2012年7月24日火曜日

詩レ入句会(6)出題


Ⅱ章 余白論の試み
3 幻肢としての余白、俳句・短歌(P.045)

 前回は文語定型詩で大変なことになってしまいましたが、今回は私たちのホームグラウンドなので、考えようによってはもっと大変です。そもそも私たちは連 句実作者/俳句実作者としてここに集うわけですが、仁平勝が提示し北川透が共感する<幻肢としての下句>なるものを、ほんとうのところ、実作者として私た ちは感じながら作句しているのでしょうか。

 北川透は仁平勝の俳論集『詩的ナショナリズム』に収められている「虚構としての定型」から次のくだりを引用します。

《さきに<短歌の上句>ということを、五・七・五=十七音の"定型"の発生的な本質として考えようとした。それは言葉をかえれば、その"定型"自体のうち に、発生的に切り捨てられた「七七」の<下句>が、いわば幻肢として、構造的に抱え込まれているといってみてもよい。この<幻肢としての下句>は、ことさ ら俳諧の脇句のなごりと考える必要はない。五・七・五という音韻律そのものの本質的不安定さなのだ。そして「切れ」とは、すなわちこの<幻肢としての下 句>から切れる方法意識にほかならない。》(「虚構としての定型」)

 これを受けて北川透は次のように続けます。

 この《幻肢としての下句》という考えは魅力的である。それをわたしは余白の概念でとらえ直すことで、詩としての共通の場所を用意したいと思う。もともと 短歌の上句(五七五)が、連歌の発句として下句(七七)から切れ、更に、蕉風においてその切字が意識化されることで、俳句は詩型として独立した。しかし、 短歌の下句(七七)は余白として、いつまでも俳句につきまとっているわけではない。七七が切れて俳句が詩型として自立したとたんに、もはや七七は消失し、 ただ、余白だけが意識されるのだ。もし、切れた尻尾である七七をつけてみたくなるような句があれば、それは俳句として失格にちがいない。だから《幻肢とし ての下句》という言い方を借りれば、<幻肢としての余白>とか<幻体としての余白>という言い方も同時に成り立つし、それらの幻の手や足は俳句に無数に生 えており、余白として、沈黙を表現している。

 というわけで、今回の出題です。

【幻の手や足が無数に生えた俳句】5句くらい
投稿締切:7月28日(土)24:00(JST)
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 よろしくどうぞ。
 

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