2012年12月29日土曜日

詩レ入句会(8)出題

 すみません、放置しておりました。話が口語自由詩になると、俳句としてはなかなか出題しづらく…。

Ⅱ章 余白論の試み
5 恣意的な余白、口語自由詩(P.070)

 さて、北川透は書きます。(ちょっと長いけど)
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 わが国において、自然主義との深いかかわりで出現した口語自由詩も、むろん、余白を前提にして書かれたが、それはあらかじめ構成されたものではなかっ た。従って自由詩の作者にとって、どこで余白を行かえとしてあらわすかは、彼の自己基準(恣意性)いがいには何もない、といちおうは言える。しかし、その 恣意性そのものを無意識に拘束している規範性がないわけではない。それは一行二十字の四百字詰原稿用紙の存在が暗示している。わたしはこの原稿用紙が、ど のようないきさつによって生まれたのか知らないが、詩人たちの行かえを無意識に規定してきたことは疑えない、と思う。
 そして、それに容易に規定されたということは、一行二十字前後までの範囲で、意味の流れやイメージの表出を切断し、転換することが詩的であること、散文 性をこばむことであるという共同の感性が、いつからか成立していたことを示しているのではないか。それは短歌の三十一音が、上句と下句との分離・連合とし て構成されていること、また、新体詩がおそらくはその短歌の句切れとの対応で、七五調、五七調あるいは七七調などとして、行かえをもったこととも、内的に 関連づけられるだろう。つまり、日本語の表現は二十字以内で、韻律的にも、意味的にも、イメージとしても、切断あるいは転換しなければ、詩として感じられ ないという感性が、古来からつくられてきている……のだ。その意味では、自由詩の行かえ(余白)も、古代における詩の<発生>の余白を引きついでいる、と 言える。
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 じつに興味深い推論であります。ところで(この「ところで」が三島ゆかり的無茶ぶりなわけですが)、字数でいうなら、いわゆる自由律俳句に「長い自由律」と「短い自由律」があることに思いが及びます。

●長い自由律
水鳥水に浮いてゐ夫人はこれにはかなはないと思つてもゐない 中塚一碧楼
大きな湯のそちらに女が居る秋の夜こちらに浸る 荻原井泉水
姉の朝起がつゞいて上野の小鳥の木の芽空 河東碧梧桐
水飲む揚羽、羽を揚げ日の葉日の葉平ら 中村草田男

●短い自由律
鉄鉢の中へも霰 種田山頭火
霜とけ鳥光る 尾崎放哉
陽へ病む 大橋裸木

 こうした自由律俳人たちは、北川透のいう「一行二十字前後までの範囲で、意味の流れやイメージの表出を切断し、転換することが詩的であること、散文性を こばむことであるという共同の感性」の枠の中にいたのか、それと積極的に戦おうとしていたのか。今回は、そういう共同の感性があると仮定して、出題しま す。

●「共同の感性」の中の句(2~3句)
●「共同の感性」の外の句(2~3句)

投稿締切:1月5日(土)24:00(JST)
投稿宛先:yukari3434 のあとにアットマークと gmail.com

 よろしくどうぞ。

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