2009年9月6日日曜日

井上弘美『汀』

井上弘美『汀』(角川 2008)は俳人協会新人賞作家の第三句集。好きな句を拾い出すと枚挙にいとまがないのですが、例えばこんな感じです。

着ぶくれて神の鏡に映りけり     井上弘美
かいつぶり水を騙してゐたりけり
墓所といふ春雪のひと囲ひかな
ずるずると真蛸の脚の台秤
生きものの水呑みに来る蛍川
この闇を行けば戻れぬ螢狩
ひとりづつ人をわするる花野かな
秋の蜂かさりと眼つかひけり
深く座す降誕祭のパイプ椅子
綿虫の綿のだんだんおもくなる
眼つむれば黙禱となる寒の波
断念の高さなりけり夏怒濤
雑巾で拭く黒板や梅雨の冷え
後の月甘藍は巻き強めけり
観梅の声まつすぐに使ひけり
みづうみを遠く置きたる更衣
沼に日のゆきわたりけり夏の蝶
濡れてゐる岩魚つつめる炎かな
水中に鎌を使ひて秋初め
一息に〆て冷たき祭帯
ひとつ食ひ夜のはじまる螢烏賊
朴の葉を落として空の流れけり
みづぎはのちかづいてくる朧かな
鯉のぼり海ふくらんできたりけり
西瓜切るむかしの風の吹いてきて
飲食のあかりの灯る豊の秋


 いかがでしょう。ぎりぎりのところまでひとつのことしか言わないことによって、じつに広い空間と時間を呼び込んでいるように私は感じます。

母の死のととのつてゆく夜の雪
霜の夜の起して結ぶ死者の帯


 母上の死さえ、そのように詠むことによって、読者である私は言い知れぬ感銘を覚えます。

涸池の涸れを見てゐる三日かな
牛小屋に仔牛が二頭鏡餅
倒木に座せば鳥来る四日かな


 この、お正月の気分。

人影をとほすひとかげ迎鐘
我が影のとほくあらはれ虫の夜


 この、影の扱いの確かさ。

越冬の脚張つてをり蝉の殻
逆行の一羽が高し鴨の列
箱眼鏡ときどき波に遊ばせて


 この眼のつけどころ。

 総じて、しびれます。大好きな句集です。

2 件のコメント:

  1. ゆかりさま
    新鮮な句の御案内を頂き、迷子の身としましては、本当に有り難いことです。
    特に 井上弘美 さんの句、もっともっと御紹介下さいませんか。

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  2. 引っ越してから初コメントですね。ありがとうございます。この井上弘美『汀』は残念なことにすでに入手困難のようですね。紹介の続きの切り口を考えますので、しばらく時間を下さい。

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