2009年8月28日金曜日

小西甚一『日本文学史』

 この日記の初期の頃の記事を読んで下さった方から『日本文学史』も薄さに反比例する素晴らしい本ですが、きっとゆかり様の本棚に、だいぶんくたびれて立っているのじゃないでしょうか?」というメールを頂き、恥ずかしながら未読だった私は今まさに読んでいるところです。中国文学との交渉史として日本文学史を俯瞰したこの本、たいへん刺激的で面白いです。芭蕉のくだり、ちょっと長くなりますが引用します。

 芭蕉が杜甫にふかく傾倒していたことは、周知の事実であるが、さきにも述べたとおり、杜甫の詩句をどのように換骨奪胎したかなどは、たいして問題ではない。芭蕉が杜甫からまなびとった最大の収穫は、シナ的な切断性の深さであったろうと思われる。日本人の精神は、もともと自然との間に分裂をもたず、日本語は、常に「つながり」の表現を志向している。これに対して、シナでは、精神と自然がふかく切断されているばかりでなく、その言語も、音声的および意味的にぷつぷつと切れがちである。そうした切断を契機とし、切断されながらもふかく融合しているといったような表現を成就したのが、杜甫にほかならぬ。ところで、芭蕉の俳諧は、発句においても付合においても、鋭い切断を潜めており、それは、融合的・連続的な特性をもつ日本の詩として、はなはだ異例である。しかも、たんに切断されているばかりでなく、切断を媒介としながら、どこかで微妙に流れあい匂いあっているのであって、その深さは、杜甫におけるものときわめて近い感じがある。そうした近似点は、芭蕉があれほど杜甫に傾倒していた以上、杜甫からまなびえたと考えなくてはなるまい。

 じつにさらっと書かれていますが、私たちがこんにち二物衝撃と呼んでいるものは、遠く海を越えて隣の国と密接に関わっているのかも知れないのですね。

ダムありて秋のみづうみ終はりけり ゆかり

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