2009年12月30日水曜日

九吟歌仙・電波の巻

   透明に電波の満つる小春かな      ぐみ
    あをき氷河を映す平面       ゆかり
   夕闇の匂ひの猫を抱き上げて      苑を
    小説家こそ極道の裔         銀河
   ささやきし訛言の月の息遣ひ   ざんくろー
    歯痛の疼く秋雨前線          七
ウ  椎の実をオセロの盤に置いてみる    れい
    磁石片手に西へと向かひ       由季
   ふられてはまた肥えてゆく猪八戒   あとり
    婚活の席共食ひの怪          み
   刻々と届きし写メもつひに絶え      ゆ
    瞬時に決まる歌留多合戦        を
   月一輪太宰の富士を輝かす        河
    道化となりて眠れぬ夜果つ       ー
   のんしやらん浮世は春よのんしやらん   七
    鼻音の尾から糸遊となる        い
   密約のありやなしやと花の宿       季
    筍流し舟もかよはず          あ
ナオ 愛欲の温もりを帯び管楽器        ゆ
    女性党首の子沢山好き         み
   登校は信号無視に気をつけて       河
    紀ノ国屋までパン買ひにゆく      を
   あちらがは脱けられますと占ひ師     七
    乳房抱へしきはどい水着        ー
   蜜月の日焼けのあとをくすぐりぬ     季
    びんづる尊者外にまします       い
   地球儀のインドにとまる秋の蠅      み
    台所より柿を割る音          あ
   妹のごと夕月のほほ笑みて        を
    けふもカーネル・サンダース立つ    ゆ
ナウ 煮凝りの道頓堀へ飛び込みぬ       ー
    水の音する五十三次          河
   一枚を挟む小さなピンセット       い
    展翅板より蝶の飛び立ち        七
   星空に棹さしてゆく花の雲        あ
    蛍烏賊寄るあかつきの岸        季

起首 2009年11月29日
満尾 2009年12月30日
捌き ゆかり

 掲示板で巻いていた連句が満尾しました。ご感想は掲示板へ。

2009年12月14日月曜日

時雨


地に落つるまでの名前の時雨かな ゆかり

2009年12月13日日曜日

烏瓜



ぶら下がる定めによりて烏瓜 ゆかり

2009年12月12日土曜日

写真機


デジカメというものを買いました。いやあ、いいですね。近くの公園まで行って池のまわりを二周して、69枚も写真を撮ってしまいました。olympus E-520というちょっと前の製品です。

冬の水一枝の影も欺かず 中村草田男

2009年12月4日金曜日

俳風動物記2

 11/21の日記に紹介した宮地伝三郎『俳風動物記』(岩波新書)を読み終わりました。これ、動物生態学者の随想として、激しく面白いです。一冊の本の中で大いに話が飛躍します。
 
●カワウソと獺祭
 季題に「獺魚を祭る」というのがあり、山本健吉の『最新俳句歳時記』(文藝春秋)の記載では以下。
 
 とった魚を岸にならべてなかなか食わないと言われ、そのことを獺が正月(陰暦)に先祖を祀ると言ったもので、空想的季題である。
 
 これが宮地伝三郎氏の手にかかると、こうなる。
 
 獺のまつり見てこよ瀬田の奥 芭蕉
 魚まつる獺おぼろなり水の月 青橘
 何魚を祭るぞ獺のかげおぼろ 文児
 獺の祭りに恥ぢよ魚の店   蝶夢
 
などの句を列挙した上で、「日本の俳諧師は誰も獺祭の現場は確認していない」と断定、ライデッカー『王室自然史』(1922年)の記述を紹介する。

 捕らえた魚は、小さいのは前肢でもって、背泳しながら、その場で食うが、大きいのは陸上に運んで、手で持ち、頭から食べて尾ひれだけを残す。とくに興味があるのは、魚がたくさんとれる場合で、殺したのを陸上に置いては、また、漁をつづける。そればかりでなく、殺しのための殺しをする習性があって、一かみしただけの魚を、食べないで陸上にちらかしておくのを、人が拾って食べることもあったという。動くものを見たら飛びかかって殺す狩猟本能によるのである。これらの観察は、『礼記』の獺祭魚の記述とよく照応する。もっとも、獺祭魚の魚は、食う前にまず先祖の霊に捧げるので、お下がりは食うようにも読みとれるが、ライデッカーによると、カワウソは食う必要以上の魚を殺して捨てておく。
 古代中国の経書、『礼記』の獺祭は架空の作り話とはいえないのである。

 
云々。

●タニシを鳴かせた俳諧師
 こちらも山本健吉の『最新俳句歳時記』によれば、以下。
 
 古来田螺鳴くと言っているが、空想である。
 
 これが宮地伝三郎氏の手にかかると、こうなる。
 
 タニシの鳴き声を聞いた人がいるだろうか。ちかごろは水田地帯を歩いてもタニシを見かけることさえ希なのだが、近世の俳人たちは、日常のこととしてその鳴き声を聞いていた。
 
 かくまでの春ぞとて鳴くたにしかな 少汝
 韮くさき垣の隣りを鳴くたにし   祥禾
 春嬉したにしの鳴くに及ぶまで   葛三
 桃さけか桜咲けとか鳴くたにし   玉峩
 (以下5句ゆかり略。)

 春、それも昼間に鳴いている場面が多いように見えるが、そうとばかりは限らない。夜も鳴く。
 
 菜の花の盛りを一夜啼く田螺    曾良
 田螺啼いて土臭き春の夕べかな   保吉
 鳴く田螺きかんともなく聞く夜かな 保吉
 たにしなく夜は淋しいに蚤ひとつ  撫節

 これらの句を列挙したのち曰く、
 
 それにしても、これほどの俳人が鳴くのを聞いたというのに、タニシの発声器官も聴器も見あたらない。タニシの身代わりとして、ほんとうに鳴いている動物が別にいるのではあるまいか。
 
と論を展開する。この展開の中で何種類もの小動物や昆虫の話が出てくるのであるが、ウンカのめすの発信装置のくだりなど、実に驚くべき記述がある。

●動物生態学者としての発想の飛躍
 かと思うと、動物生態学者としての発想の飛躍にのめり込むくだりが二箇所ある。ひとつはびわ湖特産のハゼ科淡水魚イサザの出自であり、もうひとつは同じびわ湖特産のセタシジミの出自である。とりわけ後者の発想はダイナミックで、門外漢の私にとっても感動的ですらある。中国に太湖という湖があり、そこにセタシジミそっくりのシジミがいるのだが、なんと、宮地伝三郎氏は日本列島が中国大陸と陸続きだった時代に思いを馳せる。その頃、揚子江と当時は南流していた黄河とは合流して、一本の河として南支那海に注ぎ、びわ湖と瀬戸内海を結ぶ「古瀬戸内海」はその一つの支流として、それに合流していたと推定されるから、太湖と古びわ湖は同一水系に属していたのだ、という。
 
 これらのくだりでは、俳句の読者そっちのけで、江戸俳諧の引用もなく筆が進み、その集中がすばらしい。随想っていうのは、こうでなくっちゃと、つくづく思う。

(ついでながら、11/21の日記からのリンクでamazonに行くと、多くの古書店が1円(+送料)でこの本を売っています。)

2009年11月29日日曜日

九吟歌仙・電波の巻開始

   透明に電波の満つる小春かな    ぐみ
    あをき氷河を映す平面     ゆかり
   夕闇の匂ひの猫を抱き上げて    苑を

掲示板で巻き始めました。お楽しみに。

2009年11月25日水曜日

六吟歌仙・紅葉の巻

   書き殴るやうに地球に紅葉かな   ざんくろー
    句点を打てる秋のみづうみ      ゆかり
   月を待つひまに一節終はりゐて      銀河
    汽笛の尾には北風混じり        ぐみ
   白煙を残す駅舎の寒椿         藤実ん
    モボモガふうのエキストラたち     れい
ウ  春眠の全休符から始まりぬ         ー
    また一尾減る蝌蚪の共食ひ        り
   つばくらめ頬をかすめて軒下に       河
    庇の蔭の初めてのキス          み
   跪くきみの耳たぶ冷たくて         ん
    美童のあそび照らす燭の火        い
   炎天に沈んだやうに浮かぶ月        ー
    貼り出されたる営業成績         り
   郵便的不安切手の足りぬらし        河
    三くだり半は猫の舌借り         み
   牛乳を冷ましをる間に花一片        ん
    海市のことを消す電子音         い
ナオ 鳥の木と呼びたきほどの百千鳥       り
    予感のありぬ鉄砲百合に         ー
   豆喰らふ顔して辻に宇宙人         み
    かごめかごめの環に閉じこめる      河
   それからは波羅那国には雨降らず      い
    からから空き缶つけし自動車       ん
   新婚といふその響き嗚呼しんこん      り
    やまびこに遭ふ我が旧校舎        ー
   整列の少し乱れて曼珠沙華         み
    色なき風のありやなしやと        河
   逃亡の背後に鎌の月かかる         い
    御息所は頬杖をつき           ん
ナウ 糠床のしづかに増える虚子の種       り
    教会を突くパイプオルガン        ー
   先ゆきしものらの戦ぐ木ぬれなり      い
    就職きまる街に淡雪           河
   蒼穹へ一途に咲ける嶺桜          み
    水平線に春の膨らむ           ん

起首 2009/10/13 22:22
満尾 2009/11/22 00:55
捌き ゆかり

 掲示板で巻いていた連句が満尾しました。
もう一巻行きます。どなたか発句をどうぞ。

2009年11月21日土曜日

俳風動物記

 とある絶版フェアで宮地伝三郎『俳風動物記』(岩波新書)なる本を購入しました。1984年に出た黄色時代の岩波新書で、著者は動物生態学専攻の学者。目次はこんな感じです。
 
Ⅰ 香魚のすむ国
 香魚のすむ国
Ⅱ 水辺の優位者たち
 カワウソと獺祭
 水郷のおしゃべり鳥・行々子
 カイツブリの生活と行動型
Ⅲ 俳諧師との湖沼紀行
 アメノウオと湖沼類型
 イサザの幼態進化
 タニシを鳴かせた俳諧師
 三種のシジミと環境語
Ⅳ 不殺生戒の時代
 蚊を焼く
 放生会
 川狩りの記憶
 
 取り沙汰される句はほとんど江戸期のものですが、著者自身の句(俳号・非泥)も少なからず掲載されています。

 例えば「蚊を焼く」の章。昔の人は蚊帳に入ってしまった蚊を紙燭で焼き殺していたのですね。はじめて知りました。

蚊を焼いてさえ殺生は面白き            川柳
紙燭してな焼きそ蚊にも妻はあらん         二柳
閨の蚊のぶんとばかりに焼かれけり         一茶
蚊を焼くや褒姒(ほうじ)が閨の私語(さざめごと) 其角
蚊を焼くや紙燭にうつる妹が顔           一茶
ぶんという声も焦げたり蚊屋の内          白芽
蚊を殺す罪はおもはず盆の月            写也
後の世や蚊をやくときにおもはるる         成美
独寝や夜わたる男蚊の声侘し            智月

などの句を俎上にのせ、動物生態学や死生観の見地からうんちくを傾けています。今日でこそ血を吸う蚊はメスであることが知られていますが、二柳や智月の句をみると江戸期にはオスの蚊が血を吸うと思われていたのですね。

 ところで其角の句、褒姒を検索すると面白いです。

 だが、褒姒はどんなことがあっても笑顔を見せることはなかった。幽王は彼女の笑顔を見たさに様々な手段を用い、当初、高級な絹を裂く音を聞いた褒姒がフッと微か笑ったのを見て、幽王は全国から大量の絹を集めてそれを引き裂いた。

という記述があって、そうすると俄然気になるのが其角の有名な句。

越後屋にきぬさく音や衣更 其角

この句について小西甚一は『俳句の世界』(講談社学術文庫)で「(越後屋は)それまでは一反単位でしか売らなかった旧式の経営法を改革し、ほんの一尺二尺でも快よく分け売りをした。(中略)「絹裂く」はその分け売りをさす」と書いていて、もちろんそうなんだろうけど、其角なら「さんざん儲けて女かこって幽王みてえなことしてんじゃねえか」くらいの皮肉を込めたのではなかろうか、と、ふと思うのでした。

2009年11月3日火曜日

広渡敬雄『ライカ』

 広渡敬雄は「沖」同人、「青垣」創刊に参加とある。『ライカ』(2009年7月発行。ふらんす堂)は第二句集。

空よりも海原広き冬至かな      広渡敬雄
燕低し海にかぶさる醤油蔵
パイプライン二寸地に浮き犬ふぐり
弓なりに迫る万緑地引網


 句集のタイトルがなにしろ『ライカ』なのである。実に思い切ったアングルで景を切り取っている。

紙漉きの一灯水をたひらにす
山眠る等高線を緩めつつ
梟に腕あらば腕組むならむ
ゆく夏の錨のごとき寝覚かな
山椒魚月光にある湿りかな
幹よりも冷たき桜散りにけり


 いかがだろう、これらの句の俳句的把握の冴えは。山がコルセットをはずすみたいに等高線を緩めているという尋常ならざる奇想。

 以下、好きな句多々。

猟犬に獲物のごとく見られけり
しんしんと天領の葛晒しけり
葛晒す男に匂ひなかりけり
木枯し一号てふ機関車に乗りたけれ
空かたき十一月のポプラかな
青き薔薇活けし瓶あり銀河系
拡声器より運動会の佳境なり
灯のついて大きくなりし春の雪
父の日やライカに触れし冷たさも
陸封のむかしむかしの岩魚かな
山の子の飛込みの泡とめどなし
夏果の卓に海洋深層水
跳ねるたび弱りゆく鮎月の梁
つちくれとなりしからまつ落葉かな
梟の背に星座の巡りゐる
繋がれて冬のボートとなりにけり
大年の屋上に人男子寮
どんぐりのたまる窪みや冬旱
艇庫より新入生の女の子
寒流になじむ暖流石蕗の花
遠山にサーチライトの伸びて冬
豆球のまま消さずおく雛の間
朧夜のポスターに犬探偵社
陸封の水硬からむ晩夏光
部屋ごとに匂ひありけり盆の家
霧走る疾さを頬のとらへけり
ナース帽ふたつ桜餅みつつ
花こぶし校歌二番の口に出て
餡パンに塩味少し鳥の恋

2009年10月26日月曜日

ねここ無編集百句

十月と二階に兄を思いけり       ねここ
朝顔と家族をくろい家族かな
秋の暮ひかりごとじゃぶじゃぶ中に母
まぼろしと帽子夜寒も傾ぎけり
幸福の手足ごと秋入りけり
妹に夜寒の食べる口車
涙目と家族をつなぐ蜻蛉に影
一階の夜寒へ家族ありにけり
スカートへ夜寒をたくさんバスに私
満月に童話を父へ眠るかな
秋の暮家族へゆっくり中と母
朝顔に睫ゆるす背番号
八月と睫とゆきたい家族に鈴
学校の二階みたいな秋に猫
だいどことしっぽへあかい二階に蜻蛉
順番という蜻蛉みたいな夜の中
少年の蜻蛉をヌードのありにけり
十月に睫を帽子ありにけり
色鳥のシェフを帽子のありにけり
八月とひかり母にゆるすかな
幸福とひよこいっぱい曼珠沙華
スカートと手足ゆっくり曼珠沙華
幸福という夜寒みたいな母の中
口車夜寒夢みるひよこの川
青年に蜻蛉の真水とあびにけり
自転車に夜寒とひかりありにけり
秋の暮ヌードゆるす猫に家族
朝顔へ少女ごとあびる下の帽子
順番に蜻蛉に眠る帽子かな
仁丹に二階夜寒のありにけり
自転車と夜寒の恋を送りけり
ブルドッグひよこへ思うシェフの蜻蛉
階段に姉妹へ蜻蛉のありにけり
曼珠沙華ひよこごとくろい兄に海
満月と磐越西線家族吸う
学校と真水の食べる夜寒かな
幸福に川へ蜻蛉のありにけり
家族行き睫の夢みる月と兄
スカートと真水つかむ夜寒かな
十月と童話へじゃぶじゃぶ家族かな
色鳥ごとひよこみたいな顔にひよこ
仕事柄日記にあかい月に日記
目隠しにひよこをにこにこ秋の暮
黒板に真水ごと蜻蛉つなぎけり
一階と蜻蛉に父へつかみけり
千年に夜寒のくろい私かな
片恋の家族蜻蛉傾ぎけり
千年と姉妹つなぐ曼珠沙華
恋人という二階みたいな月に中
まぼろしに雨と夜寒ありにけり
黒板の姉妹の思う夜寒かな
一階にひよこの足りない蜻蛉かな
妹と真水つなぐ川の魚
朝顔と日記ごとあおい姉妹かな
生まれつき真水のあびる夜に月
生まれつき家族たくさん月としっぽ
秋の暮童話とあびる顔の顔
童話吸い夜寒とじゃぶじゃぶ森と顔
目隠しごと家族へ時々色とひかり
ヌード行き蜻蛉のあびる影の少女
青年へ夜寒ごと濡らす猫に鈴
少年に夜寒つなぐ手足かな
幸福に夜寒と二階のありにけり
盲導犬家族へ送る秋に兄
雨つぶへ真水とたくさん真水と海
幸福ごと帽子傾ぐひかりに二階
階段と夜寒みたいなひよこと朝
十月に帽子と雨を傾ぐかな
少年に少女とつなぐ秋の暮
少年に手足ゆきたい兄に夜寒
上京というひよこみたいな蜻蛉と少女
自転車と猫に夜寒のありにけり
生まれつき蜻蛉ごと歩く色と真水
満月と日記ごとあかい生まれつき
青年ごと夜寒を歩く日記にひかり
幸福に夜寒恋につかみけり
スカートに蜻蛉の影に送りけり
寝入りばなヌードをあおい夜寒と二階
片恋に真水へ蜻蛉ありにけり
曼珠沙華しっぽごとたくさん顔に森
真ん中と昼の蜻蛉のありにけり
順番と童話に蜻蛉へつなぎけり
少年や真水とじゃぶじゃぶ夜と恋
八月に少女ごとじゃぶじゃぶ日記かな
ブルドッグ夜寒へゆるすシェフに色
ヌード吸い夜寒ごとくろいひよこと睫
びしょぬれと二階にゆるす秋の暮
上京と夜寒を鈴と濡らしけり
十月と二階姉妹思うかな
八月という姉妹とゆるす睫に兄
目隠しと蜻蛉あびる猫に家族
順番ごと日記を見ている鈴と月
青年という日記歩く蜻蛉に下
色鳥の朝日記のありにけり
千年とひかりとじゃぶじゃぶ蜻蛉かな
二階吸いひよこをたくさん月と猫
真ん中に少女眠る後の月
自転車やひかりみたいな秋の魚
スカートと童話夢みる森の夜寒
仕事柄睫と眠る鈴の蜻蛉


(俳句自動生成ロボット「ねここ」による無編集無選択百句)

2009年10月25日日曜日

木枯二号無編集百句

はらわたの生姜の白きやうな母    木枯二号
色鳥や忌日に濡らすやうな草
ゆふぞらの手毬に白き曼珠沙華
立ち読みに生姜を洗ふやうな糸
いなびかり忌日を白き丘の色
小鳥吸ひまぶたを死なず馬の父
手鏡の屏風に越えるやうな月
深井戸へ手毬に洗ふ野分かな
曼珠沙華屏風を越える針の北
らふそくにまぶたを紅き膝に袖
色鳥のところの歩く溺れ谷
埋葬やとろ火の濡らすやうな秋
余所見吸ひとろ火に白き盆へ朝
かんてきの柱を盆へ帰りけり
色鳥にこころなかばのところ行く
しろがねに忌日のやうな盆の雨
天井や忌日のやうな秋の北
色鳥に手毬に濤へちぢみけり
忌日焼き小鳥を白き鳥に嘘
針やまへ生姜に黒き昭和かな
算術や生姜の思ふ色の魚
埋葬や小鳥を帰るやうな影
をととひの小鳥を恋に入りけり
色鳥の柱のやうな山に胸
ふるさとや鱗をゆるす西の山
かんてきのかたちのやうな秋の嘘
魂へ野分に糸をつかみけり
まぶた吸ひ生姜を黒き死後へ顔
溺れ谷鏡に入る月へ草
算術の鱗のやうな秋に雨
夜寒行きひかりに眠る昼に糸
溺れ谷蜻蛉を死なず舌に翅
深井戸に屏風に盆を帰りけり
をととひに鏡のゆるすやうな盆
色鳥やざんばら髪を忌日行く
らふそくにとろ火を歩く蜻蛉かな
帝劇へ小鳥に熟るる溺れ谷
色鳥の昭和の昼につかむかな
算術にとろ火のやうな盆へこゑ
色鳥に鱗をゆるすオートバイ
生姜吸ひ忌日につかむ昼へ草
屏風焼きかたちのかへる月へ恋
おほぞらにこころなかばを蜻蛉食ふ
針やまに野分に死なず闇の昼
色鳥のかたちに洗ふやうな髪
色鳥の柱の鬼へ帰りけり
色鳥のざんばら髪をところ焼く
真夜中の盆をところのありにけり
魂の余所見を死なず曼珠沙華
おほぞらの夜寒の洗ふ柱かな
晩年のところを白き曼珠沙華
いなびかり柱につかむふちへ鳥
柱焼き小鳥の白き昼の雲
色鳥にところに熟るる柱かな
色鳥に屏風を黒き手毬かな
かんてきや手毬に洗ふ鬼へ盆
色鳥や柱の帰る夜に丘
蜻蛉吸ひ忌日に濡らす昼に北
捕虫網かたちの帰る秋にもの
柱吸ひ昭和をつかむ月へ馬
冷し桃ひかりの帰る西へわれ
野分行きとろ火をかへる胸の夜
戦前に小鳥に紅き嘘の恋
曼珠沙華かたちにたまる昼に魚
らふそくやこころなかばに小鳥食ふ
太陽やまぶたを眠る月の嘘
違ひ棚野分の紅き朝にもの
真夜中のかたちの洗ふ刑にふち
溺れ谷ところに歩く秋のこゑ
色鳥に忌日にたまるオートバイ
色鳥の忌日に思ふ魚の母
色鳥にかたちに西を帰りけり
ゆふぞらに生姜を黒き捕虫網
手毬行きかたちを濡らす盆へ死後
色鳥の忌日のやうな馬へ鬼
はらわたや余所見を白きふちへ恋
生姜行き柱につかむ糸に舌
魂や屏風の白き朝の月
色鳥の昭和の濤とちぢみけり
算術へ蜻蛉の袖と思ひけり
溺れ谷手毬をかへる翅へ月
色鳥のところのやうな馬の鳥
ゆふぞらに生姜を鬼といぢめけり
ふるさとにまぶたのやうな盆に死後
立ち読みへ夜寒の送る捕虫網
乱読に小鳥の洗ふ髪に馬
手鏡の盆に余所見のありにけり
手鏡に蜻蛉に濤を熟れにけり
冷し桃柱をたまる鳥へ膝
深井戸や昭和に送る髪へ月
天井へ鱗に盆をゆるしけり
捕虫網余所見に送る翅へ盆
戦前の月のひかりのありにけり
小鳥焼き忌日に帰るふちの馬
埋葬の夜寒の胸とちぢみけり
手毬吸ひ生姜のちぢむ丘に糸
色鳥にとろ火に死後へ入るかな
くちびるの蜻蛉を鳥に思ひけり
野分焼き鱗をつかむ恋の濤
蚯蚓鳴くまぶたに帰る膝へ雨


(俳句自動生成ロボット「木枯二号」による無編集無選択百句)

2009年10月24日土曜日

キヨヒロー無編集百句

満月に地球を告げる二人です      キヨヒロー
水晶の映画に睨む葡萄です
美人焼き葡萄を思う午後に川
指先や新酒のような雨のボス
紫蘇の実と女に似合う川の雨
シニフィエと葡萄へ告げる父の風
結婚に記号と眠る刈田かな
ちゃぶ台の刈田をつかむシニフィアン
秋扇鼻毛と怒る神の虚子
指先と葡萄と帰る支配かな
指先の新酒と怖いような妻
紫蘇の実に高層ビルと美人剥く
長き夜の臭いと思う噂かな
色鳥の鼻毛のような川の穴
木犀と絶対君主に映画呑む
満月の写真とつかむ朝の朝
ヘーゲルに刈田と食べるような人
秋風とカレーと眠る御曹司
竜胆へ脱=構築をナイフ焼く
新藁へ記号のような下に水
追悼へ美人を光るような桃
帝国の写真へつかむような秋
出戻りと自分のような秋に神
色鳥や主観を帰る神に昼
ドーナツの地球を怖いお月様
ソバージュに匂いを光る西瓜です
木犀とお尻に怒る酒に雨
戯れの自分の怖い鰯雲
西行の秋思と食べる逃げるんだ
恋人の支配に怒る秋深し
少年の西瓜を帰る人と昼
記号吸い世界を食べる桃の夜
地球剥き離婚をつかむ秋と母
無言焼きやる気につかむ秋の夜
コスモスと笑顔と光るボスと妻
満月に離婚と眠る臭いかな
青年と噂を増える赤蜻蛉
満月へ僕らと帰る雨の影
シニフィエに無言へ入る刈田かな
色鳥と女の増える愛し合う
竜胆の薄着に思う冥王星
密告に案山子を眠るカレーかな
満月と男を増えるナイフです
紫蘇の実やデノテーションにお尻剥く
岬剥き男を歩く秋に妻
世界吸い少女と思う秋と下
指先の自分を思うような桃
自分食い乳房に濡らす秋と夜
少女達岬に似合うキスに秋
世界吸い案山子のつかむ君と川
絶叫と臭いの増えるような秋
コスモスや少女の眠る風に君
二次会と秋思へ怖い握手かな
不眠症世界の入る桃に風
新藁と女へ睨む空にボス
ジンライム臭いと眠る秋の影
写真焼き私の濡らす桃に風
シニフィエの無言のような桃と夜
密告と夜長と光る主観かな
長き夜へ脱=構築を神話剥く
色鳥へ電話に似合う猫の昼
満月の世界をつかむありのまま
木犀の二人のつかむ離婚かな
父母の匂いへ怒る新酒かな
男剥き私のつかむ秋の昼
社会食いやる気を似合う桃と雨
中年の秋思の帰る電話です
手のひらに西瓜のつかむ噂かな
追悼へ僕らを囓る午後に妻
スカートに白髪に入る秋時雨
秋風や握手へ光るような恋
再婚へ噂を帰る刈田です
ボブカット秋思に濡らす午後と顔
女剥き自分を睨む桃と水
ドーナツに西瓜に濡らすボブカット
逃げるんだ新酒と思う影と昼
木犀や電話に光る夜の下
階段と秋思へつかむ男かな
くちづけや新酒と入る映画です
再婚と離婚の歩く秋深し
中年に匂いに入る秋と午後
指先の案山子の帰る自分かな
御曹司鼻毛を光る秋に昼
愛し合う自分に怒る顔に桃
ドーナツとカレーへ囓る桃とキス
シニフィエの明日と入る虚子の桃
恋人の二人と歩く芒原
西行や少女をつかむ穴の秋
お見合いの案山子を歩くオイディプス
コスモスと乳房を似合う不眠症
薄着剥き社会に睨む秋と妻
へそくりと岬のような秋の穴
新藁に自分の増える支配かな
長き夜へ私と帰る二人です
ボブカット案山子の眠る水と人
新藁と少女へ妻に似合うかな
ドーナツへ臭いへ睨むような秋
満月の美人の睨む下に朝
再婚に最後を入る案山子かな
沢庵の夜長の眠る逃げるんだ


(俳句自動生成ロボット「キヨヒロー」による無編集無選択百句)

2009年10月19日月曜日

風景2


その2です。16:9の縦、くせになりそうです。

2009年10月18日日曜日

風景1


コンパクトデジカメを借りて撮ってみました。アスペクトが調整できるのですが、16:9にして縦アングルで撮るとこんな感じ。

2009年10月15日木曜日

french flute music

ひそかに愛聴しているのがこれ。パトリック・ガロワによる二十世紀フランスの比類なく美しいフルート名曲の数々。作曲はプーランク、メシアン、サンカン、ジョリヴェ、デュティユー、ブーレーズ。過激な音響の中でフルートは、抽象化された究極の抒情として訴えかけてくるのである。ピアノのリディア・ウォンも好演。

2009年10月14日水曜日

紅葉の巻

   書き殴るやうに地球に紅葉かな   ざんくろー
     句点を打てる秋のみづうみ     ゆかり

 新たに巻き始めました。みしみし掲示板でやっています。ぜひご参加下さい。

2009年10月13日火曜日

六吟歌仙・銀座線の巻

   秋霖や墨の匂へる銀座線        振り子
     跳ね上がりたる吊革の冷え     ゆかり
   月見酒ひとり身の夜を霏霏として  ざんくろー
     鏡に映る楽器のケース       美代子
   はつなつの尻尾くるりと巻いてをり    苑を
     噴水の輪の痩せてふとつて      ぐみ
ウ  港の見える丘公園のAランチ        振
     なんだか読めぬ黒板の文字       ゆ
   着ぶくれた物理教師の老眼鏡        ざ
     けむりのやうに咲く白椿        美
   虻飛んで市川崑のメガホンへ        苑
     誰ぞささやく草餅いかが        ぐ
   ふたりして泣くはトクホン剥がす時     振
     蚊遣の豚にずつと見られて       ゆ
   からませた指をほどけば月涼し       ざ
     死刑存廃議論再燃           美
   湧き出づる花の雲居に迷ひ込み       苑
     お巡りさんも朝寝好きとか       ぐ
ナオ 亀有のあちらこちらに亀鳴いて       ゆ
     急いで歩く一休禅師          振
   吊橋で翼をつけて変身す          美
     臼井儀人は銀漢となり         ざ
   描きかけの筆洗に散る秋桜         ぐ
     途中下車して夜学に通ふ        苑
   先生のじつに若くて綺麗にて        ゆ
     ワクチンの数足りさうもなし      振
   有耶無耶のままに柚子湯に首浮かし     美
     金魚となりて口をパクパク       ざ
   銀閣寺月よりの使者定宿に         ぐ
     萩を零して駆るオートバイ       苑
ナウ 豆腐屋を追ひ越して行く秋の暮       ゆ
     波立つ海のシルクロードも       振
   ちりめんの半襟の色あれこれと       ぐ
     木魚を叩き逃水の昼          ざ
   千年の花はしづかに吹雪くなり       美
     春の嵐のあとのあかとき        苑

起首 2009年 9月15日(火)23時41分39秒
満尾 2009年10月 9日(金)00時04分29秒
捌き ゆかり

(振り子さんのsatin dollで突発的に始まった連句が満尾致しましたので転載させて頂きました。)

2009年10月12日月曜日

冬の日

2008年秋のやまぐち連句会主催の連句大会における小島のり子さん(fl)の音源を拝聴する。
 句と曲は必ずしも一対一対応ではなく、オリジナルありスタンダードありフリーインプロヴィゼーションありという自由なスタンスとなっている。

  狂句こがらしの身は竹斎に似たる哉 芭蕉
     Easy Come Easy Go(オリジナル)

 発句に付けたのはどこかモンキッシュな小島のり子さんのオリジナル・ブルース。いかにも狂句こがらしの身である。

   たそやとばしるかさの山茶花   野水
     山茶花(オリジナル)

 脇に付けたのも小島のり子さんのオリジナルのワルツ。三拍子上に4つ音を詰め込んで童謡の「さざんかさざんか」の一節を重ねる難しい符割の、危うくもうつくしい曲である。

  有明の主水に酒屋つくらせて    荷兮
     七田(オリジナル)

 第三も小島のり子さんのオリジナル。「七田」というのは私は飲んだことがないが佐賀の名酒らしい。どこかデューク・エリントンの「プレリュード・トゥ・ア・キス」に通じる吟醸香が感じられる。

   かしらの露をふるふあかむま   重五
  朝鮮のほそりすゝきのにほひなき  杜國
   日のちりちりに野に米を苅    正平
     I'm Confessin'

 三句まとめてスタンドナンバー。澁谷盛良さんのベース・ソロをフィーチャーするあたり、いかにも「あかむま」の雰囲気がある。

  わがいほは鷺にやどかすあたりにて 野水
   髪はやすまをしのぶ身のほど   芭蕉
  いつはりのつらしと乳をしぼりすて 重五
   きえぬそとばにすごすごとなく  荷兮
     Zingaro

 四句まとめてスタンダード・ナンバー。初めて聴く曲であるが、哀愁をたたえたボサノバである。

  影法のあかつきさむく火を燒て   芭蕉
   あるじはひんにたえし虚家    杜國
  田中なるこまんが柳落るころ    荷兮
     Wee Small Hours

 アルト・フルートをフィーチャーしたナンバーである。
 
   霧にふね引人はちんばか     野水
  たそがれを横にながむる月ほそし  杜國
   となりさかしき町に下り居る   重五
     Stella By Starlight

 山口友生さんのギターをフィーチャーしたナンバーである。山口友生さんは全編を通じナイロン弦のクラシック・ギターを弾いているが、じつにパワフルな音が胸を打つ。

  二の尼に近衛の花のさかりきく   野水
   蝶はむぐらにとばかり鼻かむ   芭蕉
     Those Spring Days(オリジナル)

 いかにも桜花爛漫な雰囲気のアップテンポなボサノバ・ナンバーである。


  のり物に簾透顔おぼろなる     重五
   いまぞ恨の矢をはなつ声     荷兮
  ぬす人の記念の松の吹おれて    芭蕉
   しばし宗祇の名を付し水     杜國
     Evindence

 名残表は四句まとめてセロニアス・モンクの曲。名残表ともなれば演奏も乗り乗りで大技も繰り出される。

  笠ぬぎて無理にもぬるゝ北時雨   荷兮
   冬がれわけてひとり唐苣     野水
  しらじらと砕けしは人の骨か何   杜國
   烏賊はゑびすの國のうらかた   重五
     Here's That Rainy Day

 雨と言えば、バンド稼業の人は条件反射でこの曲になるのである。


  あはれさの謎にもとけし郭公    野水
     Hototogisu(小島のり子書き下ろし)

 日本情緒ただようナンバーである。ソロはなし。

   秋水一斗もりつくす夜ぞ     芭蕉
     Autumn Water(小島のり子書き下ろし)

 アップテンポのモーダルなナンバーである。このあたり、演奏時間を短く畳みかけて名残表の疾走感がある。

  日東の李白が坊に月を見て     重五
     山口友生書き下ろし

 月の座は山口友生さんの書き下ろし。ソロなし。

   巾に木槿をはさむ琵琶打     荷兮
     山口友生ギターインプロヴィゼイション

 「琵琶打」からインスパイアされたであろう即興演奏である。

  うしの跡とぶらふ草の夕ぐれに   芭蕉
     澁谷盛良ベースインプロヴィゼイション

 アルコによるソロであるが、最後に牛の鳴き声そっくりに演奏し、聴衆にどよめきが起こる。

   箕に鮗の魚をいたゞき      杜國
     小島のり子フルートインプロヴィゼイション

 鮗(コノシロ)は、コハダ。寿司ネタである。このあたり、牛→鮗という句の付け方と、ベースの即興→フルートの即興という演奏の付け方の対比が味わい深い。

  わがいのりあけがたの星孕むべく  荷兮
   けふはいもとのまゆかきにゆき  野水
     You Are Too Beautiful

 ピッコロをフィーチャーしたバラードであるが、ギターのオブリガードも実にうつくしい。

  綾ひとへ居湯に志賀の花漉て    杜國
     山口友生書き下ろし

 花の座も山口友生さんの書き下ろし。ソロはなし。不思議な雰囲気の曲である。

  廊下は藤のかげつたふ也      重五
     Wistaria Flower(小島のり子書き下ろし)

 挙句にふさわしく、いかにも名残り惜しい雰囲気のあるボサノバ・ナンバーである。

アンコール 獺祭
 挙句の果てはアップテンポのオリジナルでこれも日本酒の名にちなんだ曲。パワー全開で豪快に秘技絶技を次から次へ繰り出す。やはりジャズ・ミュージシャンは落とし前をつけないと終わらないのである。

 この演奏を生で聴けてしかも連句を巻けるなんて、この世のものとは思えない贅沢三昧である。桃源郷である。すごいぞ、やまぐち連句会。

(2008年秋のやまぐち連句会の催しについて、別のところに書いた記事を転載しました。)

2009年10月11日日曜日

連句しませんか。vol.2

という冊子を頂く。
 やまぐち連句会というところが編集・発行しているもので、第2回山口県総合芸術文化祭「連句大会」の記録集である。この連句大会がいかにすごいかというと、単に愛好家が集まって歌仙を巻くのにとどまらず、なんとジャズ・ミュージシャンを招き、芭蕉の「冬の日」にインスパイアされたライヴ演奏を実現させているところである。
 ジャズと連句は非常に似たところがある。どちらも即興性を重んじ、出会いを大切にし、文台おろせばすなはち反古というその場限りの集中力といさぎよさがある。
 冊子を読んでいると、小島のり子さん(fl)、澁谷盛良さん(b)、山口友生さん(g)によるジャズ演奏が違和感なく連句愛好家に受け止められた様子が伝わってくる。

 それにしてもハードである。一泊二日の日程の二日目午前中がライヴ、引き続き11:30~15:30に連句実作会というのはかなりの強行軍なのではないだろうか。そのようにして巻かれた半歌仙10巻、歌仙1巻、箙(不明。裏と名残表が6句ずつから成っている)1巻、正式十句合1巻が冊子には収録されている。上記ジャズ・ミュージシャンも参加しているし、中には9歳の男の子がお母さんと連句初体験しましたというほほえましい注記もある。

 このようにして、連句もジャズも脈々と伝えられている。

(2008年秋のやまぐち連句会の催しについて、別のところに書いた記事を転載しました。)

2009年10月10日土曜日

キヨヒロー

もう一体ロボットを作りました。
キヨヒロー

 副産物として、ねここ木枯二号も句型を増強しています。

 以後、違う発想でもない限り、俳句自動生成ロボットには関わらないことにしようと思います。

2009年10月5日月曜日

橋本多佳子の光

 橋本多佳子は、人一倍「光」に敏感な作家だったと思います。

月光にいのち死にゆくひとと寝る   多佳子
雪原に遭ひたるひとを燈に照らす
月が照り雪原遠き駅ともる
霧を航き船晩餐の燈を惜しまず
羅針盤平らに銀河弧をなせり
燈ともして梅はうつむく花多き
春月の明るさをいひ且つともす
簾戸入れて我家のくらさ野の青さ
病み伏して夜々のいなづま身にあびる
猫歩む月光の雪かげの雪
水鳥の沼が曇りて吾くもる
いまありし日を風花の中に探す
林檎買ふ旅の足もと燈に照らされ
星空へ店より林檎あふれをり
万燈のどの一燈より消えむとす
つまづきて修二会の闇を手につかむ
ゆきすがる片戸の隙も麦の金
一ところくらきをくぐる踊の輪
いなびかり遅れて沼の光りけり
いなびかり北よりすれば北を見る
いなづまのあとにて衿をかきあはす



月一輪凍湖一輪光りあふ」の絶唱も忘れられません。

(以前MIXIのコミュに書いた記事の転載)

2009年10月3日土曜日

ねここと木枯二号の移転

作った早々ですみませんが、広告があまりにも目障りだったので、移転します。

ねここ

木枯二号

よろしくお願いします。

2009年9月29日火曜日

木枯二号ver.0.2

木枯二号ver.0.2では、一句にひとつしか季語を入れないようになりました。「かな」で終わることもできます。

2009年9月27日日曜日

木枯二号ver.0.1

ねここver.0.1に引き続き木枯二号ver.0.1を作りました。
違いは語彙しかありません。こちらは旧仮名遣いで、定型外の句は作りません。

2009年9月26日土曜日

ねここver.0.1

 天気さんのところで紹介されていた犬猿短歌があまりにも面白かったので、それに触発されてねここver.0.1というものを作ってみました。


 句型は今のところ「啄木鳥や落葉をいそぐ牧の木々」だけなのですが、ねここは前衛なので中七、下五を字余り容認にしています。
 なにぶん初めて書いたjavascriptなので、変だったらご指摘下さい。

2009年9月9日水曜日

井上弘美『汀』3

 俳人らしい言い回しの句を見て行きましょう。

裏貼りに髪の一筋涅槃絵図    井上弘美
生身魂羽化するごとく眠りをり
秋の蜂かさりと眼つかひけり
綿虫の綿のだんだんおもくなる
雪吊の巻きぐせの縄垂らしけり
いちまいの炎の中の栄螺かな
後の月甘藍は巻き強めけり
夜深く湯に湯を足しぬ十三夜
観梅の声まつすぐに使ひけり
赤不動明王の枇杷啜りけり
濡れてゐる岩魚つつめる炎かな
波頭とほくにそろふ青蜜柑
天地を雨のつらぬく櫨紅葉
一石に水の分かるる桜かな
しばらくは水怯へけり水中花
手を打つて死者の加はる踊かな
凍瀧の水は鱗となりにけり
波音の波におくるる後の月
雪嶺を立たせて空のあたらしき
雛鏡明治の雪を積もらしぬ

 この目のつけどころ、この比喩、この感じ方、ないしはこの措辞。こういう句ばかり集めるとこういう俳人のようにも思えてくるのですが、全体の印象は最初に書いたとおり、「ぎりぎりのところまでひとつのことしか言わないことによって、じつに広い空間と時間を呼び込んでいる」感じです。

2009年9月8日火曜日

かんたん連句式目

 連句は室町時代から続くゲームで、五七五、七七、五七五、七七、…を繰り返しながら、複数人で前の人の句に次の句を付け、その付け具合に興じるものです。どこまで続けるかによって三十六歌仙とか百韻とかの種類があります。連句の一句目のことを発句(ほっく)と呼び、それがいつしか単独で取り沙汰されるようになったのが、今日の俳句です。正岡子規以降、最近まで連句に日があたることはほとんどなかったのですが、昨今は俳句のマンネリ化やインターネットの普及などの要因もあってか、連句を自分たちでもやってみたいという方が静かに増えているようです。作者が複数人であること、全体として何か意味があるものではないことから、文学と見なさない向きもありますが、それはそれ。「それがどうした」という方のみ、続きをご覧下さい。
  
 どんなゲームにもルールがあり、連句の場合は式目(しきもく)と呼びますが、なにしろ室町時代から続くゲームなので、前例主義に基づく非常に細かい決めごとがあり、最初にそれを見てしまうと、一気にやる気が失われてしまいます。ここにご紹介するのは、連句を自分たちでも巻いてみたいという人のための、かんたんな式目です。これ以上簡単にすると連句に見えない程度にかんたんで、このくらい制約があった方が楽しめる程度には起伏があるはずです。

1.構成(三十六歌仙)
 古来、連句は懐紙に書くもので、三十六歌仙では二枚の懐紙を用いました。一枚目を初折(しょおり)、二枚目を名残折(なごりのおり)といい、それぞれ懐紙を真ん中から二つ折りにして表と裏に書きました。現代では懐紙に書くことなどまずありませんが、ネットで巻くにせよ、A4用紙などに書くにせよ、三十六歌仙を巻くときには当時の用語を踏襲しています。

初折表 発句 客人が当季で詠む(五七五)
     脇 主人が当季で返す(七七)
    第三 「て」止めで展開 (五七五)
     4 (七七。以下同様に五七五と七七の繰り返し)
    5  秋・月の定座
     6

初折裏 7
     8
    9
     10
    11
     12
    13  このへんで夏または冬の月の定座(流動的)
     14
    15
     16
    17  春・花の定座
     18

名残表 19
     20
    21
     22
    23
     24
    25
     26
    27
     28
    29  秋・月の定座
     30

名残裏 31
     32
    33
     34
    35  春・花の定座
     挙句 (かならず春で、めでたく終わる)

 骨格はこれだけです。内容的には初折の表と名残裏は、まじめにやります。途中の初折裏と名残表は「あばれどころ」といって諧謔、機知の限りをつくします。

   初折表(6句)…しらふ
   初折裏(12句)…よっぱらい
   名残表(12句)…ますますよっぱらい
   名残裏(6句)…しめ

 こんな感じで、交響曲が楽章ごとに雰囲気が違うように、めりはりを付けます。


 また伝統美として、花のある春と月のある秋を大切にしていて、

・春、秋となったら3句続ける。
・夏、冬は1句で捨ててもよい。
・季節は春→夏→秋→冬の順で推移する必要はないが、同じ季の中では時の移ろいに気をつける。
・季節が変わるときは雑(ぞう。=無季)を間にはさんでよい。

というのがあります。

 それから全体の中で2箇所ほど恋の句を続けます。これは定座がある訳ではありません。流れの中で恋をしたくなったら、そうすればいいのです。

2.付句

 構成よりもこっちの方が難しいです。局所的には2句前までを注意して下さい。

  打越(うちこし)
  前句
  付句

 前句に付ける訳ですが、前句と無関係であってはいけません。普通の俳句で二物衝撃をやる要領で、前句との間に「切れ」を作る訳です。だから逆に一句の中に切れ字の「や」「かな」「けり」などを使用してはいけません。切れ字を使っていいのは発句だけです。
 このとき、せっかく打越→前句で展開させたのに、前句→付句でもう一度展開させようとしたら、打越と付句が同じような世界になってしまうことが往々にして発生します。これでは堂々めぐりになってしまうので、「打越にかかる」という言い方で、禁止とします。

 連句というのは、このようにして付句ごとに新しいイメージを展開させてゆくものであって、全体でストーリーがあるものではありません。「2句前までを注意して下さい」というのは、そういう意味です。

 なお、前句が「山」という場所情報を提示しているのに「海」で付けたり、前句が「夜」という時間情報を提示しているのに「昼」で付けたりすると、ちぐはぐなことになります。提示された情報とは違うものを付けると付けやすいです。自分のことを提示されたら、他人のことで付ける、他人のことを提示されたら場所で付ける、場所のことを提示されたら人のことで付ける、みたいに5W1Hのどれに焦点を置いて詠むかをつねに前句からずらすと、付けやすいのです。

3.捌き
 複数人が参加するので、全員が同格だと収拾がつかなくなります。そこで捌き人をひとり定め、付句を採用するかは捌き人に一任します。その際、やり方がふたつあります。

①複数人がそれぞれ付句を作り、捌き人がその中から選ぶ。
②順番に従って一人が付句を作り、捌き人が納得するまで駄目出しする。

 どちらで行くかは、その座で決めて下さい。ネットで巻くときは、全員が同時に同じ集中力で臨むことはあり得ないので、②(「膝送り」といいます)がお薦めです。また、いずれの場合も捌き人に絶対権力を与えないと、気まずいことになります(参加する人は誰もが自分がいちばんうまいと思っている訳ですから、怒り出す人や泣き出す人があらわれても不思議はありません)。

4.用語
 知らない言葉ばかり出てきて驚かれたかも知れませんが、もしあなたが捌き人の立場でないのなら、今日のところは「打越(うちこし)にかかるのは駄目」というのだけ覚えてくれればOKです。あとは、捌き人がその都度いろいろ教えてくれることでしょう。


 それでは、仲良くお楽しみ下さい。

2009年9月7日月曜日

井上弘美『汀』2

 あとがきに次のようにあります。

 京都を離れて東京で生活をしていると、なぜかいつも遠くに湖が見えるようになりました。繰り返し訪れた琵琶湖の四季折々の風景が、まるで祈りのようにくっきりと見えているのです。ささやかな句集に『汀』と名付けた所以です。

 そのように言われてみると「みづうみを遠く置きたる更衣」も「みづぎはのちかづいてくる朧かな」も虚実の定かならざる味わいがあるのですが、句集全体を通して、湖に限らず海も特別の位置を占め、とりわけ水位に関して独特の鋭敏な感覚があるように感じられます。この場合、実際の水位にかかわらず、遠景の湖/海は視界において水位が高いということも意識したほうがよさそうです。

空蝉にまひるの海のありにけり     井上弘美
たましひのかたちに冷えてみづうみは
眼つむれば黙禱となる寒の波
鳥の巣を高々上げて湖の荒れ
断念の高さなりけり夏怒濤
掛稲のうしろ大きな波上がる
海見ゆる高さに放ち春の馬
たつぷりと波引きにけり春の闇
みづおとを奔らせてゐる昼寝かな
波頭とほくにそろふ青蜜柑
秋燕の低く出てゆく波がしら
枇杷もいで水平線の傾ぎけり
箱庭の燈台に沖暮れにけり
飛び魚を食つてとほくに夜の海
秋の潮岬ときどき消えにけり
波音の波におくるる後の月
みづうみはみづをみたして残る虫
水音の響いてゐたる破魔矢かな
雨脚の沖に広がる残り鴨
みづうみのあかるさに置く雛調度
鯉のぼり海ふくらんできたりけり
切れ切れに海見えてゐる桜かな

 こうしてみると『汀』、じつにすばらしい題だと思います。

2009年9月6日日曜日

井上弘美『汀』

井上弘美『汀』(角川 2008)は俳人協会新人賞作家の第三句集。好きな句を拾い出すと枚挙にいとまがないのですが、例えばこんな感じです。

着ぶくれて神の鏡に映りけり     井上弘美
かいつぶり水を騙してゐたりけり
墓所といふ春雪のひと囲ひかな
ずるずると真蛸の脚の台秤
生きものの水呑みに来る蛍川
この闇を行けば戻れぬ螢狩
ひとりづつ人をわするる花野かな
秋の蜂かさりと眼つかひけり
深く座す降誕祭のパイプ椅子
綿虫の綿のだんだんおもくなる
眼つむれば黙禱となる寒の波
断念の高さなりけり夏怒濤
雑巾で拭く黒板や梅雨の冷え
後の月甘藍は巻き強めけり
観梅の声まつすぐに使ひけり
みづうみを遠く置きたる更衣
沼に日のゆきわたりけり夏の蝶
濡れてゐる岩魚つつめる炎かな
水中に鎌を使ひて秋初め
一息に〆て冷たき祭帯
ひとつ食ひ夜のはじまる螢烏賊
朴の葉を落として空の流れけり
みづぎはのちかづいてくる朧かな
鯉のぼり海ふくらんできたりけり
西瓜切るむかしの風の吹いてきて
飲食のあかりの灯る豊の秋


 いかがでしょう。ぎりぎりのところまでひとつのことしか言わないことによって、じつに広い空間と時間を呼び込んでいるように私は感じます。

母の死のととのつてゆく夜の雪
霜の夜の起して結ぶ死者の帯


 母上の死さえ、そのように詠むことによって、読者である私は言い知れぬ感銘を覚えます。

涸池の涸れを見てゐる三日かな
牛小屋に仔牛が二頭鏡餅
倒木に座せば鳥来る四日かな


 この、お正月の気分。

人影をとほすひとかげ迎鐘
我が影のとほくあらはれ虫の夜


 この、影の扱いの確かさ。

越冬の脚張つてをり蝉の殻
逆行の一羽が高し鴨の列
箱眼鏡ときどき波に遊ばせて


 この眼のつけどころ。

 総じて、しびれます。大好きな句集です。

2009年9月5日土曜日

引っ越しました。

ちょっと気分を変えてみたくて、こちらに引っ越しました。よろしくお願いいたします。
なお、前のところはすでに更地です。

秋の日を引越まへと同じうす ゆかり

2009年9月4日金曜日

室田洋子『まひるの食卓』

 室田洋子はこしのゆみこと同じく「海程」所属。『まひるの食卓』は第一句集。気に入った句を見て行きましょう。

十六夜や恋濃い故意と変換す        室田洋子
 ちょっと前なら考えられなかったような俳句だし、何十年か後には技術革新によって意味不明な句になっているかも知れません。でも、まさに今のこの時代と、古風な季語との取り合わせはすてきです。

ダイヤモンドダスト何千カラットの嘘
 気象現象に対してそのままダイヤモンドの単位をあてはめて「嘘」とまで言い切ったところがよいです。

さくらさくらどこでこの手を離しましょう
 どこか別れを感じさせるのは、季語が背負った不吉さなのでしょうか。

いなびかり失恋体操しています
 ほんとうにそんな体操があって、傷心をふりきるために励んでいる人たちが世界中にいるような気がしてきます。体操していると、いろいろなことがフラッシュバックするのです。

柚子どっさり小言みたいにもらいけり
 ばくばく食べるようなものではないから、微妙なものがありますよね。

風信子ゆっくり響く長女です
 「ゆっくり響く長女です」が素直な育ちを感じさせます。

待つというこころの握力冬木立
 「こころの握力」という危うい表現を季語の斡旋が救っていると思います。

凪という厚ぼったい冬の舌なり
 風の停止による感覚の変化を「厚ぼったい冬の舌」という曰く言い難い措辞にてしとめています。

おとこの体臭玉葱びっしり積まれ
 うわあ。

ゆく秋の素描のような影を踏む
 空気が澄んで影が濃くなった感じをとらえています。

花時のわたし溢れるお風呂かな
 桂信子「窓の雪女体にて湯をあふれしむ」が業とか性とかを感じさせるのに対し、時代が変わったのか作者の性格なのか、こちらの場合まったくルンルンしています。

うたた寝の猫にわたしに木の実降る
 「お風呂」の句もそうなのですが、この作者の句にはどこか健全な「わたしパワー」がみなぎっているのです。

ご飯というきれいなエネルギー白鳥来
 そしてまさにどこか健全な「わたしパワー」の秘密としての「ご飯というきれいなエネルギー」。だめ押しのような季語の斡旋がよいです。

末黒野や水の味する水ください
 これもどこか健全な「わたしパワー」のバリエーションとしてのナチュラル志向なのかも知れません。

仏蘭西の水飲む夫と恋の猫
 そして「水の味する水」は仏蘭西製なのです。水というピュアなものに対し、「末黒野」「恋の猫」といったかなり強烈な季語を取り合わせてきたところに注目すべきでしょう。

途中からメール画面は花ふぶき
 スクリーンセイバーでしょうか。これも数年後には意味不明になってしまう、今を捉えた句だと感じます。

朴落葉こっそり辞書を捨てました
 あの大きな葉は隠しごとを容認してくれそうな気がしますよね。

空っ風鳥の名を持つ友を呼び
 「ひばり」でしょうか。季語がすごく切迫した思いを感じさせます。

連翹やどこか短気なハングル文字
 朝鮮連翹からハングルが出てきたのでしょうか。あの文字は確かにどこか短気な気がしますが、でもそれは「どこか」でしかなくて、季語がのんびりしていることからも伺えます。

恋猫に倒されている長男よ
 がんばれ、長男くん! でも男性って結局のところ生き物として弱いのですよね。

昼寝覚わたしが魚だった頃
 そんな感じってあります。

2009年9月3日木曜日

こしのゆみこ『コイツァンの猫』6

ところが、時系列を喪失し定型が不統一で夢見がちに寝てばかりいるのかというと、ここぞというところでは、ちゃんと月の座と花の座に相当するものがあって、勝負に出ているのです。

 はじめに月の座、句集どおりの順番で十二連発。

眠り猫からだまるごと無月かな  こしのゆみこ
無意識が時計をはずす二日月
満月の肘の出ている二階かな
満月の真水は底を抜こうとする
跳躍の人ふりむけば満月ぞ
十六夜の積み木は聳え崩れない
激怒して月の照る音の中にいる
刺繍糸のあおのいろいろ二十三夜月
手枕の父を月光ふりしきる
月の木に上りし猫の飛びたてり
月入れてわが部屋大きくなりにけり
水の月さっきこわした花のかけら

 次に花の座、句集どおりの順番で十三連発。

花の旅汽車はふるさと通り越す
兎島桜の色となりにけり
姉妹桜の中をながれゆく
口車花時にのる楽しさよ
千年の桜の中に手を入れる
学校をはみ出す桜海に舞う
桜ごと帽子ごと姉はいなくなる
鍵穴の錆のかまわず桜咲く
少年がシュートするたび桜咲く
びしょぬれの桜でありし日も逢いぬ
いたくないかたちに眠る花月夜
泣きやみし帰りは桜咲いている
半島や力をぬいて遅桜

 いずれもこしのゆみこならではの月の座、こしのゆみこならではの花の座をかたちづくっていて圧巻です。

2009年9月2日水曜日

こしのゆみこ『コイツァンの猫』5

夢のように漂う こしのワールドの登場人物は、じっさいよく寝ます。

さみだれや猫の話で眠ってゆく     こしのゆみこ
昼寝する父に睫のありにけり
ころりころりこどもでてくる夏布団
少し遅れ家族の昼寝にくわわりぬ
昼寝する指は望みをつかみそう
だいどこのおとはまぼろしひるねざめ
したたりのことりと鳴りて目の覚める

 「昼寝する~」から「~目の覚める」までは、句集の配列そのままの昼寝六連発です。ひらがなのみで記述された「だいどこのおとはまぼろしひるねざめ」の夢うつつな感じな感じをみていると、「こしのゆみこ」というひらがな表記さえ夢うつつに思われてきます。冗談はさておき「したたりのことりと鳴りて目の覚める」の表記のにくいこと、目が覚めるに従って漢字が増えてゆきます。

 しばらくおいて、昼寝/睡眠の句はまた出てきます。

くつひものほどけしごとき昼寝かな
仕舞湯のごとく昼寝のおわらない
昼寝覚なくなっている恋心
門番は午睡の時間ゆるされて
捕虫網のゆらゆらとある寝入りばな
昼寝する君の背中に昼寝する
葉っぱ鳴って人ら眠りぬ夏木立
サングラス眠りし口のあどけなく
ひとりずつ部屋を出て行く熱帯夜
寝返りを打つたび見える滝の筋
夏座敷寝返っても寝返ってもひとり

 季節が変わっても、お構いなしに眠り続けます。

眠り猫からだまるごと無月かな
露つけて帰りし姉の深く眠る
雪音のやがて耳から眠ってゆく
冬日向眠り続ける犬の親
桃咲いてぼおんぼおんと人眠る
いたくないかたちに眠る花月夜

 ますます夢のようなこしのワールドなのです。

2009年9月1日火曜日

こしのゆみこ『コイツァンの猫』4

 時間軸の喪失とともに、こしのワールドで特徴的なのは句型の不統一です。不統一なので逆に切れ字を使用している句が意外と多いことに驚いたりもします。

一階に母二階時々緑雨かな      こしのゆみこ
さみだれや猫の話で眠ってゆく
昼寝する父に睫のありにけり
泳いできし耳にあふれる故郷かな
鈴のよく鳴りし裸のありにけり
くつひものほどけしごとき昼寝かな
親戚にぼくの如雨露のありにけり
女から乗せるボートのゆれにけり

 このような句だけを取り出すと一見こしのゆみこが形式を守っている俳人のようにも思えるのですが、ぜんぜんそんなことはありません。「こしのゆみこは今でも指を折りながら俳句を作っている」というまことしやかな噂を耳にしたことがありますが、こしのワールドの中では、以下のような句がお構いなしに混在して存在感を放っています。

後退る背泳かなしい手をあげる
夏寒き父仁丹のひかりのみこむ
夏座敷父はともだちがいない
おばさんのような薔薇園につかれる
そらからねぶへ猫のびたりちぢんだり
熱帯魚の向こう恋人が小さい
えのころやかばんの傷が見えなくなった
林檎むく左手カランと鳴らすみたい
巻毛(カール)のなかのからまつ黄葉とってあげる
木の実なんだかいらなくなってにぎっている

 時間軸の喪失と句型の不統一によって、こしのワールドは夢のように漂っているのです。

2009年8月31日月曜日

こしのゆみこ『コイツァンの猫』3

 家族や越野商店と地続きになったファンタジーの世界(というか虚実の定かならざる世界)を構成する句群を見て行きましょう。この虚実の定かならざる世界、句集の構成として時系列を曖昧にしている効果とも言えます。幼年時代、少女時代のこしのゆみこが自在に立ち現われるその世界は、その時点時点の真実であったとしても、作中世界で時間軸を喪失して現われるとき、それはファンタジーとしか呼びようのないものとして意識されます。

卯月野をゆくバス童話ゆきわたる    こしのゆみこ
よびすての少年と行く夏岬
水無月の玻璃に少年鼻を圧す
さみだれや猫の話で眠ってゆく
木下闇のような駄菓子屋ちょうだいな
後退る背泳かなしい手を上げる
まんじゅうのように夕やけ持ち帰る
金魚より小さい私のいる日記
出航をいくつながめる夏帽子


 きりがないので略しますが、このような虚実の定かならざる世界において、かのブルドッグは登場します。

朝顔の顔でふりむくブルドッグ

これはシングルカットしようのない、作中の時系列を失った世界でのブルドッグであり、どうしようもなくシュールでクリアでファンタスティックなブルドッグに他なりません。なんとかなしくうつくしいことでしょう。技術論からは無縁な遠い彼方のブルドッグなのだと私は感じます。

2009年8月30日日曜日

こしのゆみこ『コイツァンの猫』2

 実在するこしのゆみこさんの家族構成は存じ上げませんが、作品中の登場人物は多彩です。

一階に母二階時々緑雨かな      こしのゆみこ
父上京幸福の空豆さげて
待つ母がいちにち在ります花空木
ゆるされておとうと帰る麦の秋
草笛吹く兄を信じて大丈夫
昼寝する父に睫毛のありにけり
ころりころりこどもでてくる夏布団
少し遅れ家族の昼寝にくわわりぬ
片影ゆく兄の不思議なつめたさよ
夏座敷父はともだちがいない
親戚にぼくの如雨露のありにけり
昼寝する君の背中に昼寝する
冷麦の姉妹二人暮らしかな
蜻蛉にまざっていたる父の顔
子規の忌の夜具のおもたき母の家
手枕の父を月光ふりしきる
露つけて帰りし姉の深く眠る
スカートの真ん中に姉後の月
片恋の兄猛烈に黄落す
姉家族白鳥家族たべてばかり
母はひろってきれいに毬をあらう
人買いのごとく磐越西線父黙る
時々は野を焼く父についてゆく
水使う母のゆらゆら雪柳
桜ごと帽子ごと姉はいなくなる
ああ父が恋猫ほうる夕べかな
母太る音のしずかに春日傘


 一人称が「ぼく」の句が混在することからも察せられるように、こしのゆみこの作中世界では必ずしも実在ではない家族がファンタジーの世界と自在に行き来しているようです。句集全体の第一句目「一階に母二階時々緑雨かな」からして、実在する一階をよそに二階はいきなりファンタジーの世界に開かれているのです。「家族ならビーチパラソル支えなさい」の豪快さと、ファンタジーの住民として極度に美化された家族の交錯する、よじれた世界。『サザエさん』や『ちびまる子ちゃん』の世界と通じる、どこにでもありどこにもない、郷愁の中の越野商店が夕日に照らされているようです。

2009年8月29日土曜日

こしのゆみこ『コイツァンの猫』

 こしのゆみこの作品世界は重層構造をなしていて、まず下地としてこの作者ならではの豪快さ、こだわらなさというのがあるような気がします。

藤棚の下に自転車ごと入る         こしのゆみこ
聖五月鳥の真ん真ん中歩く
片恋のキャベツおかわりする自由
家族ならビーチパラソル支えなさい
帰省して母の草履でゆく海辺
風の家シャツパンツシャツパンツ干す
火事あかくどんどん腹の減ってくる
借りている革ジャンパーのポケットに飴
千年の桜の中に手を入れる


 このような基本的性格の上に、家族愛やファンタジーが雑多に混在しているおかしな世界、よじれた世界が『コイツァンの猫』なのだと思います。

追記

 句集冒頭の三句は次のように並んでいます。

一階に母二階時々緑雨かな
藤棚の下に自転車ごと入る
父上京幸福の空豆さげて


自転車の句は、のっけから母と父のあいだに強引に割り込むように配置されているのです。

2009年8月28日金曜日

小西甚一『日本文学史』

 この日記の初期の頃の記事を読んで下さった方から『日本文学史』も薄さに反比例する素晴らしい本ですが、きっとゆかり様の本棚に、だいぶんくたびれて立っているのじゃないでしょうか?」というメールを頂き、恥ずかしながら未読だった私は今まさに読んでいるところです。中国文学との交渉史として日本文学史を俯瞰したこの本、たいへん刺激的で面白いです。芭蕉のくだり、ちょっと長くなりますが引用します。

 芭蕉が杜甫にふかく傾倒していたことは、周知の事実であるが、さきにも述べたとおり、杜甫の詩句をどのように換骨奪胎したかなどは、たいして問題ではない。芭蕉が杜甫からまなびとった最大の収穫は、シナ的な切断性の深さであったろうと思われる。日本人の精神は、もともと自然との間に分裂をもたず、日本語は、常に「つながり」の表現を志向している。これに対して、シナでは、精神と自然がふかく切断されているばかりでなく、その言語も、音声的および意味的にぷつぷつと切れがちである。そうした切断を契機とし、切断されながらもふかく融合しているといったような表現を成就したのが、杜甫にほかならぬ。ところで、芭蕉の俳諧は、発句においても付合においても、鋭い切断を潜めており、それは、融合的・連続的な特性をもつ日本の詩として、はなはだ異例である。しかも、たんに切断されているばかりでなく、切断を媒介としながら、どこかで微妙に流れあい匂いあっているのであって、その深さは、杜甫におけるものときわめて近い感じがある。そうした近似点は、芭蕉があれほど杜甫に傾倒していた以上、杜甫からまなびえたと考えなくてはなるまい。

 じつにさらっと書かれていますが、私たちがこんにち二物衝撃と呼んでいるものは、遠く海を越えて隣の国と密接に関わっているのかも知れないのですね。

ダムありて秋のみづうみ終はりけり ゆかり

2009年8月27日木曜日

正木ゆう子『夏至』5

句の配列とかキーワードに関して、正木ゆう子は『夏至』の後書きで違和感を覚えるほど種明かしをしています。曰く、

①編年体にせず、連句の構成をわずかに意識したこと。
②「恋の座」を設けたこと。
③佐世保の鷹渡り、ノルウェーとロシアの旅吟、家族を詠んだ句、国内の旅などを制作年度を無視してそれぞれ一か所にまとめ、章として立てたこと。
④その章をおよそ季節の順に置き、章の中でさらに季節を追うようにしたこと。
⑤前作『静かな水』で月と水をテーマにしていたのに対し、今回は太陽を中心に据えたこと。

 例えば、次のような配列は確かに「連句の構成をわずかに意識した」妙味があります。

牡丹焚火まづは鼎に組みにけり 正木ゆう子
幻の花噴き上げぬ牡丹榾
瀬を早み岩のかげなる氷柱かな
白い山うすずみの山雪の国
雪山の闇夜をおもふ白か黒か
熊を見し一度を何度でも話す
鯨鯢の胴を接して眠る夜か
潜水の間際しづかな鯨の尾



追記
「連句の構成をわずかに意識した」配列といえば、村井康司が三橋敏雄『真神』について言及しているのを思い出します。

2009年8月26日水曜日

高柳克弘『未踏』2

この句集、いかにもな青春俳句とともに飛翔するもの(とりわけ蝶)へのあこがれがあって、それが全体の雰囲気を決定しているようです。

蝶々のあそぶ只中蝶生る       高柳克弘
ゆびさきに蝶ゐしことのうすれけり
太陽の号令つばめひるがえり
われのゐる日向に雀巣立ちけり
鉄路越え揚羽のつばさ汚れけり
蝶ふれしところよりわれくづるるか
眉の上の蝶やしきりに何告ぐる
蝶の昼読み了へし本死にゐたり
路標なき林中蝶の生まれけり
わがつけし欅の傷や蝶生る

(など多々)

 また、飛翔するものに限らず空あるいは大樹など、上を向くものが実に多く散りばめられています(二物衝撃の配合先も含め)。

白樺の花大空は傷つかず
春月や羽化のはじまる草の中
春の雲チアリーダーに甘えなし
夏を待つ欅や枝を岐ちつつ
大欅夏まぎれなくわが胸に
駅を出て大樹ありける帰省かな
わが拳革命知らず雲の峯
ひまわりの空わがことば揮発せり
ヘッドホン外せり銀河仰ぎけり
円陣を解き秋晴へ散りゆけり
何仰ぎをるやおでん屋出でしひと
一番星いちばん先に凍ての中

(など多々)

 という背景もしくは額縁を用意した上で、そこに伝記的事実のなまなましい青春俳句を置くことによって句集全体のバランスが保たれているのだと感じます。いかにもな伝記的事実がなまなましい青春俳句を拾ってみましょう(もちろんフィクションである可能性もあるのですが)。

卒業は明日シャンプーを泡立たす
ゆふざくら膝をくづしてくれぬひと
わが部屋の晩夏の空気君を欲る
木犀や同棲二年目の畳
滝の音はだけし胸に受けてをり
マフラーのわれの十代捨てにけり
どの樹にも告げずきさらぎ婚約す
雛飾るくるぶしわれのおもひびと
婚約のゆるしのやうに黄落す


 最後にいちばん好きな句。伝記的事実はいざ知らず、こういう句を作れる人が青春俳句真骨頂漢なのだと思います。

冬青空翼もつものみなつぶて



ついでながら、句集にこのようにキーワードを散りばめる手法は、句集全体の雰囲気を決定づける上で大変効果的です。「母」と「鶴」が散りばめられた鳥居真里子『月の茗荷』も同様でしたが、そもそも、キーワードを散りばめる手法には手法として名前がつけられているのでしょうか。また、かつて連作俳句華やかなりし頃、水原秋櫻子や山口誓子の連作が「絵巻物的」とか「設計図的」とか分類されたように、キーワードを散りばめる手法にもいろいろなバリエーションがあって分類整理されているのでしょうか。

2009年8月25日火曜日

高柳克弘『未踏』

雨よりも人しづかなるさくらかな   高柳克弘
兜虫おほぞら晴へ動き出す
枯山や刻かけずして星そろふ
降る雪も本の活字も無音なり
蝸牛やうやく晴れて日暮なり
冬青空翼もつものみなつぶて
本まぶし蟻より小さき字をならべ
読みきれぬ古人のうたや雪解川
くろあげは時計は時の意のまヽに
いくたびも水に照らされ花の旅


週刊俳句でのさいばら天気との対談でこしのゆみこの「朝顔の顔でふりむくブルドッグ」について、高柳克弘はこう語りました。

たしかに「朝顔」と「ブルドッグ」の結びつきには、衝撃があります。「スロットマシーン」という語で言いたかったことは、ふたつのもの、これは俳句の基本的な組成ですが、そのふたつのものを見つけるところまでは、偶発でいい。けれども、そのふたつの語を結びつけるところが大事になってくるんじゃないか。そうすると、ブルドッグと朝顔、この発想はおもしろいとも思いますが、「顔」で結びつけてしまうのは、どうなのだろう、と。

また、このようにも語りました。

いまは「二物衝撃」が一人歩きして、ふたつのものをバンッと置けばいいという風潮がありますが、ふたつのものが一句の中でいかに結びついているか、そっちのほうが重要なんじゃないか、と。

 これを読んで私は高柳克弘自身の句をむしょうに読みたくなり、数分後にはamazonでこの『未踏』をクリックしていたのでした。

「兜虫おほぞら晴へ動き出す」「蝸牛やうやく晴れて日暮なり」「冬青空翼もつものみなつぶて」「読みきれぬ古人のうたや雪解川」「くろあげは時計は時の意のまヽに」といった二物衝撃の句は、いずれも実にデリケートな付き方をしています。人によっては、付き過ぎというかも知れません。意味がありすぎるというかも知れません。でも、そこがいいのだと思います。微妙にして絶妙なのです。

2009年8月24日月曜日

題詠二十句

飯田橋・ルノアールで二人だけの句会でした。

【蜩】  頭の中で蜩が巻く夜の螺子     ゆかり
【芙蓉】 茶髪子の擬態としての芙蓉かな
【星月夜】たましひの星月夜めく汀かな
【稲妻】 稲妻の忍耐ここに極まれり
【露】  結露する窓に相合傘を書く
【小鳥】 旋回の小鳥の群は色を変へ
【蜻蛉】 蜻蛉に囲まれ水の中と思ふ
【葛】  真葛原はじまる場所を居と定め
【秋刀魚】秋刀魚いざ進め斬つても斬つても水
【鹿火屋】暁闇の鹿火屋に妻と鹿火屋守
【鈎】  鈎で吊り目方を測る蕃茄かな
【筧】  筧這ひ水琴窟を目指しけり
【籠】  行く夏やモスバーガーの白き籠
【瓦斯】 瓦斯管の切りたての螺子天高し
【框】  新涼や框にわたす鯨尺
【剃刀】 太腿のための剃刀夜の秋
【硝子】 音のなき硝子の向ふ色鳥来
【厠】  ふたつある厠のひとつ青大将
【閂】  たくましき閂釣瓶落しかな
【厨】  就中厨は四角涼あらた

 ちなみに【鈎】~【厨】は宗田安正監修『俳句難読語辞典』(学研)からの出題です。一見チープな体裁ですが、例句がすばらしいです。問答無用でお買い求め下さい。

2009年8月23日日曜日

中原幸子『以上、西陣から』

3年も前に出た句集で入手困難かも知れませんが、先日古本屋で見つけ、あまりにも面白かったのでご紹介します。

中原幸子句集『以上、西陣から』(ふらんす堂 2006) 「船団」所属俳人の第二句集。

雷雨です。以上、西陣からでした   中原幸子
 実況中継するテレビレポーターの紋切型の口上が、句読点の使用と「西陣」という地名のよさもあいまって、絶妙に俳句に収まっています。これを巻頭としてユニークで諧謔的な句多々です。

残暑なおアラビア糊はくっつく気
 古いアルバムのはがれかかった写真でしょうか。擬人法で糊を詠んだところが妙に可笑しいです。

糸瓜忌の読むように嚙むぬくい飯
 『病牀六尺』を読むうちに感覚が入れ替わってしまったのでしょうか。「読むように嚙む」が絶妙です。 

雪降ってコーヒー組と紅茶組  
吟行で喫茶店に入ると、こんなふうに注文が分かれたりします。一見無造作に置かれた「雪降って」が実は効いているような気がします。

春。九千七百五拾九円のおつり
 弐百四拾壱円の買物に壱萬円札しかなかったばつの悪いやりとりなのでしょうが、「春。」と句点つきで提示されると、いかにも春ののどかな雰囲気があります。

虚子館に虚子の頬杖枝垂れ梅
 虚子館に虚子が生前使用していた杖がガラスケースに入って陳列されているならいかにもありがちですが、意表をついて「頬杖」であるところがすごいです。いかにも巨人とか大悪人とか言われる虚子です。

あの白は山桜だと知っている
 霞んだ遠景。あるいは風景画。いずれにしても、あの白は山桜だと知っているのです。もしかすると、ほんとうは見たことがないのに既視感として知っているのかも知れません。

ここまでを薔薇で来ました風なりに
 ものの香りについて、こんなふうに擬人法と口語体で詠んだ句を見たことがありません。実に独特な可笑しさがあります。

茹でられて冷麦季語となりにけり
 この頓知、たまりません。調理前の冷麦は季語ではないのです。

ザ噴水やるときはやるときもある
 「「やるときはやる」ときもある」という決まり文句の茶化し方がとんでもなく可笑しいところに、「ザ噴水」というふざけた表記です(もしかすると実在するのかも知れませんが…)。設計に技術が追いつかずきちんと出たらあっぱれだった1970年頃の豪華な噴水を思い浮かべます。

ダム夕焼け北がなくなるかも知れぬ
 大景を前に「北がなくなるかも知れぬ」という、曰く言い難い感覚。

神の巣のように光の春の水
 いかに八百万の神とはいえ、「神の巣」という表現、はじめて見ました。

熱燗を待って新聞は四角
 新聞を読みながら顔も合わせずに「お~い」と熱燗を頼むひとへの微妙な感情が伝わってきます。

耳鳴りが間接照明みたい、春
 これも共感覚俳句。「耳鳴りが間接照明みたい」だけでできてしまっているので、あとは読点を打って「、春」というしかないのです。

漱石忌わたしも遺族だと思う
 こんな忌日俳句、見たことがありません。が、実にその通りです。

 世の中に「俳句として可笑しいもの」と「俳句にする前から可笑しいもの」があるとすれば、作者は「俳句にする前から可笑しいもの」を豊富にご存じで、それを次から次へと俳句に仕立てて繰り出してくる感があります。

2009年8月22日土曜日

鳥居真里子『月の茗荷』4

一方、「鶴」の方はこのような塩梅。

夕花野鶴の咳かと思ひけり
体温計ゼロに戻して鶴来たる
日々是好日鶴守の黒眼鏡
昼月を宿したるごと鶴歩む
死に水の旨さはいづれ鶴来る
雪しづり鶴の骨掃く箒あり
鶴帰る日の針箱に針がない


 どちらかというと一句一句として問うよりも、一連の流れの中に点在することによって、常にある種の不吉ではかない場所へ舞い戻る役割を負っているように感じられます。その中にあって「死に水の旨さはいづれ鶴来る」の大胆不敵な味わいはどうでしょう。季語の斡旋も実に絶妙です。

2009年8月21日金曜日

鳥居真里子『月の茗荷』3

集中、バッソ・オスティナートのように繰り返し現れる語として「母」と「鶴」があります。

陽炎や母といふ字に水平線  鳥居真里子
永眠のはじめは雪となりし母
ゆく春や盥の水は母に似て
母性液体父性は固体茄子の馬


 三好達治のあまりにも有名な一節「海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がゐる。そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。」を踏まえてひねりを加えたであろう「母といふ字に水平線」があざやかです。
 「永眠のはじめは雪となりし母」は、現実界の天候にとどまらず冥界への道程に思いを馳せることになる語順配置が絶妙です。
 母性を液体ととらえた「ゆく春や盥の水は母に似て」「母性液体父性は固体茄子の馬」は、私の頭の中で先日紹介した正木ゆう子の「死もどこか寒き抽象男とは」と響き合っています。

2009年8月20日木曜日

鳥居真里子『月の茗荷』2

こころいま朧膨れとなりにけり 鳥居真里子

「朧膨れ」という造語を前に、いまひとたび歳時記で「朧」を見てみましょう。

【朧 おぼろ】春は大気中の水分が増加し万物が霞んで見えることが多い。その現象を昼は霞というのに対して、夜は朧という。(以下略。『合本俳句歳時記第四版』より)

 つまり時間は夜であり、本来くっきり存在するはずのものが輪郭を失った状態であることが、「朧膨れ」という造語によって、特異な身体感覚とともに表現されているのです。他に余計なことをつけ加えず、「となりにけり」と十七音いっぱいに引き延ばすことによって、例えば「春愁」のような手垢にまみれた言葉とはぜんぜん違う心象世界が現れています。そして、にもかかわらず「朧」という言葉の引力によって、どこか王朝和歌のようなみやびさ、妖艶さも感じられます。これから何度も春になるたび、この句を思い出してみることでしょう。

2009年8月19日水曜日

鳥居真里子『月の茗荷』

 『月の茗荷』は鳥居真里子の第二句集。昨今、どんどん伸びる犬のひもがおおいに普及していますが、鳥居真里子のことばの操り方は、喩えて言うならその犬のひものような感じです。長いひもの先で、ことばたちにやりたいようにやらせているようです。

嗽するたびに近づく銀河かな    鳥居真里子
姉ふたり闇のたぐひの福笑
蛇は川わたし日傘に入ります
野菊咲く豆電球のおいしさう
人体と空のからくり桃咲けり
老人を逆さに見ればあやめかな
地球とは硝子の柩つばめ来る
こころいま朧膨れとなりにけり


 本能と直結しているはずの「おいしさう」の対象は「豆電球」だし、「こころ」は「朧膨れ」という造語によって形容されています。この巧妙に作者から遠く配置されたテキストのシュールさは、なんなのでしょう。

2009年8月18日火曜日

正木ゆう子『夏至』4

かと思えば、こんな可笑しな句も。

啄木鳥の脳震盪を心配す    正木ゆう子
夜更しの螢は置いて帰りけり
ひさかたの光通信にて御慶


以下、好きな句です。

空蟬となりしばらくは蟬を待つ
飛魚の滞空に日の鋼なす
直角に斜めに雪の交差点
面をもて接す二つのしやぼんだま
棕櫚縄の夜雨に締まる山桜


 いずれも繊細にして印象のはっきりした句で、とりわけ「直角に斜めに雪の交差点」は雪が降るたびにきっと思い出すに違いありません。

2009年8月17日月曜日

正木ゆう子『夏至』3

そして季節がめぐり…。

青萩や日々あたらしき母の老い 正木ゆう子
老いも死も父先んじて母に夏

さかのぼって、第三句集『静かな水』から。

母の日の母にだらだらしてもらふ

セレクション俳人『正木ゆう子集』から。

父の日の父は梯子と右往左往

 こんなふうに俳句があざやかな家族のアルバムとして残っているのが、すごいと思います。

2009年8月16日日曜日

正木ゆう子『夏至』2

集中、お父上を詠んだ句が胸を打ちます。

立てず聞けず食へず話せず父の冬 正木ゆう子
死のひかり充ちてゆく父寒昴
早蕨を起こさぬやうに終の息
寒巌のひと生の寡黙通しけり
死もどこか寒き抽象男とは
甲種合格てふ骨片や忘れ雪
骨拾ふ冬三日月の弧を思ひ
骨に骨積むや遥かな雪崩音


 「ひと生」は「ひとよ」と読むのでしょうか。一連の句群からは、立派な体格を持ち寡黙に一生を全うした人物像がせり上がってきます。そんな中で「死もどこか寒き抽象男とは」は、この作者ならではの句と感じます。
 本の帯に「俳句は世界とつながる装置」と書かれているのですが、このようにして俳人は世界につながっているのだと思います。

追記「早蕨を起こさぬやうに終の息」ですが、「早蕨を映さぬまでに水疾し 正木浩一」と彼方で響き合っているような気がします。

2009年8月15日土曜日

正木ゆう子『夏至』

 正木ゆう子さんの第四句集『夏至』(春秋社)。ときとしてユーモラスに、ときとしてとんでもなくマクロに、作者の視点は自在です。 いかにも正木ゆう子ワールドというボキャブラリーとしては進化、微生物、人類、公転といったところでしょうか。それらの言葉が俳句の中で息づくさまを見てみましょう。

進化してさびしき体泳ぐなり   正木ゆう子

つるつるの肌を持った人間の深い性を感じます。

一枚の朴葉の下の微生物

 朴落葉を詠んだ句は史上さまざまありますが、それをめくって微生物を詠んだ句はかつてあったのでしょうか。生態系へのまなざしを感じます。

つかのまの人類に星老いけらし

 星の生命に比べれば、ほんとうに人類などつかのまのものに過ぎません。

公転に遅れじと春の大気かな

 本句集の挙句。中八にたるませたところが句の内容とマッチしていて、とてもマクロな把握でありながらユーモラスに仕上がっていて、さすがです。

秋といふ天の轆轤を見てしまふ ゆかり

2009年8月14日金曜日

半化粧

 先日、母と話していて突然この花の話となり、「見たことある? ほんとに半分化粧したように白くなって不思議よねえ、子ども」というので、「いいえ、母、はんげしょうは半分夏が生まれると書くのです」と応えたのですが、調べてみると、確かに両方の説があるのですね。このあたり、口承世界の大ざっぱさが実に心地よいです。俳句をやっているとときどき、集と聚とか、やたら漢字を使い分けて蘊蓄を傾ける方もいらっしゃるのですが、たまにはプリミティヴな造語本能に身をまかせてみたいものです。

2009年8月13日木曜日

蝉鯨

もちろん本当は背美鯨なのですが、そう書くことを知ったのは近年のことで、ずっと蝉鯨というどこか円谷プロ的な名前だと思っていました。wikipediaによれば「和名のセミクジラは背中の曲線の美しさに由来する「背美鯨」の意であり、このクジラが長時間にわたって背部を海面上に出して遊泳し続ける性質があった事による。」とありますが、その説明は直感的に誤りなのではないかと思います。そんなふうに「美」ということばを私たちは使うものでしょうか。「背中が見える鯨」すなわち「背見鯨」がいつしか時代を経て「背美鯨」と表記されるようになったとする方が、よほど説得力があります。

山深き貝の地層や蝉鯨 ゆかり

2009年8月12日水曜日

蝉時雨

俳句を始めるまで「時雨」という言葉がどういう雨を指すのかよく分かっていなかったのですが、「時雨」の意味が分かると、今度は「蝉時雨」ってなんだかよく分からなくなってしまいました。蝉の鳴き声は「さっと降ってさっと止む」ものなのでしょうか。

山といふ生命体や蝉時雨 ゆかり

2009年1月5日月曜日

仕事始

お仕事はすつかり初期化されてをり ゆかり

2009年1月4日日曜日

四日

この年末年始は暮の27日から年明けの4日までお休みという方も多かったのではないかと思います。なんだか4日こそが真のカウントダウンのような気がしてきませんか。

四日はやなべて日曜日のうれひ ゆかり

2009年1月3日土曜日

モンポウ自作自演集

 スペインの作曲家、フェデリコ・モンポウによる1974年録音の自作自演集です。正直なところ作曲家のピアニストとしての力量が未知数だったので購入にあたりひどく躊躇したのですが、まったくの杞憂に過ぎませんでした。
 どの曲もモンポウならではの音数の少ない、減衰音の響きを生かした作品にふさわしい弾き方をしていて、まさに作曲家の頭の中で鳴っていたに違いないであろう音響となっています。ショパンの前奏曲(太田胃散のCMでも有名な曲)をテーマに12の変奏曲に仕立てた作品があるのですが、決して多くはない独特の音の付加によって、すっかりモンポウの世界に変貌してしまうさまは驚き以外のなにものでもありません。あろうことか第10変奏ではショパンの別の曲も登場しますが、そちらは聴いてのお楽しみということで。


凍星や書き遺されし減衰音 ゆかり

清澄庭園

 行く先も決めず初詣に行こうと思って家を出たのですが、着いたところは清澄庭園。ぜんぜん神社仏閣でない財閥系庭園というのもいいものです。はじめは豪商紀ノ国屋文左衛門の別邸、その後明治になって岩崎家の所有となったといいますから、そのへんの商売の神様よりご利益がありそうです。いえ、別にお参りに行ったのではなく、雪吊のある松をながめてぼんやりしたかっただけなのですけど。
 雪吊をよく見ると、下の方は枝に縄を直接結んでいるのではなく、竹竿をめぐらし、そこに縄を結んでいるのですね。上の方は支柱に結んであるのだし下も竹竿なので、雪吊の円錐状の縄はいっさい松に触れてなく、装飾用のダミーにしか見えません。雪の降らない東京だからそうなのか、雪国の雪吊もそうなのか、謎です。

冬園やまづ逆光の池を見む   ゆかり
雪吊の弦のふるへに風を知る

2009年1月2日金曜日

宮崎あおい

テレビは日頃「めざましテレビ」と「だんだん」くらいしか見ないので、今日の夕方だらだら観ていたさんまの番組ではじめて宮崎あおいさんの顔と名前が一致しました。ああ、オリンパスのカタログの美しい人はこの人だったんだ。デジタル一眼レフがほしいなあ。

二日には二日に届く電波かな ゆかり

2009年1月1日木曜日

明けましておめでとうございます。

 4年目の「みしみし」をよろしくお願い致します。

火星には火星の人の初茜 ゆかり