2016年7月30日土曜日

罠にかかって連れてこられた世界

 嵯峨根鈴子『ラストシーン』(邑書林)は「らん」同人の著者による第三句集。(以前に週刊俳句で「2013落選展を読む」という記事を書かせて頂いた縁で、著者よりご恵送頂きました。ありがとうございます。)例によって、全体の整合性は無視して章ごとに感想を述べて行きたい。
 第一章は「ハタナカ工務店」。章中「さくら蘂降るやハタナカ工務店」があるにはあるが、それに由来して章全体のトーナリティが決定づけられている訳でもなく、意味ありげに置いたかりそめのものだろう。読み始めた早い段階で、「うっ、これは俳句として読もうとすると失敗する」ということに気がつく。何しろ、切れ字とか季語の斡旋とか二物衝撃とかの、およそ俳句として読もうとする手がかりをあっさり無視しているのだ。たった三ページ、わずか六句のうちの三句で「全員のたどりつきたる春の罠」「もう人にもどれぬ春の葱畑」「姿見へ真つ直ぐ入る春の猫」と無造作に「春の…」と置いている。普通ならそんな季語の使い方はしない。罠にかかったとあきらめてまっすぐに鈴子ワールドに入って行こう。もう戻ってこれないかも知れない。

  龍天に上る背中のファスナーを
 「龍は春分にして天に登り、秋分にして淵に潜む」という想像上の季語を用い句に仕立てている。ファスナーであれば下ろす句の方が多そうなものだが、本句では着衣を完成し凜と香気を放つさまを、中国由来の季語で決めている。面白い。
 
  梅雨入まで間のあるカーブミラーの歪み
 「さくら蘂降るやハタナカ工務店」の次に意味ありげに置かれている。最後を「カーブミラーかな」とでもすれば定型に収まるのに、そうしないことに気概を感じる。もっともらしい定型で「俳句」を詠みたいわけでもなければ、ましてや詠嘆したい訳でもない。あの初夏の時間と空間の夥しい浪費の中で放置されそこに存在する、あのカーブミラーの歪みが詠みたいのだ、いや、そのようなものが修理されずに存在することが「ハタナカ工務店」という章の世界観なのだ。

  油照どこで切らうが腥し
 「ハタナカ工務店」はお化け屋敷も手がけるのだろうか。突然「夕立のはじまりさうなお菊井戸」以下「我こそは源頼光氷水」まで四ページにわたり化けもの由来の句が並ぶ。掲句は「汗だくの一心不乱のロクロックビ」と頼光句のあいだに置かれている。ロクロックビを切るにしても土蜘蛛退治をするにしても、いかにも腥そうである。
 
  雁よりもはるかに箸を置かむとす
 だまし絵のようでもあり、遠近感の狂いが心地よい。この辺りまで来ると、完全に罠にかかって連れてこられた鈴子ワールドにはまっている。
 

2016年7月16日土曜日

八個の応募作品として

 山﨑百花『五彩』の第二部は結社内の賞応募作品三十句の八年分。第一部が一ページに二句だったのに対し、第二部は二段組で一段に十句を配し、見開きでタイトルと三十句が見渡せるようになっている。であれば、こちらも八年分をあたかも八個の応募作品として一気に取り扱ってみよう。

●『明日へ』二〇〇七年度
 冒頭の句は「ほとばしるかたちに春の来てゐたり」。「ほとばしる」と言っている傍から「かたちに」と言ってダイナミックな動きをフリーズドライ化するような不思議な持ち味がある。同じような句として黒部ダムの観光放水あたりを詠んだものか「放水の一瞬雲へ夏来る」もある。タイトルは最終句「明日へと汲む若水の豊かさよ」による。ここまでで水の句が二句出てきたが、他に「ほうたるや水の記憶のひとしづく」「水ひそと水の如きとなる寒夜」、さらに「ひとすぢの女滝を守る木の鳥居」「北上川(きたかみ)へ繋がる光天の川」「河豚透ける皿いつぱいの海の青」がある。とはいえ全体が水をテーマにしているようにも感じられず、どこか半端な印象は否めない。「吾も息を吐きつつ畳む鯉幟」のようなさりげない句にこそ実感がある。

●『過客』二〇〇八年度
 タイトルは「過客」。単語としてその言葉を含む句はないが、全体として芭蕉の「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」を踏まえているのだろう。どなたかの死に立ち会った個人的な体験を詠んだ「父子草命終の息吸ひ給ひ」「死に顔へおやすみといふ母子草」に留まらず、生命や輪廻や悠久の時を感じさせる句が並ぶ。すなわち「山笑ふ分子時計の刻む過去」「三界のここより知らず揚雲雀」「黴の花四億年を語り出す」「鞭毛に自立のこころ雲の峰」「花野風琥珀が虫を秘めしとき」などである。ちょっと冒険した感じの「息白しミトコンドリア即イヴの裔」「複製の親娘でありぬ雪女郎」もテーマの中で飄逸な味わいを出している。最終句「水仙や胎内仏の濃き睡り」も胎内仏という珍しい素材ながら、はまるところにはまった感がある。本作品も水の句が非常に多いのだが、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」を思い出すせいか、違和感がない。しかし冒頭の句「ゆらぐてふことを初めに春の水」はこれでいいのだろうか。声に出して読んだときに「チョー」という強い響きがすべてをぶちこわしにしているような気がする。

●『てふてふ』二〇〇九年度
 これは魅力的な句群だ。冒頭の「少年でありし少女期風光る」が一気に読者の関心を掴む。句の配列は異例で、春二句のあと夏秋冬と続いて春五句に戻る。タイトル「てふてふ」を扱った句としては「舞殿に蝶がひとひら義経忌」「コスモスや影の中へと蝶の舌」「凍蝶に五百羅漢の膝ひとつ」「てふてふの妻を争ふ高さかな」があり、かそけさだけではなく多様な蝶の様相を捉えている。また、結句「夕星や春野の歩測止むところ」、中間に現れる「遠き日をとらへて疎なる捕虫網」などは、起句の少年性と呼応したものだろう。三十句の中に「舞殿に蝶がひとひら義経忌」「唖蟬の声は心へ源信忌」「文覚忌女身のごとき和らふそく」と忌日俳句を三句も含めるあたりは趣味の分かれるところであるが、作者には思い入れがあるのだろう。ちなみに源信は平安時代中期の天台宗の僧、文覚は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・真言宗の僧とのことであるが、不勉強な私は忌日以前に人物さえ知らなかった。

●『遠野物語』二〇一〇年度
 これは「遠野物語」を読んだことがあって現地に足を運んだことのある人にしか味わうことはできないだろう。私にはまったく歯が立たなかったが、そういう方面の素養がある方ばかりが想定読者でよいのか、ともやや思う。全体の配列は新年、春夏秋冬の順で、馬が重要な役割を担っている。即ち「てのひらの塩を舐めさせ馬日かな」「仔馬立つことのめでたさ湯を沸かす」「不動尊の守る沢水馬冷す」「こんもりと馬の卵場や秋の暮」「冬北斗曲屋に馬ねむらせて」などであるが、馬そのものではない「天駆ける白馬早池峰薄雪草」「括り桑馬と呼ばれし男はも」も意図的に置かれたものだろう。「胸の上にひらく霊華や夢始」が「三人の女神のはなし」に由来するのであれば、「早池峰へあら玉の日矢あつまれり」「天駆ける白馬早池峰薄雪草」「六角牛山(ろっこうし)なだらかに浮き良夜かな」があるのに、もう一人の姉の女神がもらったという石神山は詠み込まなくていいのか、などとも思うのだが、それはただの門外漢の感想に過ぎない。

●『あめつちの』二〇一一年度
 独吟連句のような趣で何かしら前句と関連を持たせながら句を配列しているようである。冒頭の三句で言えば、「淡雪や光り流れて燃え尽きし」の「光」から導かれ「木の芽山しんと月光菩薩かな」となり、さらに「しんと」から「春の森聞き耳頭巾拾ひたし」という感じである。とはいえ、厳密に連句マナーではないので、「鶏鳴や四囲の山見る外寝人」「身の錆の水に溶けざる涼しさよ」と続いた後で「人体に皮一枚や桃したたる」とまた「人」に戻ったり、さらに五句後に「星飛ぶや人に地上の願ひごと」とまた「人」が出たりする。連句なら避けるべきことであり、そのあたり、連句ではないと承知しつつも、やるなら徹底的にやればいいのにと思わなくもない。表題作の「あめつちのまたあふにある龍の玉」はなにかの掛詞なのかも知れないが、残念ながら私には意味が汲み取れなかった。

●『五彩』二〇一二年度
 三十句中「けり」で終わるもの四句(うち一句は切れ字ではないが…)、「かな」で終わるもの二句、体言止めで終わる句十五句と、ストロングスタイルで勝負に出た感がある。「猫柳銀の光をかへしけり」「五月雨や法然院の白砂壇」「北に虹立ちて北向地蔵尊」「睦まじく秋茜また黄金の穂」「空といふ深淵の色夕月夜」「呼びかける笑顔へ応へ赤い羽根」「新米の色白どかと積まれけり」「白鳥は光を拒む色持てり」など色を題材とした句が散りばめられるが、とりわけタイトル『五彩』を詠み込んだ、最終句「一灯へ集まる雪の五彩かな」は圧巻であろう(これは本句集のタイトルでもある。むべなるかな)。色を題材とした句でないものも「心音の遠のくごとし雛納」「春の雪しづりて水輪重ねあふ」「身支度も技も簡素に鮎を打つ」など、味わい深い佳句が並ぶ。

●『光』二〇一四年度
 「枯蘆を出てより水尾の光りけり」「荒星や夢にも光分かちあひ」「ねぢれ花ひかり捩れてとどきけり」「青嵐や葉裏のひかり明滅し」「草引くや光のなかへ団子虫」「木下闇仰げば光ありにけり」「滴りの光の音となりにけり」「猫じやらし星の光が梳る」「水の面へ律(りち)の調(しらべ)の曳く光」とタイトル通り直接に光を詠み込んだ句が並ぶ。また「明恵忌や阿留辺幾夜宇和(あるべきやうわ)と合掌し」「大空の胎内仏や新芽立つ」「鵙猛る涅槃は寂静也とのみ」「仏眼や澄む水に日矢立ちてをり」など仏教を題材とした句も光との調和の中で目を引く。しかし全体としてどこか散漫な印象も感じられる。

●『水の夢』二〇一五年度
 雫、露、氷、陽炎、雨、…、あるいは水辺の植物である「蘆の角」、水鳥である「鴨」など、ほぼ全句なんらかの形で水の変転と水に縁のある生物を詠み込んでいる。「水の夢」という言葉そのものを詠み込んだ句は見当たらないが、このような変転こそがまさに「水の夢」なのだろう。とはいえ、一句一句が淡白に過ぎるような気がする。

2016年7月14日木曜日

(8) ロボットは俳句を学べるのか

 前号では「ロボットは俳句を読めるのか」を書いた訳だが、ロボットが仮に俳句を読めたとして、ではロボットが実作者として次の自作に役立つ要素を読んだ句から学べるのだろうか。それ以前にそもそも、人間の実作者はどういうプロセスで俳句を学習しているのだろう。

 あるジャズ・ミュージシャンがどこかでジャズについて「いかにフリーだからといって、音階をドレミファソラシドと弾くわけには行かない。ジャズを弾くということは、ジャズのように弾くことなのだ」という意味のことを書いていた記憶がある。俳句だってたぶんそうなのだろう。俳句を詠むということは、俳句のように詠むことなのだ。では俳句のようだ、とは何なのか。じつに悩ましい。

 悩ましいといえば、「はいだんくん」は今のところ人力で語彙と句型を増やし、語彙を句型にランダムに流し込んでいる訳だが、そもそも人間は俳句を学ぶときにそんなやり方を行っているのだろうか。半年前にこのコラムを始めたときに「はいだんくん」に仕込んだ句型には以下の3つが含まれていた。

 ①ララララをリリリと思ふルルルかな
 ②ララララがなくてリリリのルルルかな
 ③ララララのリリララララのルルルルル

これらはそれぞれ「露地裏を夜汽車と思ふ金魚かな 摂津幸彦」「階段が無くて海鼠の日暮かな 橋閒石」「一月の川一月の谷の中 飯田龍太」が元になっている。幸彦句と閒石句は、私にとってかなり近いものだ。露地裏/夜汽車/金魚、階段/海鼠/日暮といった語の運びの意味的な脈絡のなさが、伝統的な「かな」止めの揺るぎない句型に乗って、言い知れぬ詠嘆を感じさせる。分けても、幸彦句の郷愁を帯びた語彙の「と思ふ」による強制的な合体の威力、閒石句の「無くて」がもたらす不在感、不安定さは格別のものだ。一方で、平明な語彙をリフレインで結合した龍太句の永遠性と姿かたちのうつくしさはどうだろう。

 実作者としての私は、これら三句から句型としてのオールマイティな俳句らしさを感じたから、その句型をロボットに取り込んだのだが、一般論として人はそんなふうに句型を学習対象とするのだろうか。また、それはロボットが代替して学習することができるのだろうか。悩みは深まるばかりである。

(『俳壇』2016年8月号(本阿弥書店)初出) 

2016年7月11日月曜日

天体の運行も生命のひとつ

 その他、第一部で一句として惹かれた句を挙げようとすると二十四句ほどあるのだが、ネットにそんなに書いたら句集を手にする楽しみが損なわれるので、あと少しだけ。

昼よりも星にあかるき大花野   百花
七夕や女体に宮といふ宇宙
帰るべき星より光初昔
春の星遙かに水尾を交はし合ふ


 星とか宇宙とかを詠み込んだものを掲げた。二句目、占星術では十二宮という概念があって、乙女座なら処女宮とか、いて座なら人馬宮とか、太陽が通過する時期によって十二分割している。一方で女体には子宮があるので、それを宇宙だと捉えている。生命をミクロ的に捉えたり逆にマクロ的に捉えたりするとき、天体の運行もまた生命のひとつだという思いにとらわれることがある。するとにわかに星が身近に感じられたりするものだが、これらの句からはそんな生命の循環の気分が感じられる。

 ついでながら、あと一句。
 
素十忌の穭は寸を揃へけり    百花

 素十忌は十月四日。なんだかとても素十の雰囲気が感じられるので、素十の穭の句を調べてみたら七句ある。

穭穂に一つ二つの花らしき    素十
穭田は人通らねば泣きに来し
穭田に二本のレール小浜線
吹きなびく御田の穭の青々と
鉱害の穭田水輪夥し
穭田のはしのところに籬して
たゞ刻を惜しむ穭田ひろ/゛\と

しかしどの句も百花句には似ていない。にも関わらずなんだかとても素十の雰囲気が感じられるのは、秋桜子が激しく批判したという「甘草の芽のとびとびのひとならび 素十」あたりの印象によるものか。

2016年7月10日日曜日

見え隠れするあはれ

●スパイラル方式の例
立秋やひと刷けの雲風に透き    百花 秋 時候
朝の月雲の白さとなりて透く       秋 天文
すきとほる雲を仰ぎぬ花水木       春 植物


 先に「色なき風」に言及したわけだが、陰陽五行説云々はどうもあまり関係ないようだ。ごく薄い雲がほどけて青空に溶けて行くイメージが繰り返し詠むべきテーマとしてあって、挑戦し続けているというのが真相なのでは。二句目は月を詠んでいるわけだが、「雲の白さとなりて透く」と言っている以上、雲のヴァリエーションだろう。

春惜しむ身の透く魚はかさなりて     春 時候
白魚の水に尾鰭のあるあはれ       春 動物

 雲と魚のちがいこそあれ、かたちあるもの、いのちあるものが透けて見え隠れすることについて、作者は二句目にあるように「あはれ」を感じずにはいられないのだろう。そこにこそ、「立秋やひと刷けの雲風に透き」を句集全体の巻頭に置いたこと、それも第一部の歳時記構成を春ではなく、わざわざ秋から始めることによってそうしたことの理由があるのではないか。

2016年7月9日土曜日

生命感みなぎるノンセンス

●別の時に詠んだ句が並んだであろう例
おそろしやおそろしや秋のスズメバチ 百花
集団的自衛権あり秋の蜂


 「秋の蜂」というのは角川の合本歳時記だと「秋が深まっても生き残っている蜂。蜜蜂のように成虫のまま越冬する蜂もいる。一般には秋が深まると大方は死んでしまうが、雌の中には生き残って冬を越すものもある」という説明なので弱々しそうな気もするが、百花句においては生存をかけて凶暴化している印象を受ける。ちゃんと調べた訳ではないが、ハチやアリは集団で行動するので、純粋に種の保存をかけて集団的自衛権を行使するのだろう。邪悪で欺瞞に満ちた人間界のそれとは様子が異なるはずだ。

寒卵単細胞は昔から
ミトコンドリアにイブの血の濃さ寒卵


 こちらは遊び心に満ちている。卵といえば何かしら生物学的な言葉を並べたくもなるものだが、「単細胞は昔から」とは身も蓋もない自虐ぶりである。「ミトコンドリア」は高校の生物の授業で習ったはずだが忘れた。「生物のほとんどすべての細胞質中に存在する糸状に並んだ顆粒状構造の細胞小器官」だそうである。それに『創世記』のアダムの肋骨から作られた女イブを配し、しかも季語が「寒卵」だという、生命感がみなぎるものの実際のところ意味の汲み取りようのないノンセンスぶりがじつに可笑しい。

作者自身が楽しんだであろうリシャッフル

 歳時記構成の第一部の話の続き。
 結局のところ、独立した一句一句として読ませるための構成というよりは、作りためた句作について作者の意図を超えてリシャッフルする効果を作者自身が楽しんだということなのかも知れない。本という体裁で最初から読む以上、ひとつひとつの句は隣り合う句から逃れることはできない。たまたま同じ時に詠んだ句が並ぶこともあれば、ぜんぜん違うときに詠んだ句が同じ季節の生活なら生活というだけで隣り合うこともあるし、同じ時に詠んだ句がばらばらに点在してしまうこともある。そうなったらそうなったで、それはスパイラル方式とも言える効果を上げるのではないか。そもそも同じ作者が詠んだ句なので、同じ時に詠んだものでなくても、同じような捉え方(入力系)や同じような詠みぶり(出力系)となることもある。句の配列については、そのくらいのおおらかさで向き合った方がよさそうである。

●たまたま同じ時に詠んだ句が並んだであろう例
悲しみに添へぬかなしみ梨を剝く 百花
有りの実よ死に水のかく甘からん


 俳句というのは不思議なもので、意図せぬところに調べが生まれたりもする。どなたかの死に直面したであろう掲句であるが、「悲しみ」という言葉にはナシという音が含まれていて、「悲しみ」「かなしみ」とリフレインした後に置いた季語によってナシという音を三回繰り返す調べが生まれている。梨は多く果汁を含み「豊水」「幸水」などの品種がある。「死に水のかく甘からん」には万感の思いが感じられる。

眠るなよ春は名のみの津波の夜
停電や春を手探り足さぐり


 東日本大震災を詠んだ句だろう。この二句は時候の句として並んでいて、離れたところに地理の句として「人々を呑むとき黒し春の波」がある。また同じ年ではないのだろうが、行事の句として「被災者へおことば春季皇霊祭」「津波忌や海より生れて星うるむ」がある。最初に読んだときにはこんなに分散しては逆効果だろうと感じたが、なぜ歳時記構成なのだろうと思いながら繰り返し読むうちに、これはこれでいいような気がしてきた。歳時記は必ずしも完璧なものではないが、私たちは古来歳時記とともに俳句で世界を記録してきたのだ。歳時記的な世界のモデルとして、ありなのではないか。

右腕のしびれてきたる涅槃かな
添寝するごとくに涅槃し給へり


 寝釈迦である。母として、また祖母として添寝してきた感慨を重ねている。

歳時記構成のねらい

山﨑百花『五彩』の第一部は歳時記構成。季語レベルで項が立っているわけではないが、季を時候、天文、地理、生活、行事、動物、植物に分け、そのくくりで句を配置している。第二部が三十句✕八年分であることを思えば、第一部は独立した一句一句として読ませるための構成なのかと思ったりもするが、必ずしもそうでもないらしい。例えば冬の時候ではこんな句が並ぶ。

常磐木の小枝にリボン十二月 百花
数へ日の遊び納めがもう一つ
一月や女体は布に芯となり
貝釦七つなないろ春隣


 ここでは明らかに数字を詠み込んだ句を意図的に並べている。であれば、時候、天文、地理、生活、行事、動物、植物に分け、そのくくりで句を配置するねらいは何なのか。そんなことを頭の片隅に読み進める。

2016年7月5日火曜日

完結性、発句性への挑戦

 しばらくブログを思考のパレットとして、描く前の色のかたまりを並べるような使い方をしていなかった。再開してみようかと思う。そんな使い方だから、書き進むうちに結論が変わることも当然あろう。

 手始めは山﨑百花『五彩』(現代俳句協会)(著者よりご恵送頂きました。ありがとうございます)。全体は大きく二部構成に分かれ、第一部は歳時記構成、第二部は結社内の賞応募作品三十句の八年分からなる。
 一読、句尾が「かな」でも「けり」でも名詞でもない句の多さに驚く。定量的に表現すると以下。
 
●第一部 「秋」で
八十五句中
切れ字「かな」で終わる句   七
切れ字「けり」で終わる句   四
その他の用言で終わる句  二十三
副詞で終わる句        〇
助詞で終わる句        九
名詞で終わる句      四十二

●第二部 もっとも新しい二〇一五年作品「水の夢」で
三十句中
切れ字「かな」で終わる句   四
切れ字「けり」で終わる句   一
その他の用言で終わる句   十一
副詞で終わる句        一
名詞で終わる句       十三

 話を極端に単純化すると、句尾が「かな」でも「けり」でも名詞でもないということは、一句の完結性、発句性への挑戦である。例えば第一部「秋」は次の二句で始まる。

  立秋やひと刷けの雲風に透き 百花
  秋立つや曙杉のこずゑより


 連句などやっていると、上五を「や」で切るとつい下五に名詞を置いた完結性の高いものを期待してしまうが、そもそも連句の発句ではないのだから、まったく自在に句尾を解放し屈託を残さない。ちなみに陰陽五行説にもとづき秋に白を配することから秋風を「色なき風」などというが、「ひと刷けの雲風に透き」はそのような伝統も踏まえたものなのだろう。
 
 しばらく、どのように開かれた句が続くのか、見て行こうと思う。

2016年7月2日土曜日

脇起しソネット俳諧・奇麗な風の巻評釈

 例によって評釈というより捌き人の脳内ビジョンです。

●第一連

六月を奇麗な風の吹くことよ       子規

 発句は銀河さんが見つけてきた子規の句。なんともからりとした梅雨晴間のような気持ちのよい句であるが、切れ字もなければひねりもない、オーソドックスな連句の発句にするにはいささか困ったものでもある。これを発句とするのであれば、オーソドックスな連句ではなくもっと風通しのいい形式を選択した方がよいだろう。ということでソネット俳諧とする。ソネット俳諧は十四句を四/四/三/三に分けて四連構成とし、それぞれの連に季節をひとつ割り当て、また連ごとに際立ったカラーを与える。花と月は必ずしも春、秋にこだわらず四連のどこかに入れる。三十六句からなるオーソドックスな連句に比べると半分以下の長さであり、連ごとに際立ったカラーを与えることとも相俟って、ちょっとした措辞が全体に及ぼす影響が大きくシビアな面もある。

 青野の果てはあをき海原       ゆかり

 脇は発句の風が吹き抜ける空間を描いて付ける。夏の季語「青野」からリフレインにより野と海のグラデーションを試みる。

天地を透明体のなにか行く         七

 第三はオーソドックスな連句ではしばしば「て止め」を用い連句としての展開を誘うところであるが、ソネット俳諧では却って煩わしい作法であろう。脇の「青野」「海原」に対し、さらに大きく捉えて「天地」と置き、「青」「あを」のリフレインに対し「透明体」という硬質な言葉で受けている。発句「六月を」に対し「天地を」と助詞を揃えたところが、ソネット的な気分を盛り上げる。

 ショパンの曲のやうにやさしき     銀河

 捌き人から注文を出し、脇「青野の果て」に対し「ショパンの曲」と対句の気分を続けてもらった。前句の「透明体」を雨と捉えたものか(それは語源的に天でもある)、ショパンが導かれている。全体として第一連はきわめて叙景的なイントロダクションとなっている。

●第二連

にはとりを抱ける男と住み始め      桃子

 第二連は第一連とは対照的に極めて人事的な内容で始まる。前句の「やさしき」を受けたものか「にはとりを抱ける男」が登場する。「抱ける」はこの場合「抱くことができる」という可能の意味だろう。「にはとりを抱ける男」が人間にもやさしいかはさだかではないが、とにかくこれは恋の句に違いない。

 芸能記者に気をつける日々       媚庵

 ところがその恋は人に知られてはいけないものだった。ここまで第二連としての季は明示されていない。

情報のやうに名残の雪降りて        り

 ここで「名残の雪」が示され、第二連は春と確定する。ぼたぼたと大きめの春の雪は、あまねく知れわたる破局のように不吉である。

 行方の知れぬ春の野の旅         七

 まだ寒い春の野を当てもなく旅する。全体として第二連は甘く切ない人間界を感じさせる。

●第三連

水分(みくまり)をまもる川面の弓張は   河

 「みくまり」は「水配り」の意。山や滝から流れ出た水が種々の方向に分かれる所。水の分岐点。古事記には天之水分神と国之水分神が登場する。本句ではその水の分岐点の水面を三日月が守っているという。文字通り武器に由来する「弓張」という古語を選んできたあたり、なんとも緊張感を湛える。このようにして第二連の雰囲気から一変する。季としては月なので秋であるが、発句が「六月」なので、ここでは「月」の字を避ける配慮を見せている。

 鏡がはりに立てかけし斧         子

 前句の緊張感を「斧」で引き受け、第三連の雰囲気が決定的になる。「鏡がはり」とはどれほど鋭利に磨き込まれているのだろう。

二股を右へすすめば犬神家         庵

 第三連の雰囲気と「斧」から犬神家が導かれる。「よき、こと、きく」は和の模様のひとつであるが、横溝正史『犬神家の一族』ではそれぞれ斧、琴、菊に見立てた殺人事件が起こる。


●第四連

 三角巾を開くみみづく          子

 前句「二股」から数字つながりで「三角巾」が導かれたのだろうか。第三連の緊張感から一転して人智を超えた癒やしの世界に向かう。季は「みみづく」なので冬。

螺子ゆるみ前頭葉に帰り花         七

 惚けてしまうくらいの癒やしである。まだ花が出ていなかったので、冬の花である「帰り花」としている。

 機械仕掛の神にまかせむ         庵

 前句「螺子」から「機械仕掛」が導かれたものだろう。「機械仕掛の神」といえば、コンピューターに支配された社会を思ったりもする。手塚治虫の『火の鳥』では、二大国のコンピューターが直接対決して核戦争にいたり地球が絶滅の危機に瀕するわけだが、私たちのソネット俳諧は「む」で未来に希望を託して終わる。来年の六月も「奇麗な風」が吹くのだろうか。