2016年7月16日土曜日

八個の応募作品として

 山﨑百花『五彩』の第二部は結社内の賞応募作品三十句の八年分。第一部が一ページに二句だったのに対し、第二部は二段組で一段に十句を配し、見開きでタイトルと三十句が見渡せるようになっている。であれば、こちらも八年分をあたかも八個の応募作品として一気に取り扱ってみよう。

●『明日へ』二〇〇七年度
 冒頭の句は「ほとばしるかたちに春の来てゐたり」。「ほとばしる」と言っている傍から「かたちに」と言ってダイナミックな動きをフリーズドライ化するような不思議な持ち味がある。同じような句として黒部ダムの観光放水あたりを詠んだものか「放水の一瞬雲へ夏来る」もある。タイトルは最終句「明日へと汲む若水の豊かさよ」による。ここまでで水の句が二句出てきたが、他に「ほうたるや水の記憶のひとしづく」「水ひそと水の如きとなる寒夜」、さらに「ひとすぢの女滝を守る木の鳥居」「北上川(きたかみ)へ繋がる光天の川」「河豚透ける皿いつぱいの海の青」がある。とはいえ全体が水をテーマにしているようにも感じられず、どこか半端な印象は否めない。「吾も息を吐きつつ畳む鯉幟」のようなさりげない句にこそ実感がある。

●『過客』二〇〇八年度
 タイトルは「過客」。単語としてその言葉を含む句はないが、全体として芭蕉の「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也」を踏まえているのだろう。どなたかの死に立ち会った個人的な体験を詠んだ「父子草命終の息吸ひ給ひ」「死に顔へおやすみといふ母子草」に留まらず、生命や輪廻や悠久の時を感じさせる句が並ぶ。すなわち「山笑ふ分子時計の刻む過去」「三界のここより知らず揚雲雀」「黴の花四億年を語り出す」「鞭毛に自立のこころ雲の峰」「花野風琥珀が虫を秘めしとき」などである。ちょっと冒険した感じの「息白しミトコンドリア即イヴの裔」「複製の親娘でありぬ雪女郎」もテーマの中で飄逸な味わいを出している。最終句「水仙や胎内仏の濃き睡り」も胎内仏という珍しい素材ながら、はまるところにはまった感がある。本作品も水の句が非常に多いのだが、「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず」を思い出すせいか、違和感がない。しかし冒頭の句「ゆらぐてふことを初めに春の水」はこれでいいのだろうか。声に出して読んだときに「チョー」という強い響きがすべてをぶちこわしにしているような気がする。

●『てふてふ』二〇〇九年度
 これは魅力的な句群だ。冒頭の「少年でありし少女期風光る」が一気に読者の関心を掴む。句の配列は異例で、春二句のあと夏秋冬と続いて春五句に戻る。タイトル「てふてふ」を扱った句としては「舞殿に蝶がひとひら義経忌」「コスモスや影の中へと蝶の舌」「凍蝶に五百羅漢の膝ひとつ」「てふてふの妻を争ふ高さかな」があり、かそけさだけではなく多様な蝶の様相を捉えている。また、結句「夕星や春野の歩測止むところ」、中間に現れる「遠き日をとらへて疎なる捕虫網」などは、起句の少年性と呼応したものだろう。三十句の中に「舞殿に蝶がひとひら義経忌」「唖蟬の声は心へ源信忌」「文覚忌女身のごとき和らふそく」と忌日俳句を三句も含めるあたりは趣味の分かれるところであるが、作者には思い入れがあるのだろう。ちなみに源信は平安時代中期の天台宗の僧、文覚は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武士・真言宗の僧とのことであるが、不勉強な私は忌日以前に人物さえ知らなかった。

●『遠野物語』二〇一〇年度
 これは「遠野物語」を読んだことがあって現地に足を運んだことのある人にしか味わうことはできないだろう。私にはまったく歯が立たなかったが、そういう方面の素養がある方ばかりが想定読者でよいのか、ともやや思う。全体の配列は新年、春夏秋冬の順で、馬が重要な役割を担っている。即ち「てのひらの塩を舐めさせ馬日かな」「仔馬立つことのめでたさ湯を沸かす」「不動尊の守る沢水馬冷す」「こんもりと馬の卵場や秋の暮」「冬北斗曲屋に馬ねむらせて」などであるが、馬そのものではない「天駆ける白馬早池峰薄雪草」「括り桑馬と呼ばれし男はも」も意図的に置かれたものだろう。「胸の上にひらく霊華や夢始」が「三人の女神のはなし」に由来するのであれば、「早池峰へあら玉の日矢あつまれり」「天駆ける白馬早池峰薄雪草」「六角牛山(ろっこうし)なだらかに浮き良夜かな」があるのに、もう一人の姉の女神がもらったという石神山は詠み込まなくていいのか、などとも思うのだが、それはただの門外漢の感想に過ぎない。

●『あめつちの』二〇一一年度
 独吟連句のような趣で何かしら前句と関連を持たせながら句を配列しているようである。冒頭の三句で言えば、「淡雪や光り流れて燃え尽きし」の「光」から導かれ「木の芽山しんと月光菩薩かな」となり、さらに「しんと」から「春の森聞き耳頭巾拾ひたし」という感じである。とはいえ、厳密に連句マナーではないので、「鶏鳴や四囲の山見る外寝人」「身の錆の水に溶けざる涼しさよ」と続いた後で「人体に皮一枚や桃したたる」とまた「人」に戻ったり、さらに五句後に「星飛ぶや人に地上の願ひごと」とまた「人」が出たりする。連句なら避けるべきことであり、そのあたり、連句ではないと承知しつつも、やるなら徹底的にやればいいのにと思わなくもない。表題作の「あめつちのまたあふにある龍の玉」はなにかの掛詞なのかも知れないが、残念ながら私には意味が汲み取れなかった。

●『五彩』二〇一二年度
 三十句中「けり」で終わるもの四句(うち一句は切れ字ではないが…)、「かな」で終わるもの二句、体言止めで終わる句十五句と、ストロングスタイルで勝負に出た感がある。「猫柳銀の光をかへしけり」「五月雨や法然院の白砂壇」「北に虹立ちて北向地蔵尊」「睦まじく秋茜また黄金の穂」「空といふ深淵の色夕月夜」「呼びかける笑顔へ応へ赤い羽根」「新米の色白どかと積まれけり」「白鳥は光を拒む色持てり」など色を題材とした句が散りばめられるが、とりわけタイトル『五彩』を詠み込んだ、最終句「一灯へ集まる雪の五彩かな」は圧巻であろう(これは本句集のタイトルでもある。むべなるかな)。色を題材とした句でないものも「心音の遠のくごとし雛納」「春の雪しづりて水輪重ねあふ」「身支度も技も簡素に鮎を打つ」など、味わい深い佳句が並ぶ。

●『光』二〇一四年度
 「枯蘆を出てより水尾の光りけり」「荒星や夢にも光分かちあひ」「ねぢれ花ひかり捩れてとどきけり」「青嵐や葉裏のひかり明滅し」「草引くや光のなかへ団子虫」「木下闇仰げば光ありにけり」「滴りの光の音となりにけり」「猫じやらし星の光が梳る」「水の面へ律(りち)の調(しらべ)の曳く光」とタイトル通り直接に光を詠み込んだ句が並ぶ。また「明恵忌や阿留辺幾夜宇和(あるべきやうわ)と合掌し」「大空の胎内仏や新芽立つ」「鵙猛る涅槃は寂静也とのみ」「仏眼や澄む水に日矢立ちてをり」など仏教を題材とした句も光との調和の中で目を引く。しかし全体としてどこか散漫な印象も感じられる。

●『水の夢』二〇一五年度
 雫、露、氷、陽炎、雨、…、あるいは水辺の植物である「蘆の角」、水鳥である「鴨」など、ほぼ全句なんらかの形で水の変転と水に縁のある生物を詠み込んでいる。「水の夢」という言葉そのものを詠み込んだ句は見当たらないが、このような変転こそがまさに「水の夢」なのだろう。とはいえ、一句一句が淡白に過ぎるような気がする。

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