2009年8月23日日曜日

中原幸子『以上、西陣から』

3年も前に出た句集で入手困難かも知れませんが、先日古本屋で見つけ、あまりにも面白かったのでご紹介します。

中原幸子句集『以上、西陣から』(ふらんす堂 2006) 「船団」所属俳人の第二句集。

雷雨です。以上、西陣からでした   中原幸子
 実況中継するテレビレポーターの紋切型の口上が、句読点の使用と「西陣」という地名のよさもあいまって、絶妙に俳句に収まっています。これを巻頭としてユニークで諧謔的な句多々です。

残暑なおアラビア糊はくっつく気
 古いアルバムのはがれかかった写真でしょうか。擬人法で糊を詠んだところが妙に可笑しいです。

糸瓜忌の読むように嚙むぬくい飯
 『病牀六尺』を読むうちに感覚が入れ替わってしまったのでしょうか。「読むように嚙む」が絶妙です。 

雪降ってコーヒー組と紅茶組  
吟行で喫茶店に入ると、こんなふうに注文が分かれたりします。一見無造作に置かれた「雪降って」が実は効いているような気がします。

春。九千七百五拾九円のおつり
 弐百四拾壱円の買物に壱萬円札しかなかったばつの悪いやりとりなのでしょうが、「春。」と句点つきで提示されると、いかにも春ののどかな雰囲気があります。

虚子館に虚子の頬杖枝垂れ梅
 虚子館に虚子が生前使用していた杖がガラスケースに入って陳列されているならいかにもありがちですが、意表をついて「頬杖」であるところがすごいです。いかにも巨人とか大悪人とか言われる虚子です。

あの白は山桜だと知っている
 霞んだ遠景。あるいは風景画。いずれにしても、あの白は山桜だと知っているのです。もしかすると、ほんとうは見たことがないのに既視感として知っているのかも知れません。

ここまでを薔薇で来ました風なりに
 ものの香りについて、こんなふうに擬人法と口語体で詠んだ句を見たことがありません。実に独特な可笑しさがあります。

茹でられて冷麦季語となりにけり
 この頓知、たまりません。調理前の冷麦は季語ではないのです。

ザ噴水やるときはやるときもある
 「「やるときはやる」ときもある」という決まり文句の茶化し方がとんでもなく可笑しいところに、「ザ噴水」というふざけた表記です(もしかすると実在するのかも知れませんが…)。設計に技術が追いつかずきちんと出たらあっぱれだった1970年頃の豪華な噴水を思い浮かべます。

ダム夕焼け北がなくなるかも知れぬ
 大景を前に「北がなくなるかも知れぬ」という、曰く言い難い感覚。

神の巣のように光の春の水
 いかに八百万の神とはいえ、「神の巣」という表現、はじめて見ました。

熱燗を待って新聞は四角
 新聞を読みながら顔も合わせずに「お~い」と熱燗を頼むひとへの微妙な感情が伝わってきます。

耳鳴りが間接照明みたい、春
 これも共感覚俳句。「耳鳴りが間接照明みたい」だけでできてしまっているので、あとは読点を打って「、春」というしかないのです。

漱石忌わたしも遺族だと思う
 こんな忌日俳句、見たことがありません。が、実にその通りです。

 世の中に「俳句として可笑しいもの」と「俳句にする前から可笑しいもの」があるとすれば、作者は「俳句にする前から可笑しいもの」を豊富にご存じで、それを次から次へと俳句に仕立てて繰り出してくる感があります。

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