2017年1月8日日曜日

八年の歳月

 広渡敬雄『間取図』(角川書店)の続きで、平成二十五年。

  餅花や障子明りに赤ん坊
 「障子明り」になんとも言えぬ情感がある。「赤ん坊の眉に機嫌や桃の花」もあるが、これらはいわゆる「お孫ちゃん俳句」なのだろうか。赤ん坊と言えば、第一句集『遠賀川』には「赤ん坊を重(おもし)としたり花筵」というなんとも諧謔に満ちた句があったのが懐かしい。

 続いて平成二十六年。

  はるいちばん等圧線の美しき
 風が強い日は等圧線はぎゅっと混み合うのであったか。理科の授業ではないので鑑賞にそんなことは知る必要はないのだが、いかに風が強いからと言って通常死者が出るようなものではない春一番だからこそののんきさで等圧線のありようを詠んでいる。そんな気分が「はるいちばん」というひらがな表記からも感じられる。ところで、広渡敬雄の句にはあまり学術用語は多用されない気がする(「銀河系」とか「冥王星」とか、あるにはあるが…)。そんな中で掲句の「等圧線」のほか、第二句集『ライカ』にあった「山眠る等高線を緩めつつ」の「等高線」が印象に残る。

  漆黒の切符の裏や三鬼の忌
 近年の切符の裏には、自動改札用の磁気がコーティングされている。よくみかけるものだが、俳句に詠んだものはちょっと思い出せず、「三鬼の忌」との取り合わせも思いがけずすごい。ただの切符なのに、とんでもない闇を抱えてしまったような気がする。

  帽子屋に帽取棒や春深し
 壁一面に陳列してある帽子を指さして「あれ、ちょっとサイズみたいんだけど」とか言って、売り子がひょいと棒で取ってくれたさまを即吟したのだろう。たぶん正式名称なんかじゃない「帽取棒」の音の響きの間抜けな感じが効いている。

  秋茄子の影もむらさき籠の中
 一瞬なにを詠んでいるんだか分からなくなり、十秒くらい考えて了解する。そのくらいの機知が好きだ。

  息吸ふは吐くよりさびし渡り鳥
 ここまで読んできた中でいちばん印象に残った句である。息を吐くことはこれまで生きてきたことの延長で、息を吸うことはこれからの数十秒を生きるための未来へ続く行為である。それがさびしいという。なんという寂寥感だろう。「渡り鳥」が効いている。

 続いて平成二十七年。

  大縄跳び初富士を入れ海を入れ
 なんともめでたい句である。平成二十三年のところで「雪吊のなかにいつもの山があり」という句もあったが、縄を見ると条件反射的に句が浮かぶように自身を訓練したということなのかも知れない。
 
 続いて平成二十八年。
 
  白鳥の背に白鳥の頸の影
 地ではなく白鳥自身の背に頸の影を認めたというちょっとした発見が、俳人にスイッチを入れる。景としてはどうということもないものだが、リフレインを駆使して技巧的な句ができあがる。作句がさがのようである。
 
  箸置きに箸休ませて春の月
 句集全体の挙句である。「箸」のリフレインだけでなく、下五も含めha音で頭韻を揃え、安らかに調子を整えている。句集全体を見通すと、八年の歳月は句をそぎ落とし、淡白さを増していったように思われる。掲句は箸を休めただけで、残りの人生まだまだ俳句を作り句集を出すという宣言だろう。次の句集ではどんな句を読ませてくれるのか楽しみである。

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