2017年1月14日土曜日

奇妙なずれの可笑しさ

 岡田由季『犬の眉』(現代俳句協会)の続きで、「好きな鏡」。
 
  菜の花の奥へと家族旅行かな
 日常会話であれば旅行の行き先は鴨川であったり館山であったりだろう。そこへいきなり「菜の花の奥」と置く。岡田由季の句では、しばしば解決すべき因果のレイヤーがずれていてなんとも飄逸な味わいが感じられる。

  拾はれて七日目の亀そつと鳴く
 「亀鳴く」は、歳時記を開けば「実際には亀が鳴くことはなく、情緒的な季語」とされている。そこまでは周知のこととして俳人は腕を競うわけだが、岡田由季は何かと取り合わせるでもなくしれっと「拾はれて七日目の亀」などと嘘のディテールを付け加える。そうとう可笑しい。

  帰国して朝顔市に紛れをり
 まるで犯罪者が潜伏しているようなものいいである。

  百号の絵に夏痩せの影映る
 絵画を鑑賞すべき場所で、絵画ではなくその場所にいる自分を俯瞰して詠んでいる。「マスクして大広告の下にゐる」という句もあるが、「百号の絵」も「大広告」も人間界の意味情報としての機能を失い、宇宙人としてそこに佇む趣となっている。

  要点をまとめて祈る初詣
 前の章に「喪失部分ありて土偶の涼しかり」という句もあったが、「要点」とか「喪失部分」とか、詩的とは言えない実務的な語彙が岡田由季の句の世界にはしばしば入り込んでいて、奇妙なずれが絶妙に可笑しい。

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