2018年9月4日火曜日

五吟歌仙 夏至の陽の巻

   夏至の陽に光りてスカイツリーかな   媚庵
    十間橋を浴衣の少女        ゆかり
   おもむろに極彩色のボール立て     りゑ
    絶好調でも不調でもなく       銀河
   雲去りて繊月の空静まりぬ        霞
    夜学に詰まる音読のこゑ        庵
ウ  銃痕のことにはふれず秋灯        り
    ためつすがめつ減らない煙草      ゑ
   裘着せかけらるる波止場街        河
    化けて出るのもこの日が最後      霞
   シネコンで「万引き家族」二回観る    庵
    四百円を割るデカンター        り
   蛸壺をうをにとられて梅雨の月      ゑ
    明石大橋わたるまでよと        河
   スクロールしてゐる人の死について    霞
    絵踏の日時高札にあり         庵
   目にものを云はせ花筏の遡上       り
    イチゴミルクを奢ろぢやないか     ゑ
ナオ 台風のコース気づかふ始発駅       河
    地図は燃やして秋遍路ゆく       霞
   小結と自称し兄の草相撲         庵
    骨折見舞のハムに巻紐         り
   年忘れ数へるごとに人の増え       ゑ
    ケーブルカーを揺らすやまかぜ     河
   私しか見ぬ両足の爪を塗り        霞
    タンゴ奏でるジュークボックス     庵
   猫の目の合はせ鏡をワープして      り
    涼も新たな茶を酌み交はす       ゑ
   月下敲門渋 舌下推飴甘         河
    彼岸花踏み虚しく往きて        霞
ナウ 驟雨過ぎ雨の匂ひの村となる       庵
    注意を払ふ葉書投函          り
   鼻歌のあるじは庫裏の大和尚       ゑ
    降りねばならぬ石段の数        河
   見上げれば花の蕾もゆつくりと      霞
    色はうつりて百千鳥鳴く        庵


起首:2018年06月21日
満尾:2018年09月04日
捌き:ゆかり

2018年8月12日日曜日

『こゑふたつ』の「て」

 今さらながら鴇田智哉『こゑふたつ』(木の山文庫、2005年)を読む。
 常日頃、俳句自動生成ロボット「ゆかりり」なんかで遊んでいるせいか、ちょっとした作句上の文体が大いに気になったりするわけだが、例えば以下の句群などどうだろう。

①  干潟とは今を忘れてゆく模様    鴇田智哉(P91,92)
②  影ばかりうまれて春のをはりけり
③  蟻に気をとられてをれば夜になりぬ
④  夏いつか鰭のうすれてゆく魚

⑤  甘くしてこぼるる蜜や盆の家    (P105,106)
⑥  虫の夜はひとみをあけて帰りけり
⑦  送火の炎のきえてゆくはやさ

⑧  空の絵を描いてをれば末枯るる   (P110,111)
⑨  露の手に厚みのありてうごかしぬ
⑩  棕櫚の木の掘られて寒き冬に入る

 たまたま目についた「て」を含み連続する句群である。すべて「て」ではあるが、大きく分ければ接続助詞としての「て」と、動詞に連なる「て」があり機能は異なる。

◆接続助詞としての「て」
 ふたつ以上の文を接続して、順次成立、並列、原因・理由、方法・手段などを表すものである。②⑤⑥⑨⑩が該当する。/で強調してみる。

②  影ばかりうまれて/春のをはりけり
⑤  甘くして/こぼるる蜜や盆の家
⑥  虫の夜はひとみをあけて/帰りけり
⑨  露の手に厚みのありて/うごかしぬ
⑩  棕櫚の木の掘られて/寒き冬に入る

 こうして並べてみると、接続助詞としての機能はほとんど感じられず、仮に韻律を無視していいのなら「て」などなくてもそのまま成立するだろう。逆に言うと、これらの「て」は調べを整えるためだけに存在する。「上善如水」という日本酒があるが、鴇田智哉の句の希薄な質感は、このような調べを整えるだけの措辞によっても、水の如き効果がもたらされているのではないか。
 
 
◆動詞に連なる「て」
 動詞「ゆく」「をる」などに連なるものである。①③④⑦⑧が該当する。「」で強調してみる。
 
①  干潟とは今を「忘れてゆく」模様 
③  蟻に「気をとられてをれば」夜になりぬ
④  夏いつか鰭の「うすれてゆく」魚
⑦  送火の炎の「きえてゆく」はやさ 
⑧  空の絵を「描いてをれば」末枯るる 
 
 客観写生系だと写真のように瞬間を切り取ることを最大の美とする向きもあるが、鴇田智哉はそうではない。「~てゆく」による未来への継続、「~てをる」による現時点での存続などの時間の流れが、句に陰影を与えている。また、③⑧はともに「…てをれば」のかたちで順接の接続助詞「ば」に連なり、結局のところ接続助詞としての「て」に近い用法となっている。それにしても「忘れて」「気をとられて」「うすれて」「きえて」と、なんと儚い動詞の選択だろう。「描いて」は一見そうでもないが、「末枯るる」に着地する。総じて、意外にもセンチメンタルな語の運びである。

2018年5月19日土曜日

五吟歌仙 垢のなきの巻 評釈

   垢のなき耳で見にゆくさくら哉    なな

 当世「垢」といえばツイッターなどのアカウントのことであるかも知れない。目ではなく「耳で見にゆく」と言っているのだから、ますますSNSで過剰に発信される情報が思われる。そんな一切から自由になりたくてその手の共同体から退会したのではないか。一切の情報を無視して自分が捉える桜はこういうものだったのだ。という可能性をまずは認識しておこう。

   垢のなき耳で見にゆくさくら哉    なな
    乳母車押す囀のなか       ゆかり

 そのようなネットスラングの存在は認識しつつ、脇は「垢のなき耳」を掃除の行き届いた乳児の耳と捉え直した。自信に満ちた母親像を音声情報の中に描いている。ネット連句の常で、発句と脇は必ずしも同じものを見ているわけではないところで挨拶を交わす。

    乳母車押す囀のなか       ゆかり
   遅き日の遅きバス待ちくたびれて   媚庵

 第三から展開が始まる。春の句を三句続けるところから「遅き日」という季語を選択し、時刻表通りに来ないバスについて、「遅き日の遅きバス」と畳みかけ、さらに句またがりで「待ちくたびれて」とすることにより、いかにも遅い感じを出している。

   遅き日の遅きバス待ちくたびれて   媚庵
    山はこちらに海はそちらに      霞

 ここまで叙景句があまりなかったのでそういう趣としているが、バスガイドの「右に見えますのは」式の口上をも思い起こさせるリズミカルなものとなっている。

    山はこちらに海はそちらに      霞
   月ひとつ砂に埋めれば魚の啼く    七節

 前句の後半から導かれたものだろうが、月の座で月を砂に埋める人はあまりいない。このあたり七節ならではの句境である。

   月ひとつ砂に埋めれば魚の啼く    七節
    野分のなかを駆けぬける影      な

 なにしろ月を埋めてしまったのだから、表六句らしからぬ不穏な様相を呈している。なんだか分からないものが駆け抜ける。ついでに「大いなるものが過ぎ行く野分かな 虚子」を頭の隅に思い出しておこう。

    野分のなかを駆けぬける影      な
ウ  跳躍し神に近づく夜の鹿        り

 前句のなんだか分からない影が姿を現した瞬間を捉えた。

   跳躍し神に近づく夜の鹿        り
    ワインセラーに口紅忘れ       庵

 この付けはすごい。前句を高精細なテレビの映像と捉え、チャンネルを切り替えるように成熟した女性像に転じている。

    ワインセラーに口紅忘れ       庵
   東京で私の未来だつた人        霞

 恋は一瞬にして過去のものとなった。トレンディドラマのひとこまのような前句を「東京」と断定し、「私の未来だつた人」という措辞が切ない。

   東京で私の未来だつた人        霞
    ノイズは濡れるラジオのやうに    節

 そして思い出にノイズが混入する。「濡れるラジオ」と言えば、真空管からトランジスタの時代になったとき、電池でも鳴る可搬のラジオをそれこそ風呂場にも持ち込んで聴いたものだった。場所を変えれば電波状況も変わる、そんないろいろが混信するノイズなのではないか…。

    ノイズは濡れるラジオのやうに    節
   ペン入れを螢光ペンの飛び出して    な

 人生でラジオが必要だった受験期の記憶で、机上のリアリティを描いている。

   ペン入れを螢光ペンの飛び出して    な
    半日でとる原付免許         り

 蛍光ペンと言えば丸暗記だろうが、毛色の違うもので付けてみた。

    半日でとる原付免許         り
   湾岸に熱風吹きて月のぼる       庵

 とりたての免許でぶっ飛ばす湾岸。折しも夏の月がのぼる。

   湾岸に熱風吹きて月のぼる       庵
    あさぼらけるけかつぱはねるね    霞

 驚いたことに河童語が登場する。河童は寝るね、と言っているのか、河童跳ねるね、と言っているのか、人間の捌き人には分かりかねる。

    あさぼらけるけかつぱはねるね    霞
   鍵穴に宇宙卵が挿してある       節

 宇宙卵は河童が残したものだろうか。このあたりまことに人智を超えたコミュニケーションである。

   鍵穴に宇宙卵が挿してある       節
    アンドロメダ忌まで飲み明かす    な

 宇宙の創世に関わる宇宙卵に対し、「アンドロメダ忌」で付けている。捌き人は架空の忌日だと思っていたが、埴谷雄高の命日で二月十九日らしい。であれば春の季語である。「まで」って、前日から飲み明かすのだろうか。

    アンドロメダ忌まで飲み明かす    な
   花冷えの記憶の漬かるホルマリン    り

 その忌日が「アンドロメダ忌」と呼ばれるような人物であれば当然脳が保存されているだろうと断定し、花の座の句に仕立てている。

   花冷えの記憶の漬かるホルマリン    り
    万愚節とて行く女坂         庵

 保存された脳にはあの世まで持って行きたかった嘘もいっぱい残されているのだろうか。万愚節、女坂という語の運びがなんとも火宅っぽい。

    万愚節とて行く女坂         庵
ナオ 淡雪に母校の灯りは消えたまま     霞

 雪でも降ろうものなら転倒しないようにゆっくり登った女坂の途中の母校であるが、今はまだ春休みなのだろうか、灯りが消えている。名残の雪が感傷を誘っている。

   淡雪に母校の灯りは消えたまま     霞
    色紙に溢る言葉優しき        節

 かつての学友の寄せ書きはどれも言葉が優しい。

    色紙に溢る言葉優しき        節
   伊東屋のサンプルとして置かれたる   な

 伊東屋というのはかの文具店だろう。ほんとかよとも思うが、記入された色紙が見本として置かれてあるのだと詠んでいる。

   伊東屋のサンプルとして置かれたる   な
    アニマル柄の還暦祝ひ        り

 であれば、ほんとかよという付句で返そう。伊東屋にアニマル柄なんてあるのだか。

    アニマル柄の還暦祝ひ        り
   漕ぎながら枯野の果ての補陀落へ    庵

 アニマル柄から秘境探検的なものが導かれているが、行き先がただごとではない。補陀落(ふだらく)は仏教語で、インドの南海岸にあり、観音が住むといわれる山。

   漕ぎながら枯野の果ての補陀落へ    庵
    真綿でくるむ貴方の右手       霞

 前句を成仏したものと捉えている。右手だけが遺ったのだろうか。枯野も真綿も冬の季語だが、季節感とは関係ない世界で展開している。

    真綿でくるむ貴方の右手       霞
   燃えてゐる麒麟の舌は夜を這ふ     節

 前句を情愛的なものに読み替えて付けている。

   燃えてゐる麒麟の舌は夜を這ふ     節
    新潮文庫の天アンカット       な

 これは初折裏二句目の媚庵句に似た展開となっている。フィクションの外側の現実で付けるこの手法に名前はあるのだろうか。天アンカットは製本上の用語で、小口のうち上方である「天」のみを断裁せずに残す手法だが、新潮文庫のように栞ひもがある文庫ではそもそも工程上、天を断裁できないという。

    新潮文庫の天アンカット       な
   海底のやうに時間が降り積もり     り

 天アンカットには埃がたまりやすいのを捉え、もっともらしく付句としている。

   海底のやうに時間が降り積もり     り
    先祖代々槍の家柄          庵

 時間の推移をそのまま先祖代々で受けている。「槍の家柄」というのは、まっすぐな気性で喧嘩っ早いという意味だろうか。

    先祖代々槍の家柄          庵
   望の夜に神と仏と盃を         霞

 月の座である。なにか現代なりに決戦のときなのだろうか。頼みになりそうなものを列挙している。

   望の夜に神と仏と盃を         霞
    波間ただよひ尾花蛸行く       節

 飄々とした付けである。尾花蛸は晩秋、尾花が散る頃の蛸で、産卵後なので味が落ちるとされる。悲壮な決意とともに尾花蛸が漂っていると思うとなんだか楽しい。よくこんな変な季語を拾ってきたものだ。

    波間ただよひ尾花蛸行く       節
ナウ 雁瘡の幼子ふたり寝かしつけ      な

 そう来たかと変な季語で返す。雁瘡(がんがさ)は皮膚病の一種で湿疹、痒疹などをいい、俗に、雁が渡ってくるころにでき、去るころになおるところからいうとのこと。尾花蛸の孤独感とは異質な哀愁で付けている。

   雁瘡の幼子ふたり寝かしつけ      な
    メビウスの帯クラインの壺      り

 子を寝かしつけ何をしているのかというと、位相空間に思いを馳せている。メビウスの帯は、帯を一回ひねって貼り合わせたもので裏表がない。クラインの壺は同じように管を一回ひねって貼り合わせたもので、三次元上では実現できない抽象概念であるが、これもまた表裏がない。

    メビウスの帯クラインの壺      り
   見あげればエデンの方へ雲流れ     庵

 そんな数学的思考から我に帰ると、それはそれで宗教的な思考の中にいて、創世記の彼方を思っている。

   見あげればエデンの方へ雲流れ     庵
    伊予柑むいたままの手のひら     霞

 エデンの園と言えば知恵の樹であるが、それが林檎なのかバナナなのかイチジクなのかは諸説あるらしい。そこは俳諧、なんと伊予柑で付けている。しかもまだ食べてない。人類はどうなるのか。

    伊予柑むいたままの手のひら     霞
   言の葉を拾いつつ行く花のなか     節

 花の座である。連句の三句の渡りでは自動的に打越は捨てられるので、すでに創世記とは離れて読む必要がある。前句の「手のひら」から「拾いつつ」が導かれているのだろう。パズルのピースのような断片が次第に集まって意味が伝わる期待とともに花のなかにある。
 
   言の葉を拾いつつ行く花のなか     節
    じやんけんぽんで出づるてふてふ   な

 挙句はもはや魔法である。前句の途上感をリズムに乗せて一気に解決させている。呪術的な楽天性というか、根拠のないおめでたさがすばらしい。

五吟歌仙 垢のなきの巻

   垢のなき耳で見にゆくさくら哉    なな
    乳母車押す囀のなか       ゆかり
   遅き日の遅きバス待ちくたびれて   媚庵
    山はこちらに海はそちらに      霞
   月ひとつ砂に埋めれば魚の啼く    七節
    野分のなかを駆けぬける影      な
ウ  跳躍し神に近づく夜の鹿        り
    ワインセラーに口紅忘れ       庵
   東京で私の未来だつた人        霞
    ノイズは濡れるラジオのやうに    節
   ペン入れを螢光ペンの飛び出して    な
    半日でとる原付免許         り
   湾岸に熱風吹きて月のぼる       庵
    あさぼらけるけかつぱはねるね    霞
   鍵穴に宇宙卵が挿してある       節
    アンドロメダ忌まで飲み明かす    な
   花冷えの記憶の漬かるホルマリン    り
    万愚節とて行く女坂         庵
ナオ 淡雪に母校の灯りは消えたまま     霞
    色紙に溢る言葉優しき        節
   伊東屋のサンプルとして置かれたる   な
    アニマル柄の還暦祝ひ        り
   漕ぎながら枯野の果ての補陀落へ    庵
    真綿でくるむ貴方の右手       霞
   燃えてゐる麒麟の舌は夜を這ふ     節
    新潮文庫の天アンカット       な
   海底のやうに時間が降り積もり     り
    先祖代々槍の家柄          庵
   望の夜に神と仏と盃を         霞
    波間ただよひ尾花蛸行く       節
ナウ 雁瘡の幼子ふたり寝かしつけ      な
    メビウスの帯クラインの壺      り
   見あげればエデンの方へ雲流れ     庵
    伊予柑むいたままの手のひら     霞
   言の葉を拾いつつ行く花のなか     節
    じやんけんぽんで出づるてふてふ   な


起首:2018年03月27日
満尾:2018年05月14日
捌き:ゆかり

2018年4月28日土曜日

清水径子『哀湖』(1)

『SASKIA』10号の清水径子二百五十句(三枝桂子抄出)から第二句集『哀湖』(昭和五十六年 俳句研究新社)について。

 本筋ではなさそうなところから入ってみる。食べ物の句がなんだか多い。

  まんぢゆうを食べ夏の夜のうす汚れ
  雨音のしみてしらじら寒の餅
  草餅の一つも翔たず老いませり
  餅食うべ体内に芽のやうなもの


 この時期の作者の健康状態など知る由もないのだが、最初の三句は食べる快楽とはあまり縁がなさそうである。それに比べると、いきなり関東・東北方言を上五に持ってきて自身に言い聞かせる感のある最後の句は、生への意志を感じさせる。腹が減ったというよりも、もっと芯のある「芽のやうなもの」。

2018年4月15日日曜日

乱反射するベスト・ヒット・アルバム

 川合大祐『スロー・リバー』の最後。第Ⅲ章は「幼年期の終わり」。これまで見てきたふたつの章と異なり、たぶん章としてのテーマ性はない。最終章として、方向性を限定せずベスト・ヒット・アルバム的に句が集められたものだろう。

  眠るものまさに時間のかたちして
 時間という抽象的な概念を用い「まさに時間のかたちして」という。虚を突かれ、ついし信用してしまいそうになる。

  目の裏を見るように見る月の裏
 目の裏を見ることはできない。そして月は自転の速さだかの関係で、つねに地球に同じ面を向けていて、月の裏を見ることはできない。できないこと同士が力業で「ように」で連結され、読者をだましにかかる。そのもっともらしさは、短詩系ならではのものだ。

  牧場に両親だけが残される
 幼い兄弟が残されるなら、そんな童話がありそうである。ここでは逆転して両親が残される。どんなブラックでノンセンスな結末が訪れるのだろう。

  もう靴は脱がなくていい世紀末
 選択肢のひとつとして人類の滅亡があたまをよぎる。そりゃあ、もう靴は脱がなくていいよね。

  燃える町過去はいつまで過去なのか
 「もはや戦後ではない」と発言したのは誰だったか。過去はいつまでも過去である。

  石鹸をきたないものとしてながす
 確かに。しかし使用前と使用後で区別する呼び名を私たちは持たない。

  一日は十七時間よりながい
 俳句では当たり前の事実に季語などをくっつける「日にいちど入る日は沈み信天翁 三橋敏雄」みたいな作り方があるが、当たり前の事実だけで五七五を使い果たしているのがなんともすごい。
 
  電線の先に聖なる人がいる
 OSI参照モデルみたいなものを思い浮かべるまでもなく、電線を介して私たちの思考はネット上を駆けめぐる。ときとして宗教も恋愛も電線の先の像に過ぎない。

  東京に全員着いたことがない
 本来着くべき一団が着かないのならそれはそれで怖いし、地球人全員とかを思い浮かべればそれはそれで真理である。

  構造化されているので北酒場
 どう考えても「構造化」と結びつかない「北酒場」の、なんというか階層のずれ具合が可笑しい。

 というわけで、硬直した俳句脳にはじつに刺激的な句集なのだった。お求めはあざみエージェントさんまで。

永遠にシニフィエになり得ないシニフィアン

 川合大祐『スロー・リバー』の続き。第Ⅱ章は「まだ人間じゃない」。章のタイトルを見て最初に思い出したのは『妖怪人間ベム』の主題歌中の台詞「早く人間になりたい」だが、どうもそういうことではないらしい。
 
  二億年後の夕焼けに立つのび太
 この句を筆頭に作中人物や作家を題材とした句が果てしなく続き、「ロボットに神は死んだか問うのび太」で章が終わる。章の最後まで読み終えてもう一度、章のタイトルを見たとき、はたと気づく。シニフィアン(記号表現)が永遠にシニフィエ(記号内容)になり得ないように、作中人物ののび太は、たとえ二億年経ってもほんものの人間そのものではない。章全体がそう問いかけている。

  体言であろうタモリという男
 指し示す表現は、ここでも指し示される内容そのものではなく、絶妙なずれが可笑しい。

  そうこれはムーミンですね下顎骨
 物語の世界から逸脱し、化石として解剖学的に扱われるムーミン。

  鳥がいて隠れる犬の吹き出しに
 絵の一部に描かれるのに、通常はそれが絵の一部を隠していることを暗黙的に問われない、漫画の吹き出し。その問うてはいけない約束を問うとこんなことになる。

  翻訳の町にブラック・レイン降る
 井伏鱒二である。「黒い雨」だろうが「ブラック・レイン」だろうが、記号表現が指し示す記号内容は同じはずである。しかしそれが同じではないこと、また記号表現そのものが翻訳不能な価値であることを、私たちは知っている。

(続く)

表記の快楽

 いつの頃からかツイッターでフォローさせて頂いている柳人で川合大祐さんという方がいらして、つねづね句を拝見しては「おお、そうきたか」と感じ入っていたのだが、川柳句集『スロー・リバー』(あざみエージェント。2016年)を上梓されていて、しかも版を重ねているということを最近知り、遅ればせながら拝読した。この句集が川柳界でどのように評価されているのかはまったく存じ上げないし、そもそも私に川柳のことが語れるのかも分からないのだが、感想文をしばらく書きたい。このブログの他の例に漏れず、伝記的な事実はほとんど無視し、章ごとにあたまに映るよしなしごとを綴る。
 
1.表記の快楽
 第Ⅰ章は「猫のゆりかご」。そういえば人に勧められてカート・ヴォネガット・Jrの同題の小説をKindleでダウンロードしたまま、それっきりになっている。読んでいれば見えるものががらっと変わるのかも知れないが、委細構わず進む。

  ぐびゃら岳じゅじゅべき壁にびゅびゅ挑む
 冒頭の一句がいきなりこれだ。「ぐびゃら岳」も「じゅじゅべき壁」も「びゅびゅ」も、経験的になぜか固有名詞であることは分かる。そして実在しないであろうことも。「猫のゆりかご」をやり過ごしたように、もう知らない固有名詞はやり過ごそう。そう、大したことじゃない。

  兄弟よわたしは한が読めません
 読めないと言っているのに、五七五の中に読まれることを想定して収まっている。困ったものだ。ちなみに私も読めないので、その字をブログに転記するのに、ハングルを要素ごとに組み合わせるサイトを使用した。ところで句集の字をよく見ると左上はなべぶたではなく、二になっている。活字上区別があるのかも知らないが、もしかすると本当にだれも読めないのかも知れない。

 この二句のあと、…、()、/、▽、ルビ、空白などを駆使した句群が続く。俳句ではあまりやらないやり方だが、ポストモダン的な素養があればさらに楽しいのだろう。三句ほど紹介しておこう。こんな感じである。

  この紙は白色しかし     空白だ
  あ、の字形崩れるような叫びして
  」あるものだ過去の手前に未来とは「

 句自体が作品として向こう側にあるのではなく、現在進行形で読者にしかけてくるトリックというのも、俳句ではやらないことかも知れない。

  郎読をしてほしいから誤字にする
  振り向いてごらん次の字読まないで

(続く)

2018年3月12日月曜日

脇起こし五吟歌仙・夕陽暫くの巻 評釈


   夕陽暫く塔を捉へる寒さかな      卓
 媚庵さんから頂いた発句は眉村卓句集『霧を行く』より。眉村卓はSF作家として知られるが、じつは赤尾兜子門で、学生時代は俳句雑誌への投稿少年だった由。連衆以外の句を発句とし、脇から連衆が巻く進め方を脇起こしという。

   夕陽暫く塔を捉へる寒さかな      卓
    飛行機雲の凍る静寂       ゆかり
 脇は発句と同季、同じ場所にて挨拶として発句に返す。地球の丸さを感じる寒々とした発句に対し、さらに上空の、今しも音もなく進んでは凍る飛行機雲で付けている。

    飛行機雲の凍る静寂       ゆかり
   中学の裏の近道駆け抜けて      媚庵
 第三は場面転換である。地上に目を移し、近道を駆け抜けている。

   中学の裏の近道駆け抜けて      媚庵
    お札はすべて後ろポケット     なな
 前句だけだと主語がないので読者は句を詠んだ主体が主語だと自動的に思うわけだが、そこを敢えて札入れなど持ったこともない中学生らしき人物像に換えている。

    お札はすべて後ろポケット     なな
   ちりぢりと川波立つを望の月     銀河
 月の座である。すると前句は家出だったのだろうか。月下に川面を眺めている。

   ちりぢりと川波立つを望の月     銀河
    人工芝に蜩の鳴く         りゑ
 まだ早い時刻なのだろうか。河川敷には人工芝が広がり、蜩が鳴いている。

    人工芝に蜩の鳴く         りゑ
ウ  長き夜を二階の父のパター落つ     り
 初折裏折立である。実際の句座であればここからは酒が振る舞われ、羽目をはずす。前句を受け、自宅にしつらえたパター練習用の人工芝を階下から音の情報として詠んでいる。「蜩」「長き夜」という時間の交錯は疵といえば疵だろう。

   長き夜を二階の父のパター落つ     り
    点滅やまぬ着信表示         庵
 二階の気配を感じつつ、階下では音を押し殺した事態となっている。着信はミュートしたまま放置され、息子または娘の濃厚な情事がほのめかされている。

    点滅やまぬ着信表示         庵
   耳たぶを噛む酒の香を漏らしつつ    な
 前句に応えるように濃厚な情事を展開している。恋の座である。

   耳たぶを噛む酒の香を漏らしつつ    な
    愛しきタマに戒名の欲し       河
 前句を猫の甘噛みと捉え、恋離れとしている。

    愛しきタマに戒名の欲し       河
   あやとりの橋もあやしくひるがへり   ゑ
 三途の川が下敷きにあるのだろうか。なんともビジュアルな転じである。

   あやとりの橋もあやしくひるがへり   ゑ
    潮もかなひぬ銀の少女よ       り
 橋といえばサイモンとガーファンクルの「明日に架ける橋」である。「Sail on silver girl/Sail on by/Your time has come to shine」の部分を額田王の「熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな」と組み合わせ、前句のあやしさを受けている。

    潮もかなひぬ銀の少女よ       り
   馬車が行き犬が馬車追ふ夏の月     庵
 字面だけを追えば、前句は時期が来たと言っているだけで必ずしも出帆ではない。だから馬車で付けている。馬車を追う犬は少女の飼い犬だったのだろうか。折しも夏の月が出ている。

   馬車が行き犬が馬車追ふ夏の月     庵
    胎児のころの夢を見てゐる      な
 寝てしまったのだろうか。夢を見ている。大胆な転じである。

    胎児のころの夢を見てゐる      な
   沫雪の溶けてかすかに音がして     河
 夢の中のことなのか現実のことなのかを曖昧にして玄妙に付けている。ここから花の座に向けて春の句が続く。

   沫雪の溶けてかすかに音がして     河
    試験あがりのダージリンティー    ゑ
 試験がはね、喫茶店でダージリンティーを飲んでいる。前句がそのまま砂糖のイメージとなっている。
 
    試験あがりのダージリンティー    ゑ
   技師長の退官の日の花万朶       り
 学業の試験ではなく、生産する製品の試験に読み替えている。課長、部長、事業部長というマネージメントを含めた出世コースとは別に純粋に技術を究めた人に与えられるポストとして技師長があるが、その退官の日、折しも満開の桜が咲いている。

   技師長の退官の日の花万朶       り
    海鳴り遠き駅に汽車待つ       庵
 余生のはじめを旅に出るのだろうか。遠く海鳴りが聞こえる。

    海鳴り遠き駅に汽車待つ       庵
ナオ ひとりだけギターケースがナイロンで  な
 名残表を通して、捌き人からドシャメシャな句を所望した。「ドシャメシャ」はたぶん山下洋輔語。初折裏よりも一層羽目を外してもらいたく、そういう言葉でお願いした。楽旅だろうか合宿だろうか、駅で汽車を待つのは初老の男ではなく、楽器を持った集団だった。ハードケースが多いなか、ひとりだけナイロン製のセミハードケースを背負っている。

   ひとりだけギターケースがナイロンで  な
    小石蹴とばしゆくハイヒール     河
 そのナイロンのケースの人物は女性で、小石を蹴飛ばして行くのだった。

    小石蹴とばしゆくハイヒール     河
   油揚げふくろにひらくももんがあ    ゑ
 夕食の支度だろうか、油揚げをふくろにひらくとももんがあのようなのであった。

   油揚げふくろにひらくももんがあ    ゑ
    ハットリくんのお面で迫る      り
 ももんがあと言えば、藤子不二雄Aの『忍者ハットリくん』にムササビの術というのがあって、両手両足で風呂敷の四隅を持ち滑空するのだった。ハットリくん自体が無表情を売りにしているキャラクターであるが、ここではさらに「お面」とした。縁日で並ぶセルロイドのイメージ。

    ハットリくんのお面で迫る      り
   化け損ね甲賀の里の樹氷林       庵
 伊賀忍者のハットリくんのライバルは甲賀忍者のケムマキケムゾウであるが、はて、甲賀の里とはどこであったかと検索してみると、滋賀県甲賀市。そんなところに樹氷林ができるのかとも思うのだが、化け損ねなのだからなんでもありである。

   化け損ね甲賀の里の樹氷林       庵
    次来るときは餌を一屯        な
 樹氷林に化けたとはいえ、元は生身の忍者なのだから腹も減る。しかし林にまでなってしまったので、食料の補給も半端ではない。

    次来るときは餌を一屯        な
   浮世絵はコピーアートのさきがけと   河
 コピーアートとは、デジタル大辞泉によると「コピー機を利用した現代美術の一つ。たくさんのコピーを組み合わせて、新しいイメージを作り上げる。コピー機とコンピューターを連動させ、さまざまなイメージのコピーと画像を融合させることもできる。」とある。もしかすると、打越から分身の術を連想したのかもかも知れない(余談ながら、銀河さんは白土三平のかなりの読者である)。が、打越と結びつけて読むのは正しくないので考え直すと、寝食を忘れて制作に没頭する浮世絵作家の様子が見えてくる。

   浮世絵はコピーアートのさきがけと   河
    記念硬貨でお釣りを貰ふ       ゑ
 硬貨というのも、まあ版画のようなものかも知れない。プレミアがつかないほど大量に発行された、ありがたみのない記念硬貨なのか。あるいはそういうことにまったく関心がない人物像なのか。

    記念硬貨でお釣りを貰ふ       ゑ
   段違ひ平行棒に小鳥来る        り
 オリンピックのイメージで「段違ひ平行棒」としたが、ときどき普通の公園の遊具として段違い平行棒を見かけることがある。そんなもの、一般市民が使うのだろうか。月の座へ向かいここから秋の句が続く。

   段違ひ平行棒に小鳥来る        り
    軍服を着た斜めの案山子       庵
 急激に政局が展開しているのでどうなるか分からないが、媚庵さんがこの句を付けた時点では、二〇二〇年の東京オリンピックは、中止になった一九四〇年の幻の東京オリンピックとかなりイメージが重なるものと多くの人が予感していた。暗い不吉な案山子である。

    軍服を着た斜めの案山子       庵
   こめかみに栗名月の貼り付いて     な
 月の座である。同季の中では時間軸を戻れないので、旧暦九月十三日である後の月の異名である栗名月としている。こめかみに貼るといえば膏薬であるが、意表をついて栗名月を貼り付けている。頭が痛いのだ。

   こめかみに栗名月の貼り付いて     な
    憂世なんめり小夜の中山       河
 銀河さんの自解によれば「年たけてまた越ゆべしと思ひきや命なりけり小夜の中山 西行」に基づいていて、小夜の中山は旧東海道の掛川市にある急峻な坂道とのこと。まことに頭が痛い。「なんめり」は断定の助動詞「なり」の連体形+推定の助動詞「めり」からなる「なるめり」の撥(はつ)音便で、…であるようだ。…であるように見える。

    憂世なんめり小夜の中山       河
ナウ 煎餅の袋にくわりんたうを詰め     ゑ
 名残裏からは挙句に向かいしらふに返った感じで進行する。「煎餅の袋」で検索すると業者向けのサイトに飛び、酸素バリア性に優れ、とか、突刺強度に強く、とか、私のボキャブラリーにない言葉が並ぶ。便利すぎる世の中も考えものである。それはさておき、かりんとうを小分けにしてまだ食べない分がしっけないようにしているのだろう。憂世であるが、かりんとうは食べる。

   煎餅の袋にくわりんたうを詰め     ゑ
    螺髪の如き鉄瓶の肌         り
 折しも湯が沸いている。鉄瓶の表面の突起は大仏の螺髪のようである。

    螺髪の如き鉄瓶の肌         り
   自転車で帰れば空にオリオン座     庵
 自転車での帰り道、見上げるとオリオン座が見えるのであった。どうでもいい話だが、角川の合本俳句歳時記では「冬の星」の傍題として「寒オリオン」とある。「オリオン座」では季語とみなさないつもりらしい。

   自転車で帰れば空にオリオン座     庵
    楽屋見舞のタヲルやはらか      な
 楽屋見舞の品がタオルということは、そんなに売れている人ではないのだろう。アルバイトで生計を立てながら自転車で芝居小屋まで行く劇団員を思い浮かべる。なお、名残裏四句目であるが、春の句を特に要求しなかったのは、春の短句が往々にして挙句のような雰囲気を帯びてしまうからである。

    楽屋見舞のタヲルやはらか      な
   湯煙に見え隠れして花万朶       河
 花の座である。タヲルからの連想で湯煙が導かれている。露天風呂から桜が見える。

   湯煙に見え隠れして花万朶       河
    うまし大和に風船の旅        ゑ
 挙句である。かつて風船おじさんという人が消息不明となり話題となったが、「風船の旅」は人間が風船で飛行するという危険を冒すものではなく、漂う風船を旅と見立てたものだろう。あるいは、熱気球のことを詩的に「風船」と詠んでいる可能性もないわけではない。「うまし大和」は万葉集の「うまし国ぞ秋津島大和の国は」に基づいている。発句と同じく見上げたアングルでありながら、構造物を配した発句に対し、挙句では広々とした景を古語を取り入れながら詠んで、対比させつつ余情のあるものとしている。

2018年3月11日日曜日

脇起こし五吟歌仙・夕陽暫くの巻


   夕陽暫く塔を捉へる寒さかな    眉村卓
    飛行機雲の凍る静寂       ゆかり
   中学の裏の近道駆け抜けて      媚庵
    お札はすべて後ろポケット     なな
   ちりぢりと川波立つを望の月     銀河
    人工芝に蜩の鳴く         りゑ
ウ  長き夜を二階の父のパター落つ     り
    点滅やまぬ着信表示         庵
   耳たぶを噛む酒の香を漏らしつつ    な
    愛しきタマに戒名の欲し       河
   あやとりの橋もあやしくひるがへり   ゑ
    潮もかなひぬ銀の少女よ       り
   馬車が行き犬が馬車追ふ夏の月     庵
    胎児のころの夢を見てゐる      な
   沫雪の溶けてかすかに音がして     河
    試験あがりのダージリンティー    ゑ
   技師長の退官の日の花万朶       り
    海鳴り遠き駅に汽車待つ       庵
ナオ ひとりだけギターケースがナイロンで  な
    小石蹴とばしゆくハイヒール     河
   油揚げふくろにひらくももんがあ    ゑ
    ハットリくんのお面で迫る      り
   化け損ね甲賀の里の樹氷林       庵
    次来るときは餌を一屯        な
   浮世絵はコピーアートのさきがけと   河
    記念硬貨でお釣りを貰ふ       ゑ
   段違ひ平行棒に小鳥来る        り
    軍服を着た斜めの案山子       庵
   こめかみに栗名月の貼り付いて     な
    憂世なんめり小夜の中山       河
ナウ 煎餅の袋にくわりんたうを詰め     ゑ
    螺髪の如き鉄瓶の肌         り
   自転車で帰れば空にオリオン座     庵
    楽屋見舞のタヲルやはらか      な
   湯煙に見え隠れして花万朶       河
    うまし大和に風船の旅        ゑ


発句:眉村卓句集『霧を行く』より
起首: 2018年01月10日
満尾: 2018年02月26日

2018年1月7日日曜日

清水径子『鶸』(2)

『SASKIA』10号の清水径子二百五十句(三枝桂子抄出)から第一句集『鶸』の続き。

   咲きとほす白梅のほか夜に沈む 清水径子
   昼の月白鷺の死所照らすため
   乳房もつ白鷺か森に隠れたり
 抄出では三句並んでいる。清水径子にとって白は特別な色のようだ。『鶸』(の抄出)には他に「霜白し死の国にもし橋あらば」「短き世ひたすらに白さるすべり」「弟に白梅わたす夢の中」「しばらくは白い時間の玉霰」があり、多くは冥界に通じるモノトーンの味わいを句集全体に添えている。
 白鷺が出たところで鳥はというと、句集のタイトルである鶸は抄出中にはない。他には「恋雀雪中に身を灯しあふ」「口中に鶫の一肢ひびくなり」「夏鶯焚きて火となるもの探す」「寒凪やはるかな鳥のやうにひとり」「影の樹に影の小鳥が冬の花」「一生のしばらくが冴え夏鶯」がある。多くは単なる取り合わせではなく、刹那的な哀感がある。ちなみに鶫が禁猟になったのは昭和四十五年のことで、それまでは普通に食用だったらしい。
 
   生と死とやはらかき苜蓿に座し
 例えば逢引で男女がやわらかい苜蓿に座すのなら話は分かる。だが、清水径子はそのようにして「生と死と」が苜蓿に座しているのだと詠む。しかも五五七のリズムによる異質感に乗せて。死が生の世界に恋人同士のように普通に入り込み隣り合っている死生観こそは、清水径子ならではの句境だろう。

   一滴の春星山に加はれり
 死という不在を強く意識するとき、「ない」の反対は「ひとつある」だろう。先の記事で引用した数のほとんどは一である。一への固執は、生きていることを詠むことに通ずる。掲句では、星を一滴と数えることにより、景に不思議な生命感を与えている。


   寒の暮千年のちも火の色は
 現れる数字でいちばん大きいものは千である。他に「夏の蝶仏千体水欲っし」という句もある。掲句、肯定的にも否定的にもバイアスを加えていない「火の色」は、おそらく人類の文明ということだろう。「も」による希求は下五の終わりで唐突にぶち切られている。「仏千体」の方は、悟りを開いた仏ではなく、死者だろう。夏の蝶の生命感がはかない。

 清水径子の俳句は、見えたものを見えた通りに表現する類いのものとはぜんぜん異なる。第一句集から、独特の死生観をいかに句に定着させるかの格闘が始まっている。

(続く。次回は第二句集『哀湖』)
 

2018年1月6日土曜日

清水径子『鶸』(1)

 まずは『SASKIA』10号の清水径子二百五十句(三枝桂子抄出)から第一句集『鶸』(昭和四十八年 牧羊社)六十一句。抄出者の感性にもよるのかもしれないが、かなりの量の数字に驚く。一丁、一つ、ひとり、二月、一本松、千年、一本、千体、一粒、一肢、八月、一日、二十数年前、一滴、二月、一生。これが重大な意味を帯びてくるのかは保留ながら事実としてまずとどめておこう。

   風ときて寒柝消ゆる鏡かな 清水径子
 抄出はこの句から始まる(実際に句集の中で巻頭なのかは分からない)。子音kで頭韻を揃え緊張感を湛えた幻想的な句である。この語順で書かれると、寒柝の音は鏡のなかへ消えて行ったように読める。

   目のみえぬ魚がみひらきゐる晩春
   地虫鳴く目の中くらくあたたかし
 抄出では二句並んでいるが、いずれも目という視覚の器官を素材に、目にみえないものを把握しようとしている感がある。

   元日のきこゆるものをひとり聞く
   亡弟に赤き花挿す二月かな
   誰か来よ一本松の雪雫
 抄出では三句並んでいる。ここまで来ると、清水径子にとって聴覚が特別の位置を占めているようにも思われてくる。二句目は生前の思い出を語っているのではなかろう。第一句集にして、死者が自在に立ち現れる清水径子ワールドが始まっているのだ。そして、亡弟を手がかりとすれば、前句の「ひとり」、次句の「一本松」がなんとも意味を帯び始める。
 
(続く)

2018年1月5日金曜日

清水径子ふたたび

 昨年の二月にこのブログで清水径子のことをいろいろ書いたところ、三枝桂子さんから『SASKIA』という個人誌を頂いた。
(頂いたのは昨年の六月のことで、まったく申し訳ない限りである。)






 『SASKIA』10号は全編清水径子の特集で、大きな記事としては以下がある。

◆特集 清水径子の世界
 清水径子二百五十句
◆特別寄稿
 評論 まろびてつかむ抒情の水脈 皆川 燈
◆評論 輝けるこの世の俳句    三枝桂子

 たかがブログの記事に目をとめて、このような本格的な個人誌をお送り頂き、感謝に堪えない。私はたまたま第四句集『雨の樹』を手に取り、読んだままブログに書いた。『雨の樹』以外を読んだこともなければ、清水径子の生涯についてもほとんど知らなかった。だから、この個人誌は大いにありがたい。

 また、しばらく清水径子について書くことにしたい。

2018年1月4日木曜日

山田露結『永遠集』(最終回)

 なにしろ豆本で四十一句しか収録されていないのだから、もう語りすぎだろう。最終回とする。

   しあはせをおぼへてゐたり蛇出づる 露結
 ひとつ前の書き込みで『ホームスウィートホーム』とそのつけたり俳句自動生成ロボット・裏悪水による「悲しき大蛇」について触れた。思えば「悲しき大蛇」は露骨なエログロで、山田露結の感性の一部をロボットに押しつけて代わりに詠ませ、「ロボットのやっていることですから」としてしまった感がある。その分『ホームスウィートホーム』本体は清純であったが、今後将来にわたって山田露結が負い続けなければいけないのは、「悲しき大蛇」性の取り込みだろう。『永遠集』に蛇は二匹潜んでいる。掲句ともう一匹は「穴よりも大きな蛇が穴に入る」である。どちらの句も古典的な隠喩により性愛を詠んでいる。また蛇こそ出ないが「男根におもてうらある梅雨湿り」「きつねのかみそりよく燃えさうな老女ゐて」「襟巻を外さぬ首と愛し合ふ」といった句群は、まさに「悲しき大蛇」性というべきものだろう。

   死んだことのない僕たちに夏きざす
 『永遠集』には死も潜んでいる。掲句以外には「祝福のやうな死ががあり花氷」「死ぬ夢の中にも冬菜抱く場面」がある。

 『永遠集』に「永遠」という言葉を詠み込んだ句はない。これまで見てきた妻や過度の詠嘆やエログロや死の、そのすべてが永遠だということだろう。「悲しき大蛇」にまたがり山田露結はどこに向かうのか。今後がますます楽しみである。

(了) 

山田露結『永遠集』(3)

   さびしいぞさびしいぞ鶯餅食らふ 露結
 山田露結といえばリフレインの使い手としても知られるが、『永遠集』においても四十一句中リフレインの句はなんと十句に及ぶ。しかも掲句のように主観的な形容詞を繰り返したものとして他に「花菜漬やさしい人がやさしすぎる」「木犀や悲しい歌がまだ悲しい」がある。
 通常の俳句の表現としては直情的に過ぎるが、このあたり「淋しいぞ一人五本のゆびを開いて見る 放哉」「まつすぐな道でさみしい 山頭火」あたりのより自在な表現から得たものがあるのではないか。第一句集『ホームスウィートホーム』のつけたり「悲しき大蛇」が、俳句自動生成ロボット・裏悪水による自由律俳句だったことを思い出しておこう。