2017年2月12日日曜日

『鏡』二十二号を読む

  
  顔面を西日のなかに美中年     佐藤文香
 強打したり神経痛になったりするときに使うような「顔面」という言いっぷりと、「美少年」なら聞いたことがあるけどと?が駆けめぐる「美中年」の組み合わせが絶妙に可笑しい。
  
  アルゼンチンタンゴの脚や曼珠沙華 羽田野令
 曼珠沙華という植物はほんとうに不思議なもので、毎年秋の彼岸頃、急激に花茎が成長して花を咲かせる。一抹の不安をも感じさせる華麗な花と、細く長い花茎のアンバランス。タンゴダンサーの赤いドレスのスリットからあらわに覗く脚に連想が飛躍する。植物自体を即物的に捉えると、同じ号の「ふいに現れ茎すくすくと曼珠沙華 谷雅子」となる。
  
  かなしかなし十字懸垂秋澄めり   谷 雅子
 どこかイエス・キリストの十字架を思わせるのか「かなしかなし」と重ね詠嘆する過剰な出だしに対し、下五「秋澄めり」でぴっしりと着地を決めている。
  
  儚さは蜉蝣の名のつきしより    八田夕刈
 「分かる」とは本来「そのものを他と区別できる」ということが転じて「理解できる」という意味で普通に使われるようになった、と、どこかで読んだことがある。私たちの目の前にある蜉蝣はただの物体ではなく、名付けられることにより他と区別され、文化を身にまとった存在である。そのようにして蜉蝣は儚い。
  
  家々の天井裏の夜長かな      八田夕刈
 「天袋よりおぼろ夜をとり出しぬ 八田木枯」が頭をよぎるが、掲句は「家々」と複数であるのが面白い。どの家にもそれぞれの天井裏がある。築五十五年の我が家は夜ごと鼠が駆け回るし、集合住宅の人にとっては天井裏は上の世帯の床下なので、別の思いがあることだろう。そんな家々である。
  
  右利きの手暗がりなる秋深し    八田夕刈
 状況は分からないが、左利きのためにしつらえられた空間にいて、その空間の主を偲んでいるのかも知れない。「秋深し」に寂寥感がある。
  
  塩味の生物を切る夏料理      東 直子
 何とは言わずに「塩味の生物」と詠んでいる。料理をしていると、たまに「なんだか当ててごらん」という気分になることがあるが、それをそのまま句にした趣がある。
  
  観覧車つりあげられて月淡し    東 直子
 観覧車の全体を思い浮かべると変なことになるが、ひとつひとつの人間が乗るゴンドラ部分のことだろう。「月淡し」と取り合わせたことにより、帰還するかぐや姫が頭に浮かぶ。
  
  栗焚いて親子電球灯しけり     村井康司
 「親子電球」とは懐かしいものを出してきた。遠い記憶を辿ってみると、親球のみ灯る/子球のみ灯る/両方灯らないの切替だったような気がするのだが、「親子電球灯しけり」とはどの状態だろう。「親子電球」とはこの場合、時代の提示であって、よほど暗くなるまで電気を点けなかったあの時代の親球のみ灯したところではないか。
  
  晩秋やひだりの脚に赤い靴     村井康司
 こう書かれると「みぎの脚」はどうなっているのだと、俄然気になるが、一句前が「マヌカンの脚抱いてゐる無月かな」なので、靴を履いているところのマヌカンか何かなのだろう。

  流星とメートル螺子とインチ螺子  大上朝美
 家具などで、国産品はメートル規格、輸入品はインチ規格であるため、自分で修理する場合など面倒くさいことになることがある。「メートル螺子とインチ螺子」はいいのだが、眼目は「流星と」の「と」だろう。この「と」によって三者が対等な関係となり通常の読みを不能としている。作者は地球外生物も軽々と想定内においているに違いない。
  
  秋蝶の筋肉あなどれぬちから    大上朝美
 前々号にも「石を摑み木へとあをすじあげはかな 佐藤文香」という句があったが、知らないのは私だけで、じつは蝶は怪力だったのかも知れない。俳句は読者の意識を変革する。
  
  掃除機に床は叱られ夏のくれ    越智友亮
 あれは叱られていたのか。確かに床は棒で小突き回される。ばたばたと夏が暮れて行く。
  
  秋蝶と魚のあひだに射す光     笹木くろえ
 眼前の光景から「秋蝶」と「魚」のふたつを取り出すのは、じつに大胆な選択だろう。空を飛ぶ秋蝶と水中の魚の間にはほとんどすべてのものがある。そのほとんどすべてにあまねく秋の光が射している。厳かである。
  
  実石榴の家へ入って行く背中    笹木くろえ
 「実石榴の家」と言えば築五十年以上と断定していいのではないか。そしてその家に入って行くのは慎ましやかな老人と断定していいのではないか。決してジャージの若者の背中などではないはずだ。
  
  平面の立つ望の夜の石切場     笹木くろえ
 地殻の変動によって垂直となった地層が月下、静謐にしてこの世のものならざる幻想的な様相を呈しているのだと読んだ。日中は重機も音を立て人が行き交う活気ある現場なのだろう。
  
  窓の隅洗ひ残して颱風過ぐ     笹木くろえ
 「洗ひ残して」がよい。日頃は掃除など行き届かない老朽家屋の台風一過を感じる。
  
  一匹のまづ一本のくもの糸     佐川盟子
 蜘蛛の巣は巣のかたちをなしてからも主は一匹だと思うが、あえて「一匹の」から始めたところが面白い。天井から下がってきた蜘蛛だろうか。
  
  日盛の車の下を覗く尻       佐川盟子
 点検とか鍵を落としたとかで、上半身を腰から折って車の下を覗いているのだろう。そんなとき尻は無防備に残る。そして日盛ともなれば着衣は薄いひらひらのものだろう。そんな情景を即物的に切り取るのは意外と難しいかも知れない。
  
  古戦場売りに出てをり合歓の花   佐川盟子
 古戦場であろうとお構いなしに現在の住人がいて、いろいろな事情により売りに出されるのだろう。「合歓の花」との取り合わせは、感情も批評も押しつけず適切である。
  
  たてに読み横に書く文よるの秋   佐川盟子
 この原稿を書いている私が今まさに直面しているのだが、縦書きで印刷された俳句について、パソコンで横書きに感想文の原稿を起こしている。ところで校正のプロはなまじ文章として読めてしまうと見落としが発生する懸念があるのでわざと後ろから読んで、もとの原稿と突き合わせをしたりするらしい。そうすると、下から読む原稿と、右から読む打ち込まれたものを照合するのだろうか。そんな作業は「よるの秋」くらいの落ち着いた気候の中で行いたい。
  
  肉を切る刃物ときどき西瓜切る   佐川盟子
 私自身は肉も野菜も同じ菜切り包丁で切っているので違和感はないのだが、使い分けている人は違うものを切るときに軽い罪悪感を覚えたりもするのだろう。そんなことが垣間見える。
  
  便乗の男を降ろす夏野原      寺澤一雄
 便乗したのは旅慣れた山男なのだろうか。そんなところに降ろしてどうするんだ、という夏野原の真ん中で男は「あ、この辺でいいです」と言ったのだろう。

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