井上弘美『汀』(角川 2008)は俳人協会新人賞作家の第三句集。好きな句を拾い出すと枚挙にいとまがないのですが、例えばこんな感じです。
着ぶくれて神の鏡に映りけり 井上弘美
かいつぶり水を騙してゐたりけり
墓所といふ春雪のひと囲ひかな
ずるずると真蛸の脚の台秤
生きものの水呑みに来る蛍川
この闇を行けば戻れぬ螢狩
ひとりづつ人をわするる花野かな
秋の蜂かさりと眼つかひけり
深く座す降誕祭のパイプ椅子
綿虫の綿のだんだんおもくなる
眼つむれば黙禱となる寒の波
断念の高さなりけり夏怒濤
雑巾で拭く黒板や梅雨の冷え
後の月甘藍は巻き強めけり
観梅の声まつすぐに使ひけり
みづうみを遠く置きたる更衣
沼に日のゆきわたりけり夏の蝶
濡れてゐる岩魚つつめる炎かな
水中に鎌を使ひて秋初め
一息に〆て冷たき祭帯
ひとつ食ひ夜のはじまる螢烏賊
朴の葉を落として空の流れけり
みづぎはのちかづいてくる朧かな
鯉のぼり海ふくらんできたりけり
西瓜切るむかしの風の吹いてきて
飲食のあかりの灯る豊の秋
いかがでしょう。ぎりぎりのところまでひとつのことしか言わないことによって、じつに広い空間と時間を呼び込んでいるように私は感じます。
母の死のととのつてゆく夜の雪
霜の夜の起して結ぶ死者の帯
母上の死さえ、そのように詠むことによって、読者である私は言い知れぬ感銘を覚えます。
涸池の涸れを見てゐる三日かな
牛小屋に仔牛が二頭鏡餅
倒木に座せば鳥来る四日かな
この、お正月の気分。
人影をとほすひとかげ迎鐘
我が影のとほくあらはれ虫の夜
この、影の扱いの確かさ。
越冬の脚張つてをり蝉の殻
逆行の一羽が高し鴨の列
箱眼鏡ときどき波に遊ばせて
この眼のつけどころ。
総じて、しびれます。大好きな句集です。
ゆかりさま
返信削除新鮮な句の御案内を頂き、迷子の身としましては、本当に有り難いことです。
特に 井上弘美 さんの句、もっともっと御紹介下さいませんか。
引っ越してから初コメントですね。ありがとうございます。この井上弘美『汀』は残念なことにすでに入手困難のようですね。紹介の続きの切り口を考えますので、しばらく時間を下さい。
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