2022年7月9日土曜日

掲示板過去ログ164

 2019年 1月21日(月)13時19分40秒から2019年 1月28日(月)14時36分9秒まで。




おや  投稿者:ゆかり  投稿日:2019年 1月28日(月)14時36分9秒

   意外にも登貴さんにモルギアナ方式が受け入れられてしまいました。さすがのモルギアナも草葉の陰でくしゃみをしていることでしょう。では現状のプランAのまま進めます。

 あんこさんの句、一句目は「椅子」が打越にやや障るというか外に景を移したほうが飛躍があるので、二句目を頂きます。「声」は平仮名にした方が旧仮名映えするでしょう。


      寒月のふくらみてゆく家路かな   あんこ

    おでんの種のふたり分強     ゆかり

   わたつみのそこひに泡の生まるらん  登貴

    残暑の港町の教会         媚庵

   十六夜のガラスの欠片集めゐて    なな

    記憶にはなきかりがねのこゑ     こ


 次は私です。しばしお待ち下さい。




 

 

 

お返事  投稿者:登貴  投稿日:2019年 1月27日(日)17時48分55秒

  こんばんは。

モルギアナ方式、おもしろいです。

私が捌きだったら思いもつかない、大胆で、理屈がとおった方式だと思います。

 

寒月  投稿者:あんこ  投稿日:2019年 1月27日(日)17時40分54秒

  檸檬香れる椅子に人形   こ

記憶にはなきかりがねの声


お捌き、お願いいたします。  

モルギアナ方式の是非  投稿者:ゆかり  投稿日:2019年 1月27日(日)09時12分56秒

   ううむ、妄動とか軽挙とか御容赦とか並べ立てないで普通に参加して下さればいいのに残念です。では五吟で巻きます。


 さて、今こそすべての日本国民に問います。初参加の登貴さんもいるのにモルギアナ方式じゃあんまりだろうという気もします。以下、どっちがいいですか。


●現状…モルギアナ方式による助詞「の」の連鎖


      寒月のふくらみてゆく家路かな   あんこ

    おでんの種のふたり分強     ゆかり

   わたつみのそこひに泡の生まるらん  登貴

    残暑の港町の教会         媚庵

   十六夜のガラスの欠片集めゐて    なな


●代替案…脇と四句目を一直し「の」の連鎖を回避


      寒月のふくらみてゆく家路かな   あんこ

    おでん種ならふたり分強     ゆかり

   わたつみのそこひに泡の生まるらん  登貴

    残暑を港町の教会         媚庵

   十六夜のガラスの欠片集めゐて    なな


 主として登貴さん、ご意見下さい。ほかの方はそういう捌き人だと慣れていると思いますので…。


 あんこさん、五吟で行きますので、折端に晩秋の句をお願いします。  

妄動  投稿者:ぐみ  投稿日:2019年 1月27日(日)01時33分3秒

  きらきら光るガラスの画材に誘われ思わず・・・・という軽挙でした。

五吟でもとおっしゃっていたのに・・・


今ならまだ間に合うと思いますので、引っ込みます。

平に御容赦を。



 

秋の名残  投稿者:ゆかり  投稿日:2019年 1月26日(土)20時50分24秒

   ロッドレーバーアリーナからいま帰宅したところです。いやあ、大坂なおみ選手、素晴らしかったですね。2016年の怪我から復帰してのクビトバ選手も本当に素晴らしかったし、いい試合でした。

 ぐみさん、お久しぶりです。打越が「残暑」で「秋の名残」では字が重なりますし、私自身「春の容疑者」などとやっておりますが、ほんとうは「春」「夏」「秋」「冬」をそのまま出したくないです。もう何句かいかがですか。  

寒月  投稿者:ぐみ  投稿日:2019年 1月26日(土)17時36分0秒

        寒月のふくらみてゆく家路かな   あんこ

    おでんの種のふたり分強     ゆかり

   わたつみのそこひに泡の生まるらん  登貴

    残暑の港町の教会         媚庵

   十六夜のガラスの欠片集めゐて    なな


     モザイクアート秋の名残に    ぐみ


 

寒月 月  投稿者:ゆかり  投稿日:2019年 1月26日(土)14時07分48秒

   ななさん、どうも。ほんとにモルギアナ方式で「の」を出してきましたね(^^);

表六句では神祇釈教を避けるというのがありまして、じゃあ神祇釈教ってなに、というのを辞書で引いてみました。


神祇…天神と地祇。天つ神と国つ神。

釈教…釈迦の教え。仏教。


 拡大解釈すればキリスト教も駄目なのかも知れませんが、気にせず行きましょう。一句目の方が進行に広がりがありそうなので、一句目を頂きます。


   寒月のふくらみてゆく家路かな   あんこ

    おでんの種のふたり分強     ゆかり

   わたつみのそこひに泡の生まるらん  登貴

    残暑の港町の教会         媚庵

   十六夜のガラスの欠片集めゐて    なな


 かくなる上は「の」の字縛りで行きます。以後長句でも短句でも必ず助詞「の」を用いて下さい。秋の句は三句続けます。秋の中で時期が戻らぬよう付けて下さい。


 これまで招致中の方に確認をとりますので、しばしお待ち下さい。もしかすると五吟となります。



 

寒月  投稿者:なかやまなな  投稿日:2019年 1月26日(土)13時28分13秒

  寒月のふくらみてゆく家路かな   あんこ

    おでんの種のふたり分強     ゆかり

   わたつみのそこひに泡の生まるらん  登貴

    残暑の港町の教会         媚庵


十六夜のガラスの欠片集めゐて        なな

十五夜のイエス称ふる声大き


お捌き、お願いします。  

いやあ、  投稿者:ゆかり  投稿日:2019年 1月25日(金)21時56分40秒

  凄いことになっているというか、捌き人みずから立ち入りにくい雰囲気にしてしまったのかも知れません。


 ちょっと補足した方がよさそうなのは、ドドイツ方式についてです。媚庵さんが都々逸について 1月21日(月)08時10分57秒の書き込みで紹介されていますが、『七五調の謎をとく』の著者がドドイツ方式と呼んでいるものは王朝和歌の読唱法との対立概念で、音の長さに関わるものです。


○王朝和歌方式

  1月23日(水)14時17分41秒の書き込みで書きましたが、三音、五音などの奇数音の場合に一音分音が伸び、さらに二音ごとに伸びが入ります。


○ドドイツ方式

 そのような音の伸びはありません。すべての音が同じ長さで、奇数音の場合、休符が同じ長さで入ります。

 三四の場合、/○○○ ○○○○ この頭の休符で三味線が鳴ると思って下さい。

 四三の場合、○○○○ ○○○/


 これが都々逸の読み方であるとともに現代の黙読のやり方なのです。


  はる~の-~よう~ぎしゃ~ …王朝和歌方式の三四

  さい~ごの~はつ~ひ-~  …王朝和歌方式の四三


  /はるの ようぎしゃ …ドドイツ方式の三四

  さいごの はつひ/  …ドドイツ方式の四三

 

なんだか・・・  投稿者:七  投稿日:2019年 1月25日(金)17時53分0秒

  しばらく覗きみてないうちに凄いことになっているんですね!!

よくわからないので見学してます(*^_^*)  

モルギアナ方式  投稿者:ゆかり  投稿日:2019年 1月25日(金)11時18分58秒

   『アリババと四十人の盗賊』です。

https://www.izumishobo.co.jp/onlinebook/c06_ladybird/046.html  

ぎゃ、  投稿者:ゆかり  投稿日:2019年 1月25日(金)11時10分7秒

  言われてみれば、


      寒月のふくらみてゆく家路かな   あんこ

    おでんの種のふたり分強     ゆかり

   わたつみのそこひに泡の生まるらん  登貴

    残暑の港町の教会         媚庵


 長句上五のみならず短句上七もすべて「の」ですね。かと言って、「わたつ海そこひに泡の生まるらん」だとリズム的に切れが入るのがやや面白くないですね。

 前に動詞が続いてしまったときには、そこから後ろすべて動詞を入れるという荒技に出たこともありました。盗賊が扉に印を付けたのを見つけ、すべての家の扉に印を付けてどれだか分からなくしたモルギアナ方式です。

http://misimisi2.blogspot.com/2017/06/blog-post_20.html


直すのはいつでもできるので、少し寝かしてきましょう。


 「水無瀬三吟」は宗祇の連歌なのですね。連歌には手を広げていないのですが、ネットで見つけたのでちょっと読んでみます。

https://koten.sk46.com/sakuhin/minase.html  

微修正  投稿者:登貴  投稿日:2019年 1月25日(金)10時52分25秒

  こんにちは。韻律に関する議論、たのしく拝見しています。

わたしは、自己流ですが、四三、三四、二五、五二が、

バランスよく出てくるように巻いています。

蕉門の歌仙が大好きなんですが、そこははずして。

水無瀬三吟(古!w)なんかでも、ええ感じにいろいろまざってますよね。


ところで、寒月の巻、あまり気にしなくてもいいかもしれませんが、第三、

発句の上五「の」のさしあいが気になってきました。

早いうちに下のように直したいのですが、いかがでしょうか。


寒月のふくらみてゆく家路かな   あんこ

    おでんの種のふたり分強     ゆかり

   わたつ海そこひに泡の生まるらん  登貴

    残暑の港町の教会         媚庵

 

ななさん  投稿者:ゆかり  投稿日:2019年 1月24日(木)23時01分4秒

   複数の方に招致活動を続けている現状はありますが、掲示板上に反応してくれた方からでよいと思いますので、月の座をお願いします。発句が寒月ですので、月の字を出さずに秋の月を詠み上げて下さい。  

変化の事  投稿者:ゆかり  投稿日:2019年 1月24日(木)22時55分39秒

  西邑養魚蔵本バージョンから続けて引用します。

--------------------------------------------(引用始め)

  ○変化の事

 文章といふは変化の事なり。変化は虚実の自在をいふなり。黒白・善悪は言語のあやにして、黒きを黒しといふも、黒を白しといふも、しばらく言語の変化にして、道理はもとより黒白一合なり。しからば天地の変化に遊ぶべし。人は変化せざれば退屈する本情なり。況(いはん)や、はいかいは己が家にありながら、天地四海をかけめぐり、春夏秋冬の変化にしたがひ、月はなの風情にわたるものなれば、百句は百句に変化すべき事也。其(その)変化をしりても変化する事を得ざるは、目前のよき句に迷ひて、前後の変化を見ざるが故なり。されど変化といふに新古なき事は、人間の春秋に新古なきがごとし。其(その)日其(その)時の新古を見て、一巻の変化に遊ぶべし。変化はおふむね、料理の甘く淡く酸く辛きがごとし。能(よき)もよからず。あしきもあしからぬ所に、変化は虚実の自在よりとしるべし。

--------------------------------------------(引用終わり)


要するに一巻の中で徹底的に変化しなさいと言っているわけですね。


 ここまで、徹底的に虚で変化しなさいと言ったその次の節が、最初に引用した「起定転合之事」となるわけです。「起定転合之事」の中の「虚空界」「天地」「万物」というものがどういうものか、伝わりますでしょうか。  

まさか、月の座から  投稿者:なかやまなな  投稿日:2019年 1月24日(木)22時51分29秒

  ゆかりさん

お誘いありがとうございます。月の座はほかの方が詠まれるのですよね。ふるふる。まさか月の座から。ふるふる。


霞さん

先程「プレバト!!」を観ていたのですが、そこに

飲み干す光寒晴れのジュース缶      松岡充

この句、わたしなら「光飲み干す」にするなーと思ったんです。そしたら夏井いつきさんも「ひかり飲み干す」にされていました。やはり三四のほうがスピード(これは拍につながるのかな)が出るかな。

 

虚実の事  投稿者:ゆかり  投稿日:2019年 1月24日(木)22時31分51秒

   霞さん、どうも。「起定転合之事」は天地とか万物とか、大言壮語ぶりが印象的なのですが、それはその二条前から始まっています。せっかくなのでもう少し西邑養魚蔵本バージョンから引用します。

--------------------------------------------(引用始め)

  ○虚実の事

 万物は虚に居て実に働く。実に居て虚に働くべからず。実は己(おのれ)を立て、人をうらむる所有(あり)。譬(たとへ)ばはなの散るをかなしみ、月のかたぶくを惜むも、実に惜むは連哥の実なり。虚におしむははいかいの実なり。抑(そもそも)、詩哥・連俳といふ物は、上手に嘘をつく事なり。虚に実あるを文章と言(いひ)、実に虚あるを世智弁と言(いひ)、実に実あるを仁義礼智と言(いふ)。虚に虚ある者は世に稀にして、あるひは又多かるべし。此(この)人をさして我家の伝授と言(いふ)べし。

--------------------------------------------(引用終わり)


 徹底的な虚への志向がありますね。連歌と俳諧を別のものと捉えていることも分かります。  

なっとく!  投稿者:霞  投稿日:2019年 1月24日(木)18時06分45秒

  おおお、ほんとだ。私も発句と脇のことに読めます。それならわかる(わかるし、そりゃ発句と脇は二句で一首だ)!


ゆかりさん引用ありがとうございますー。たのしい。


そしてななさんは四三をどうお考えなのかお伺いしたいー。

 

ななさん、こんにちは。  投稿者:ゆかり  投稿日:2019年 1月24日(木)15時54分22秒

  せっかくなので、ご参加下さい。いま月の座を待っているところです。

以上、西郷山からの中継でした。


 

目で追う。  投稿者:なかやまなな  投稿日:2019年 1月24日(木)15時46分43秒

  頭が置いてけぼりになっていますが、討論を目で追っています。以上現場のなかやまななでした。  

起定転合之事  投稿者:ゆかり  投稿日:2019年 1月24日(木)14時49分31秒

  風牙さんは第一条「俳諧は上下取り合わせて歌一首と心得べし。」と書いていますが、私が見ているバージョンだとそれは「一 起定転合の事」に出てきます。起定転合とは今の言葉でいう起承転結のことです。西邑養魚蔵本バージョンを全文引用します。

--------------------------------------------(引用始め)

  ○起定転合之事

 俳諧は上下取合て、哥一首と心得べし。起とは虚空界にむかひて、無念相のうちに念相を発句といふなり。一物発(おこ)る時に相対して又生ず。是を脇といふ。はじめは一物を定るなり。定の字あるひは請は、上の一物をうけ持(つ)心なり。されば発句は陽なり、脇は陰なり。第三は一転して、天地より人を生ずるがごとし。人は天地より働けれ共、しかも天地より出(いづ)る所をしるべし。合とは万物一合なり。哥には流の字の心なるべし。是より変化して山あり川ありて、一巻の成就とはいふ也。

--------------------------------------------(引用終わり)


 どうやら起承転結を次のように割り当てているようです。


起 発句

承 脇

転 第三

結 そこからあとのすべての一巻の成就


 厳密に逐語的に捉えてもしょうがないような心得(=印象論もしくは大言壮語)なのですが、「一物発(おこ)る時に相対して又生ず。是を脇といふ」というくだりを読むと、「俳諧は上下取合て、哥一首と心得べし」は「俳諧は」と言っているものの発句と脇の関係についてのようにも思われます。また「哥には流の字の心なるべし。是より変化して山あり川ありて、一巻の成就とはいふ也」というくだりを読むと、「上下取合て」とは言っているものの全体が哥だといっているようでもあります。




 

二十五箇条のこと  投稿者:ゆかり  投稿日:2019年 1月24日(木)14時07分23秒

    1月23日(水)08時12分50秒の風牙さんの書き込みで、『芭蕉翁二十五箇条』をご紹介頂きました。私が見ているのは『蕉門俳論俳文集』(古典俳文学大系10 集英社)所収の西邑養魚蔵本バージョンです。芭蕉が落柿舎で去来に対し誰にも伝えるなと言って書き残したもの、として結局後年出版された、支考による偽書とも見られているものです。二十五箇条は以下です。

 目録

一 はいかいの道とする事

一 はいかい二字の事

一 虚実の事

一 変化の事

一 起定転合の事

一 発句切字有事

一 脇韻字有事

一 第三手爾葉之事

一 四句目軽事

一 月花の事

一 花に桜つくる事

一 当季を案ずる事

一 二季に渡るものゝ事

一 発句時季用事

一 発句像やうの事

一 附句案じやうの事

一 趣向を定る事

一 恋の句の事

一 切字に句伝ある事

一 差合の事

一 から崎の松の事

一 鳶に鴟の句の事

一 宵闇の事

一 名所に雑の句の事

一 かなづかひの事



 

王朝和歌の基盤崩壊  投稿者:ゆかり  投稿日:2019年 1月24日(木)10時51分24秒

   引き続き坂野信彦『七五調の謎をとく 日本語リズム原論』(大修館書店)の「四三調結句忌避」の節をタネ本とします。

 著者は王朝和歌の基盤崩壊について次のように推察していて、じつにスリリングです。

-------------------------------------------------------------(引用始め)

 王朝和歌の基盤が崩壊したのはなぜでしょうか。歌を披露(発表)する場の変化ということも影響したでしょう。活字本としてひろく流布しはじめた『万葉集』の影響もあったでしょう。しかし、もっと本質的な理由はなかったでしょうか。

 思うに、黙読の習慣化ということが決定的な要因だったのではないでしょうか。それは活版印刷の普及という社会現象にはじまります。明治十年代にまず新聞や雑誌が木版から活版への切り換えをはじめます。戯作などの単行本もこれにつづきます。読書のスピードがいっきょに上がり、それにつれて「声」が脱落してゆきます。「声」の脱落によって、読みのスピードがさらにアップされます。

(中略)

 和歌もまた活版で印刷されはじめました。活字となった和歌が、はたしていつまでも声をのばして読唱されつづけるでしょうか。やがて和歌も活字の読みものとして、黙読されるようになっていったはずです。そのとき、王朝和歌の律読方式に代わって、おのずからドドイツ方式が採用されることになった、というわけでしょう。すでにこの新方式による音律は日本人の「内在律」にまでなっていたのですから。

 こうして、おそらく古典的律読法の最後の砦であった和歌も、ついにドドイツ方式で読まれるようになっていったものと考えられます。

-------------------------------------------------------------(引用終わり)


 という現代にあって、連句下七における四三の忌避について、いま我々は語り合っている、ということのようですね。

 

実例の定量分析  投稿者:ゆかり  投稿日:2019年 1月24日(木)10時32分56秒

   月犬さん、「狂句こがらし」の巻の短句実例のご提示ありがとうございます。

ちなみに坂野信彦『七五調の謎をとく 日本語リズム原論』(大修館書店)の「四三調結句忌避」の節では、かなり定量的に論を進めています。「~ものを」「~なくに」などの詠嘆表現は王朝和歌でも四三調が公認でしたが、それらを含め四三調の出現率は以下とのこと。

     公認 非公認

古 今  4.9% 1.2%

拾 遺  1.8% 0.9%

後 拾  1.0% 0.1%

新 古  0.6% 0.2%

新続古  0.4% 0.3%


 王朝和歌成立以前の万葉集では四三調の出現率は20~30%とのこと、王朝和歌の基盤が崩れるのは明治三十年代に入ってからとのことです。また、『俳諧七部集』に収められた短句746句中、四三調になるすえの七音はゼロで、著者は「このことは、芭蕉の”俳句”も王朝和歌方式で読唱されていたことを示しています」と大胆に結論づけています。  

寒月 4  投稿者:ゆかり  投稿日:2019年 1月24日(木)10時11分53秒 編集済

   媚庵さん、ありがとうございます。四三調がどうのこうの、という話題が続いておりますが、ここは敢えて句またがりの二句目を頂いてみます。


      寒月のふくらみてゆく家路かな   あんこ

    おでんの種のふたり分強     ゆかり

   わたつみのそこひに泡の生まるらん  登貴

    残暑の港町の教会         媚庵


 次は月の座です。秋の月を詠んで下さい。とはいえ、発句が寒月なので「十六夜」とか月の字を出さないなどの配慮を見せて下さい。

 引き続き招致活動を続けますので、しばしお待ち下さい。どうして私が呼ばれないのだと思われた方は、こっそりメールなりメッセージなり下さい。

 

寒月の巻 第四  投稿者:媚庵  投稿日:2019年 1月24日(木)10時05分10秒

        寒月のふくらみてゆく家路かな   あんこ

    おでんの種のふたり分強     ゆかり

   わたつみのそこひに泡の生まるらん  登貴


    秋日傘さし犬つれてゆく      媚庵

    残暑の港町の教会

    ヨツトに飾る朝顔の鉢



そつと四句目、付けてみましたが如何でしようか。  

ふ~む  投稿者:月犬  投稿日:2019年 1月24日(木)00時49分59秒 編集済

  4・3とか、2・5とか大変ですね:笑

具体的に見るのがいちばんいいですね。

とりあえず「狂句こがらし」の巻の発句は


狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉   芭蕉


短句は次の通り。()内は結句の音律。


たそやとばしるかさの山茶花  野水(3・4)

かしらの露をふるふあかむま  重五(3・4)

日のちりちりに野に米を苅   正平(2・5)

髪はやすまをしのぶ身のほど  芭蕉(3・4)

きえぬそとばにすごすごとなく 荷兮(3・4)

あるじはひんにたえし虚家   杜国(3・4)

霧にふね引人はちんばか    野水(3・4)

となりさかしき町に下り居る  重五(3・4)

蝶はむぐらにとばかり鼻かむ  芭蕉(3・4)

いまぞ恨の矢をはなつ声    荷兮(2・5)

しばし宗祇の名を付し水    杜国(2・5)

冬がれわけてひとり唐苣    野水(3・4)

烏賊はゑびすの国のうらかた  重五(3・4)

秋水一斗もりつくす夜ぞ    芭蕉(5・2)

巾に木槿をはさむ琵琶打    荷兮(3・4)

箕に鮗の魚をいただき     杜国(3・4)

けふはいもとのまゆかきにゆき 野水(2・5)

廊下は藤のかげつたふ也    重五(2・5)


ちょっと判断できない音律もありますが、18句中3・4が12句ありますね。

個人的には、体験上3・4もしくは4・3が作りやすいのですが、

2・5(5・2)もときどきできますね。  

余談ながら  投稿者:ゆかり  投稿日:2019年 1月23日(水)15時06分28秒

  二音ごとに伸びが入るというと、軍歌がへんなふうに変形して歌われるのを思い出しますね。


♪ここ~は-~おく~にを~なん~びゃく~り-~

♪かって-~くる~ぞと~いさ~まし~く-~


 じつに理にかなっているというか、伝統に即しているというか…。


 

「四三調結句忌避」問題の方から  投稿者:ゆかり  投稿日:2019年 1月23日(水)14時17分41秒 編集済

   坂野信彦『七五調の謎をとく 日本語リズム原論』(大修館書店)をタネ本として書きます。

 風牙さんが1月19日(土)19時03分24秒の書き込みでご紹介された斎藤茂吉「短歌に於ける四三調の結句」は、井上通泰の次の主張に対する反論として書かれたものだとのことです。

-------------------------------------------------------------(引用始め)

結(むすび)の句の七は必ず三四ならざるべからず。万葉には四三なるもの往々之れあれども苟も重きを調べに置くを知りてよりこの方古今然り金葉然り。四三にすれば自然に耳立ちて諧調を得ず。

-------------------------------------------------------------(引用終わり)

 通泰は『古今集』の調べを旨とする景園派に属し、御歌所の寄人ともなった”旧派”の歌人で、伝統的な和歌の読唱法にのっとって歌を詠んでおり、一方の茂吉は生えぬきの”新派”歌人で現代式の律読法を身につけていたとのことです。

 現代式の律読法は都々逸方式なので説明を略しますが、伝統的な和歌の読唱法の場合、大きな違いとして三音、五音などの奇数音の場合に一音分音が伸び、さらに二音ごとに伸びが入ります。これを「東京の巻」のゆかり短句で実例にすると、


結句三四 御恩報ひず春の容疑者         り

     ごお~ん-~むく~いず~ はる~の-~よう~ぎしゃ~


結句四三 やがて迎へる最後の初日      ゆかり

     やが~て-~むか~える~ さい~ごの~はつ~ひ-~



 著者が実際に引用しているのは紀友則と源実朝ですが、下七について次のように解説しています。

-------------------------------(引用始め)

結句三四…充足した打拍によって、安定した終結をもたらします。中途のながい引きのばしによって腰折れとなり、落ち着いた終結をなす。--これは一首の歌の結びとして、理想的な音調といえるでしょう。


結句四三…強くでるが、軽くはずみがついたまま尻すぼみに終わる。--これではどうみても一首の結びにふさわしい音調とはいえないでしょう。


  はる~の-~よう~ぎしゃ~

  さい~ごの~はつ~ひ-~

(くどいようですが、坂野さんの著作の中では引用歌は「花の散るらむ 紀友則」と「雨やめたまへ 源実朝」です)


 こうならべてみると、あきらかに三四調の前者のほうが流麗に、しかもきっちり終結します。四三調の後者は、妙に力が入っているわりには、中途半端な終わりかたになってしまいます。通泰が「耳立ちて諧調を得ず」と述べたというのも、なるほどとうなずけます。四三調は結句にはふさわしくないのです。

-------------------------------(引用終わり)


 つまり、井上通泰は上記のような万葉よりあとの王朝和歌時代に定まった伝統的な和歌の読唱法の立場から「四三調結句忌避」を主張し、茂吉はその時代を中抜きにして万葉リバイバルと(当時の)現代短歌の観点から、四三だって三四だって関係ねえじゃんと言っているわけです。  

銀河さん、どうも  投稿者:ゆかり  投稿日:2019年 1月23日(水)12時54分54秒

   論点が分散し、「四三調結句忌避」問題と「二句は歌なのか」問題が混在して進行しているのですが、徐々に紐解いて行きましょう。

 今回は高みの見物とのこと、またお時間のあるときに遊んで下さいませ。  

見物席からにぎやかし・・  投稿者:銀河  投稿日:2019年 1月23日(水)11時29分19秒

  イマ展開されている、連句の方法論についてのベテランたちの論争・・大変興味ふかく拝見しています。歌仙の成り行きとと並行してすすめていただきたいものです。

私は、多くの場合付けてゆくほうが好きなので、非常に経験的にみんなの一緒に流れてゆくような付け方をします。

前の句を受けるときには、それまでの流れを再読して、緩急自在とか序破急、といいますが、そのどのあたりかを大雑把に読み取って、それまでにでてこない要素をさがしだします。その場合前の句によりそうというのは細い糸は必ず残さないといけない気がします。「三句のわたり」はもちろん重視します。そして、付ける場合には、案二句、それぞれ全く違ったベクトルのものを出すように気をつけます〈理想や願望としては)。

捌きの方がどちらを採ってくださるかで、その後の流れ方〈場面展開)が違ってくるので、ここが「付け人」の楽しみの一つです。


今回もかなり忙しない環境にいるので、、高みの見物にぎやかしの席で楽しませていただきます。

ということで、ニューメンバーの方ともいつかご一緒させて下さい。

 

当方文献事情  投稿者:ゆかり  投稿日:2019年 1月23日(水)10時24分56秒

   昨年二月に引越して九月にもう一度引越したらどこになにがあるのか分からなくなってしまい、浅沼璞さんの『「超」連句入門』がどうしても見つかりません。それから『芭蕉翁二十五箇条』は未読なのでこれから当たってみます。あと、探しているうちに坂野信彦『七五調の謎をとく 日本語リズム原論』(大修館書店)が出てきました。「四三調結句忌避」という章があるので、のちほどかいつまんでご紹介します。


 霞さんの書かれた

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寺田寅彦が書いているのは「三句の渡り」の「三句目の転じ方」についてですが、私は全ての付句がそうでなくてはならないと思っています。

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過激ですね。私はもう少し前句とは寄り添う立場で捌いています。  

蕉風俳諧  投稿者:風牙  投稿日:2019年 1月23日(水)08時12分50秒

  蕉風で俳諧を学んだので

『芭蕉翁二十五箇条』の第一条

「俳諧は上下取り合わせて歌一首と心得べし。」

を信条としています。

談林が二句一連で歌となる意識が薄れたことに一度宗祇に戻って連歌を見直したのが芭蕉だと考えています。で、現代連句は虚子が昭和十七年に蕉風俳諧を基礎に定めた『昭和式俳諧式目』への旧派の抵抗として、談林を基礎に構築され発展してきたものだろうと。蕉風俳諧しか知らない僕と現代連句の方々との考えの相違が生ずるのだろうと思います。

 

「連句雑俎」  投稿者:霞  投稿日:2019年 1月23日(水)04時47分24秒

  浅沼璞さんの『「超」連句入門』に、三句の渡りについて寺田寅彦の「連句雑俎」が引用されているので、さらに引用します。


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寺田寅彦は、「三句のわたり」についてもまたユニークな指摘をしていたのです(霞・中略)それは、遺伝にアタヴィズム(隔世遺伝)の現象があるように、「連句の連続においてもある一句がその前句よりもいっそう前々句に似たがる傾向にある」というものです。

(霞・中略)

「前句の世界と前々句(打越)の世界とは部分的にオーヴァーラップしており、前句と後句(付句)ともまた部分的に重複しているのであるから単にプロバビリティー(確率)から言ってもそう(観音開きに)なりやすいのみならず、まだその上にいっそうそうなりたがる心理にある。(霞・中略)それでこのような打ち越し(観音開き)の危険を避けるためには、作者は前句によってよび起こされた観念世界の中でどれだけの部分が前の句(前々句)のそれと重複しているかを認識した上で、きれいさっぱりそれだけを切り抜いて捨ててしまわなければならない。(霞・後略)

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つまり、「付ける」より「切り抜いて捨てる」を意識しなければならない、ということだろうと思います。寺田寅彦が書いているのは「三句の渡り」の「三句目の転じ方」についてですが、私は全ての付句がそうでなくてはならないと思っています。


仕事がやばいので、四三については私はこのへんで!

見当違いなことを書いていたらすみません;  

四三の例句  投稿者:霞  投稿日:2019年 1月23日(水)04時36分57秒

  「寒月のふくらみてゆく」からの「おでん」、よいですねえ。おいしそう~。


いま私の連句ノートをざっと読んで見つかった私の下七の四三を書いておきます。


薔薇一本ナイフのように持つ少年 のりこ

 閻魔参りはいよいよ明日    霞


「ぞうさんにまいにちリンゴあげました」舞

 鏡に私 私は鏡        霞


お揃ひよシャツもコップも自転車も 定史

 地球儀撫でる宇宙の私      霞


例えば、「閻魔参りはいよいよ明日」を直すと「明日はいよいよ閻魔参りに」とか「閻魔参りだ明日はいよいよ」とかになると思いますが、一句としての面白さも、付句としての面白さも失われると思います。


草門会では、どちらかというと、前句からどのように転じられるかを重視していると思います。前句を意識して意識しない。私が他の会にお邪魔して一番感じるのは「句と句の間の距離の作り方」の違いだったりします。  

登貴さん、いらっしゃいませ。  投稿者:ゆかり  投稿日:2019年 1月22日(火)23時36分3秒

   フェイスブック方面でロビー活動してきました。登貴さん、いらっしゃいませ。


   寒月のふくらみてゆく家路かな   あんこ

    おでんの種のふたり分強     ゆかり

   わたつみのそこひに泡の生まるらん  登貴


 いい具合に発句と脇から離れた第三ですね。すばらしい。


 次は月の座の前なので、雑か初秋でお願いします。またしても招致活動してきますので、しばしお待ち下さい。  

連句のたのしみ  投稿者:ゆかり  投稿日:2019年 1月22日(火)23時29分5秒

   詩人・高橋順子さんの『連句のたのしみ』(新潮選書)は、宗匠的な観点ではないところで連句の魅力を語った本ですが、その中で「近代の連句」という章があり、珍しいものを紹介しています。


・両吟歌仙 正岡子規・高浜虚子

・三吟歌仙 高浜虚子・坂本四方太・夏目漱石

・三吟歌仙 小宮豊隆・寺田寅彦・松根東洋城

・両吟歌仙「鳴澤即事」 柳田國男・折口信夫


 この章では明治二十六年から二十七年にかけて「日本新聞」に連載された「芭蕉雑談」から子規の文章が引用されています。

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「ある人又曰く文学以外の分子とは何ぞ。

答へて曰く連俳に貴ぶ所は変化なり。変化は即ち文学以外の分子なり。蓋し此変化なる者は終始一貫せる秩序と統一との間に変化する者に非ずして全く前後相串聯せざる急遽倏忽の変化なればなり。例へば歌仙行は三十六首の俳諧歌を並べたると異ならずして唯両首の間に同一の上半句若しくは下半句を有するのみ」

「上半又は下半を共有するは連俳の特質にして感情よりも智識に属する者多し。芭蕉は発句よりも連俳に長じたる事真実なりと雖も是れ偶芭蕉に智識多き事を証するのみ。」

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 これを受けて著者は次のように書きます。

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 子規はこのとき連句を、隣り合った二句の上の句や下の句を共有して読むものだと思っていたようだ。これには驚かされた。こういう解釈では連句は知的ゲーム以外のなにものでもないだろう。「文学に非ず」と打ち棄てたとき、子規は連句を読んでみようともしていなかったのではないか。

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 このあたり、『俳諧大要』でせっかく「長句、短句にかかはらずこれを一句といふ」と書いているのに、次の文で「歌(則ち長句短句合したる者)」としている混乱が確かに子規にはあるように思えます。

 浅沼璞さんは『俳句・連句REMIX』(東京四季出版)で、次のように書いていて腑に落ちます。

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 大正初期、大須賀乙字が俳句の取合せを「二句一章」としたのはよく知られています。けれど言葉の厳密な意味からすると「二句一章」とは連句の付合をさすべき用語です。長句・短句であれ、短句・長句であれ、隣り合った二句を一章として詠むのが連句の付合だからです。虚子のいう<一句一句の独立性>に反するようですが、そうではありません。<一句一句の独立性>があるからこそ、二句一章が成立するのです。

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寒月の巻 第三  投稿者:登貴  投稿日:2019年 1月22日(火)22時41分10秒

  寒月のふくらみてゆく家路かな あんこ

    おでんの種のふたり分強   ゆかり

 わたつみのそこひに泡の生まるらん  登貴


はじめまして。よろしくお願いいたします。  

俳諧大要  投稿者:ゆかり  投稿日:2019年 1月22日(火)22時32分18秒

  子規の『俳諧大要』には以下のくだりがありますね。


一、歌仙は三十六句を以て成り、百韻は百句を以て成る。長句、短句にかかはらずこれを一句といふ。発句と最後の一句を除きて外は各句両用なるを以て、歌仙には三十五首の歌(則ち長句短句合したる者)あり、百韻には九十九首の歌あるわけなり。


 高橋順子さんは、これとは違う記事を引用しています。


 

風牙さん、どうも。  投稿者:ゆかり  投稿日:2019年 1月22日(火)16時39分27秒

  いくつか前の書き込みで風牙さんは次のように書きました。

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二句一連で短歌として鑑賞した場合

横綱の決めた覚悟の伝はつて      風牙

 こむらがへりのかすかにかすめ    青猫

カーテンに金糸銀糸でかがる月     れいこ

 の三句の渡りからできる二首の短歌で、

カーテンに金糸銀糸でかがる月こむらがへりのかすかにかすめ

 は短歌としてなかなかのしらべだと思いますが、

横綱の決めた覚悟の伝はつてこむらがへりのかすかにかすめ

 はどうだろうかとも感じます。

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 この座での連句は、三句の渡りの中で付け合いの濃淡に感じ入りながら進行しますが、その都度前句との間で短歌を完成させることを目指していないし、n番目の短句を「n+1番目の長句→n番目の短句」で短歌として逆に読み下ろして味わおうともしていません。

 世の中にはそういう捉え方も存在し実際に正岡子規がそのようなものとして連句を捉えていたとして、高橋順子さんが著書の中で触れていた記憶がありますが、ちょっと出先なので確かめることができません。


 

新しい興行が始まってるのに係わらず  投稿者:風牙  投稿日:2019年 1月22日(火)12時43分38秒 編集済

  四三調とは直接関係ありませんが、初学の頃に

 弁当と先へ来て居る按摩取   蓮之(れんじ)(支考)

  しづこゝろなく花の散るらん 蓼太

の付を例にして、この短句は言うまでもなく百人一首33番「ひさかたの光のどけき春の日にしづ心なく花の散るらむ 紀友則」の下の句をそのまま使っています。平句とは句自体の面白味では無く前句を面白くするものだと教わりました。四三調の下七の短句は先に掲げましたように三句の渡りから生じる二首の短歌の両方ともに面白くすることが困難なような気がします。

 

寒月の巻  投稿者:ゆかり  投稿日:2019年 1月22日(火)11時06分31秒 編集済

  埋もれそうなので再掲しますが、新しい巻が始まっています。


   寒月のふくらみてゆく家路かな あんこ

    おでんの種のふたり分強   ゆかり


 第三は冬を離れ、発句と脇の挨拶も離れ、て止めでお願いします。ただいま招致活動というかロビー活動というか各方面で人さらい中です。

 発句の中七が「ふくらみてゆく」なので、て止めではない方がいいかも知れませんね。「らん」でもいいです。  

おお。  投稿者:ゆかり  投稿日:2019年 1月21日(月)23時07分48秒

  「その分つじつまあわせをがんばる」というのがいいですね。じつにインプロヴィゼーションという感じです。  

うう。  投稿者:霞  投稿日:2019年 1月21日(月)22時22分13秒

  うう。お邪魔しちゃってすみませんです。。


これは私の印象ですけど、草門会の基本姿勢は「式目より面白い句が優先」ですね。その句にとって良ければ採る、連句が面白くなるなら採る、その分つじつまあわせをがんばる。何がダメと言われたことはあんまりないです。


私はよく四三やっちゃうんですけど、「これで良い」と言われるときと「直した方が良い」と言われるときがありますです。  

あ  投稿者:ゆかり  投稿日:2019年 1月21日(月)22時10分25秒

  32秒差ですれ違いましたね。なるほど、草門会では指摘はされるけどケースバイケースということですね。大いに参考になります。  

寒月の巻  投稿者:ゆかり  投稿日:2019年 1月21日(月)22時03分26秒

   あんこさん、発句をありがとうございます。「ハートのエース」でもいいのですが、立句としての格の観点から「寒月」の句を頂きます。連句には月の座というものがあるにはあるのですが、今晩の満月の見事さに直面すると、これがいいでしょう。


   寒月のふくらみてゆく家路かな あんこ

    おでんの種のふたり分強   ゆかり


 第三は冬を離れ、発句と脇の挨拶も離れ、て止めでお願いします。人をさらってきますので、しばしお待ち下さい。  

草門会での四三  投稿者:霞  投稿日:2019年 1月21日(月)22時02分54秒 編集済

  発句が出たあとにタイミングが悪くてすみません。。


ゆかりさんから「草門会では四三をどうしているか書きに来て」と言われたので来てみたんですが、うひゃー、こんなプロフェッショナルな輪に加わりにくいですよゆかりさーん!


草門会でも四三は指摘されますね。

だいたい直されますが、句によっては「良し」とされることがあります。


四三を(おそらく)絶対にしないベテランの方でも、人の句で一直するかしないかの議論になったとき「この句は原句のままの方が面白いんじゃない」と鶴の一声が出たりします。

 

発句  投稿者:あんこ  投稿日:2019年 1月21日(月)21時42分5秒

  絨毯に拾ふハートのエースかな  あんこ

寒月のふくらみてゆく家路かな


お久しぶりです。

上記二句、お捌きお願いいたします。  


都々逸  投稿者:ゆかり  投稿日:2019年 1月21日(月)13時19分40秒

   媚庵さん、都々逸についての言及ありがとうございます。

これは節回しを伴った都々逸に残された口誦性、歌謡性の核の部分なのでしょうね。wikipediaには次のようにあります。

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七・七・七・五はさらに(三・四)・(四・三)・(三・四)・五という音律数に分けられることが多い。この構成だと、最初と真中に休符を入れて四拍子の自然なリズムで読み下せる。


例えば、先の唄なら、


△こいに こがれて なくせみ よりも△

△なかぬ ほたるが みをこが す△△△


となる(△ が休符)。なお、この最初の休符は三味線の音を聞くため、との説がある。

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 この休符こそが黙読で退化して行く部分で、それが分からなければ現代俳句で中八が避けられる理由(=息継ぎができないという単純な理由)も理解できないことでしょう。


 かといって、では句割れ、句跨りの技法は口誦性、歌謡性の退化によるものなのかというと、逆に強固にリズムを意識してずれの快感を味わうものだったりもするので、一概に言えないところはあります。  


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