雨よりも人しづかなるさくらかな 高柳克弘
兜虫おほぞら晴へ動き出す
枯山や刻かけずして星そろふ
降る雪も本の活字も無音なり
蝸牛やうやく晴れて日暮なり
冬青空翼もつものみなつぶて
本まぶし蟻より小さき字をならべ
読みきれぬ古人のうたや雪解川
くろあげは時計は時の意のまヽに
いくたびも水に照らされ花の旅
週刊俳句でのさいばら天気との対談でこしのゆみこの「朝顔の顔でふりむくブルドッグ」について、高柳克弘はこう語りました。
たしかに「朝顔」と「ブルドッグ」の結びつきには、衝撃があります。「スロットマシーン」という語で言いたかったことは、ふたつのもの、これは俳句の基本的な組成ですが、そのふたつのものを見つけるところまでは、偶発でいい。けれども、そのふたつの語を結びつけるところが大事になってくるんじゃないか。そうすると、ブルドッグと朝顔、この発想はおもしろいとも思いますが、「顔」で結びつけてしまうのは、どうなのだろう、と。
また、このようにも語りました。
いまは「二物衝撃」が一人歩きして、ふたつのものをバンッと置けばいいという風潮がありますが、ふたつのものが一句の中でいかに結びついているか、そっちのほうが重要なんじゃないか、と。
これを読んで私は高柳克弘自身の句をむしょうに読みたくなり、数分後にはamazonでこの『未踏』をクリックしていたのでした。
「兜虫おほぞら晴へ動き出す」「蝸牛やうやく晴れて日暮なり」「冬青空翼もつものみなつぶて」「読みきれぬ古人のうたや雪解川」「くろあげは時計は時の意のまヽに」といった二物衝撃の句は、いずれも実にデリケートな付き方をしています。人によっては、付き過ぎというかも知れません。意味がありすぎるというかも知れません。でも、そこがいいのだと思います。微妙にして絶妙なのです。
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