2012年12月29日土曜日

詩レ入句会(8)出題

 すみません、放置しておりました。話が口語自由詩になると、俳句としてはなかなか出題しづらく…。

Ⅱ章 余白論の試み
5 恣意的な余白、口語自由詩(P.070)

 さて、北川透は書きます。(ちょっと長いけど)
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 わが国において、自然主義との深いかかわりで出現した口語自由詩も、むろん、余白を前提にして書かれたが、それはあらかじめ構成されたものではなかっ た。従って自由詩の作者にとって、どこで余白を行かえとしてあらわすかは、彼の自己基準(恣意性)いがいには何もない、といちおうは言える。しかし、その 恣意性そのものを無意識に拘束している規範性がないわけではない。それは一行二十字の四百字詰原稿用紙の存在が暗示している。わたしはこの原稿用紙が、ど のようないきさつによって生まれたのか知らないが、詩人たちの行かえを無意識に規定してきたことは疑えない、と思う。
 そして、それに容易に規定されたということは、一行二十字前後までの範囲で、意味の流れやイメージの表出を切断し、転換することが詩的であること、散文 性をこばむことであるという共同の感性が、いつからか成立していたことを示しているのではないか。それは短歌の三十一音が、上句と下句との分離・連合とし て構成されていること、また、新体詩がおそらくはその短歌の句切れとの対応で、七五調、五七調あるいは七七調などとして、行かえをもったこととも、内的に 関連づけられるだろう。つまり、日本語の表現は二十字以内で、韻律的にも、意味的にも、イメージとしても、切断あるいは転換しなければ、詩として感じられ ないという感性が、古来からつくられてきている……のだ。その意味では、自由詩の行かえ(余白)も、古代における詩の<発生>の余白を引きついでいる、と 言える。
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 じつに興味深い推論であります。ところで(この「ところで」が三島ゆかり的無茶ぶりなわけですが)、字数でいうなら、いわゆる自由律俳句に「長い自由律」と「短い自由律」があることに思いが及びます。

●長い自由律
水鳥水に浮いてゐ夫人はこれにはかなはないと思つてもゐない 中塚一碧楼
大きな湯のそちらに女が居る秋の夜こちらに浸る 荻原井泉水
姉の朝起がつゞいて上野の小鳥の木の芽空 河東碧梧桐
水飲む揚羽、羽を揚げ日の葉日の葉平ら 中村草田男

●短い自由律
鉄鉢の中へも霰 種田山頭火
霜とけ鳥光る 尾崎放哉
陽へ病む 大橋裸木

 こうした自由律俳人たちは、北川透のいう「一行二十字前後までの範囲で、意味の流れやイメージの表出を切断し、転換することが詩的であること、散文性を こばむことであるという共同の感性」の枠の中にいたのか、それと積極的に戦おうとしていたのか。今回は、そういう共同の感性があると仮定して、出題しま す。

●「共同の感性」の中の句(2~3句)
●「共同の感性」の外の句(2~3句)

投稿締切:1月5日(土)24:00(JST)
投稿宛先:yukari3434 のあとにアットマークと gmail.com

 よろしくどうぞ。

2012年12月1日土曜日

こじのり2@picaso

寒暮大久保はピカソにて小島のり子(fl)×大口純一郎(p)デュオを聴く。

(1st set)
1-1)I thought about you
1-2)雪譜
1-3)darn that dream
1-4)over the rainbow
1-5)in walked Bud

(2nd set)
2-1)枯葉
2-2)holy land
2-3)travesia
2-4)when i fall in love
2-5)開運

 大口純一郎さんはオスカー・ピーターソンみたいに空間を埋め尽くすタイプではないから、デュオは空間という味方でも敵でもある恐るべきものとの、実はトリオなのであって、大いにスリリングで楽しかった。随所、大口さんは空間を味方につけて、だましにかかる。
 小島のり子さんのオリジナルの1-2)、「ハッシャバイ」のようなコーダルな部分と、ペダルポイントの部分が交互に現れるワルツなのだが、実に美しい。音量のコントロールで、ふっと耽美的世界にふたり足を踏み入れるあの感じ。これこそデュオの醍醐味というものだろう。
 普通はスローバラードで演奏されることの多い1-4)、テンポを上げただけでなく、何小節か付け足していたのか。古いスタンダードに新しい表情があった。
 モンクの1-5)、コンポジションの異常さと大口さんの個性とデュオの特異性との相乗効果により、この日いちばんスリリングな演奏だった。後テーマの後、また始まってしまったflとpの長いソロ交換の応酬、いやあ、素晴らしかった。
 2-1)、演奏に関係ないことをこの際、声を大にして言いたいのだが、autumn leavesという英題にだまされてはいけない。歳時記では「枯葉」は冬の季語なのである。
 2-2)はシダー・ウォルトン作のマイナー・ブルース。原曲は聴いたことがなく、25年くらい前に峰厚介さんや本田竹曠さんたちがしばしば演奏 していた記憶が。ようやく、題名が分かりました。本日の演奏ではブルース・パートだけでなく、速度が変幻自在なバースのようなパートもあり。きっと原曲が そうなのだろう。
 2-3)はミルトン・ナシメント作。ブラジルの中学生の混声合唱の課題曲のような雰囲気。
 2-4)はアルト・フルートによるスロー・バラード。そこらのフルート奏者にありがちな上手そうにつける自動的なビブラートを嫌う小島のり子さんの、ここぞというときのビブラートには悩殺される。

 なんか、もう、ほんとに楽しかった。アフターアワーズは、ミュージシャンのお二人、M氏に私もお邪魔し「でめ金」。大口さんは私と同じ中学の大 先輩だったことが判明。音楽教師が同じだった。M氏はその中学に隣接する高校出身。ちなみに小島のり子さんとしばしば共演するもう一人のピアニストの二村 さんは私と同じ高校の2年か3年先輩。世の中はへんにせまい。

2012年11月11日日曜日

「をととひの人体 忌日くん」反響

週刊俳句で忌日くん十句について石原明さんより「忌日くん」は俳句の夢を見ない岡田由季さんより都会的な虫・99句小池正博さんより言葉も季語もやっかいですね笹木くろえさんよりラストシーンのような関悦史さんより無機物と不在の官能高畠葉子さんより見晴らしの句にて御批評を頂きました。ありがとうございます。

二物衝撃と俳句ロボット「忌日くん」の爆発力

週刊俳句で俳句自動生成ロボットをめぐる西原天気さんとの対談が掲載されました。

2012年11月7日水曜日

九吟るふらん歌仙・宴の巻

掲示板で巻いていた連句が満尾。

   宴かなやや浮く茸飛ぶ茸      なむ
    樹下には樹下の山の粧ひ    ゆかり
   月はじめ月ずゑ望の月を見て     令
    浪漫倶楽部の儚き浪漫       七
   沈みたる船へと沈む黒きうを   あとり
    歯の根もあはぬ底冷えの底   らくだ
ウ  ふうふうと風呂吹大根ふうふうと  ぐみ
    舅小舅明日の話          裕
   子を捨てて夫を捨てて駅にをり   苑を
    逢ふてはならぬ脱いではならぬ   む
   み仏の前に誓うて落し前       ゆ
    文くるる友ものくるる友      令
   サ-フボ-ドボディボ-ドに夏の月  七
    黄瓜縞瓜目移りします       あ
   庭石も漬物石も一緒くた       だ
    へび穴を出づ晴れわたる伊豆    み
   花を撮る徳川慶喜を盗撮し      裕
    あぶだかたぶらあぶな絵に虻    を
ナオ 一枚の譜面海越え時を越え      む
    壜に恋文壜に人参         ゆ
   耽溺の夜をクリスマスの夜に     令
    酒に初日の陽を映し呑む      七
   妹も従妹も姪も富士額        あ
    ヒンドゥーなれば赤いビンディー  だ
   華麗なる鵜飼や鵜飼火と闇と     ぐ
    呵責の馭者は仮借を頼み      裕
   曼珠沙華あかるし曼珠沙華あかし   を
    新月面に化ける月面        む
   上向けば上に涙の流れ星       ゆ
    歩け歩けと医者は勧める      令
ナウ 雪こんこあられやこんこ犬埋まる   七
    読めぬ字多き木簡竹簡       あ
   薄墨に薄墨のせて山の峰       だ
    のたりのたりと春の雲行く     み
   廃校の廃材置場花降れば       裕
    夢のふらここ夢のるふらん     を


起首:2012年 9月 2日(日)
満尾:2012年11月 7日(水)
捌き:ゆかり

2012年10月14日日曜日

「地層 るふらんくん」反響(その2)

週刊俳句でるふらんくん十句について山﨑百花さんより俳句は齢を重ねてこそ市川未翔さんより轆轤、るふらんくん。岡本飛び地さんより消えてしまう前に田島健一さんより何がやりとりされているのか。にて御批評を頂きました。ありがとうございます。

2012年10月7日日曜日

「地層 るふらんくん」反響(その1)

週刊俳句でるふらんくん十句について安里恒佑さんより優しい人にちがいない、岡野泰輔さんよりアンドロイドは横須賀の夢を見るかにて御批評を頂きました。ありがとうございます。

をととひの人体 忌日くん

週刊俳句に俳句自動生成ロボット・忌日くんによる十句が掲載されました。選句は西原天気さんです。

2012年9月23日日曜日

スターシップと俳句

週刊俳句に【古本という愉しみ】『スターシップと俳句』という記事が掲載されました。ソムトウ・スチャリトクル/冬川亘訳『スターシップと俳句』(ハヤカワ文庫、昭和五十九年刊、絶版)の紹介です(『豆の木』第16号(2012年4月)より転載)。

2012年9月3日月曜日

詩レ入句会(7)作者発表

ブログでは自句のみ引用します。全貌は掲示板をご覧下さい。

受付のてきぱきとして石榴かな       ゆかり    裕
西瓜とも糸瓜とも銀板写真         ゆかり    裕令七苑
秋澄むや木目のやうなかほをして      ゆかり    裕苑
へうへうと高きところを糸瓜かな      ゆかり    裕銀苑
秋色やひとには言へぬ同じ夢        ゆかり    令

2012年9月2日日曜日

地層 るふらんくん

週刊俳句に俳句自動生成ロボット・るふらんくんによる十句が掲載されました。選句は西原天気さん。

2012年8月31日金曜日

摂津幸彦と俳句自動生成ロボット

詩客の4人の参加者による幸彦鑑賞7句⑥ /岡村知昭・大橋愛由等・中村安伸・堀本吟にて堀本吟さんに俳句自動生成ロボット・三物くんを摂津幸彦との関連で取り上げて頂きました。
「恥ずかしいことだけど、僕はやっぱり現代俳句っていうのは文学でありたいな、という感じがあります」という発言が引用されることの多い『恒信風』第3号(1996.2)の摂津幸彦インタビューでは、インタビュアーの村井康司さんが当時のMS-DOSか何かで動く俳句生成ソフトについて言及し、大胆不敵にも「うまくすると、え-、なんというか、ちょっと摂津さん風の句になりまして(笑)」などと話を振っています。

村井 で、例えば、摂津さんが俳句をお作りになるときに、書き留める前の段階で、頭の中でその俳句生成ソフトのような作業をされてると思うんですが、例えばある単語とある単語とを並置して置いた場合にですね、それが「当たり」か「はずれ」かという判断を常にされてると思うんですけれども、そのご自分がされている作業っていうのを、別の言葉で置き換えることはできますでしょうか。どういうふうにしているかってことを。

摂津 「腑に落ちる」っていう言葉があるけれど、自分が先験的に持ってる肉体感覚に落ち込むみたいな、そのへんでやめるっていう言い方がひとつあるのかなあ。骨董の言葉で「腹に合う」とか「腹に合わない」とかっていう言葉があって、いわば「腹に合わない」っていうのは飽いてくるっていうことで、飽いてきたら、必ず偽物だろうっていう、そういうことらしいんだけれど。要するに、どこかで「落ちる」っていうのかな、うん、これが自分だみたいなことで、ふっと自分が立つ場所が見つかるみたいな、そういう部分があると思いますね、俳句が完成したという感じっていうのは。あとで大概は腹に合わなくなりますが(笑)。

2012年8月24日金曜日

詩レ入句会(7)出題

Ⅱ章 余白論の試み
4 <発生>の余白--再び、短歌(P.059)

 さて、北川透は書きます。

(前略)折口の歌の発生史観は、詩がつねに余白とともに出現したというわたしの思いつきに、理由をあたえてくれている。わたしたちの常識は、短い単純なものが広がって、長い複雑なものに進化すると考えやすいが、折口信夫が詩の発生に見ているものは、その反対のものであった。
《まづ、日本の歌においては、長い形のものがたりから、次第に変化して、長歌(ながうた)といふものが出来て来た一方に、そのえきすとも、えつせんすとも いつてよい片歌が、二つ合さつて、旋頭歌といふものに発達して行くと同時に、片歌自身が、短歌を作り上げるやうに、次第に、音の数を増し、内容が複雑にな つてきました。》(「詩の話」『折口信夫全集』第十一巻)


と言われて翻って現代の俳句というものをみたとき、そこに連句のえきすとも、えつせんすともいつてよいものを仮定してみたいのです。常識的には俳句は俳諧 の発句という言い方をしますが、発句と考えるのではなく、連句のえきすとか、えつせんすとして見たときに何か思い当たらないか、ということです。

 というわけで今回の出題です。

【連句のえきすとか、えつせんすとしての俳句】5句くらい

投稿締切:8月28日(火)24:00(JST)
投稿宛先:yukari3434 のあとにアットマークと gmail.com

 よろしくどうぞ。

2012年8月19日日曜日

季刊同人誌『晶』創刊号を読む

 週刊俳句に「中村草田男研究誌の誕生 季刊同人誌『晶』創刊号を読む」という記事が掲載されました。『晶』のブログも併せてご覧下さい。

2012年8月12日日曜日

二の腕を揺らし高まる秋の笛

イーストワンのこじのり4すばらし。
早春賦? コード進行が広々としたワルツ。空間の自然な残響がきれい。
加賀鳶 和のマイナーブルース。
スカイラーク トリルがきれいなバラード。
五木の子守唄 アルトフルートによるリハーモナイゼイションの美しいナンバー。
アナザーユー アップテンポで燃える。二の腕を揺らして秘技禁技。
フォトグラフィア アンコールのボサノバ。

いつも二村さんは斜め後ろから聴いていたので、あんなににこにこ弾いていたのかと認識を新たにしました。

2012年7月31日火曜日

詩レ入句会(6)作者発表

ブログでは自句のみ引用します。全貌は掲示板をご覧下さい。

【幻の手や足が無数に生えた俳句】
片蔭の果つるあたりに呼ばれけり  ゆかり  銀ら苑七
香水は碁盤黒眼鏡は零番      ゆかり
炎昼を仕込む豚骨スープかな    ゆかり  銀ら令裕苑七
忽然と暗渠途切れる緑かな     ゆかり  銀ら
緑陰を婆婆婆と仕舞ひけり     ゆかり  ら七
 

2012年7月24日火曜日

詩レ入句会(6)出題


Ⅱ章 余白論の試み
3 幻肢としての余白、俳句・短歌(P.045)

 前回は文語定型詩で大変なことになってしまいましたが、今回は私たちのホームグラウンドなので、考えようによってはもっと大変です。そもそも私たちは連 句実作者/俳句実作者としてここに集うわけですが、仁平勝が提示し北川透が共感する<幻肢としての下句>なるものを、ほんとうのところ、実作者として私た ちは感じながら作句しているのでしょうか。

 北川透は仁平勝の俳論集『詩的ナショナリズム』に収められている「虚構としての定型」から次のくだりを引用します。

《さきに<短歌の上句>ということを、五・七・五=十七音の"定型"の発生的な本質として考えようとした。それは言葉をかえれば、その"定型"自体のうち に、発生的に切り捨てられた「七七」の<下句>が、いわば幻肢として、構造的に抱え込まれているといってみてもよい。この<幻肢としての下句>は、ことさ ら俳諧の脇句のなごりと考える必要はない。五・七・五という音韻律そのものの本質的不安定さなのだ。そして「切れ」とは、すなわちこの<幻肢としての下 句>から切れる方法意識にほかならない。》(「虚構としての定型」)

 これを受けて北川透は次のように続けます。

 この《幻肢としての下句》という考えは魅力的である。それをわたしは余白の概念でとらえ直すことで、詩としての共通の場所を用意したいと思う。もともと 短歌の上句(五七五)が、連歌の発句として下句(七七)から切れ、更に、蕉風においてその切字が意識化されることで、俳句は詩型として独立した。しかし、 短歌の下句(七七)は余白として、いつまでも俳句につきまとっているわけではない。七七が切れて俳句が詩型として自立したとたんに、もはや七七は消失し、 ただ、余白だけが意識されるのだ。もし、切れた尻尾である七七をつけてみたくなるような句があれば、それは俳句として失格にちがいない。だから《幻肢とし ての下句》という言い方を借りれば、<幻肢としての余白>とか<幻体としての余白>という言い方も同時に成り立つし、それらの幻の手や足は俳句に無数に生 えており、余白として、沈黙を表現している。

 というわけで、今回の出題です。

【幻の手や足が無数に生えた俳句】5句くらい
投稿締切:7月28日(土)24:00(JST)
投稿宛先:yukari3434 のあとにアットマークと gmail.com

 よろしくどうぞ。
 

2012年7月19日木曜日

五吟歌仙・ゆふぐれの巻

掲示板で巻いていた連句が満尾。

   ゆふぐれの舌の薄さや著莪の花        令
    生まれつつあるはつなつの闇      ゆかり
   元栓は閉めたはずだが気になつて      銀河
    鳩吹く人の仰ぐなかぞら       まにょん
   一陣の風に水面の月ゆれて        らくだ
    拍子木の音たかき地歌舞伎         令
ウ  酒癖の悪き郎党ばかりなり          り
    一目惚れしたその腕つぷし         河
   序の口に乗れば染まつてゆくからだ      ん
    藍の褪めたる衣まとへば          だ
   雑巾を固くしぼつて作務開始         令
    餅肌いまや皸の日々            り
   氷下魚釣る糸を滑りし月の影         河
    胸張り少年大志抱けと           ん
   うたひつつTOKIOが走るCMの      だ
    制作室をよぎる星蝕            令
   代々を花読みとして床にあり         り
    ここで別れる楠若葉道           河
ナオ 振り向けば春の波間に人魚の尾        ん
    姉はいつでも妹思ひ            だ
   坪庭にすずめのための米を撒き        令
    いづかたよりか金鵄鳳凰          り
   美しき髯をしごきて憂ひをり         河
    泥鰌鍋にて手打といたす          ん
   妖刀に呪符貼りつけて封印し         だ
    仮面舞踏にはじまりし恋          令
   茉奈のふりしてゐる佳奈にからかはれ     り
    奄美諸島へ梅雨の前線           河
   月光に濡るるサバニの櫂を漕ぐ        ん
    玉手箱から出づる穂芒           だ
ナウ 手を振ればをちかた人は霧のなか       令
    薬指からとれぬ飯粒            り
   封筒を貼る工賃の如何ばかり         河
    冴返る夜に読む経絡図           ん
   それぞれの壺の中には花吹雪         だ

   陽炎の馬車呼びて去りなむ          河 
 
 起首:2012年 5月 1日(火)
満尾:2012年 7月19日(木)
捌き:ゆかり

2012年7月10日火曜日

詩レ入(5)作者発表

ブログでは自句のみ引用します。全貌は掲示板をご覧下さい。

●作品6--------------------------------------ゆかり

 紫陽花十二号

十二分発の紫陽花十二号
一路神州鞄には銀の横笛
眼中のもの皆みどりゆつくりと
回転しをる大地平畝といふ畝

香草の名を連ねたる歌ありて
妙なり夢の如きなり三つ編みの頃
級長の姉のふくらみ地上には
母の紫陽花地上には祖母の紫陽花

等速度運動の雨やはらかに
力士を濡らす奉納の大樹の下に
発光し魚の時間を律動し
陸といふ家具くつがへす海といふ意味

まづ構へ嚇と見開きややあつて
嘘つくやうに笛を吹くなり

2012年7月8日日曜日

巣箱のように空き家のように

週刊俳句に【週俳7月の俳句を読む】巣箱のように空き家のようにという記事が掲載されました。生駒大祐さんのに感想を寄せています。ほぼ絶賛。

2012年7月7日土曜日

愛すべきゲテモノ5枚



DUKE ELLINGTON (Original Album Series)



 1963年から1966年までのエリントンのアルバム5枚を集めたもの。もはやビッグ・バンドは過去の遺物となりつつあったというべきか、異色の作品群である。それでいて、なにをやってもエリントンはエリントンなのであって、ファンにはたまらない愛すべきゲテモノ5枚である。

(1)Will Big Bands Ever Come Back? (1963)
 ある意味ではアルバム・タイトルの通りで、古いビッグ・バンドのヒット曲集。"ONE O'CLOCK JUMP", "TUXEDO JUNCTION", "ARTISTRY IN RHYTHM", "RHAPSODY IN BLUE"など12曲。エリントン・ナンバーとしては"DON'T GET AROUND MUCH ANYMORE"を収録。
 
(2)Duke Ellington's Jazz Violin Sessions (1963)
 ステファン・グラッペリと、エリントニアンであるレイ・ナンスのvnなどをフィーチャーしたスモール・コンボによる作品。曲により、ビリー・ストレイホーンも参加。

(3)Duke Ellington's Walt Disney's Mary Poppins (1964)
 かの『メリー・ポピンズ』のナンバーが濃厚なエリントン・サウンドに変わり果てていて味わい深い。

(4)Ellington '65
 60年代前半のヒット曲集で、「フライ・ミー・トゥ・ザ・ムーン」「モア」「思い出のサンフランシスコ」など。果てはディランの「風に吹かれて」まで。

(5)Ellington '66
 こちらはなにしろPLAYS THE VERY GREAT HITSだからもっとすごい。「シャレード」「酒とバラの日々」「ムーン・リバー」「愛さずにはいられない」など。果てはビートルズの「オール・マイ・ラヴィング」「抱きしめたい」まで。

2012年6月17日日曜日

詩レ入句会(5)出題

 次の出題をめぐりいろいろ考えているのですが、次の節は「2 構成された余白、文語定型詩」。藤村や泣菫、有明をめぐる話なので、はなはだ句会の出題のネタにしづらく…。話を飛躍して連作俳句にからめてみましょうか。構成というなら、例えば誓子。

  航行

船厨(せんちゆう)の蠅青潮に向きて去る
船欄は蠅ををらしめ浪を白(しら)め
夏の夕餐(ゆふげ)船は蛇輪(だりん)をまはすなる
顔こすり睡(ねむ)がる子よ夏の海暮るる
夏の夜の星ひとつ撰(え)りて船にかかぐ
船に垂れ晩夏星座のみづみづしさ
夏のあさ薄翅蟲類船とすすむ

(昭和十二年) 


 ところでp.40の「つまり、行かえは、物語の展開をになっているのではなく、客観、主観、主観の客観化といった千鳥をめぐる観点の移動を可能にしているのだ」というくだり、なにかを思い出しませんか。

 これって、じつに我らが俳諧の、自他場に近いものを感じます。物語の単調さを救うための余白の技法が、反対向きに物語性を否定する俳諧の付け方の技法に近いものとして現れるところに、俳人としての私は妙味を覚えます。


 というわけで、今回は文語定型詩と俳諧の余白の現れ方を味わってみたいと思います。

【文語定型詩】一篇(五七五/七五七交互ソネット形式)
または
【独吟半歌仙】一巻

投稿締切:6月23日(土)24:00(JST)
投稿宛先:yukari3434 のあとにアットマークと gmail.com

 余力のある方は両方でも構いませんし、二篇以上、二巻以上でも構いません。上記に適合していれば旧作でも構いません。
 

2012年6月15日金曜日

詩レ入(4)作者発表

ブログでは自句のみ引用します。全貌は掲示板をご覧下さい。

【切字があって余白がある俳句】
飛ぶ蠅は星のかたちを重ねけり      ゆかり 裕
モロゾフに口説かれてゐる梅雨入かな   ゆかり 裕
ワシコフの犬として夏木立かな      ゆかり 令


【切字がなくて余白がある俳句】
鰻食ふ西郷の犬雲の峰          ゆかり 裕
蠅を打ち乳房の揺れの収斂す       ゆかり
パブロフが大好きな犬夕薄暑       ゆかり


【余白がない俳句】
鋭角を描いて迫る蠅を打つ        ゆかり
梅雨入のタチアナ・ニコラーエワの犬   ゆかり 七
犬捕は瀑布の犬を捕らへけり       ゆかり 裕
精確に蠅の軌跡を打ちにけり       ゆかり 銀
 
 
 
 
 

2012年6月3日日曜日

詩レ入句会(4)出題

 さて、いよいよ第Ⅱ章です。

Ⅱ 余白論の試み
1 余白の出現、ざしきぼつこのような (p.34)

 北川透は書きます。

 詩の出現とは、必ず(と言っていいほど)余白の出現である。だれもがそれを自明にして書き、読んでいながら、忘れている。

 ひるがえって、私たちの俳句の世界には切れ字というものがあります。仁平勝は『秋の暮』(沖積舎。1991年)に収められた「季語と切字」の中で次のように書いています(p.66)。

 (前略)じじつ切字のことを、「や」のように句中に意味的な切れをつくるものと理解している俳人が多い。俳諧でいう切れと、いわゆる区切れとがゴッチャ になっているのだ。そういう人たちは、なぜか同じく代表的な切字である「かな」や「けり」のことを考えない。「かな」や「けり」のほうを考えればわかるこ とだが、俳諧で切れというのは、発句が脇句にたいして切れるということだ。

(そして話は、なぜ「や」によって発句が脇句と切れるのかと続く。)

 さらにその一方で長谷川櫂の最近出た『一億人の「切れ」入門』(角川学芸出版。2012年)では、手許にテキストがないので正確ではありませんが、「こ の句の切れは俳句の前と後ろにある」的な表現で、句中の意味的な切れ以外のものを表現しています。(テキストをお持ちの方は、正確な引用でお助け下さ い。)

 さて出題です。

【切字があって余白がある俳句】(3~5句くらい)
【切字がなくて余白がある俳句】(3~5句くらい)
【余白がない俳句】(余力のある方のみ)

投句締切:6月9日(土)24:00(JST)
投句宛先:yukari3434 のあとにアットマークと gmail.com

★整理の都合上、俳句の行には俳句以外の題とか記号とか俳号とか本名とかを書かず左詰で列挙願います。

 よろしくどうぞ。

2012年5月23日水曜日

詩レ入句会(3)作者発表

ブログでは自句のみ引用します。全貌は掲示板をご覧下さい。今回はロボットの句を多々投句して非難囂々。

【俳句にとって日常的、慣習的な語法や文脈の世界の俳句】
胸もとを烏と思ふ蝉の穴         三物くん  銀
ふるさとを昼寝と思ふ水あかり      三物くん  銀七
おほぞらが無くて鏡の捕虫網       三物くん  裕苑七
かなしみの夢の祭のありにけり      ゆかりり
関節や側溝といふみどりの夜       ゆかりり  ら
珍獣の肢体の走る青あらし        ゆかりり
紫陽花の薄着の思う男かな        キヨヒロー
入梅の世界をつかむ美人です       キヨヒロー 七
密告の五月のようなキスの風       キヨヒロー
卯月野と夜の二階のありにけり      ねここ   裕苑
黒板と金魚の水に思いけり        ねここ
空豆の家族と魚へ眠るかな        ねここ   銀苑七
搭乗を見合はせてゐる夕立かな      ゆかり   裕
補助翼の裏に文字ある夕薄暑       ゆかり   裕ら苑
ほんたうに白山しろき薄暑かな      ゆかり   銀


【違犯の俳句】
晩節が無くて金魚の昭和かな       三物くん  苑七
ふるさとが無くて箪笥の金魚かな     三物くん  ら七
どん底が無くて昭和の蜥蜴かな      三物くん  七
細胞のポルシェの蝉にゆるしけり     ゆかりり
妹の蜥蜴の並ぶ目方かな         ゆかりり
首すぢの刃の夏の並びけり        ゆかりり  令
西行の私を夏へ濡らすかな        キヨヒロー 令ら
唇の五月の母と歩くかな         キヨヒロー 銀苑
再婚の薄暑と告げる川の風        キヨヒロー
六月の少女のにこにこ手足かな      ねここ   銀苑
仁丹と祭にじゃぶじゃぶしっぽかな    ねここ   令苑
六月と姉妹と影もつかみけり       ねここ   令七
はつなつの胴体と飛ぶ翼かな       ゆかり
機影いま画面に止まる蠅のごと      ゆかり   裕
サイフォンの噴水高き青葉かな      ゆかり

(以上)
三物くん http://yukari3434.web.fc2.com/sanbutukun.html
 「階段が無くて海鼠の日暮かな   橋閒石」「路地裏を夜汽車と思ふ金魚かな 摂津幸彦」の句型だけで、八田木枯氏の語彙で詠むロボット。旧仮名。

ゆかりり http://yukari3434.web.fc2.com/yukariri.html
 三島ゆかりの語彙で詠むロボット。旧仮名。

キヨヒロー http://yukari3434.web.fc2.com/kiyohiroh.html
 峠谷清広氏の語彙で詠むロボット。新仮名。

ねここ http://yukari3434.web.fc2.com/nekoko.html
 こしのゆみこ氏の語彙で詠むロボット。新仮名。破調容認。
 
 

2012年5月14日月曜日

詩レ入句会(3)出題

 では3回目です。

Ⅰ レトリックの誘惑
 3 違犯の関係が価値にかかわる

 北川透は書きます。(p.030)

(前略)
 それに比して、詩的レトリックは、それがどこまで意識されるかどうかは別にしても、慣習化されたことばの在り方に対する違犯の関係に置 かれる。それは発信者が受信者に対して《意表に出ようとする技術》や《驚かす戦術》ではないにしても、その違犯の関係が、読者を挑撥したり、誘惑したりす ることはたしかだ。そうでなければ、なんらかの理由で、ことさら意味(思想)の流れを拒んだり、切断したり、ずらしたりしている詩作品に、読者が魅き寄せ られることはない。詩的レトリックは、日常的、慣習的な語法や文脈に違犯の関係をつくりだすことで、おいしいことばになっている。ただ空腹が満たされれば いいというのが意味の関係であるとすれば、おいしいというのは、価値の関係である。違犯は、言語の価値にかかわっている。

 さて、ではひるがえって目を俳句に転じた時、私たちは知らず知らずに俳句にとって日常的、慣習的な語法や文脈の世界に甘んじてはいなかったでしょうか。 極論を言えば、季語とか切れとかの制度のもとに、私たちは工業製品のように俳句のようなものを生産しているだけなのではないのでしょうか。とはいえ、私た ちは真にすぐれた俳句から数多くの違犯を読み取ってきたことも事実です。

今回の出題です。

【俳句にとって日常的、慣習的な語法や文脈の世界の俳句】(3~5句くらい)
【違犯の俳句】(3~5句くらい)

投句締切:5月19日(土)24:00(JST)
投句宛先:yukari3434 のあとにアットマークと gmail.com

★整理の都合上、俳句の行には俳句以外の題とか記号とか俳号とか本名とかを書かず左詰で列挙願います。
今回の書式の例

【俳句にとって日常的、慣習的な語法や文脈の世界の俳句】
はつなつの日常的な俳句かな
まつたくの慣習的な五月闇
麦秋の慣習的な語法かな

【違犯の俳句】
はつなつの違犯はじつにむづかしい
まつたくの違犯だらけの五月闇
麦秋の取締りたる違犯かな

 よろしくどうぞ。

2012年5月13日日曜日

久しぶりにジャズを聴く

こじのりさんのカルテット@渋谷KOKO。

小島のり子(fl)4-リンヘイテツ(p)鈴木克人(b)水口泰邦(d)

(1st set)
I thought about you
photographia
voyage
If you could see me now
こきりこ

(2nd set)
long and winding road
I should care
bolivia
everything happens to me
浦霞

 リンヘイテツさんは初めて聴いたけど、オーソドックスにして達者。いっぺんでファンになりました。このカルテットで演奏するのは初めてだって 言っていたけど、フルートの裏でのカウンター・ラインの作り方とか、おお、ここでブロック・コード来ますか、とか、おお、ここでトレモロで高まりますか、 とか、ちょっとしたフルートのフレーズのきれっぱしをすかさず引用してオブリガードするさまとか、実に新鮮で、私はにこにこして口をぱくぱくして聴いてお りました。水口さんもリンさんのくり出す奇数拍パターンにぴたっと合わせてかっこよかった。
 一夜にしてバンドがぐんぐんできあがってゆくさま。あれ、こじのりさんも吹いていてそうとう楽しかったんじゃないかなあ。

2012年5月9日水曜日

詩レ入句会(2)作者発表

ブログでは自句のみ引用します。全貌は掲示板をご覧下さい。

【俳句】
はつなつの屋根ある街を犬ほゆる   ゆかり 銀苑
ヒラメ筋たつぷり用ゐ春惜しむ    ゆかり ら
青果店酒店隔て春の昼        ゆかり 令苑
立ち止まり眼鏡はづして夏来る    ゆかり 銀


【俳句でないもの】
我等みな夏帽子にて春惜しむ     ゆかり
行く川の流れは絶えず貼つてある   ゆかり ら
聖五月胸はたわわな方がよい     ゆかり
噴水や全人格を否定する       ゆかり 銀苑
 
 
 

2012年5月5日土曜日

マヘリア・ジャクソン、ルイ・アームストロング参加も含むエリントン名盤8枚分




Eight Classic Albums: Duke Ellington





録音から50年経過した8枚のLPをCD4枚に収めた合法的な海賊盤。とはいえ、安価にエリントン・サウンドを浴びるように聴けるのはやはりありがたい。もとのLPもしくはCDですでに持っていたものは1枚だけなのだが、一聴した限りこのシリーズのハズレの他盤のような製品的欠陥(音が飛ぶ、ノイズがひどい、曲が途中で切れる、板起こし、など)はなく、アタリの方だと思う。内容は以下。

1)Such Sweet Thunder(1957)
 シェイクスピアを題材としたアルバム。村上春樹の『国境の南、太陽の西』に出てくる「スター・クロスト・ラヴァーズ」はこのアルバムに収められている。単品で購入すると11曲もある別テイクはいさぎよく割愛されている。
2)Black Brown And Beige(1958)
 マヘリア・ジャクソン(vo)参加の組曲。姿をかえて何度もあらわれる「カム・サンデイ」の主題が胸を打つ。レイ・ナンスのvnも哀切きわまりない。
3)Duke Ellington At The Bal Masque(1958)
 ライブ盤である。まさかこんなところで「狼なんかこわくない」が聴けるとは思わなかった。
4)The Cosmic Scene(1958)
 アルバム・タイトルや収録曲「宇宙人」の背景が分かれば興味深い事実があるのかも知れないが、比較的小編成で、ジミー・ハミルトン(cl)、ポール・ゴンザルベス(ts)、クラーク・テリー(tp)らの妙技を楽しめる。こんなにclが前面に出た「A列車」は珍しいのでは。
5)Anatomy Of A Murder(1959)
 ジェームス・スチュアート主演『或る殺人』の映画音楽をエリントンが書いたということらしい。
6)Nutcracker Suite(1960)
 これは可笑しい。チャイコフスキーの『くるみわり人形』のジャズ化である。
7)Piano In The Foreground(1961)
 数少ないであろうエリントンのピアノ・トリオ作品。ミンガス、ローチとの過激な『マネー・ジャングル』もいいが、こちらの方が本来のエリントンの持ち味のような気がする。
8)Together Again(1961)
 ルイ・アームストロングとの共演によるエリントン・ナンバー集。

2012年5月1日火曜日

詩レ入句会(2)出題

 では2回目です。

Ⅰ レトリックの誘惑
 2 詩的レトリックは修辞ではない

 らくださんがいみじくも書かれた「俳句としてはどうなのよ的なもの」、今回はそれで行きましょうか。谷川俊太郎の短い詩を引用したのち、北川透は書きます。

 このような平叙文や慣習化されたことばの在り方とは区別される、詩的なことばの在り方を、先の詩の例から取りだせば、行分け、連構成、 余白、省略(選択)、比喩、多義的な語の使用、繰り返し(リズム)、暗示、助詞や語尾の変化への細心の注意ということになる。むろん、これは詩的なことば の在り方の一部に過ぎないが、これらの総体の関係をわたしは<詩的レトリック=詩的仮構>と呼びたい。詩的レトリックは、詩作品のすべてではないことは当 然だが、しかし、詩と詩でないものとを相対的に区別していることはたしかであろう。

 ここでさらに文章は「俳句や短歌における音数律構成も、詩的レトリックの在り方の一つであり、それは先にも書いたように絶対的な規範であるが」(後略)と続くわけですが、俳人の立場から言えば、音数律構成などというものは、あまりにも絶対的過ぎて、俳句と俳句でないものを区別する尺度として、なんら役に立ちません。

 というわけで出題します。

【俳句】(3~5句くらい)
【俳句でないもの】(3~5句くらい)

投句締切:5月4日(金)24:00(JST)
投句宛先:yukari3434 のあとにアットマークと gmail.com

★整理の都合上、俳句の行には俳句以外の題とか記号とか俳号とか本名とかを書かず左詰で列挙願います。
今回の書式の例

【俳句】
はつなつやこれは俳句に違ひない
鯉幟これは俳句に違ひない
麦秋やこれは俳句に違ひない

【俳句でないもの】
はつなつやこれが俳句のわけがない
鯉幟これが俳句のわけがない
麦秋やこれが俳句のわけがない

 よろしくどうぞ。

2012年4月29日日曜日

詩レ入句会(1)作者発表

ブログでは自句のみ引用します。全貌は掲示板をご覧下さい。

お祝ひの歌に囲まれ風光る          ゆかり
かんたんな名前の街の花水木         ゆかり 令
音階の聞こえる家や大手毬          ゆかり

2012年4月22日日曜日

詩レ入(1)

 そろそろ始動します。

Ⅰ レトリックの誘惑
 1 <思いつき>からはじめて

 そういえば私、かの有名な吉本隆明『言語にとって美とはなにか』を読んだことも手に取ったこともない。ひどいもぐりです。でも朔太郎『詩の原理』は持っている。持っているけど、途中で挫折しました。とりあえず、北川透のいう、

 わたしは《何人にも承認され得る普遍共通の詩の原理》という発想を、前提とする考え方を捨てたい、と思う。

というのを道しるべにして進めて行きたいと思います。

 さて、《ちょっといま思いついたんだけど……》ということで言えば、俳句の技法のいわゆる二物衝撃というのは、かなり思いつきに近いものなのかもしれません。北村透は次のように書いています。

 この場合、ほんとうにふと思いついたということもあるだろうし、<思いつき>を意図的に使うことで、本筋がひそませているいくつかの豊 かな支筋を暗示したり、逆に、本筋そのものをパロディやエピソードにしてしまう、いわば戦術的な<思いつき>話法というものもあるにちがいない。それは一 見、いかにも自然発生的に見えるが、しかし、何かを思いつくこと自体、あるいは思いついたとあえて発語すること自体、その場面が要求するかけひきやら、発 語者の意識の深層にうながされてそうしているのであり、なんの脈絡もなく、ふとこころに浮かんだことを語っているわけではない。

 なんだか、これって二物衝撃そのものじゃんって、くらくらしてきませんか。

 というわけで出題します。

【<思いつき>のような二物衝撃】(3~5句くらい)

 普通の切れ字ではなく「ところで」「さて」などなんでもありです。

投句締切:4月25日(水)24:00(JST)
投句宛先:yukari3434 のあとにアットマークと gmail.com

★整理の都合上、俳句の行には俳句以外の題とか記号とか俳号とか本名とかを
 書かないで下さい。
 また、空白行や題の行を置かず出題順に左詰で列挙願います。

 よろしくどうぞ。
 

2012年4月20日金曜日

七吟歌仙・三月の巻

掲示板で巻いていた歌仙が満尾。

   三月の瞼にいつも故郷かな       ぽぽな
    水平線に及ぶ菜の花         ゆかり
   春風は東でも西でもなくて        なな
    大声を出しタクシー止める      六番町
   月からの使者の行列しづしづと     らくだ
    空を仰ぐは竹伐る翁        まにょん
ウ  バス停の図書館前の霧深し        苑を
    君のヒールが近づいてくる        ぽ
   うちふるへ私はいま霜柱          り
    パイにしようかキッシュにしようか    な
   白亜紀かジュラ紀か知らぬこの地層     町
    スピルバーグの化石もありて       だ
   ともづなは涼しき月の下に解く       ん
    灯火親しむ難問奇問           を
   虫の音の京都の寺に一休み         ぽ
    朝露に濡れスナイドル銃         り
   銀板の写真に映る花一輪          な
    真顔で強くふらここ漕げば        町
ナオ 馬の子は足震はせて立ち上がり       だ
    路上の石に淡き歌声           ん
   ジャケ買ひをして水底に辿りつく      を
    短き夜の胎動はげし           ぽ
   くろぐろと赤方偏移してゐたり       り
    ワ-ムホ-ルを幸子一郎         な
   口ずさむラブ・ミー・ドゥより始まりて   町
    顔が好きだといふプロポーズ       だ
   真夜なれば黄金バットの面つけむ      ん
    たらりとろりと垂れる水飴        を
   代々の秘伝受け継ぐ望の月         ぽ
    夜長を裂ける明子の悲鳴         り
ナウ さはやかに大空翔るビブラ-ト       な
    落下する夢分析されぬ          町
   ゆくりなくフリーズしたるパソコンに    だ
    指の先から暮れる春の日         ん
   ミシン踏む店に吹き寄せ花の屑       を
    鏡の中の女かげろふ           

 


起首:2012年 3月16日(金)
満尾:2012年 4月20日(金)
捌き:ゆかり

2012年4月14日土曜日

詩的レトリック入門句会というのを始める

北川透『詩的レトリック入門』(思潮社、1993年)というたいへん魅力的な本があるのですが、ひとりで読んでいると永遠に読み終わりません。どなたか一緒に読んでくれませんか。で、一節ごとにインスパイアされたもので、ほぼ毎週ここで句会をやります。

 この本、いまや古本でしか手に入らないのですね。目次ですが、こんな感じ。

Ⅰ レトリックの誘惑
Ⅱ 余白論の試み
Ⅲ 詩と散文のあいだで
Ⅳ 詩作品の<語り手>とは--詩・短歌・俳句における<私>
Ⅴ 詩的意味論の試み
Ⅵ 未知の像--詩的比喩論の試み
Ⅶ 反喩の構造--詩的仮構論の試み
Ⅷ 詩的境界について
Ⅸ 詩型論の試み

 で、各章は3~7の節に細分化されています。例えばⅠ章なら

Ⅰ レトリックの誘惑
 1 <思いつき>からはじめて
 2 詩的レトリックは修辞ではない
 3 違犯の関係が価値にかかわる

 で、この節の単位で、逐語的な勉強会ではなく、句会として得たものを還元して行きたいなあ、という構想です。ひとりでもお付き合い頂ければ、さっそく始めます。

2012年4月2日月曜日

実力とは実の力なのだ


Money Jungle



 ミンガスもローチもチャーリー・パーカーの世代に属するので、それ以前の世代の大御所エリントンとの共演というだけで、このアルバム、ずいぶん長いこと敬遠していたのだが、実際に聴いてみると一期一会の大変なアルバムなのだった。鉄槌を下すように強靱なエリントンのピアノのタッチに対し、ミンガスがまるでどこかの民族の撥弦楽器みたいにベースを荒々しくべんべんとかき鳴らして挑みかかり、ローチはローチで激しくあおり立てる。とにかく常軌を逸したパワーのぶつかり合いなのだ。「キャラバン」やタイトルナンバーがぶつかり合い系の最たるもの。一方でエキゾチック極まりない「アフリカの花」の香気はどうだろう。「ソリチュード」などのスロー・バラードも異様にスリリングである。

2012年4月1日日曜日

円熟期の甘美極まりないサウンド



ORIGINAL ALBUM CLASSICS



コロンビアの『サッチ・スウィート・サンダー』、RCAの『極東組曲』、『ビリー・ストレイホーンに捧ぐ』の3枚をセットにした徳用盤。どうせなら1枚目を『ザ・ポピュラー』にしてRCAで固めればいいのにという気もするが、『ザ・ポピュラー』は誰でも持っているという判断だったのかも知れない。いずれにせよ、円熟期のエリントン・オーケストラによる甘美極まりないサウンドを堪能できる。とりわけバラードである。1枚目所収の「ザ・スター・クロスト・ラヴァーズ」(村上春樹の小説にも登場)、2枚目所収の「イスファハン」など、切なくて心臓が破けそうである。名人による万感のソロ、独特の書法によるブルース・フィーリングあふれるアンサンブルが渾然一体となって、無上のしあわせが押し寄せる。3枚目は1967年に亡くなったビリー・ストレイホーンに捧げられた追悼盤で、全編ストレイホーン・ナンバーで固めた入魂の作品。とりわけエリントンの無伴奏ソロによる「蓮の花」が素晴らしい。ベースとサックスの加わる別テイクも味わい深い。

2012年3月27日火曜日

七吟人面歌仙・小面の巻

掲示板で巻いていた歌仙が満尾。

   小面の眼に野火は走りけり      令
    鼻腔におはす春の遺伝子    ゆかり
      皺ほそく鶯餅のつままれて     ぐみ
    うちとけて舌なめらかとなり   銀河
   泣きぼくろ会で予約の月見舟    なむ
    カメラ目線で檸檬を持てば     篠
ウ  口紅を塗つて案山子も人気者   らくだ
    逢ふためすこし額髪を切る     令
   まなうらの冬日さみしく抱きあふ   り
    カイゼル髭の老師見舞ひて     み
   しっとりと美肌手入れに秘訣あり   河
    したり顔その顔がでつかい     む
   銅像の目が死んでゐる夏の月     篠
    鯖買ふ時は鰓をよく見て      だ
   水難の相で水には近寄らず      令
    悪事働く頬白仮面         り
   花の下どくろ埋まると伝へ聞き    み
    涙ぬぐへば顕つ蜃気楼       河
ナオ 描く眉がどんどん太く魚津駅     む
    おちよぼ口から噂広まり      篠
   襟足も刷毛でぬられて舞妓はん    だ
    顔見世に見る祇園一力       令
   鯉口をもてあそびつつ黙しをり    り
    不服にあらずしもぶくれです    み
   超えかねて高き鼻梁のハードルを   河
    アンジェリーナと名乗るくちびる  む
   天からの声は眉間に降りてくる    篠
    こめかみを経てリンパ循環     だ
   十六夜のフェイスブックかmixiか   令
    蚯蚓鳴くとき舌巻く画像      り
ナウ 共喰ひのおかめうどんを夜食とす   み
    耳に親しきおつちやんの笛     河
   掛声を誘ふ写楽の大首絵       む
    横目遣へば光るてふてふ      篠
   そばかすを星座に見立て花篝     だ
    舞ひて謡ひて能面の笑み      み

 

起首:2012年 3月11日(日)
満尾:2012年 3月27日(火)
捌き:ゆかり

2012年3月16日金曜日

五吟歌仙・ゾンビの巻

掲示板で巻いていた歌仙が満尾。

      ゾンビ来て海鼠食うたかたづねけり   まにょん
    はかなき身にも春遠からじ       ゆかり
   それからの一とせの空くもりゐて       令
    ビルの谷間に育つ無花果         苑を
   宵月へひらく店の名さまざまに       なむ
    松茸飯は匂ひ嗅ぐのみ           ん
ウ  三枚におろしたやうな恋の果て        り
    ちぎりてのちのアンニュイな部屋      令
   波音の仏蘭西映画から寄せて         を
    遅々と進まぬ地下の行列          む
   皇帝に仕へし兵馬俑あまた          ん
    さても今宵の満漢全席           り
   噴水の池に月光揺れてをり          令
    ひまはり畑に戦禍の記憶          を
   いつ来ても歯科にヘンリー・マンシーニ    む
    銀のハートを首に垂らせば         ん
   だんだんと花の妖気に眠くなり        り
    壬生念仏の割れる土器           令
ナオ てふてふにふれなば毀れ易からむ       を
    ドア越しに聞く第一志望          む
   講堂の礎石に火炎瓶の痕           ん
    長靴を踏むしなやかなもの         り
   ヨガの姉豹のポーズで息とめる        令
    三千丈の仙人の髭             を
   亡命と称して娑婆へ墜落す          む
    ピサの斜塔に人影見えて          ん
   字で終はる無声映画にやや酔へり       り
    残る暑さの路地裏の町           令
   見上ぐれば物干台に昼の月          を
    二科展に出す油彩百号           む
ナウ アメ横に叩き売られしチョコありて      ん
    失敗作を食べるちちはは          り
   山よりも海よりもよき掘炬燵         令

    仔猫きよとんと此の世を眺め        を
   地震の夜の花爛々と光をり          ん
    海市吐き出すなまぐさの口         む
 


起首:2012年 2月24日(金)
満尾:2012年 3月16日(金)
捌き:ゆかり

2012年3月6日火曜日

九吟歌仙・臘梅の巻

掲示板で巻いていた歌仙が満尾。

   臘梅や天空に聞く水の音       まにょん
    いまだ覚めざる地中に蛙       ゆかり
   耕耘機末黒野をゆき末野ゆき      あとり
    卒論にする中原中也         六番町
   満月をのせて空中ぶらんこは       天気
    絹のリボンを解く足首          恵
ウ  階段を上る少女を待ちつづけ       苑を
    若紫なる君の名を知る         ぐみ
   結婚を前提として付き合つて      らくだ
    思ひ出すこし詰めたトランク       ん
   酔ひつぶれ枕にしては固すぎる       ゆ
    昨日も今日も冬瓜炊いたん        あ
   土星より月を眺むる太田君         町
    議事進行の脇で螻蛄鳴く         気
   電車賃貸してくれろとせがまれて      恵
    屋号かたぶく駅前旅館          を
   真つすぐな幹若くして花満開        み
    散りては集ふ蝌蚪に大小         だ
ナオ 吉原の門をくぐれば春の雨         ん
    濡れの具合を指で確かめ         ゆ
   二階から紙飛行機は南へ          あ
    スッチーの売るグッチとシャネル     町
   猪肉の店とぶらへばココとあり       気
    昼は炬燵で寝る吸血鬼          恵
   首筋の疵を隠すに襟を立て         を
    鼻濁音聴く別れのきはに         あ
   おろおろと金子光晴新橋(ポンヌフ)を   町
    廣之進なら記録すいすい         み
   月光をCD-ROMに焼き付けて      だ
    紅葉映せば玻璃は震へる         ん
ナウ ゆふぐれに猫を抱き上げ冬近し       ゆ
    招かれしゆゑ踏み入る小部屋       気
   たまねぎの女王黒船見給ふと        み

    涙の味は苦くて甘い           を
   マラソンは名残の花を眺めつつ       恵
    生まれし川へのぼる若鮎         だ


起首:2012年 2月 9日(木)
満尾:2012年 3月 6日(火)
捌き:ゆかり

2012年1月28日土曜日

脇起し七吟歌仙・元日の巻

 掲示板で巻いていた歌仙が満尾。

   元日の開くと灯る冷蔵庫     池田澄子
    屠蘇に赤らむ猫型ロボット    ゆかり
   棒読みの論語第一聞こえきて    六番町
    菊のさかりの湯島聖堂     まにょん
   橋ごとに駅どの駅も月の駅      なむ
    霧に消えゆく寝台列車      らくだ
ウ  トレンチの刑事はひとり眉を寄せ   苑を
    まもなく解けるモナリザの謎    ぐみ
   結ばれぬ右と左の山笑ふ        り
    糸をたぐれば公魚たわわ       町
   肝つ玉かあさんがゐる春火燵      ん
    触れなば落ちん出戻りの役      む
   スカーフで隠すゆふべのキスマーク   だ
    もらつた鍵が熱くてならぬ      を
   橋蔵が玉屋とさけぶ川開        み
    遠巻きにして仔猫あつまり      り
   花咲いてビジネスランチ停滞す     町
    遅刻ばかりの春の夜の夢       ん
ナオ むくつけき身に清盛は衣着て      む
    始末に困るてんぷら油        だ
   秋立つもごめんなさいは言へぬまま   を
    シーツの干され菊日和なり      み
   天高く音階練習淀みなし        り
    低い低い椅子バッハ弾くため     町
   穴掘つてキャメラ据えても来ぬ主役   ん
    一夜の伽にお竜参上         む
   もんもんを背負つたをとこは嫌ひだと  だ
    明日で仕舞ひの弁天湯まで      を
   寒月もお化け煙突わすれかね      み
    首くくるにもからくりのあり     り
ナウ ネクタイを夏色にして月曜日      町
    薔薇とワインの定年迎へ       ん
   句読点なき自叙伝を書きあげて     む
    春は名のみの返品の山        だ
   瞑むれば花また花の七重八重      を
    散るひとひらは真白なる蝶      み

起首:2012年 1月 5日(木)
満尾:2012年 1月 28日(土)
捌き:ゆかり

2012年1月9日月曜日

どうでもいいようなことに目をつける着眼点

花束の茎薄暗き虚子忌かな     小野あらた
かき氷味無き場所に行き当たる
嚙むたびに鯛焼きの餡漏れ出しぬ
大きめの犬に嗅がれる遅日かな
人文字の隣と話す残暑かな
鷹去つて双眼鏡のがらんどう

 この人は正統派でめちゃくちゃうまいのではないでしょうか。どうでもいいようなことに目をつける着眼点がじつにある種の俳句的なのです。食べ物の句がやたら多いのはちょっとどうかとも思いますが…。

日脚伸び日脚伸子と名乗りけり  ゆかり

2012年1月8日日曜日

青春性の横溢

歩き出す仔猫あらゆる知へ向けて    福田若之
僕のほかに腐るものもなく西日の部屋
君はセカイの外へ帰省し無色の街

 青春性の横溢としかいいようがない、若々しい句群です。自意識の過剰や挫折(それすらも「あらゆる知」の反復でしかない)のまっただ中を当事者としてぐんぐん貫く、そんなかっこよさに溢れています。
 そんな青春性を俳句として表現するにあたり福田若之は、もはや単純な棒の如きものには飽き足らず、分かち書き、句読点、記号などの技法を手当たり次第に駆使します。

くらげくらげ 触れ合って温かい。痛い。  福田若之
伝説のロックンロール! カンナの、黄!
さくら、ひら  つながりのよわいぼくたち



 もしかするとこの人は俳句というジャンルにはとどまらず、どこかへ行ってしまうのかも知れません。


回春の状なきひとと梅探る ゆかり 

2012年1月7日土曜日

ささやかな幸せ

襟巻となりて獣のまた集ふ 野口る理

 虚子の「襟巻の狐の顔は別に在り」の「うまいこと言った」感が苦手な私としては、「また集ふ」と言いとめた、さらりとしたユーモアがとても好きです。ささやかな幸せはささやかな幸せとして謳歌したいものです。

初夢の途中で眠くなりにけり 野口る理

 まるでそれまで寝ていなかったような、この嘘っぽさ、すごくいいです。

佐保姫や映画館てふ簡易夜 野口る理

 「簡易夜」、辞書を引いても検索しても見あたりません。「簡易宿」を誰かが清記ミスして、それを一同面白がったので決定稿にしてしまったのでしょうか。簡易夜である映画館の外では、折しも佐保姫が春の光をまき散らしているのです。

浴衣脱げば脱ぎ過ぎたやうな気も 野口る理

 破調がとまどいの感じをよく伝えています。言われてみれば、確かに中間がないのです。実に面白い感覚です。


人日のさて注文は全部入り ゆかり

2012年1月6日金曜日

あなた、だいぶ俳句に冒されてますな

戌年の用意二人で川へ行く 岡野泰輔

 戌年という干支が絶妙に可笑しいです。いったい川で何をするというのか。

花冷えや脳の写真のはずかしく 岡野泰輔

 ただの写真ではありますが、脳だけに人に知られたくない思いが写っているようで、はずかしいのでありましょう。「花冷え」がこれまた絶妙によいです。先生に「あなた、だいぶ俳句に冒されてますな」とか言われそう。

世の中に三月十日静かに来る 岡野泰輔

 三月十日といえば、奉天陥落を祝した陸軍記念日を暗転させる東京大空襲の日だったわけですが、いまや三月十一日の前日に過ぎない状況になってしまいました。これから来る三月十日は、どんな日なのか。あの震災以降に作られた句なのか定かではないのですが、印象深い句です。

人日の右脳左脳のありどころ ゆかり

2012年1月5日木曜日

脱ぐ

セーターの脱いだかたちがすでに負け 岡野泰輔

 「かたち」がなんとも可笑しいです。脱いだセーターにふくらみやくびれがそのまま匂い立つように保存されていないと、この人は許せないのです。こんな人に負けだと言われるのは、ちょっとくやしい気がします。

さくら鯛脱いでしまえばそれほどでも 岡野泰輔

 失礼な句です。きっと脱ぐ前は「さくら色したきみが欲しいよ~」と歌っていたのです。

目の前の水着は水を脱ぐところ    岡野泰輔

 水を上がってからが水着の本領で、舐めるような視線にさらされるのだとしたら、まさに「水を脱ぐ」であって、脱ぐことに他ならないのです。これはすばらしい句です。

ぜんぶ脱ぎ氷山の一角とする ゆかり

2012年1月4日水曜日

とても蛇

『アビーロード』のA面の終わりといえば、She's so heavyですが、じっさいのところ、岡野泰輔さんの蛇の句はきらきらしています。

いちばんのきれいなときを蛇でいる 岡野泰輔

 蛇だって発情期には婚姻色に彩られるのでありましょうが、そういうことではなくて、ひとつの生命体の輪廻の中で、いちばんのきれいなときが蛇って、そうとうかなしい性です。ほとんどひらがなの中に一文字だけ「蛇」が漢字という、表記への配慮がこの句を確かなものにしています。

左手は他人のはじまり蛇穴を 岡野泰輔

 「左手は他人のはじまり」と不如意を嘆くようでいて、この季語の斡旋はなにかしら淫靡な悦びのはじまりのようにも思われます。


蛇眠るうへのあたりで毛糸編む ゆかり

2012年1月3日火曜日

何かの間違いで音楽を演奏する不思議

ピアニスト首深く曲げ静かなふきあげ 岡野泰輔

 ビル・エヴァンスの沈潜するバラードを思います。季語なのかエモーションのほとばしりなのかを限定しないように注意深く語を選んだであろう、破調の「ふきあげ」がじつによいです。

秋の夜の指揮者の頭ずーっと観る 岡野泰輔

 前句もそうなのですが、人間のかたちをした人が何かの間違いで音楽を演奏する能力を持っている不思議を、この句も濃厚に感じさせます。

蔦かずら引けば声出るピアニスト 岡野泰輔

 そんな演奏家を山に連れ出し、「弾けば音出る」ではなく「引けば声出る」としてしまったわけですが、根底には演奏家であることへの不思議が鳴り響いていることでしょう。

音楽で食べようなんて思うな蚊 岡野泰輔

 「思うなかれ」であればなんとも照れくさくもある説教になってしまうのですが、この突然の切断。まるで『アビーロード』のA面の終わりではないです蚊。


お別れは下校のあれを春隣 ゆかり

2012年1月2日月曜日

初買ひあまた

ブックオフの半額セールで谷口ジローを多々。『坊ちゃん』の時代シリーズ、文庫では字が小さすぎて、もはや目許不如意につきこのたび大判に買換。『『坊ちゃん』の時代』『秋の舞姫』『かの蒼空に』『明治流星雨』『不機嫌亭漱石』。他に『センセイの鞄』①②、『地球氷解事紀』上下。
 よほどのコレクターがお亡くなりになったのか、ほとんどコンプリートなのではないかと思われるくらい谷口ジローが出ていたのですが、いかに半額セールとはいえ手許不如意につき、このへんで。
 さて、『センセイの鞄』②の巻末に川上弘美さんと谷口ジローさんの対談があって、川上さんがこんなことを言っています。

 コミックスの一巻が出た時に、帯の文章として「こういう話だったんだ! はじめて知った」って書いたんですけど、本当にその通りで、自分が書かなかった動作や隙間や背景が、そこにあらわれていた。同じ中身なのに、新しいものを見せてもらった喜びがあって、本当にお願いしてよかったです。

 これは原作と作画の関係について語っているわけですが、俳句と選とか、俳句と評の関係というのも、俳句というものが本来あまりにもすかすかなので、作者が「こういう句だったんだ! はじめて知った」と感じるようなことが、ままあるのだろうなあ、と暮れから読んでいる『俳コレ』と重ね合わせて思うのでした。

頭部管奥の我が眼を二日かな ゆかり

2012年1月1日日曜日

明けましておめでとうございます。

今年もよろしくお願い致します。

 抱負というほどのこともないのですが、2006年にこのブログを始めた頃に立ち返り、一日一句、わたしにも俳句が書けます風な句を残して行くことにします。

元旦のかに道楽のこはいかに ゆかり