2017年4月14日金曜日

(17) ロボットに伝記的事実はあるか

  老人と別れてからの真冬かな

 まずは句会のルーティーンに従って、作者匿名で読んでみよう。「真冬かな」というもの言いは季節の推移を感じさせるので、老人と別れたのは少し前のことだろうとは察しがつく。では「老人」と作中主体の関係は? あるいは「別れる」とは「生き別れ」なのか「死に別れ」なのか? 「生き別れ」であるなら、例えば徒弟制度の厳しさがいやになって飛び出したが社会の厳しさに直面し、いかに自分が師である老人から庇護を受けていたかを思い知らされた「真冬」なのか。また「死に別れ」であるなら、故人の人柄を偲ぶにつけその不在が「真冬」なのか。いずれの読みも可能だし、句そのものが具体的事実を消し去り、読者によってどうとでも受け取れるような作りになっている。句にはとにかく「老人と別れてからの真冬かな」としか書いてないのだ。

 そろそろ作者を明かそう。作者は橋閒石。この句は八十九歳で上梓した第十句集『微光』の最後の句で、句集上梓の数ヶ月後に閒石は他界した。全集には『微光』以後の六五句が載っているものの、掲句が周到に用意された辞世の句と言って差し支えないだろう。句集のタイトル『微光』は集中の「体内も枯山水の微光かな」による。函から出した句集本体は、つや消しの黒の紙張表紙に銀の字でタイトルと作者名をあしらっていて、なんとも生命の薄明かりを感じさせる。また、同じ句集の中には「人も物云う蛋白質に過ぎずと云える春の人」「銀河系のとある酒場のヒヤシンス」といった巨視的な句も見受けられる。

 それらを踏まえて掲句をもう一度見てみよう。すると作中主体は作者の魂で、「老人」とはまもなく捨てることになる人間の肉体なのではないか、という可能性に気づく。そんな間近に迫る魂の「真冬」。いかにも閒石の辞世の句らしいではないか。しかしながら、しつこいようだが、句には「老人と別れてからの真冬かな」としか書いてない。

 「はいだんくん」は連載を進めながら、俳句的思考とともにそのアイデアをロボットに盛り込むという体裁をとっている。「ノート」にバージョンアップの情報を記載しているわけだが、いつしかそのノートが「はいだんくん」の伝記的事実として、それを読むことによりロボットの句の読みが一変してしまう事態に至るのだろうか。

(『俳壇』2017年5月号(本阿弥書店)初出)

2017年3月18日土曜日

不思議としずかな明るさの、幽かなおもむき

 橋閒石『微光』(沖積舎、一九九二年)の最終章Ⅴ。挙句についてだけ書く。
 
  老人と別れてからの真冬かな
 自身が十分老人なのだから、他人のことを「老人」とは呼ばないだろう。ということは、これは自身の肉体が滅びたあとの、さっぱりした魂の存在を仮定して詠んだ句なのではないか。思えば巻頭の句は「春の雪老いたる泥につもりけり」であった。巻頭句において春の雪で消した「老いたる泥」なる肉体と、巻末ではついに別れる。最初から最後まで老いがテーマだったのだ。輪廻する魂は銀河系のとある酒場にもふらりと立ち寄ったりするのだろうか。
 
 あとがきで閒石自身は老いについて以下のように記している。

(前略)さすがに近頃は、忍びよる老いの影の足早なのを意識するようになった。もとよりそれを嘆くいわれはない。むしろしばしば、身も句も共々に、不思議としずかな明るさの、幽かなおもむきを楽しむ折もある。いずれにしても今また一つの、おそらく最後の節目にさしかかってきたことは確かである。

 閒石は本句集を一九九二年八月に刊行後、同年十一月に他界した。その最晩年の「不思議としずかな明るさの、幽かなおもむき」を読者として受け止めたい。

2017年3月17日金曜日

銀河系のとある酒場の…

 橋閒石『微光』(沖積舎、一九九二年)のⅣ。
 
  きさらぎや抛物線また双曲線
 「も」はないが、これも並列たたみ掛けのひとつのバリエーションである。硬い数学用語をふたつ、これもまた硬質な響きを持つ季語と取り合わせて読者に委ねた作りなので、委ねられた読者として読まねばならないのであるが、本格的な春に向かって万物がダイナミックに変化するイメージがこれらの語の取り合わせによって立ち上がらないだろうか。閒石の時代にそんな言葉はなかったかも知れないが、人によっては「板野サーカス」と呼ばれるアニメの演出技法を思い浮かべるかも知れない。

  またひとつ椿が落ちて昏くなる
 「昏くなる」は漢字の用い方により日が暮れて暗くなることだと分かるので、「またひとつ椿が落ちて」と直接的な因果はない。次第に暮れていたのだが、またひとつ椿が落ちてにわかに気がついた、という感じだろうか。「また」が絶妙に効いていて、なんともやるせない老境の時間の流れを感じる。

  銀河系のとある酒場のヒヤシンス
 この句集の中でもっとも知られた句だろう。「とある酒場」はこの地球のものだろうか、それとも銀河系のどこかにパラレルワールドのように存在する生命体のいる惑星に思いを馳せているのだろうか。言い知れぬ寂寥感とともにいま今が過ぎて行く。

  大旱やエンサイクロピディヤブリタニカ
 長い固有名詞と季語だけでできた人を食った句である。ブリタニカ百科事典は1768年創刊で、1994年以降は光ディスクとオンラインでデジタル版が発売され、2010年の第15版を最後に紙媒体での百科事典編纂を取り止めた。この句集が上梓されたのは1992年であるが、すでにデジタル化が話題に上り百科事典の日照りの時代が予見されていたのだろうか。普通エンサイクロペディアと表記するところ、発音に忠実に「エンサイクロピディヤ」としているあたり、思わずにやっとしてしまう。なお、大鑑とか大巻とかの語呂合わせの可能性も捨てきれない。

  夕ずつや揺るるほかなき百合鷗
 語呂合わせといえば、こちらの句ではyuで頭韻を揃えている。「夕ずつ」は宵の明星である金星。ユリカモメは夜間は飛行せず海上を漂うので、事実としてまったく正しいが雅語を駆使して頭韻を揃え、うつくしい句に仕上がっている。
 
  冬空の青き脳死もあるならん
 最近は脳死という言葉が話題になることがあまりないような気がするが、1980年代後半から1990年代にかけては、臓器移植などをめぐる倫理的な観点から関連書籍がいくつも出版され議論がかまびすしかった。そんな中での掲句だろう。生きているのに冬空が青いこともなんにも分からない、それもまた生なのだろうかという感慨だろう。

2017年3月16日木曜日

ラテン語の風格

 橋閒石『微光』(沖積舎、一九九二年)のⅢ。
 
  芹の水言葉となれば濁るなり
 最近俳句界隈で「プレインテキスト」という言葉をよく見かけるのだが、もとより「言葉となれば濁るなり」などと書かれてしまっては二の句が継げないだろう。

  足音がしておのずから草芽ぐむ
 この足音は誰の足音だろう。「おのずから」とあるのだから春をつかさどる存在ないし自然そのものなのではないか。

  さくらさくら少年少女より聰し
 もともとは大学生のサークルなどがやっていた合否確認代行電報の「サクラサク」はすっかり市民権を得て、予備校の広告あたりでも普通に見かける訳だが、この句の場合はどうなんだろう。3/16放送の毎日放送『プレバト』の「車窓には桜つぎこそサクラ咲け 相島一之(夏井いつき添削後)」が頭をよぎる。そういう意味なら、毎年必ず咲くさくらは確かに「少年少女より聰し」だ。
 
  入口も出口もなくて春の昼
 またしても「も」のたたみ掛けであるが、永遠に続くような春昼の気分がよく表れている。

  粽ほどきつつ枕詞のこと
 十七音着地の大破調である。粽寿司のいぐさの紐をほどきながら、ううう、長い、あしひきの山鳥の尾の粽かな…なんてことを思い始めた心の状態を詠んだのだろうか。そう思うと大破調が効いているような気がする。
 
  ラテン語の風格にして夏蜜柑
 これは名句だと思う。木にわんさかなった果実は、まさに南方伝来の風格がある。ところで夏蜜柑の学名はCitrus natsudaidaiといい、後半は日本語そのままである。検索してみると、現在夏蜜柑として知られるものは、江戸時代中期、黒潮に乗って南方から山口県長門市仙崎大日比(青海島)に漂着した文旦系の柑橘の種を地元に住む西本於長が播き育てたのが起源とされ、本来の名称は「夏代々(なつだいだい)」だったが、明治期に上方方面へ出荷する事となった際に、大阪の仲買商人から、名称を「夏蜜柑」に変更するよう言われ、それ以来商品名として命名された「夏みかん」または「夏蜜柑」の名前で広く知れ渡ったらしい。

  水ごころ無くて落葉を掃きいたり
 閒石の句には故事成句のパロディが多い。「魚心あれば水心」は「相手が好意を示せば、こちらも好意を持って対応しようということ」であるが、知るかと落葉を掃いている屈折のし具合が妙に可笑しい。

2017年3月15日水曜日

良夜は月に任せたり

 橋閒石『微光』(沖積舎、一九九二年)のⅡ。今回は順不同で見る。
 
  あかつきの瞳孔や草萌えんとす
 中七の五音目の「や」で切る。しかもその前がなんとも固い語の選択である。視覚器官を「や」で強調し、あかつきに光を知覚するように季節を知覚している。

  蝌蚪の水地球しずかに回るべし
 しずかに回らないと、慣性力で蝌蚪もろとも水がぶっ飛んでしまうのだ…というなんともアホクサな諧謔をしれっと句にまとめている。「べし」が効いている。
  
  郭公の朝の雲形定規かな
 おそらくは「雲形定規」ということばの面白さに導かれてできあがっているのだろう。どんな季語と取り合わせても雲形定規は雲形定規でしかないのだが、郭公の朝の静謐な空気感と、かの製図用具の取り合わせは、これはこれで効いている。
  
  早寝して良夜は月に任せたり
 閒石の晩年の句には独特の老境が感じられるものがいくつもあるが、本句もその類いだろう。「良夜は月に任せたり」の機知がじつによい。
  
  心音もお多福豆も冬うらら
  日輪も氷柱も呼吸始めたり

 
 前章にも「藁しべも円周率も冬至かな」があったが、閒石にとって「も」のたたみ掛けは、まさに自家薬籠中のものだったに違いない。

2017年3月14日火曜日

(16) ロボットが韻を踏む

 すでに前号で予告してしまったようなものだが、音韻の話を書く。

 子音と母音が必ずセットで現れるような日本語において、ましてや俳句において韻など踏んでなんの足しになるのか、という向きもあるかも知れないが、やはり作句においても鑑賞においても、音韻の使われ方に思いを馳せたとき、偶然に導かれることも含め認識を新たにすることはあろう。

  去年今年貫く棒の如きもの       高濱虚子

 この句に含まれる母音oの数は、棒をボオと発音することにすれば、なんと十七音のうちの十一音を占める。この天体の摂理のようなスケールの大きな句の言い知れぬ感じは、もしかすると母音oの多さによってもたらされているのではないか。因果関係を公式化することはできないが、少なくとも無縁ではないのではないか。

  クロイツェル・ソナタ折り鶴凍る夜   浦川聡子

 あるいは「クロイツェル」「折り鶴」「凍る」「夜」と、ru音で脚韻を踏みながら音数が次第に短くなることによってもたらされる(であろう)祈りにも似た切実感。

  海ぞぞぞ水着ひかがみみなみかぜ    田島健一

 あるいは前号にも書いた「水着」「ひかがみ」「みなみかぜ」の頭韻をi音で揃えたmi音の執拗な反復。

 特にここに挙げた浦川句、田島句では音韻先行で思いがけない語の結びつきを達成していると感じられる。いや、注意深く言えば、そのように作者と読者が音韻について価値観を共有する文化圏があるはずだ。

 であれば、そのような文化圏の存在を信じてロボットも韻を踏もうではないか。もっともロボットの場合、もともと思いがけない語の結びつきしかできないのに音韻先行のふりをして、そのような文化圏の読者に句を委ねるわけだけど。

  風花にかざす恋するふたりかな  はいだんくん

(『俳壇』2017年4月号(本阿弥書店)初出)

2017年2月14日火曜日

(15) ロボットが『ただならぬぽ』を読む

 一月に出た田島健一『ただならぬぽ』(ふらんす堂)が面白い。俳句自動生成ロボットはランダムな言葉の衝突が身上だが、そのロボットが嫉妬するくらいランダムだ。ロボットの観点で二句見てみよう。

  翡翠の記録しんじつ詩のながさ   田島健一

 巻頭の一句である。名詞だけを拾うと翡翠・記録・しんじつ・詩・ながさ。これらの名詞にどういう関係があるのだろう。記憶であれば翡翠にもあろうが記憶ではない。記録なのだ。翡翠が記録するのか、それとも人間が翡翠を記録した日記とか写真とかなのか。冒頭から読者を迷宮に引きずり込む謎の語の結合である。そして漢語をひらがな表記しなん
とも人を食った「しんじつ」。これは助詞を省略して「翡翠の記録」の述語になっているのか、あるいは「詩のながさ」に副詞的にかかっているのか。そして「詩のながさ」とは? これらのすべてが読者に委ねられ、田島健一はなにも言っていない。俳句として並べられたランダムな語の連結は自ずと意味を求めて走り出す。これはまさに私が俳句自動生成ロボットでやろうとしていることそのものではないか。あえて散文訳を試みると、翡翠の刹那刹那の輝きに比べると、人間の詩(俳句も含む)のなんと長くてばかばかしいことよ、という感じか。意味ではなくそんな像をうかべる。翡翠といえば霊感に満ちた仙田洋子の句を思い出しておこう。〈父の恋翡翠飛んで母の恋〉

  海ぞぞぞ水着ひかがみみなみかぜ  田島健一

 「ぞぞぞ」に呆然とする。なんということだ。そして「水着」「ひかがみ」「みなみかぜ」と頭韻を母音Iで揃え全体では「み」を五個ぶち込んで調べを作る。助詞は何ひとつない。ただのランダムではなく音韻を手がかりにすること。じつは「はいだんくん」は音を管理していない。「水着」だったら、文字としての漢字二文字の「水着」、それから3音であること、夏の季語であることは管理しているが、「みずぎ」という読みはこれまで管理していなかったのだ。抜本的改修となるが、考えたい。

(『俳壇』2017年3月号(本阿弥書店)初出)

2017年2月13日月曜日

枯山水の微光

 しばらく橋閒石『微光』(沖積舎、一九九二年)を読むことにする。本句集は五章に分かれるが、まずはⅠ。

  春の雪老いたる泥につもりけり

 巻頭の一句である。「春泥」であれば春のぬかるみを指す季語であるが、あえてそうせず「老いたる泥」と詠み、老境の自身を投影させ雪を積もらすことにより消し去った。晩節への思いが感じられる。

  火とならず水ともならず囀れる

 「火とならず水ともならず」は人間のややこしい男女関係を念頭に置いた措辞であろう。

  ほのぼのと芹つむ火宅こそよけれ

 一句置いて、またしても火。「火宅」は仏教で、この世の、汚濁(おじょく)と苦悩に悩まされて安住できないことを、燃えさかる家にたとえた語。現世。娑婆(しゃば)。それを「ほのぼのと芹つむ」と修飾し、係り結びとしている。普通に考えれば形容矛盾であるところに諧謔が感じられる。

  男手がなくて日暮や春の蔵

 いかに老人とはいえ、男性がこのように詠んでいるところがじつに飄逸である。

  ものの影猫となりたる朧かな

 なんだか分からない影にぎくっとすると、ひと呼吸おいて猫の影だと分かる、その間合いを詠んでいる。朧だけに、なんだか分からない妖気が偲ばれる。ちなみにこれを発句として澁谷道、秋山正明と巻いた十八句からなる非懐紙連句『ものの影』が、橋閒石非懐紙連句集『鷺草』(私家版)に収められている。第三までを紹介しておこう。

     ものの影猫となりたる朧かな    閒石
      乾の蔵に匂う沈丁         道
     ならべたる猪口は伊万里の赤絵にて 正明

  人も物云う蛋白質に過ぎずと云える春の人

 ものすごい字余りであるが、中七下五がきちんと定型に収まり着地を決めている。「人」の繰り返し、「云う」「云える」の繰り返しが無限ループ的で、人も物云う蛋白質に過ぎずと云える春の人も物云う蛋白質に過ぎずと云える春の人も物云う蛋白質に過ぎずと云える春の人も物云う蛋白質に過ぎずと云える春の人も物云う蛋白質に過ぎずと云える春の人…と永遠に続きそうな可笑しさがある。

  掻き氷水にもどりし役者かな

 閒石の句にはしばしば慣用句のパロディがある。役者といえば「水もしたたる」だろう。そのパロディだとすれば「掻き氷水にもどりし」は大爆笑ものである。

  噴水にはらわたの無き明るさよ
  
 そりゃあ、ない。

  藁しべも円周率も冬至かな

 無意味だが非の打ちどころがないくらい真実である。だが、無関係なものを並べているようでいて、藁しべの断面も円だし、冬至から地球の公転軌道を思い浮かべ他の二つが導かれたような気もする。

  体内も枯山水の微光かな

 枯山水は、水を用いずに石や白砂で山水を表現した日本式庭園。そのような抽象的な把握は、当然眼前の風物以外にも及ぶだろう。そんな直感がもたらした一句に違いない。ちなみに句集のタイトルは『微光』で、函から出した本体は、つや消しの黒の紙張表紙に銀の字でタイトルと作者名をあしらっている。

  雪山に頬ずりもして老いんかな

 章末の句は、巻頭の句と呼応し雪と老いの取り合わせとなっている。雪に頬ずりをするのではない。雪山である。俳句的なずれ具合と「も」による強意が妄執めいていて、老いの表現としてすさまじい。

2017年2月4日土曜日

野川の春をそそのかす

 清水径子『雨の樹』(角川書店、二〇〇一年)の続きで、IV。

  雪は止んで一月真昼それから

 章の最初の句は6+7+4=17音の破調。四音で打ち切られた「それから」の後に余情がある。

  裏口に帰つてゐたり夏の月
  月のぼるよと二階より声まぼろし
  文学は真実である夏の月
  春の月やさしき人と居る心地
  二階にてもてなす春の月まんまる
  月に濡れ森閑と樹の倒れをる
  寝ころんでしばらく春の月と居る


 「月」を詠んだ句がこの章には多々ある。全体として月にも人格があって、帰っていたりもてなしたりしばらく一緒にいたりする関係のようである。

  白露(はくろ)けふ淋しきものに昼ご飯

 「白露(はくろ)」は二十四節気のひとつで九月七日ごろ。そして「けふ」。暦が進んだだけで「昼ご飯」が痛切に淋しい。ただならぬ吐露である。

  わたくしの電池を替へてみても秋
  もう少し歩き秋風たのしまむ
  どこからか姉来て坐る秋の風


 一句目は飄逸な詠みっぷりであるが、この「秋」はまたしても痛切に淋しい。二句目はそういう秋の風に浸ろうと言っているようである。そして故人である姉がふとどこからか現れる。

  手を入れて野川の春をそそのかす

 「そそのかす」が抜群にすばらしい。この世に生きていて何かをすれば世界が作用する。

  比較的あきらめのよき落椿

 およそ詩のことばとは思えない「比較的」がじつに効いている。

  病みて幾日吹雪くとは胸の中

 章の最後の句は7+5+5=17音。「雪は止んで」に始まり「吹雪く」で終わる。この句は「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る 芭蕉」の裏返しとなっていて、内面が外界をかけ廻るのではなく、内面は内面のまま吹雪いている。人生の最後の句集としてまとめたであろう『雨の樹』は、本句を挙句として終わる。

 

2017年2月3日金曜日

指揮棒によき濃りんどう

 清水径子『雨の樹』(角川書店、二〇〇一年)の続きで、III。
 
  いまものを言へばみぞれが雪になる

 章の最初の句。なんともファンタスティックな心象のものいいである。
 
  かの世から秋の夜長へ参加せり
  お彼岸のをみならはみな蝶であれ
  南風(みなみ)吹きはかなくなれり姉は草
  転生の直後水色野菊かな

 
 彼岸此岸を自在に行き来し、人でないものにさえ転生する自在な句境に達している。
 
  白夕立われも物質音立てる
  いい顔で睡てゐる月の列車かな


 二句目など、擬人法というよりは生命体と非生命体の間をも行き来する趣がある。

  濁世とは四、五日さくらじめりかな

 「濁世」は辞書的には、仏教で、濁り汚れた人間の世。末世。だくせ。それが「さくらじめり」だと言う。「さくらじめり」は辞書にない。辞書にはないが桜蘂を濡らすあの頃の万物に生命をもたらす雨のことだろう。濁世とはまさに生命のみなもとなのだ。

  浅き川なら足濡らす今日虚子忌

 虚子忌の四月八日はまた仏生会。灌仏の行事の故に発想は水に及ぶ。余談となるが「虚子の忌の大浴場に泳ぐなり 辻桃子」もそのひとつだろう。

  夢に見て紅い椿を折りにゆく
  折りとりて指揮棒によき濃りんどう


 いずれも濃い色の花を手折る句だが、「指揮棒によき」は夢というよりも狂気に近い妖しさがある。

  まだ生きてゐるから霜の橋わたる

 章の最後の句は、章の最初の句と呼応する趣がある。どこか口語めいた「いまものを言へば」に対し「まだ生きてゐるから」。「みぞれ」「雪」に対し「霜」。

2017年2月2日木曜日

大字(おおあざ)夏木立

 清水径子『雨の樹』(角川書店、二〇〇一年)の続き。本句集はI~IVの四章からなる。ひとつ前の記事でIの句を見たときには、全体を通じての特徴を把握したかったので敢えて順不同に取り上げたが、IIではなるべく作者が並べた順に取り上げたい。なおこのブログの常で最後まで読み終わる前に書くことを旨とし、序文、跋文、他の方の書かれた文献などは極力読まず伝記的な事実も無視し、ただ書かれた句に沿って読みたい。

  卯の花の一心不乱終りけり
  妄想の花咲く二人静かな
  桐の花半日遊び一日病む


 「…の花」で漢数字を伴った句が三句続く。「一心不乱」と言い「妄想」と言い、花への感情の仮託が続く。また章中、「青空よごす十一月を俯きて」「冬一日腹這ふと死が近く居る」などもあるので、いかに伝記的な事実を無視しようとしても病がちであったことは察しがつく。

  ああああと春のこころの塞ぎをる
  人の亡きあとの牛蒡をささがきに


 倦怠または死と対置する現実として、「牛蒡をささがきに」を持ってきた。料理は生命を維持するための忍耐強い地味な作業であるが、よりによって「牛蒡をささがきに」は絶妙である。

  めんどりはここここといふ夏の花
  華厳とよかなかなも樹も雨あがり


 塞ぎがちな句が並ぶ中で、一転して「ここここ」「かなかな」と続き、気分が上向く。

  左みて右みて遠し鬼薊
  鬼の色少し足りねど鬼薊


 一句目の「遠し」は何が遠いと言っているのだろう。交通標語のような「左みて右みて」からすると道路の向こうに鬼薊があって遠いと言っているようにも思えるが、二句目と並べると、どこか遠くの鬼がいる世界を夢見ているような気もしてきて怖い。
 
  大夕立あとの大字(おおあざ)夏木立
  青痣の榠樝と忍び笑ひせり


 大字は市区町村の区画であるが、それほどまでに大きい夏木立というのが、なんとも飄逸である。そして「大字」の次に「青痣」を並べてみせる。じつに可笑しい。

  落椿見付けられすぐ見捨てられ
  青簾たちまち吾れの無くなれり


 章の最後の二句は、「すぐ」に対し「たちまち」を並べている。ただの青簾なので、現実的には見えなくなるだけだが、この世からの消滅のイメージを重ねているに違いない。

2017年2月1日水曜日

雨の樹

 しばらく清水径子『雨の樹』(角川書店、二〇〇一年)について書く。作者は秋元不死男、永田耕衣に師事、耕衣没後『らん』を創刊。本句集は九十歳で上梓した第四句集。順不同で何句か見てみたい。

  露なんぞ可愛ゆきものが野に満つる

 巻頭句である。「露」は王朝和歌以来はかなきもののたとえに用いられるのが通例であるが、それを「なんぞ可愛ゆきもの」と捉えてみせる。本句により、以後冥界と幾たびも行き来することになる径子ワールドの扉を開ける。

  朝顔はさみしき色をとり出しぬ
  人滲むやうに菫はすみれいろ


 全体に植物あるいは色と取り合わせた句はかなり多い。それを基本的なトーンとして、心象の世界へ出入りするような進行となっている。


  白桔梗よりも古風な撫で殺し
  人間はまたも謝る月の下

  
 「撫で殺し」と言えば「撫で殺す何をはじめの野分かな 三橋敏雄」思い出さない訳にはいかないし、並べられたもう一句は広島の原爆死没者慰霊碑の「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」を踏まえた「あやまちはくりかへします秋の暮 三橋敏雄」をも思い出させる。奥付によればこの句集は二〇〇一年十二月二〇日発行で、三橋敏雄は先立つ同年十二月一日に亡くなった。訃報を聞いて句集に入れることはまず不可能な期間だと思うので、まさに「奇しくも」というところであろう。なおこの年の九月十一日にはアメリカで同時多発テロが起きている。
 とはいえ、社会で起きた事件と結びつけて読む必要もないし、三橋敏雄と結びつける必要もないのかもしれない。径子ワールドにおいて、死はどこかエロスをまとっている。

  亡弟と花を摘みます雪の暮
  あれは父あれも父かと雲の峰


 「亡弟と」の句は「人間は」の句の次で、雪の暮に摘む花などなかろうに故人が現れる妖気を帯びた句となっている。「あれは父」の句はだいぶ離れたところに置かれていて、故人を回想しているというよりは、天上からしきりにお迎えが来る趣である。

  菊といふ名の残菊のにひるかな
  春の野のどこからも見えぼへみあん
  うぐひすやまだ体内のあるこほる


 外来語はひらがなで表記される。一九一一年生まれの作者にとって自然なこととしてそうなのか、特殊な効果を狙ってのことなのかはさだかでない。さだかではないが、「にひる」といい「ぼへみあん」といい「あるこほる」といい、遠く懐かしい青春時代の甘くて切ない響きが感じられる。

  俤のまた吹きすさぶ芍薬忌
  忌のごとし泉にもある生(なま)夕暮


 「芍薬忌」はどなたか作者に近しい方の忌日なのか、架空の誰のでもある忌日の造語なのか。一方、ルビをふられた「生(なま)夕暮」は明らかに造語だろう。こんこんと湧く生命の根源のような泉が、「生(なま)夕暮」の時間帯には忌のようだという。なんという生と死の交錯。

  水の精かかときれいな葦の花 

 前後するが、「忌のごとし」の句の一句前に置かれた句。「葦」は「足」と掛詞になっていて、みずみずしくもなまめかしい。

  枯るるまでさ迷うて居る恋慕とは
  ほととぎす言葉みじかきほど恋し


 九十歳での句集であることにとらわれすぎてはいけないのだろうが、狂おしい。

  梟やこころ病まねど山坂がち
  欲望や都忘れのあたり過ぎ


 単純に狂おしいばかりではない。ヤマ、ヤマと韻を踏み、植物名には原義を掛ける。いろいろな技法が熟成し渾然一体となってあらわれる感がある。

  かの夜から菊の根分けを指図せり
  驢鳴集おぼろの雨戸しめかぬる


 『驢鳴集』は師・永田耕衣の句集。あたかも冥界との通信が途絶えないように雨戸をしめかねている風情がある。

2017年1月25日水曜日

どんどん伸びる犬のひも

 田島健一『ただならぬぽ』(ふらんす堂)の続き。これまでいくつかの特徴を見てきたが、今回はそれ以外も排除しないあっけらかんさについて。

  けむりから京都うまれし桜かな

 この句集には、旧態依然のまったく普通の俳句も排除せず含まれている。掲句は、いくつかの戦乱を経ていま眼前の霞に包まれる京都を詠んで揺るぎない。

  西瓜切る西瓜の上の人影も

 なにかのパロディーではないかとさえ思わせる、手垢にまみれた俳句らしい俳句である。意外なことに『ただならぬぽ』には、このような句も含まれている。

  海みつめ蜜豆みつめ眼が原爆
  戦争やはたらく蛇は笛のよう
  少女基礎的電気通信役務や雪


 「誰か空を」の章に顕著だが、この句集では「ヒトラー」「軍艦」「戦争」「原子炉」などの語が少なからず現れる。掲句は「誰か空を」の章以外から採ったものだが、「海みつめ蜜豆みつめ眼が原爆」「戦争やはたらく蛇は笛のよう」などの句に見られる「原爆」や「戦争」から、作者の社会的な見解は伺い知ることはできない。これらは他のほとんどの句と同様、語と語の衝突に意外性を見出し、その衝突から立ちのぼる意味を作者自身が、骨董でも賞翫するようにして句にまとめる作り方をしているからである。そのような作り方においては、「原爆」も「戦争」もまったく異種の「基礎的電気通信役務」と同じで、素材としての変わった言葉でしかない。ここで、「原爆」や「戦争」を排除するやり方もあろうが、田島健一は敢えてあっけらかんと、そうしない。
 以前このブログで鳥居真里子『月の茗荷』について触れたとき、「昨今、どんどん伸びる犬のひもがおおいに普及していますが、鳥居真里子のことばの操り方は、喩えて言うならその犬のひものような感じです。長いひもの先で、ことばたちにやりたいようにやらせているようです」と書いたが、田島健一も飼っている犬が違うだけで、長いひもであることは同じなのだ。

 『ただならぬぽ』、まだまだ名残惜しいが、この辺で筆を置くこととする。

2017年1月24日火曜日

臥薪嘗胆

 田島健一『ただならぬぽ』(ふらんす堂)の続きで、句型とか口語とかについて。
 句型についていうと、田島健一の句は有季定型の中のかなり自由な立場に位置するということになるだろう。季語についてはざっくり夏なら夏で、その中での初夏、仲夏、晩夏の前後などほとんど気にしていないし、五七五は多くの場合、自在に句またがりされ、それでいて全体で十七音のところに着地し踏みとどまるものが多い。そんな中、口語の句がいくつかある。

  鶴が見たいぞ泥になるまで人間は
  いまも祈るよ音楽の枯野を牛
  流氷動画わたしの言葉ではないの
  菜の花はこのまま出来事になるよ
  戦争したがるド派手なサマーセーターだわ
  クラスメイトは狐火よ信じる鈴


 先に田島健一の句はぜんぜん孤高じゃないと書いたが、そう感じさせる要因のひとつは、これらの句が持つ舌っ足らずな人なつっこさのせいだろう。句集という単位でまとめて田島健一の世界に接する場合、これらは持ち味として賞味されるだろうが、伝統的な句会の場でこれらの句が一句一句の単位で匿名で出されたら、連衆はどう読んだのだろう。一句として立つことを前提として、「甘い」とか「ゆるい」とか酷評を受け続けてきた歴史があったのではないだろうか。

  ただならぬ海月ぽ光追い抜くぽ

 そんななか臥薪嘗胆、田島健一がたどり着いた境地が「ぽ」だったのではないか。そんな気がしてならない。

2017年1月23日月曜日

颱風の眼

 田島健一『ただならぬぽ』(ふらんす堂)の続きで、「見る」とか「眼」への固執について。
 句集全体を通じ「見る」「見える」「見つめる」「ながめる」、あるいはその器官としての「眼」「まなこ」を詠み込んだ句がじつにおびただしい。一般論でいえば、見ているから対象を詠めるのであって「見る」はわざわざ言う必要がなく、そのぶん別のことを表現しましょう、なんて話になりがちなものだが、田島健一の場合はどうか。菅官房長官のように「その批判にはあたらない」「まったく問題ない」と言えるのか。何句か見てみよう。

  玉葱を切るいにしえを直接見る

 玉葱や包丁や俎を「見る」と詠んでいるのであればそれは当然不要であるが、この句で見ると言っているのは「いにしえ」である。「いにしえ」が眼前のものでない以上、まったく問題ない。母にせがんで玉葱を切らせてもらった日、飯盒炊爨の河原、恋人と過ごしたアパートの一室、あるいは小説の一場面。そんな自分の/他人のさまざまないにしえが、玉葱の強烈な匂いとともにまざまざとよみがえる、そんな脳への働きかけのありようを「直接」と言っているのだ。

  枇杷無言雨無言すべてが見える

 目に見えるものとして「枇杷」と「雨」のふたつを挙げ、ことさらに「無言」のリフレインによって聴覚情報がないと言っている。しかもそのうち「枇杷」はもともと音を発するものではない。そこで切れがあり、「すべてが見える」と言っているのだが、この「すべて」が「枇杷」と「雨」のふたつでないことはあきらかである。ここで「見える」と言っているのは、目に見えることではなく、五感を超えて襲ってくる既視感ともいうべきものではなかったか。あるいは「永遠」ともいうべきものではなかったか。

  満月に眼のあり小学校の石

 満月に眼があるなら、満月の光の及ぶところはすべて遮るものなく見えるはずだ。目の前の小学校の校庭の石のような小さいものであっても、はるか彼方の月から見えるはずだ、という科学者のような論理的思考を、俳句の方法で断定している。この眼には全能感がある。

  颱風の眼にいて猫を裏がえす

 困ったことだ。書かれている通りの句のはずなのに、この句集の中に置かれると、「颱風の眼」というあまねく知られた語でさえ、特別な意味を持っているのではないかと思い始めてしまう読者の自分がいる。なんということだ。

2017年1月22日日曜日

なにもない雪のみなみ

 田島健一『ただならぬぽ』(ふらんす堂)の続きで、「ひかり」とか「かがやき」への固執について。
 いったいどれだけ「ひかり」とか「かがやき」の句を句集に入れたのだろう。直接「ひかり」ということばで詠んだ句だけでなく、「虹」とか「晴」とかも含めると相当な数に上る(もちろんたかだか有限個なので数えれば分かるのだが、そんな無粋なことはしない)。さらに「雪」、「白鳥」「鶴」などの白い鳥。方角も印象に残るのは「南」ばかりである(実際に他の方角は一句も句集に入れてないのかもしれないが、確かめるような無粋なことはしない)。

  いなびかり包装の達人といる
  白鳥定食いつまでも聲かがやくよ
  なにもない雪のみなみへつれてゆく


 適当に三句ピックアップしてみた。別の句を取り上げれば別の印象になるのかも知れないが、スピリチュアル俳句になりがちなひかりもの系において、田島健一の句にはあまりその傾向がない。まず孤高性がまったくない。誰かといたり、誰かの声が聞こえたり、誰かを連れて行ったり…。それでいて「包装の達人」からはプレゼントの金銀のシールや花束を包むセロファンなどが想起され、よくぞそんな変な達人といることを句に詠んだものだと思うし、二句目であれば白鳥型遊覧船が運行しているような湖畔のレストランのメニューらしき「白鳥定食」という変なものをよくぞ句にしたものだと思う。そのようにして、気がつくと無意味のディテールの快楽のような世界に読者は連れて行かれ、そしてさらにディテールすらない無意味に連れさられる。それが「なにもない雪のみなみ」という地点だ。

 参考までに橋本多佳子の光の句を紹介しておく。両方よむと田島健一の光の句がどれほど無意味で、それゆえたまらなくいとおしいか気づくはずだ。

2017年1月21日土曜日

周到さを感じさせない無意味

 田島健一『ただならぬぽ』(ふらんす堂)の続き。ひとつ前の記事で「ライトでポップ」と書いた。まったくこの軽さはなんなのだろう。感情からも知性からも自由で、ただそこに無意味なものがなぜだかかっこよく存在する感じ。表紙についても触れようか。シンプルな装丁は、しかしながらひかりの加減で海月のイラストが見え隠れするようになっていて、横書きで配置されたタイトルのフォントがまたポップでありながら、選び抜かれた字体となっている。聞けば「モトヤアポロ」というフォントらしい。句集全体万事がそんな感じで、周到さを感じさせないようにあしらわれている。





 この句集、読んでいるといくつか気がつくことがある。「ひかり」とか「かがやき」への固執。「眼」とか「見る」への固執。特定の季語や語彙への固執。ことばあそびへの固執。かといってそれ以外も排除しないあっけらかんさ。そんなものの偶然で奇跡的な複合体なのではないか。

2017年1月20日金曜日

ことばあそびについて

 田島健一『ただならぬぽ』(ふらんす堂)の続きで、ことばあそびについて。この句集には、ことばあそびからなる句が多々含まれ、句集全体をライトでポップに印象づけることに貢献している。

  海ぞぞぞ水着ひかがみみなみかぜ
 
 「ぞぞぞ」に呆然とする。なんということだ。そして「水着」「ひかがみ」「みなみかぜ」と頭韻を母音iで揃え、「海」も含め全体では「み」を五個ぶち込んで調べを作る。助詞は何ひとつない。語調を整えるというよりは、語調を頼りに予想外の語彙を呼び込むことの快楽があるのではないか。ここでは「ひかがみ」。語調を頼りにでもしなければ、海で水着の人物を詠むのにわざわざ膝の後ろのくぼんでいるところなんて部位は選ばない。「ぞぞぞ」はオノマトペというよりは、「かが」「みみ」という訥弁的な連なりへの呼び込みとして働いているようである。

  ただならぬ海月ぽ光追い抜くぽ

 このような句型で間投詞を選択する際、「よ」とか「ぞ」とか「や」とか迷うのが常であるが、結局どこかで見たような句に落ち着き間投詞としての驚きや詠嘆は薄れてしまう。芭蕉は「切れ字に用ふるときは四十八字皆切れ字なり」と言った。間投詞だって同じではないかと田島健一が考えたかどうかは定かではないが、結果としてただならぬ仕上がりになっている。くらげの表記には「水母」と「海月」があるが、光を追い抜くのであれば断然「海月」だろう。

2017年1月19日木曜日

章のこと

 田島健一『ただならぬぽ』(ふらんす堂)の続きで、章のことを考えてみたい。先に書いたようにこの句集はやたら細分化されている。そこに積極的な意図はあるのか、ないのか。

 「記録しんじつ」と題された章は、次の句からなる。
 
  翡翠の記録しんじつ詩のながさ
  端居してかがやく知恵の杭になる
  玉葱を切るいにしえを直接見る
  口笛のきれいな薔薇の国あるく
  枇杷無言雨無言すべてが見える


 一句目、三句目、五句目から感じることは、言語で書かれているのに言語を自己否定しているような趣である。「詩のながさ」では追いつかず、「直接見る」こと、「無言」なのに「すべてが見える」こと。そして既成の価値を笑い飛ばすように脱力的なひらがなの「しんじつ」「かがやく」「いにしえ」「きれい」「すべて」。どうも章としてこれらの句群は効力を発揮しているようである。

 適当に開く。「揺れている」と題された章は、次の句からなる。

  昼寝より覚めて帆のない船はこぶ
  戦争やはたらく蛇は笛のよう
  虎が蠅みつめる念力でござる
  出航や脳に白夜の大樹あり
  明滅や夕立を少女は絶対
  揺れている硝子の青田道あなた
  紫陽花を仕立てる針と糸のこと
  ひけらかす死のかりそめを明るい雨季
  薔薇を見るあなたが薔薇でない幸せ


 ひとつの句の中で提示されたイメージは、別の句に乱反射して影響を及ぼす。そういう意味では、まさに題のように「揺れている」。二句目の「はたらく」は一句目の「帆のない船はこぶ」の影響を受け三句目の「虎」は二句目の「戦争」の影響を受け四句目は全体が一句目の「帆のない船」の影響を受け五句目の「明滅」は四句目の「白夜」の影響を受け六句目の「あなた」は五句目の「少女」の影響を受け七句目の「仕立てる針と糸」は一句目の「帆」や五句目の「少女」の影響を受け八句目の「死」は二句目の「戦争」の影響を受け「雨季」は五句目の「夕立」の影響を受け九句目の「あなた」は六句目の「あなた」であり、そのようにして章全体が「揺れている」。

2017年1月18日水曜日

翡翠

田島健一『ただならぬぽ』(ふらんす堂)の続き。

  翡翠の記録しんじつ詩のながさ

 巻頭の一句である。名詞だけを拾うと翡翠・記録・しんじつ・詩・ながさ。これらの名詞にどういう関係があるのだろう。記憶であれば翡翠にもあろうが記憶ではない。記録なのだ。翡翠が記録するのか、それとも人間が翡翠を記録した日記とか写真とかなのか。冒頭から読者を迷宮に引きずり込む謎の語の結合である。そして漢語をひらがな表記しなんとも人を食った「しんじつ」。これは助詞を省略して「翡翠の記録」の述語になっているのか、あるいは「詩のながさ」に副詞的にかかっているのか。そして「詩のながさ」とは? これらのすべてが読者に委ねられ、田島健一はなにも言っていない。俳句として並べられたランダムな語の連結は自ずと意味を求めて走り出す。翡翠の刹那刹那の輝きに比べると、人間の伝達手段のなんと間抜けなことよ。意味ではなくそんな像をうかべる。翡翠といえば、霊感に満ちたこの句もこの際思い出しておこう。

  父の恋翡翠飛んで母の恋 仙田洋子

2017年1月17日火曜日

同じ長さの俳句をランダムにつなぎ合わせた、めくるめく世界

 しばらく待望の田島健一第一句集『ただならぬぽ』(ふらんす堂)について書く。
(著者からご恵送頂きました。ありがとうございます。)

 本の厚さからすると三百句くらい収録かと思われるが、章立てが非常に細かく、四十七章に及ぶ。俳句の読者だけを想定した章立てではないのだろう。題のついた一編の現代詩に相当するものが章で、詩の一行一行にあたるものがそれぞれの句であるようでもあり、そうでないようでもあり、一句一句の作風、章内の並べ方はひとこと自在に尽きる。
 思い当たったのはビートルズ『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』の中の一曲、ジョン・レノンが書いた「ビーイング・フォー・ザ・ベネフィット・オブ・ミスター・カイト」だ。サーカスを題材にした歌詞の中、「それにもちろん/馬のヘンリーがワルツを踊ります」(片岡義男訳)とともに曲調が一変、三拍子に転じるのだが、その音響がカラフルを極める(とりわけ1:53以降の後奏)。プロデューサーのジョージ・マーティンは、数々の音色の録音された磁気テープを同じ長さに切ってランダムにつなぎ合わせたというが、田島健一のこの句集は、たまらなくそれを思い出させる。『ただならぬぽ』とは、同じ長さの俳句をランダムにつなぎ合わせた、めくるめく世界なのだ。
 なお、石寒太氏の序文は川端茅舎の句集に寄せた虚子の序文(写真)を踏まえている。


2017年1月16日月曜日

永遠の転校生

 岡田由季『犬の眉』(現代俳句協会)の最後は、「超軽量」。
 
  すこし先の約束をして猫じやらし
 約束の中身については何も触れていない。ただ、まったく平生と変わらぬかのような季語と取り合わせる。だから却って人生の転機となる約束なのではないかと想像がふくらむ。
 
  枯芝に思ふぞんぶん菓子こぼす
 句集全体を通して句の幅としても作中主体の生活態度としても非常に抑制が効いていて、おもいっきり羽目をはずして「やったぜ」という感じのものはほとんど見当たらない。そんな中での「思ふぞんぶん」が「菓子こぼす」であるのがひどく微笑ましい。

  追ふ蝶と追はるる蝶の入れ替はる
  急がぬ日急ぐ毛虫を見てゐたり

 句集全体を通して表面的な作句技法に走る傾向はほとんど感じられないし、むしろそういうことを感じさせないように周到に配慮しているのではないかとも思うのだが、そんな中でのリフレインの二句。

  ひとりだけ言葉の違ふ茄子の紺
 あるいは東京から関西に移り住んだ境遇を籠の中の茄子に託しているのかも知れないが、そんな読みはしない方がいいだろう。これまで見てきたように岡田由季の句は、その場所に初めて立ったような奇妙なずれや、小学生が初めて感じたような違和感を打ち出すことによって、岡田由季ならではの飄逸さに充ち満ちている。たとえていうなら、岡田由季とは永遠の転校生なのだ。

2017年1月15日日曜日

極端に単純化された不動の犬

 岡田由季『犬の眉』(現代俳句協会)の続きで、「ネコ科」。
 
  隣り合ふ家の朝顔似てゐたり
 二つの絵が左右にあって「この絵には違うところが何ヶ所あるでしょう」というのがあるが、岡田由季の句の世界も、よく知っているものがなにか違うものに感じられ始めたり、逆に違うものだったはずのものが同じに見え始めたりするようなところがある。掲句、「そりゃ朝顔なんだから似てるでしょう」と片付けられない佇まいを感じる。
 
  天高し待つときの犬三角に
 私自身は犬を飼ったことがないのだが、これは「おすわり」の姿勢だろう。広がる秋空の下、「三角」とまで極端に単純化された不動の犬の従順さ、飼い主への信頼が胸を打つ。

  ギリシャ語をふたつ覚えて秋の航
 「はい」と「いいえ」だろうかとか、「こんにちは」と「ありがとう」だろうかとか、読者の方で想像がふくらむように仕組まれた「ふたつ」がいい。

  川沿ひは歌はずにゆく聖歌隊
 なんだか現金な聖歌隊である。

2017年1月14日土曜日

(14) 派手なことをやる

 「や」「かな」「けり」などの切れ字を基本とした正統派の句型の中で、句型レベルでなにか派手なことをやろうと考えたとき、まず思い浮かぶのはリフレインではないだろうか。うまく行けば、華麗な調べとともに対象を詠み上げることができる。

 リフレインの名手としては、後藤比奈夫、鷹羽狩行、若い世代では山田露結あたりの名を上げることができる。中でも後藤比奈夫は最初期からリフレインのオンパレードで、ライフワークのようにしてその技法にかけていたことが分かる。何句か、雛形として句型をロボットに取り込む観点から取り上げたい。

  人の世に翳ある限り花に翳    比奈夫

 「翳」という名詞が二回繰り返される。リフレインとしてはシンプルなものだろう。

  老に二時睡蓮に二時来てをりぬ  比奈夫

 単語レベルでは「二時」という名詞が二回繰り返されているが、それだけでなく「老に二時」「睡蓮に二時」という対句表現でゆったりとした調べを獲得している。

  滝道といひて坂道のみならず   比奈夫

 「滝+道」「坂+道」という同じ構造の複合名詞の一部を重ねリフレインとしている。

  蒐めたるフラスコにバラ展の薔薇 比奈夫

 「バラ+展」という複合名詞に、そのかたわれの名詞を重ねリフレインとしている。

  深秋といふは心の深むこと    比奈夫

 音読する限りリフレインとはいえないが、音読みの「深秋」に対し、訓読みの「深む」を重ね、字面としてのリフレインを実現している。日本語の漢字ならではの表現だろう。

 ひとことに「リフレイン」と言っても、名手の技法は多彩で奥が深い。ロボットはいつの日かその境地に達することができるのだろうか、と思うはいだんくんなのであった。

  これは夢これはテレビの冬日かな はいだんくん

(『俳壇』2017年2月号(本阿弥書店)初出)

奇妙なずれの可笑しさ

 岡田由季『犬の眉』(現代俳句協会)の続きで、「好きな鏡」。
 
  菜の花の奥へと家族旅行かな
 日常会話であれば旅行の行き先は鴨川であったり館山であったりだろう。そこへいきなり「菜の花の奥」と置く。岡田由季の句では、しばしば解決すべき因果のレイヤーがずれていてなんとも飄逸な味わいが感じられる。

  拾はれて七日目の亀そつと鳴く
 「亀鳴く」は、歳時記を開けば「実際には亀が鳴くことはなく、情緒的な季語」とされている。そこまでは周知のこととして俳人は腕を競うわけだが、岡田由季は何かと取り合わせるでもなくしれっと「拾はれて七日目の亀」などと嘘のディテールを付け加える。そうとう可笑しい。

  帰国して朝顔市に紛れをり
 まるで犯罪者が潜伏しているようなものいいである。

  百号の絵に夏痩せの影映る
 絵画を鑑賞すべき場所で、絵画ではなくその場所にいる自分を俯瞰して詠んでいる。「マスクして大広告の下にゐる」という句もあるが、「百号の絵」も「大広告」も人間界の意味情報としての機能を失い、宇宙人としてそこに佇む趣となっている。

  要点をまとめて祈る初詣
 前の章に「喪失部分ありて土偶の涼しかり」という句もあったが、「要点」とか「喪失部分」とか、詩的とは言えない実務的な語彙が岡田由季の句の世界にはしばしば入り込んでいて、奇妙なずれが絶妙に可笑しい。

2017年1月13日金曜日

7番センター岡田

 岡田由季『犬の眉』(現代俳句協会)の続きで、「アフリカ」。
 
  大人のみ部屋に残れる三日かな
 正月に親戚が集まると、いとこ同士の子どもばかりで外へ出て行って遊びに興じたりすることがある。それを回想するのではなく、小学生の少女・岡田由季として詠む。前章の「悴んでドッジボールに生き残る」も、あるいは「目覚めては金魚の居場所確かむる」も、小学生の少女・岡田由季が息づいている。

  犬笛の音域に垂れ凌霄花
 凌霄花は校庭のネットなどかなり高いところに垂れているのを見かけるが、それを「犬笛の音域に垂れ」と詠めるのは愛犬家の岡田由季ならではだろう。犬と言えば「敷物のやうな犬ゐる海の家」も楽しい。
 
  秋蝶もゐてセンターの守備範囲
 野球の句では他に「どくだみや一塁ベース踏みなほす」「かなかなや攻守の選手すれ違ふ」「ブルペンの音聞こえ来るクロッカス」「敵側のスタンドにゐてかき氷」があり、どの句もじつにリアリティがある。もしかすると、少女・岡田由季は男子に混じって実際にグラウンドに立っていたのではないだろうか。だとすると句集の最初の章が「一塁ベース」だったのは深い必然性があってのことだったのだ。

2017年1月12日木曜日

あるがままにそこにある感じ

 岡田由季『犬の眉』(現代俳句協会)の続きで、「城へ」。
 
  卒業を小部屋に待つてゐたるなり
  釣堀の通路家鴨と歩きけり
  日の溜まる時代祭の支度部屋
  かなかなや攻守の選手すれ違ふ

  岡田由季の句には、華やかな舞台へ出る前とか、場面交代の奇妙な間合いを詠んだものが少なからずあるような気がする。それも、不安だとか感情が高まるとかの描写ではなく、ただそういう間合いがあるという提示。

  しやぼんだま見送りてから次を吹く
  花水木荷物と別に来る手紙

  これらも奇妙な間合いの仲間かも知れない。

  春日傘立つて見てゐるイルカショー
  百日紅モデルハウスの中二階
  自宅兼事務所のまはり田水沸く

  だからなんだ、ということはほとんど言っていないのに、この場所の提示の面白さは何なんだろう。

  だんだんと案山子の力抜けてくる
  霧の這ふ卓球台の上と下

  なにか、見えるものすべてが力が抜けて、あるがままにそこにある感じ。いいなあ。

2017年1月11日水曜日

七吟歌仙 音楽の巻

掲示板で巻いていた連句が満尾。


   音楽のゆふべ山茶花紅きかな      銀河
    ピアノのやうに眠る山の端     ゆかり
   えんえんと線を引く人そばに来て     七
    ロールシャッハのカード十枚     月犬
   ゆるやかに月浮いてゐる水たまり     恵
    秋刀魚積みたる鉄の甲板       ぐみ
ウ  秋冷の神戸に異人二三人        媚庵
    形見にくれた桃色写真         河
   うつちやりのゆつくり落ちる砂かぶり   り
    身は捨てるもの穴は掘るもの      七
   燐寸擦る東北訛りの男かも        犬
    4Bで描く山に棲む鳥         恵
   来る年の息づかひかと波の音       み
    アトランティスの記憶かすかに     庵
   煩悩をこぼした辺り銀化せる       河
    朝には朝の囀りのあり         り
   お喋りな花飼育する管理人        七
    朧に沈む原発の島           犬
ナオ 海溝の底に生まれて光る虫        恵
    釈迦の御手より糸垂らされて      み
   壁登る動画に見入る美少年        庵
    世の定めなり天守炎上         河
   我々の行き着く先の直方体        り
    引き返すには狭すぎる穴        七
   橇の鈴いま高らかに鳴り渡る       犬
    ハスキー犬の尻尾に打たれ       恵
   穂先より揺れて芒野大波に        み
    ゴッドハンドがつかむ熟れ柿      庵
   ことさらの知恵より硬き石の月      河
    水とけむりと異種婚姻譚        り
ナウ 印画紙を粒子の粗き雪時雨        七
    命と一字旗に染め抜く         犬
   竿竹と重なつてゐる水平線        恵
    天上天下麗うららに          み
   見はるかす視野の限りを花の空      庵
    光かかへてかのしやぼん玉       河

起首:2016年12月22日(木)
満尾:2017年 1月10日(火)
捌き:ゆかり

2017年1月10日火曜日

「あるある感」とはちょっと違う微妙な感じ

 しばらく岡田由季『犬の眉』(現代俳句協会)を読むことにする。著者から2014年夏にご恵送頂いたもので、じつに申し訳ない限りである。内容は六章に分かれほぼ経年順とのこと。章ごとに見て行きたい。まずは「一塁ベース」。章のタイトルをどの句から採ったか、みたいなことは書かないことにしよう。

  美術館上へ上へとゆく晩夏
  朝礼の一人上向く今日の秋
  新生児室の匂ひや星祭
  十月の家庭裁判所の小部屋

 章の中の見開きに並んだ四句である。たまたま開いたページがそうというわけでもなく、岡田由季の句は総じて状況の提示が簡潔にして鮮やかである。なんでこんなにうまく切り取れるんだろう。そんな中で三句目は異質だ。いわゆる二物衝撃の作りとなっていて、新生児室が中心で星祭を取り合わせたようにも、星祭が中心でそこに「新生児室の匂ひ」を感じたようにも取れる。新しい生命と星祭りをめぐる伝説との取り合わせの中で、読者の想像は自在に広がる。

  自動ドアひらくたび散る熱帯魚
  遠足の別々にゐる双子かな

 日常のなかの曰く言い難い違和感を印象深く句に仕立てている。「あるある感」とはちょっと違う微妙な感じ。

  父と子が母のこと言ふプールかな
  人日やどちらか眠るまで話す

 血のかよった人間関係というか、了解しあえる機微というか、そういうものがそのまま句に定着されている。この句の世界、そうとう好きだ。

2017年1月9日月曜日

2017年1月8日日曜日

八年の歳月

 広渡敬雄『間取図』(角川書店)の続きで、平成二十五年。

  餅花や障子明りに赤ん坊
 「障子明り」になんとも言えぬ情感がある。「赤ん坊の眉に機嫌や桃の花」もあるが、これらはいわゆる「お孫ちゃん俳句」なのだろうか。赤ん坊と言えば、第一句集『遠賀川』には「赤ん坊を重(おもし)としたり花筵」というなんとも諧謔に満ちた句があったのが懐かしい。

 続いて平成二十六年。

  はるいちばん等圧線の美しき
 風が強い日は等圧線はぎゅっと混み合うのであったか。理科の授業ではないので鑑賞にそんなことは知る必要はないのだが、いかに風が強いからと言って通常死者が出るようなものではない春一番だからこそののんきさで等圧線のありようを詠んでいる。そんな気分が「はるいちばん」というひらがな表記からも感じられる。ところで、広渡敬雄の句にはあまり学術用語は多用されない気がする(「銀河系」とか「冥王星」とか、あるにはあるが…)。そんな中で掲句の「等圧線」のほか、第二句集『ライカ』にあった「山眠る等高線を緩めつつ」の「等高線」が印象に残る。

  漆黒の切符の裏や三鬼の忌
 近年の切符の裏には、自動改札用の磁気がコーティングされている。よくみかけるものだが、俳句に詠んだものはちょっと思い出せず、「三鬼の忌」との取り合わせも思いがけずすごい。ただの切符なのに、とんでもない闇を抱えてしまったような気がする。

  帽子屋に帽取棒や春深し
 壁一面に陳列してある帽子を指さして「あれ、ちょっとサイズみたいんだけど」とか言って、売り子がひょいと棒で取ってくれたさまを即吟したのだろう。たぶん正式名称なんかじゃない「帽取棒」の音の響きの間抜けな感じが効いている。

  秋茄子の影もむらさき籠の中
 一瞬なにを詠んでいるんだか分からなくなり、十秒くらい考えて了解する。そのくらいの機知が好きだ。

  息吸ふは吐くよりさびし渡り鳥
 ここまで読んできた中でいちばん印象に残った句である。息を吐くことはこれまで生きてきたことの延長で、息を吸うことはこれからの数十秒を生きるための未来へ続く行為である。それがさびしいという。なんという寂寥感だろう。「渡り鳥」が効いている。

 続いて平成二十七年。

  大縄跳び初富士を入れ海を入れ
 なんともめでたい句である。平成二十三年のところで「雪吊のなかにいつもの山があり」という句もあったが、縄を見ると条件反射的に句が浮かぶように自身を訓練したということなのかも知れない。
 
 続いて平成二十八年。
 
  白鳥の背に白鳥の頸の影
 地ではなく白鳥自身の背に頸の影を認めたというちょっとした発見が、俳人にスイッチを入れる。景としてはどうということもないものだが、リフレインを駆使して技巧的な句ができあがる。作句がさがのようである。
 
  箸置きに箸休ませて春の月
 句集全体の挙句である。「箸」のリフレインだけでなく、下五も含めha音で頭韻を揃え、安らかに調子を整えている。句集全体を見通すと、八年の歳月は句をそぎ落とし、淡白さを増していったように思われる。掲句は箸を休めただけで、残りの人生まだまだ俳句を作り句集を出すという宣言だろう。次の句集ではどんな句を読ませてくれるのか楽しみである。

2017年1月7日土曜日

編年体なればこその繰り返し

 広渡敬雄『間取図』(角川書店)の続きで、平成二十四年。
 広渡敬雄はこの年に角川俳句賞を受賞された。「角川俳句賞受賞作品五十句」なんて前書きがあったらどうしようと思ったが、さすがにそんな無粋なことにはならず、淡々と編年体は続く。編年体なればこその、始まりと終わりの対とか、同じ視点の繰り返しなどが読者である私の側に意識され始め興味はふくらむ。花鳥諷詠とはそういうものだ。

  呼笛の紐のくれなゐ猟期果つ
 平成二十三年の句で「おがくづに雪の匂ひや猟期来る」があり(またしても「匂ひ」だ)、それに呼応している。

  リラ冷の大使館より公用車
 平成二十三年の句で「片蔭にゐる公用車地鎮祭」がある。思えば公用車というのは至るところに出没するものだ。

  兜虫ふるさとすでに詩のごとし
 平成二十三年の句で「天牛や詩人のかほとなりて鳴く」がある。奇しくも「詩」は二句とも昆虫と取り合わされる。じつに興味深い。
 
  包帯の白の粗さや蝶の昼
 包帯の白を言うのに「粗さ」といい、蝶と取り合わせている。この蝶は紋白蝶だろうか。まさにそんな白が浮かぶ。

2017年1月6日金曜日

自分史の中の起伏

 広渡敬雄『間取図』(角川書店)の続きで、平成二十三年。

  婿となる青年と酌む年の酒
 句集を編年体でまとめると、世の中の動きとシンクロしたり自分史の中の起伏が入り込んだりする。その年は、広渡敬雄にとってはこのように始まった。さらに読み進めると、ごく簡素な前書きにより平成二十三年は東日本大震災があった年で、ご長女が結婚された年でもあったことが知れる。

  探梅やぽつんと西の空開いて
  料峭や山の容に笹吹かれ

 切れ字「や」を二句引いたのだが、俳諧的な観点からは二句とも句尾がオープンでどうにも立句らしくない。立句とは異なる現代俳句としての玄妙で豊穣な味わいとして捉えるべきなのだろう。たまたま「や」の句を挙げたが、広渡敬雄の句の世界は全体に、季語と季語以外が意味の切れを持つ重層的な作りを避け、平明で分かりやすい持ち味となっている。
 
  引くときの砂の素顔や土用波
 土用波は寄せるときは高く険しい。しかし引くときは、じつはいつもと同じではないか、という句意だろう。「砂の素顔」というあまり見かけない措辞が効いている。

  雪吊のなかにいつもの山があり
 松に昨日まではなかった雪吊が張られたのだろう。三角形をなす縄が目に新しいが、よく見ると中にいつもの山が見える、という三角形が入れ子になったような図形的把握が楽しい。

2017年1月5日木曜日

原風景のむせかえるような匂い

 広渡敬雄『間取図』(角川書店)の続きで、平成二十二年。

  凍滝の中も吹雪いてゐたりけり
 じつに凄絶な光景である。まことに万物は季重なりである。
 
  斑雪野や杉の匂ひの濃くなりぬ
  魚籠動く岩魚の匂ひほとばしり
  有刺鉄線巻いて運ぶや草いきれ
  はるかより山羊の匂ひや秋の空
  飾売藁の匂ひの起ちあがり

 臭覚の句を拾ってみた。広渡敬雄の原風景には、むせかえるような匂いが渦巻いているのだろう。しかし匂いを表現するのに五句中四句が「匂ひ」なのか。日本語においてこの領域の語彙が発展しなかったということなのかも知れないと、やや思う。

  銀河系おぼろ砒素食ふバクテリア
 まず思い出すのは「鐵を食ふ鐵バクテリア鐵の中 三橋敏雄」である。深海で年月をかけて沈没船を蝕むイメージの敏雄句を意識しつつ、天空を取り合わせたものであろうが、固いことばとやわらかいことばを組み合わせた「銀河系おぼろ」はバクテリアの微細なイメージに対して効いていると思う。「銀河系」といえば前作『ライカ』には「青き薔薇活けし瓶あり銀河系」という句もあり、もしかすると広渡敬雄の得意フレーズなのかも知れない。そして「青き薔薇」の句は「銀河系のとある酒場のヒヤシンス 橋閒石」を直接的に思い出させる。どこにもそんなことは書いてないが、分かる人には分かるオマージュなのだろう。

  槍投げの一声西日浴びにけり
 こちらは<能村登四郎先生に「春ひとり槍投げて槍に歩み寄る」の句もあれば>と前書があり、明示的にオマージュである。他界した恩師の句業だけがまだ身近にあり影響を及ぼし続けている感じを捉えたであろう「一声」がじつによい。槍を投げた人ではなく「一声」が西日を浴びているのである。
 
  おまへだったのか狐の剃刀は
 学芸会でおなじみの「ごんぎつね」の台詞を取り込んで、植物名と組み合わせた爆笑の句である(という解説は野暮である)。句集には数句、はめをはずした句を混ぜておくと変化が出て効果的である、というセオリー通りであるところも、なんだか可笑しい。

2017年1月4日水曜日

だって裏山ってこうじゃん

 しばらく広渡敬雄『間取図』(角川書店)について書く。読み終わらないうちに書き始めるのがここのブログの進め方なので、変なことになるかも知れないが、そのときどきで心に起こったことをカワウソが魚を並べるように広げたい。『間取図』は著者の第三句集にあたるが、先行する『遠賀川』『ライカ』については以前にこのブログでも触れており、その縁もあって今回ご恵送頂いた(ありがとうございます)。
 さて、『間取図』は平成二十一年から二十八年までの句を編年体で並べていて、途中平成二十四年には角川賞を受賞されている。そこがなにかの転機になっているのか、我が道を行くでなにも変わらないのか、その辺りが読み進める上での楽しみといえば楽しみだろう(予想ではなにも変わらないほうに50ユーロ)。まずは平成二十一年から。

  輪飾の艇庫より空始まりぬ
 日頃は無造作にしかし大切に舟が積まれ、なんの飾り気もない佇まいの艇庫であるが、正月だけは一年の安全を祈念して輪飾りがある。その薄暗がりの向こうに新年の空が明けて行く。巻頭にふさわしい淑気が感じられる句だと思う。

  裏山にこゑ吸はれゆく鬼やらひ
 どの句に代表させてもいいのだが、なにを句に詠むかを探す底に原風景への信頼というのがあると思う。子どもの頃、見たり聞いたり嗅いだりしたあの空気感。それを今現在目の前にある景色やものが、持っているということ。「だって裏山ってこうじゃん」としかいいようのない感じをそのまま句に定着させる確かさ。ノスタルジーとかレトロだとか名付けると、きっと壊れてしまう「感じ」なのだけど…。

  蛇ゆきし草ゆつくりと立ち上がり
 同じことは俳人としてのキャリアの中での原風景についても言えるのかも知れない。「だって俳句ってこうじゃん」としかいいようのない感じ。

2017年1月3日火曜日

歌仙

かの伝説の石川淳、丸谷才一、大岡信、安東次男『歌仙』(青土社 1981年)を購入。


かの伝説の栞(クリックすると多少大きくなります)。







2017年1月2日月曜日

あらゆる手段を使ってでも

 嵯峨根鈴子『ラストシーン』(邑書林)、第五章は「ラストシーン」。前章について「暴れどころはまだまだ続く」と書いたのは、俳諧の名残裏のように最後にはまともなものに戻って大団円という期待があってのことだったのだが、じつは最終章も暴れどころのままなのだった。いや、古典的な交響曲のように最大の暴れどころを最後に持ってきた、というべきか。『あしたのジョー』の最後のホセ・メンドーサ戦でコンニャク戦法やトリプル・クロス・カウンターを繰り出す矢吹丈のように嵯峨根鈴子が技を尽くす。
 
  老鶯のこゑ飴色となりにけり
  言語からはがれてあげはてふのだつぴ


 章頭、「老鶯の」はじつにオーソドックスにして手練れの一句である。飴色と形容された老鶯のこゑは、想像するだに楽しい。それに対し二句目の転じぶりはどうだろう。とりわけ平仮名表記の「だつぴ」。「言語からはがれて」とあるが、もはや意味の世界ではない、書かれた文字の快楽が暴走している。

  テロップのもしもしこちら蛍です。
  図に乗るな方舟は泥舟だ・母
  かまきりの振り向けば、だが、首が無い


 書かれた文字の快楽の暴走といえば、俳句ではあまり使わない「。」「・」「、」の使用もそれに該当するだろう。余談ながら、句読点に関していえば「雷雨です。以上、西陣からでした 中原幸子」の衝撃が私にはずっと忘れられない。

  昼からは姉のかたちになめくじり
  おとうとを薄めてみどりのソーダ水


 先の「図に乗るな」句の母といい、掲句の「姉」「おとうと」といい、作中の家族はまったく架空のもので自在にすがたかたちを変える。

  赤チンを塗つて折笠美秋より淋し
  車谷長吉といふしたたれり


 家族ばかりではない。この際、何でもありで総動員である。車谷長吉とくれば、何句か前にあった「かぶとむしガラス隔てて触れにけり」のかぶとむしの名は武蔵丸だったのか、などとこちらの脳が書かれていないことについ共振する。

  瑠璃揚羽あゝ背後よりブラックホール
  月見草マリアもすなるわるさかな


 総動員は本歌取りに及ぶ。「太古よりあゝ背後よりレエンコート 攝津幸彦」「男もすなる日記といふものを… 紀貫之」…。

 たぶん読者の私がうかつなだけで、他にも仕掛けはいっぱいあるのだろう。さて、このように技を繰り出して終楽章を駆け抜け、作者はどこへ行こうとしているのか。句集のタイトルとなった句を見てみよう。
 
  蜘蛛はクモの仕事に励むラストシーン

 実際に何かのドラマのラストシーンだったのであろうが、いかにもお約束のモンタージュで、一抹の不吉さの象徴としてドラマ本編と取り合わされるべき蜘蛛は、蜘蛛の仕事をしていなければ絵にならない。二物衝撃の本質は、取り合わされたもの同士が等価であることだから、蜘蛛の仕事をしていなければ絵にならないのと同様に、ドラマ本編もドラマ本編の仕事をしなければならない。ひるがえって俳句を見渡せば、季語の仕事に励む季語と、季語以外の仕事に励む季語以外のあまりにも類型的な堆積また堆積。そんな世界から、嵯峨根鈴子はあらゆる手段を使ってでも脱出しようと試みたのではないか。そんな気がする。

2017年1月1日日曜日

俳句の行動展示

 嵯峨根鈴子『ラストシーン』(邑書林)、第四章は「小火」。暴れどころはまだまだ続く。身も蓋もない言い方をすればADHD(注意欠陥多動性障害)的とも感じられるが、作者の意図は「俳句の行動展示」にあるのではないか。行動展示とは旭山動物園などで広く知られるようになった手法で、動物の姿形を見せることに主眼を置いた「形態展示」ではなく、行動や生活を見せるものである。動物の場合であれば、ペンギンのプールに水中トンネルを設ける、ライオンやトラが自然に近い環境の中を自由に動き回れるようにするなど、動物たちが動き、泳ぎ、飛ぶ姿を間近で見られる施設造りを行うわけだが、俳句だとどういうことになるのか。
 これが「俳人」の行動展示なら話は別で、極度にショーアップされたかたちに句会をイベント化した人々の功績も知らない訳ではない。それはさておき、いま語りたいのは「俳句」の行動展示だ。これは難しい。俳句は生まれたところで一度死んでいるからだ。一度死んだものを、あたかも生きているように、読者が旭山動物園にいるかのように見せるにはどうすればいいか。それこそ小火でも起こしてパニックの中を走り回って見せればいいのか。
 
  薄翅かげろふ黒の秘密を舐めてより
  なにも決まらぬ松葉牡丹の会議かな
  校長のまむし酒なら知つてゐる
  脱皮せぬと決めたる蛇の自爆かな

 形態展示だとしたら一句一句に大した意味があるとは思えない。そうではなく、圧倒的な速度で迫り来る句を見切り、耳や肘をわずかに動かしてはかいくぐって前に進むイメージ。「秘密」→「会議」→「校長」、「まむし酒」→「脱皮」と連想が高速に推移しては自爆する。
 
  かはほりのこれ以上愛せぬ総身
  これまでと抛り込んだる銀の匙
  あちらではミカド揚羽を見たのが最期

 かと思うと、突然の指示代名詞の連鎖。そうとう切羽詰まっている。

  金魚田のつまりさびしい水なのか
  へうたんやすなはちすぐにすねる癖
  ユニクロのつまりどこにでもある小火

 これはばらばらに置かれた句。「つまり」や「すなはち」は先を急ぐための加速スイッチとして機能している。

  石灼けて帰るとすればこの半島
  死線まで辿ればみみず鳴く界隈
  折鶴を展けばみんな楽になり
  戻れなくなれば綿虫放つかな
  命綱引けば一気にひこばゆる

 これらもばらばらに置かれた句。仮定法であったり因果であったりする句型であるが、破壊や生死の境を条件として提示し、理不尽なファンタジーを放射する手法である。

  ろんろんと水湧き牡丹崩れさう
  ボサノバの夜がくすくすほうせんくわ
  逃げ水やむりよくむりよくと嚙む駱駝

 これらもばらばらに置かれた独特なオノマトペの句。「ろんろんと」は章頭の句である。その後上述のように加速されまくっているところで舐めきったように出現する「くすくす」や「むりよくむりよくと」は、どこか手塚治虫の漫画に出てくるヒョウタンツギのようでもある。

  龍天にのぼる放屁のうすみどり
 第一章にあった「龍天に上る背中のファスナーを」のリプライズにより、ようやくこの章は終わる。