野菊かな

 
 彼岸此岸を自在に行き来し、人でないものにさえ転生する自在な句境に達している。
 
  白夕立われも物質音立てる
  いい顔で睡てゐる月の列車かな


 二句目など、擬人法というよりは生命体と非生命体の間をも行き来する趣がある。

  濁世とは四、五日さくらじめりかな

 「濁世」は辞書的には、仏教で、濁り汚れた人間の世。末世。だくせ。それが「さくらじめり」だと言う。「さくらじめり」は辞書にない。辞書にはないが桜蘂を濡らすあの頃の万物に生命をもたらす雨のことだろう。濁世とはまさに生命のみなもとなのだ。

  浅き川なら足濡らす今日虚子忌

 虚子忌の四月八日はまた仏生会。灌仏の行事の故に発想は水に及ぶ。余談となるが「虚子の忌の大浴場に泳ぐなり 辻桃子」もそのひとつだろう。

  夢に見て紅い椿を折りにゆく
  折りとりて指揮棒によき濃りんどう


 いずれも濃い色の花を手折る句だが、「指揮棒によき」は夢というよりも狂気に近い妖しさがある。

  まだ生きてゐるから霜の橋わたる

 章の最後の句は、章の最初の句と呼応する趣がある。どこか口語めいた「いまものを言へば」に対し「まだ生きてゐるから」。「みぞれ」「雪」に対し「霜」。

2017年2月2日木曜日

大字(おおあざ)夏木立

 清水径子『雨の樹』(角川書店、二〇〇一年)の続き。本句集はI~IVの四章からなる。ひとつ前の記事でIの句を見たときには、全体を通じての特徴を把握したかったので敢えて順不同に取り上げたが、IIではなるべく作者が並べた順に取り上げたい。なおこのブログの常で最後まで読み終わる前に書くことを旨とし、序文、跋文、他の方の書かれた文献などは極力読まず伝記的な事実も無視し、ただ書かれた句に沿って読みたい。

  卯の花の一心不乱終りけり
  妄想の花咲く二人静かな
  桐の花半日遊び一日病む


 「…の花」で漢数字を伴った句が三句続く。「一心不乱」と言い「妄想」と言い、花への感情の仮託が続く。また章中、「青空よごす十一月を俯きて」「冬一日腹這ふと死が近く居る」などもあるので、いかに伝記的な事実を無視しようとしても病がちであったことは察しがつく。

  ああああと春のこころの塞ぎをる
  人の亡きあとの牛蒡をささがきに


 倦怠または死と対置する現実として、「牛蒡をささがきに」を持ってきた。料理は生命を維持するための忍耐強い地味な作業であるが、よりによって「牛蒡をささがきに」は絶妙である。

  めんどりはここここといふ夏の花
  華厳とよかなかなも樹も雨あがり


 塞ぎがちな句が並ぶ中で、一転して「ここここ」「かなかな」と続き、気分が上向く。

  左みて右みて遠し鬼薊
  鬼の色少し足りねど鬼薊


 一句目の「遠し」は何が遠いと言っているのだろう。交通標語のような「左みて右みて」からすると道路の向こうに鬼薊があって遠いと言っているようにも思えるが、二句目と並べると、どこか遠くの鬼がいる世界を夢見ているような気もしてきて怖い。
 
  大夕立あとの大字(おおあざ)夏木立
  青痣の榠樝と忍び笑ひせり


 大字は市区町村の区画であるが、それほどまでに大きい夏木立というのが、なんとも飄逸である。そして「大字」の次に「青痣」を並べてみせる。じつに可笑しい。

  落椿見付けられすぐ見捨てられ
  青簾たちまち吾れの無くなれり


 章の最後の二句は、「すぐ」に対し「たちまち」を並べている。ただの青簾なので、現実的には見えなくなるだけだが、この世からの消滅のイメージを重ねているに違いない。

2017年2月1日水曜日

雨の樹

 しばらく清水径子『雨の樹』(角川書店、二〇〇一年)について書く。作者は秋元不死男、永田耕衣に師事、耕衣没後『らん』を創刊。本句集は九十歳で上梓した第四句集。順不同で何句か見てみたい。

  露なんぞ可愛ゆきものが野に満つる

 巻頭句である。「露」は王朝和歌以来はかなきもののたとえに用いられるのが通例であるが、それを「なんぞ可愛ゆきもの」と捉えてみせる。本句により、以後冥界と幾たびも行き来することになる径子ワールドの扉を開ける。

  朝顔はさみしき色をとり出しぬ
  人滲むやうに菫はすみれいろ


 全体に植物あるいは色と取り合わせた句はかなり多い。それを基本的なトーンとして、心象の世界へ出入りするような進行となっている。


  白桔梗よりも古風な撫で殺し
  人間はまたも謝る月の下

  
 「撫で殺し」と言えば「撫で殺す何をはじめの野分かな 三橋敏雄」思い出さない訳にはいかないし、並べられたもう一句は広島の原爆死没者慰霊碑の「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」を踏まえた「あやまちはくりかへします秋の暮 三橋敏雄」をも思い出させる。奥付によればこの句集は二〇〇一年十二月二〇日発行で、三橋敏雄は先立つ同年十二月一日に亡くなった。訃報を聞いて句集に入れることはまず不可能な期間だと思うので、まさに「奇しくも」というところであろう。なおこの年の九月十一日にはアメリカで同時多発テロが起きている。
 とはいえ、社会で起きた事件と結びつけて読む必要もないし、三橋敏雄と結びつける必要もないのかもしれない。径子ワールドにおいて、死はどこかエロスをまとっている。

  亡弟と花を摘みます雪の暮
  あれは父あれも父かと雲の峰


 「亡弟と」の句は「人間は」の句の次で、雪の暮に摘む花などなかろうに故人が現れる妖気を帯びた句となっている。「あれは父」の句はだいぶ離れたところに置かれていて、故人を回想しているというよりは、天上からしきりにお迎えが来る趣である。

  菊といふ名の残菊のにひるかな
  春の野のどこからも見えぼへみあん
  うぐひすやまだ体内のあるこほる


 外来語はひらがなで表記される。一九一一年生まれの作者にとって自然なこととしてそうなのか、特殊な効果を狙ってのことなのかはさだかでない。さだかではないが、「にひる」といい「ぼへみあん」といい「あるこほる」といい、遠く懐かしい青春時代の甘くて切ない響きが感じられる。

  俤のまた吹きすさぶ芍薬忌
  忌のごとし泉にもある生(なま)夕暮


 「芍薬忌」はどなたか作者に近しい方の忌日なのか、架空の誰のでもある忌日の造語なのか。一方、ルビをふられた「生(なま)夕暮」は明らかに造語だろう。こんこんと湧く生命の根源のような泉が、「生(なま)夕暮」の時間帯には忌のようだという。なんという生と死の交錯。

  水の精かかときれいな葦の花 

 前後するが、「忌のごとし」の句の一句前に置かれた句。「葦」は「足」と掛詞になっていて、みずみずしくもなまめかしい。

  枯るるまでさ迷うて居る恋慕とは
  ほととぎす言葉みじかきほど恋し


 九十歳での句集であることにとらわれすぎてはいけないのだろうが、狂おしい。

  梟やこころ病まねど山坂がち
  欲望や都忘れのあたり過ぎ


 単純に狂おしいばかりではない。ヤマ、ヤマと韻を踏み、植物名には原義を掛ける。いろいろな技法が熟成し渾然一体となってあらわれる感がある。

  かの夜から菊の根分けを指図せり
  驢鳴集おぼろの雨戸しめかぬる


 『驢鳴集』は師・永田耕衣の句集。あたかも冥界との通信が途絶えないように雨戸をしめかねている風情がある。

2017年1月25日水曜日

どんどん伸びる犬のひも

 田島健一『ただならぬぽ』(ふらんす堂)の続き。これまでいくつかの特徴を見てきたが、今回はそれ以外も排除しないあっけらかんさについて。

  けむりから京都うまれし桜かな

 この句集には、旧態依然のまったく普通の俳句も排除せず含まれている。掲句は、いくつかの戦乱を経ていま眼前の霞に包まれる京都を詠んで揺るぎない。

  西瓜切る西瓜の上の人影も

 なにかのパロディーではないかとさえ思わせる、手垢にまみれた俳句らしい俳句である。意外なことに『ただならぬぽ』には、このような句も含まれている。

  海みつめ蜜豆みつめ眼が原爆
  戦争やはたらく蛇は笛のよう
  少女基礎的電気通信役務や雪


 「誰か空を」の章に顕著だが、この句集では「ヒトラー」「軍艦」「戦争」「原子炉」などの語が少なからず現れる。掲句は「誰か空を」の章以外から採ったものだが、「海みつめ蜜豆みつめ眼が原爆」「戦争やはたらく蛇は笛のよう」などの句に見られる「原爆」や「戦争」から、作者の社会的な見解は伺い知ることはできない。これらは他のほとんどの句と同様、語と語の衝突に意外性を見出し、その衝突から立ちのぼる意味を作者自身が、骨董でも賞翫するようにして句にまとめる作り方をしているからである。そのような作り方においては、「原爆」も「戦争」もまったく異種の「基礎的電気通信役務」と同じで、素材としての変わった言葉でしかない。ここで、「原爆」や「戦争」を排除するやり方もあろうが、田島健一は敢えてあっけらかんと、そうしない。
 以前このブログで鳥居真里子『月の茗荷』について触れたとき、「昨今、どんどん伸びる犬のひもがおおいに普及していますが、鳥居真里子のことばの操り方は、喩えて言うならその犬のひものような感じです。長いひもの先で、ことばたちにやりたいようにやらせているようです」と書いたが、田島健一も飼っている犬が違うだけで、長いひもであることは同じなのだ。

 『ただならぬぽ』、まだまだ名残惜しいが、この辺で筆を置くこととする。