室田洋子はこしのゆみこと同じく「海程」所属。『まひるの食卓』は第一句集。気に入った句を見て行きましょう。
十六夜や恋濃い故意と変換す 室田洋子
ちょっと前なら考えられなかったような俳句だし、何十年か後には技術革新によって意味不明な句になっているかも知れません。でも、まさに今のこの時代と、古風な季語との取り合わせはすてきです。
ダイヤモンドダスト何千カラットの嘘
気象現象に対してそのままダイヤモンドの単位をあてはめて「嘘」とまで言い切ったところがよいです。
さくらさくらどこでこの手を離しましょう
どこか別れを感じさせるのは、季語が背負った不吉さなのでしょうか。
いなびかり失恋体操しています
ほんとうにそんな体操があって、傷心をふりきるために励んでいる人たちが世界中にいるような気がしてきます。体操していると、いろいろなことがフラッシュバックするのです。
柚子どっさり小言みたいにもらいけり
ばくばく食べるようなものではないから、微妙なものがありますよね。
風信子ゆっくり響く長女です
「ゆっくり響く長女です」が素直な育ちを感じさせます。
待つというこころの握力冬木立
「こころの握力」という危うい表現を季語の斡旋が救っていると思います。
凪という厚ぼったい冬の舌なり
風の停止による感覚の変化を「厚ぼったい冬の舌」という曰く言い難い措辞にてしとめています。
おとこの体臭玉葱びっしり積まれ
うわあ。
ゆく秋の素描のような影を踏む
空気が澄んで影が濃くなった感じをとらえています。
花時のわたし溢れるお風呂かな
桂信子「窓の雪女体にて湯をあふれしむ」が業とか性とかを感じさせるのに対し、時代が変わったのか作者の性格なのか、こちらの場合まったくルンルンしています。
うたた寝の猫にわたしに木の実降る
「お風呂」の句もそうなのですが、この作者の句にはどこか健全な「わたしパワー」がみなぎっているのです。
ご飯というきれいなエネルギー白鳥来
そしてまさにどこか健全な「わたしパワー」の秘密としての「ご飯というきれいなエネルギー」。だめ押しのような季語の斡旋がよいです。
末黒野や水の味する水ください
これもどこか健全な「わたしパワー」のバリエーションとしてのナチュラル志向なのかも知れません。
仏蘭西の水飲む夫と恋の猫
そして「水の味する水」は仏蘭西製なのです。水というピュアなものに対し、「末黒野」「恋の猫」といったかなり強烈な季語を取り合わせてきたところに注目すべきでしょう。
途中からメール画面は花ふぶき
スクリーンセイバーでしょうか。これも数年後には意味不明になってしまう、今を捉えた句だと感じます。
朴落葉こっそり辞書を捨てました
あの大きな葉は隠しごとを容認してくれそうな気がしますよね。
空っ風鳥の名を持つ友を呼び
「ひばり」でしょうか。季語がすごく切迫した思いを感じさせます。
連翹やどこか短気なハングル文字
朝鮮連翹からハングルが出てきたのでしょうか。あの文字は確かにどこか短気な気がしますが、でもそれは「どこか」でしかなくて、季語がのんびりしていることからも伺えます。
恋猫に倒されている長男よ
がんばれ、長男くん! でも男性って結局のところ生き物として弱いのですよね。
昼寝覚わたしが魚だった頃
そんな感じってあります。
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