2016年5月5日木曜日

揮発もしくは音楽、色、そして家族  柏柳明子『揮発』句集評

 私が世話人をしている「みしみし第二」というネット句会がある。四字熟語をばらばらにした漢字詠み込みと当季雑詠の計五題で互選というのを、飽きもせず淡々と毎週繰り返しているのだが、柏柳明子は俳号「あんこ」としてずっと参加していて、くやしいことに毎回高点をさらって行く。同じ句会にご主人も俳号「けんじ」として初心者のときから参加していて、めきめき上達している。そんな縁でこのたびは私が句集評という大任を仰せつかったのであった。

   緋のダリアジャズシンガーの揮発する

 まずは句集『揮発』のタイトル・ナンバーから見てゆこう。句集の装丁の印象も相まってか、燃え上がるような情念を感じさせるではないか。カラフルなイメージを上五で提示し、ダ、ジャ、ズ、ガと濁音の続く片仮名により、音と字面の両面からその音楽がまとう異文化性を示し、最後は動詞で結ぶ。「揮発」という語の選び方がじつにすばらしい。かの音楽が持つ洗練された表層の華やかさの内から土着の情念が匂い立つようである。
 さて、掲句は句集のタイトル・ナンバーというだけではなく、句集というかたちでまとめられた柏柳明子の作風の傾向を端的に示してもいる。まず『揮発』に収められた句は、音楽ないし音をモチーフとした句が圧倒的に多い。三百余句のうち、音楽ないし音を扱った句はじつに五十句を数える。また、色を詠み込んだ句は、音の句と重複もあるが二十五句を数える。その次に多いのは家族を詠み込んだ句だろう。そんな順で全体を見てゆこう。

一 音楽もしくは音
 句集『揮発』には音楽もしくは音を扱った句がとにかく多い。多いだけでなく、クラシック、ジャズ、邦楽など幅広いジャンルにまたがっている。俳句界一般で音楽を詠むことがどのくらい普通に行われているのか寡聞にして知らないが、柏柳明子の所属する結社「炎環」には浦川聡子というその道のスペシャリストがいる。その影響もあったのだろうか。
 
   捕鯨船無線に混じるビートルズ

 ファンなら分かると思うが、どんなにざわざわした中でかすかに聞こえたとしてもビートルズだと識別できるあの感じ、というのがある。多くはジョンの声質に含まれる独特のやかましさのせいじゃないかと私は思っているのだが、そこは人によっても違うだろう。捕鯨船に乗り合わせることも、そこで無線が聞こえることも、さらには音楽が混信することも、状況としてはかなり特殊だと思うが、それがビートルズだと識別できてしまうことについては、これはもう、デジャヴのように分かる。
 
   緑の夜インド音楽伸縮す

 「伸縮す」が簡潔にして見事だ。それだけで、持続音のなか微妙な音程で上下するシタールの音響が聞こえてくるようである。また「緑の夜」が無造作なようでいて、そこだけ異世界のような感じを巧みに捉えている。

   昼の月二の糸下げて唄ひだす
 師匠は今でも夜はお座敷に上がるのだろうか。「昼の月」と上五に置いただけで、木賊かなにかをあしらった古い民家の三味線教室の情景が見えてくる。「二の糸下げて」という専門用語が何を指すのか私は門外漢なのでまったく分からないが、それによってなんともそんな用語が飛び交う教室めいている。

   機械音混じつてゐたり蜃気楼

 不思議な句である。実際には機械音はごく近くで発しているのかも知れないが、こう俳句に書かれると、遠景の蜃気楼がぶうんぶうんと音を発しているようで、ただでさえ不思議な光学現象が音を帯びてまったくこの世のものではないように思われる。

   極月や集音マイク吊るされて

 音そのものを詠んだ句ではないが、コンサートホールの天井によくあるあれのことだろう。見えるか見えないかの細いワイヤーでマイク本体がぴんと吊られ、そのワイヤーより太いマイクケーブルが接触不良にならないように、ゆるやかに弧を描いてどこかへ続いている。音楽が始まる前の観客席からあれを見ると、観客席の我々によい音が届くように設計されているはずのホールで、あんな高いところなのにちゃんと録れるのだろうかなどと、余計なことを考えてしまう。とはいえ、あれは単なる録音設備であって、いわば脇役であり主役は音楽そのものである。忙しい極月の束の間、その空間ではどんな演奏が繰り広げられるのだろう。そんな余情を「て」に託している。

   十月やガラスの声の案内人

 この句が句会に出されたときに、どなたかが展覧会の音声ガイドだという読みをしていたような気がする(記憶違いかもしれないが…)。姿のないガイドを「ガラスの声の案内人」と捉える読みは十分に魅力的だが、実在する案内人の声について「ガラスの声」とはどんなに麗しい声なのだろうとも思う。そしてあらためて句をよく読むと、状況については「十月や」としか提示されていないことに気がつく。芸術の秋だともたそがれの国だとも言っていない。なんの案内人かすら、読者にゆだねている。ひろがりをもった魅力的な句だ。

二 色
 句集の装丁の情熱的な色彩感からは意外であるが、色を詠み込んだ句の中では、季語も含め圧倒的に青が多い。ちょっとちょっと、と言いたくなるくらい青だ。

   鳥帰るかたまりかけし青絵の具

 青を詠んでいるようでいて、じつは青の不在を詠んでいる。「鳥帰る」と言われて思い浮かべるのは、鳥曇の白であって青空ではない。青絵の具は使われず、チューブの中でかたまりかかっている。二句ずつ配列されたページの中のもう一句は「石鹸玉吹く社会人三年目」。吐く息が石鹸玉に閉じ込められてゆらゆらしているようなつかみどころのない閉塞感が、「青絵の具」の句にも通じているようでもある。

   帰りたき場所のひとつよ冬青空
 こちらはストレートな感情の吐露として青が詠まれている。ここでは「帰りたき場所のひとつよ」と詠まれているわけだが、では青は陽性の色なのかというと、他句と併せ読むとどうもそうでもないらしい。英語圏では青はかなしい色で、ブルースというのもブルーな唄なのであるが、本句の場合も「帰りたき」=「居たくない」であって、作者にとって青とはなにかしらブルース・フィーリングを伴った色なのではないか。だとすると、前掲の句はやはり青の不在を詠んでいるようでいて、裏の裏をかいて青を詠んでいたのだ。「診療所の青きスリッパ秋立てり」「青蜥蜴夢より逃げてきたりけり」に感じられる不安、「青林檎カッターナイフほどのNO」の未熟な殺意、「大年の教室あをくありにけり」「約束のあをく書かれし九月かな」の寂寥感など、さまざまな微妙な思いを青というただひとつの色が請け負っている。そんなことが成り立つのは、もしかすると俳句という不思議のなせるわざかもしれない。
 
三 家族
 父母、弟妹を詠んだ句、ご主人を詠んだ句など、身近な人が面白い題材になっている。

   退職の日の父の靴桃の花

 晴れの日の靴の色はやはり黒だろう。どこにもそんなことは書いていないが、「桃の花」との取り合わせがそう感じさせる。定年まで勤め上げ家族を支えてきたお父上への万感の思いが感じられる。

   一族の豊かなからだ冬座敷

 柏柳明子とご主人は、なんだかすごく似ている。顔つきも体つきも物腰も似ていて、同郷とか遠い親戚なのですかと訊ねたくなるほどである(ぶしつけに本当に訊ねたら、そうではないですとのお答えだったが…)。だから、本句はめちゃくちゃ可笑しい。新郎新婦ご両家が一堂に会したとき、それぞれの一族のひとりひとりが、互いにパラレルワールドの存在を確信するに至ったに違いない。

   寝転べば金管楽器となる寒夜
 それもチューバとかホルンとかの類いだろう。「初晴の道にふくらむ家族かな」という句もある。このあたりじつに自虐的にして諧謔的である。

   八十八夜全権は妻にあり

 夫婦間の力関係を詠んだ句がいくつかあり、なんとも豪快である。「小春日や夫の提案微修正」「煮凝へ大きく入る妻の箸」などの句を見るにつけ、それを全面的に包み込むご主人の包容力や愛の力を感じる。

   夜濯の夫よ三番から歌ふ

 おおらかでものごとにこだわらないご主人の姿が伺える。なんだかじつにユーモラスである。冒頭私は、同じ句会にご主人も俳号「けんじ」として初心者のときから参加していて、めきめき上達している、と書いた。こうなると俄然楽しみなのは、けんじさんがいつの日か句集を出版されることである。けんじさんの目に、俳句の題材としてのあんこちゃんがどのように映っているのやら。

四 揮発する俳句
 いささか脱線した。ここまで定量的な側面から句集『揮発』のある傾向を紹介してきたわけであるが、俳句の本領というのは、やはりそういうものではないだろう。決して十把一絡げに語ることはできない、ただ一句でも、さりげないできたての香気を放つ句。そんな仲間っぱづれの句たちを最後に見てみよう。

   春の雪縄文人の話かな

 シンプルな二物衝撃の句であるが「春の雪」が巧い。今からは想像もできないような過酷な生活環境にあった縄文人は、春の雪になにを思っていたのだろう。

   神様のかんたんな顔新樹風

 高度な美術様式とともに伝来した仏教やキリスト教ではない、土俗的な神様なのだろう。それは現代の私たちの身のうちにも、ちょっとした感情の起伏とともに想起されるに違いない。「新樹風」という季語が、そんな古くて新しい感情に似つかわしい。

   未来より雪の循環してきたり
 一転して、今度は未来であるが「循環」が絶妙に巧い。結局のところ、未来とは過去であり、過去とは未来であり、それを切り出した、できたての香気を放つ句とは、一見客観写生とは異なる作風ながら花鳥諷詠の理念そのものなのである。このようにして、柏柳明子の句は、刻々と揮発している。


『豆の木』No.20(2016年5月)初出

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